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史実 忠臣蔵事件の真相コミュの梶川日記を読んでみよう

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 これは続き物です。

 初めての形は、↓ をクリックして 1.からお読みください。
 http://mixi.jp/view_community.pl?id=3207175


 画像1:江戸城本丸御殿表向の絵図

 画像2:刃傷事件の説明のために描いた図(作図:百楽天)

指でOK富士山クローバーチューリップ指でOK富士山クローバーチューリップ指でOK富士山クローバーチューリップ指でOK富士山クローバーチューリップ


 元禄十四年三月十四日の「梶川日記」から、事件までの経過を追ってみよう。

(原文は http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=29612184&comm_id=3207175

 ここで使用した史料は、東京大学史料編纂所が所蔵している写本からのもの。史料編纂所蔵の写本は、近年になって向山誠斎(奥右筆)筆写のものを写した「丁未雑記 二十三」(国会図書館蔵/弘化四年/1847/筆写)からの写本であることがわかった。

 梶川日記にはもう一系統あって、紀州徳川家の蔵書にあったもの。東京大学総合図書館の南葵文庫のなかにあるもので、嘉永三年(1850)に梶川与惣兵衛の家臣、井上主義の写本から筆写したもの。


 まず、登場人物から。

 ● 梶川与惣兵衛頼照
   留守居番 七百石(事件当時) 五十五歳

 ● 岩尾
   奥女中 その他不詳

 ● 土屋勘助正春
   広敷番頭 四百石 六十歳

 ● 松平主計頭近鎭
   留守居 二千五百石 五十七歳

 ● 多門伝八郎重共
   目付 七百石 四十三歳



 ★があるのは、「梶川日記」からの訳。
 註:は、ひゃくによる注記



 ★三月十四日朝五つ時、いつものとおりに登城して広敷へ行く

 註:この「朝五つ時」は、江戸(東京)の地を観測点とし、貞享暦の元禄十四年三月十四日の時刻を24時間定時法に変換すれば、「朝7時半」 になる。
 広敷とは、大奥の管理事務所のようなところで、男性の役人が詰めている。

 註:野口武彦氏の『忠臣蔵』では、広敷を「中奥」にしていますが、これは間違い。

 ★今日、私は御台(将軍夫人)さまの使者の勤めがあるので、御口上(天皇の使者である勅使と前天皇の使者の院使への御言)も承らなければならないし、包熨斗(贈答品の目録)を受け取らなければなりません、と申し込んだ。奥女中の岩尾殿が御出ましになられ、御台様よりの御口上をお聞きし、岩尾殿は包熨斗を御渡しになった。

 ★その後、御下男部屋へ受け取った包熨斗を持参し、広敷番頭の土屋勘助に会ったところ、「主計殿が今日の御使のことで、伝えたいことがある」いっていた、という。

 註:「主計殿」は、留守居の松平主計頭(まつだいら・かずえのかみ)。梶川は留守居番で、松平主計頭は留守居。
 職掌を具体的に書けばややこしくなるので、ここでは留守居番は将軍の家族などの警備役、留守居は大奥全般を取り締まる役、というくらいに覚えておけばいいだろう。
 両者とも老中配下なので職務上の上下関係はないが、格としては留守居が上。
 梶川を留守居とか留守居役と書いてある本が多い。「留守居役=留守居」であり、梶川は留守居番である。 

 ★私は、わかりました、と言って自分の部屋へ行き、刀を置いて御留守居衆の部屋へ行ったところ、主計殿は、さっき吉良殿より今日の御使の刻限が早くなった、と連絡が入ったという。

 ★詳しいことを承ってきます、と申して、それから中の間へ参行ったところ、多門伝八(目付の多門伝八郎/おかど・でんぱちろう)がいたので、公家衆について訊いてみたけれど、「わからない」という。

 ★もしかしたら 「殿上の間」 にいらっしゃるのでは、と申したところ、「公家衆にはすでに御休息の間へ参られた」という。「それならば、大廊下には高家衆がいるのでは」というと、「さあどうでしょう」という。
 それならば、大廊下へ行ってみます」と申捨て、大広間の後通りを進むと、向こうから二人の坊主がやってきて、一人は大広間の御縁頬杉戸の内へ入り、一人は私とすれ違って後の方へ歩いて行く。

 註:「殿上の間」 は、大玄関を入ってすぐのところにある賓客の休憩所。


 ★大廊下の御縁の方の角柱のところから桜溜の方を見ると、大広間の方の御障子際に内匠(たくみ/浅野内匠頭)と左京(さきょう/伊達左京亮)の二人が控えています。御白書院の御杉戸(桜溜の杉戸から二三間手前に、高家衆大勢いるのが見えました。今すれ違った坊主に、「吉良殿を呼んできてください」と言ったところ、すぐに行って帰ってきて、「吉良殿は、御老中方からの御用で離席しているそうです」とのこと。

 註:「御縁」は、庇(ひさし)の下にある「濡縁」のこと。

 ★「それでは、内匠殿を呼んでください」と言ったところ、内匠殿が来たので、「私は、今日伝奏衆へ御台様よりの御使を相勤めますので、諸事宜しきよう、お頼み申し上げます」と言いました。内匠殿は、「心得ました」と、元の位置に帰られた。

 註:「伝奏衆」とは、朝廷側の使者およびその従者。

 ★その後、御白書院の方を見ると、吉良殿が御白書院の方より来たようなので、また坊主を呼んで遣したところ、「吉良殿へ申し伝えたところ、承知しました」と言って、こちらに向ってこられる。

 註:原文では、「其後御白書院の方を見候へば」となっていますが、梶川の視点から見ると、「御白書院の方」は、桜溜の杉戸の方。

 ★大広間の方の御休息の間(下部屋)の障子が開いていました。吉良が大広間の方へ来たのを確認して、角柱より六七間のあたりで二人は出会い、互いに立ったまま、今日御使の刻限が早くなったことを一言二言話しているところに、

 註:原文では、「拙者大広間の方御休息の間の障子明て有之、夫より大広間の方へ出候て、角柱より六七間も可有之処にて双方より出会ひ」 となっています。「大広間の方御休息の間」 は、松の廊下の西側にある「上部屋」(かみべや)と 「下部屋」 のうち、大広間に近い 「下部屋」 のこと。
 勅使・院使の 「休息の間」 として、「上部屋」 か 「下部屋」 のいずれかが使われていた可能性があったので、梶川は松の廊下(この松の廊下は狭義の松の廊下で、南北の幅二間半のところ)に入って行けなかった。
 しかし、吉良は「上部屋」の前を通過し、「下部屋」の「障子」(この障子は襖障子のこと)が開いていたことから、勅使・院使はすでに別の場所に移動したと、梶川は判断したのだろう。

『徳川幕府御日記』によれば事件直後、吉良上野介が運ばれた場所は「下部屋」となっている。だとすれば、勅使・院使のいる部屋に怪我人を運ぶとは考えられない。櫻之間(櫻溜)の杉戸の近くに高家衆がいたことからすれば、勅使・院使は「下部屋」から櫻之間に移っていたのだろう。


 ★誰だろう。吉良殿の後から「此間の遺恨覚えたるか」と声を掛け、切付けた。(その太刀音は強く聞えましたが、後で聞いたところ、思いのほか切れず、浅手であったそうだ)。私も驚いて見れば、御馳走人の浅野内匠頭でした。上野介殿は、「是れは」と言って、後のへ振り向いたところ、また切付けられました。私のに向いて逃げようとしたところ、また二太刀ほど切られた。
 上野介はそのまま、うつ向に倒れました。その時に私は内匠頭殿へ飛かゝりました。(吉良殿が倒れ、急なことでもあり、二足か三足程の間合いで組付たように記憶している)。このとき、私の片手は内匠殿の小さ刀の鍔(つば)に当り、それともに押付けすくめた。そのうちに、近かくにいた高家衆や内匠殿と同役の左京殿などかけ付けられ、その外、坊主たちや居合た人たちがかけつけて、取りおさえた。


 下に続く

 3.梶川日記 元禄十四年三月十四日条 原文(部分)
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=29612184&comm_id=3207175

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