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史実 忠臣蔵事件の真相コミュの百パーセント確実である?

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 画像1:『将軍と側用人の政治』に書かれた刃傷事件のときの経路(柳之間→医師溜)

 画像2:事件があったとき浅野内匠頭が着ていたのと同じ大紋(だいもん)

 画像3:事件があったとき吉良上野介が着ていたのと同じ狩衣(かりぎぬ)

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 これは続き物です。

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 下の15は、大石慎二郎氏の著書 『将軍と側用人の政治』(講談社現代新書/1995年)のなかで 「松の廊下刃傷事件」 について書かれたものだ。

 1――この事件に関する資料を集めた一番古い記録である『易水連袂録』によると、表にある「柳の間」から、通称「松の廊下」と呼ばれる「大廊下」を経て、「医師溜」に至るあたりで事件が起きたとされている。――

 刃傷事件のシーンについては、江戸城の構造がわかって読めば 『易水連袂録』 に書いてあることの矛盾にすぐに気づくはずである。

 画像1は大石氏が書いたとおり、「柳の間」から、通称「松の廊下」と呼ばれる「大廊下」を経て、「医師溜」に至る経路を赤線で示した。

 狩衣を着た吉良上野介が、柳之間を立って小走りに逃げてゆく。それを追いかける浅野内匠頭。松之廊下を経て、櫻之間から白書院の前を抜けて医師溜まで逃げていった・・・百数十メートルもの距離を追いかけっこ?

 原文はこうである。

――頓テ上野介柳ノ間ヲ立同二十四五間有廊下ツヽキ小走リニ逃行 醫者ノ間エ取付所ニ〆隔ノ大杉戸ヲ押ヒラキ既ニ内ニ入ントセシ所ヲ内匠頭續テ追詰ウシロヨリ上野逃サシト短刀ヲ拔討ニウチカケシカハ――

 この「醫者ノ間」を大石氏は「医師溜」としたのだが、『易水連袂録』の著者は、「使者の間」を「医者の間」と聞き間違えたのだろう。「二十四五間有廊下」は「松之廊下」のことで、「醫者ノ間の大杉戸」は使者(勅使・院使ら)のいる部屋の大杉戸。「使者の間」は「櫻之間」(櫻溜)のことだろう。
 ちなみに、「医師溜」は「檜之間」と称することもあった。

 江戸城の構造をしっかりおさえたうえで読んでいくと、文字だけで追ったのではわからないことも見えてくる。
『易水連袂録』の著者は江戸城に登城する機会さえない人で、事件については噂話を聞いて書いたのだろう。

 最近は見なくなったが、吉良屋敷討入前に蕎麦屋(そばや)の二階に集合したという話があった。これはそもそもは大石慎三郎氏の『将軍と側用人の政治』のネタ本のひとつであった『易水連袂録』(えきすいれんぺいろく)に書かれていたことに端を発したものである。
『易水連袂録』では、蕎麦屋ではなく、饂飩屋久兵衛(うどんや・きゅうべえ)が登場する。

 元禄十五年十二月十四日の昼七ッ(午後4時半)ごろ、堀部彌兵衛が饂飩屋久兵衛方を訪れ、金三両で五十人前の饂飩(うどん)・蕎麦切(そばきり)や酒肴を注文し、夜に一党ことごとく集まり酒食をともにしたということだった。
 これが『泉岳寺書上』になると、饂飩屋久兵衛が蕎麦屋の楠屋十兵衛にかわる。

 いずれにしても元禄時代は、外食産業は発展途上にもいたらず、そんな店などあろうはずがない。

『易水連袂録』について大石氏は、「この事件に関する資料を集めた一番古い記録である」と書いているが、これは「序」に「元禄十六年」と書かれているからであって、いつ完成されたのかはわからない。 


 2――事件当日、吉良と立ち話をしていて、斬りつけた浅野を押さえつけた人物である梶川与惣兵衛の日記を見ても、はっきりとしたことはわからない。――

 どうしてだろう。江戸城の構造をしっかり押さえて梶川日記を読めば、「なるほど」と思うはずだ。

 3――ただ彼は、打ち合わせをするために、吉良が白書院あたりから出てくるだろうと見当をつけて待っている。吉良の控の間、その仕事からして黒書院か白書院あたりに居たはずで、実際、白書院の方から出てきている。――

 上記冒頭は、梶川与惣兵衛の日記に書かれていることからもってきたようだが、「吉良の控の間、その仕事からして黒書院か白書院あたりに居たはずで」 というのは、どうだろう。
 黒書院と白書院は江戸城の応接間のようなところである。白書院は主に公的な行事に使われ、黒書院はどちらかというと幕府内での行事に使われていた。いずれにせよ、「吉良の控えの間ではない」。

 ちなみに白書院は、上段(約二十八畳)、下段(二十四畳)、連歌之間(二十八畳)、帝鑑之間(二十六畳)などに分かれ、縁頬を含めると三百畳ほど。白書院での儀式は縁頬や櫻溜まで使って行われていた。

 吉良は、まもなく行われる勅答の儀の打ち合わせのために離籍していた。その打ち合わせ場所は、白書院の帝鑑之間であったと考えられる。さて、どうしてでしょう(微笑)

 4――しかし、その場合も、松の廊下を通ることはあり得ない。松の廊下とは、将軍や御三家、朝廷からの勅使といった特別に地位のある人が通る通路だからである。だから、おそらく白書院の方から来て、大廊下(その中の西向かいの部分には松の絵がある)を経て、柳の間の廊下の辺りで二人が立ち話をしている時に、事件が起きたのではないかと思われる――

 松之廊下は、将軍が儀式などで中奥から大広間に出るとき、大広間の東にある御駕籠台から出て外出あるいは帰城のときの御成廊下である。だから誰もが通れるところではない。
 しかし梶川の日記によれば、元禄十四年三月十四日の午前は、まもなく催される勅答の儀を前に、高家衆は松の廊下の桜溜の近くに、勅使(天皇の使者)と院使(前天皇の使者)の御馳走人(世話役・接待役)である浅野と伊達は、松之廊下の大広間寄りのところに控えていた。そのような場でもあったのだ。

 不思議だ。「白書院の方から来て、大廊下を経て、柳の間の廊下の辺りで」 と大石氏が書いた経路は、江戸城の構造を知っていれば考えることさえできない。京都から東京に行くのに、韓国経由で行くようなものである。

 江戸城でいちばん長く、「大廊下」と呼ばれていたのは、通用口である「中の口」を入ってすぐのところにあった。しかし、大石氏は 「その中の西向かいの部分には松の絵がある」 と書いているし、簡易な掲載図であっても 「松の廊下」 のことをいっているのは間違いないのに、なぜ?

 松之廊下の西側にあった「上部屋」(上之御部屋)と「下部屋」(下之御部屋)は、御三家など家格の高い大名の殿中席(登城したときの控えの間)でもあり、この二つの部屋を殿中席とする大名は 「大廊下詰」 ともいわれていたのであり、勅使など貴賓の休憩室としても使われた。

 梶川はそのことを知っていたから角柱のところから覗き見たのであり、浅野内匠頭に挨拶するにしても、坊主に呼んできてもらったのだ。

 ちなみに、松之廊下は桜之間の杉戸から大広間の後ろの杉戸までの "L" 字形の総畳敷きの廊下であるが、とくに北から南に走る幅二間半のところに入ることはふつうはできない。これは狭義の「松之廊下」といっていいだろう。

 5――幕府の正式な見解では、事件が起きたのは白書院の廊下となっている。それが廊下の上の方、つまり大廊下に属する部分なのか、それとも医師溜くらいの下の方、つまり柳の間廊下なのか、そこからは読みとれない。いずれにせよ、芝居で演じられるように松の廊下で事件が起こったのでないことは、百パーセント確実である――

 白書院から(実際には白書院の隣の桜溜から)大広間に続く廊下が松之廊下であり、「白書院の廊下=松の廊下」 なのである。

「廊下の上の方、つまり大廊下に属する部分」とか、「大廊下に属する部分なのか、それとも医師溜くらいの下の方、つまり柳の間廊下」とか。「上」とか「下」というのは、西を上にした掲載図で言っているのだろうか?

 医師溜の杉戸のところで刃傷事件があったというのは、『易水連袂録』によるもので、これなどは江戸城の構造やしきたりを知っていれば矛盾だらけとすぐに気付くはずだ。
 柳の間廊下で事件があったということは、柳沢家に伝わる『楽只堂年録』に書かれていたものである。政治的なことからきたものだろう。

 この大石氏の 「松の廊下で事件が起こったのでないことは、百パーセント確実である」 を疑うこともなく信用した井沢元彦氏が史実のように書いている著書のほとんどは、昭和に出た一般書からの引用でつくられている。


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