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平和映画 上映案内コミュの告発者

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タイトル: 告発者
原題: I accuse (私は告発する)
製作: 2004年 米

監督: ジョン・ケッチャム

出演: エステラ・ウォーレン / ジョン・ハナー / ジョン・カペロス / トム・バトラー / キャバン・カニンガム / アーロン・パール / ティム・ヘンリー
発売日: 2007年10月5日 発売
価格: 5040円(税込)
発売元: ニューセレクト
販売元: アルバトロス株式会社
品番: ALBSD-1005
特典:
映像特典: オリジナル予告編
収録時間: 96分
画面サイズ: 16:9/4:3(LB)
色: カラー
字幕: 日本語字幕
音声: 英語:DD(ステレオ)/日本語:DD(ステレオ)

実話に基づく映画。

+++++++++++++++skyの映画レビュー+++++++++++++++

レイプものの映画は多い。そんな中で、この映画は、確実に、現時点での最先端を行く映画である。一見ハイライトはない。地味なほどの描写の中に、リアルな被害者の像が見え隠れした。いい映画だ。

レイプものの、最初の論点は、被害者の落ち度だった。例えば「リップスティック」、あるいは「告発の行方」。挑発したから悪いのか。挑発したとみなされたら、何をされても、仕方がないのか?女性とはそういうものなのか?男性は相手の合意がなくても、勝手な判断で挑発されましたとさえ言えば、何をしてもいいという、そこまでの権利を有した生き物なのか?レイプが罪なのかどうかが、まず問われたのだ。なんという原初!これが、米国で1970-80年代のことである。もちろん、日本ではさらにここからずっと遅れて。

さて次の論点は、被害者を取り巻く政治だった。例えば「将軍の娘 エリザベス・キャンベル」。被害者のためといって取り計らわれることが、本当にその子のためなのか。実は単に周囲のものが、気恥ずかしい思いをしないためのものではなかったか。加害者は、被害者にとってまったくの未知の人間ではないことが多い。そのために、周辺者は態度を決めろと要求されるのだ。多くの人は、被害者の側を離れ、加害者の側とのバランスを保つことで、自らの保身を得ようとする。被害者を、レイプ加害者以外の人々が、幾重にも踏みつける様ー黙らせることで加害そのものを消そうとする行為・・すなわちセカンドレイプの構造が浮き彫りになった。これが1990年代終わりのことである。日本でもこの頃には、セカンドレイプの構造や、レイプ神話が暴かれ始めてきた。(しかしそれが社会に浸透するには、2008年の現在をもってなお、道遠し、という感があるが。)

そして従来のレイプ映画では、合法的な報復措置がほとんど不可能だったことも描かれてきた。特に米国のレイプものには、驚くべき数のレイプ後の「報復殺人」が描かれている。(「リップスティック」「評決のとき」など。)レイプが女性にとって重罪であるのに比して、社会では不当なほど微罪として扱われてきた、そのことゆえに、報復殺人が描かれ、そして多くの映画でレイプの報復殺人は、陪審員の同情と理解を得、無罪となるのだった。しかし現実はどうだろう。報復殺人に手を染める人はどのくらいいるのだろうか、そしてそれが無罪になる確率は。あまりにも不当な現実が続いてきたのである。しかしこの映画では、この点も確実に変化している。この映画では、どこまでも合法的手続きにこだわる。DNA鑑定にこだわり、警察の捜査と、裁判所の判定にこそ正義を求める被害者が断固として存在する。犯罪に手を染めて、私的にリンチをする必要はない・・これは何という正常化だろう。日本でも、スーフリの加害者たちは、法廷の手続きを経て、殺人並の実刑判決を受けている。社会は確実にレイプを裁くようになったのだ。そして裁かなければならないのだ、普通に。

従来は、被害者の苦しみも、多くは描かれてこなかった。単なる「被害者」・・・以上。薄っぺらな描写。しかし実際は深い深い傷を被害者は負い、苦しむのが普通だ。自尊心の低下、精神的病とみなされてしまうこと、精神的病いとしての入院、フラッシュバック、抑えられない怒り。これが描かれていることも、新しい。途中で主人公が叫ぶせりふの一つ一つに、私は、リアルな声を聴いたと感じた。「たいした被害じゃないんだろ、別に何か失ったわけじゃないし、怪我したわけでもないし」という友人に対し、主人公は叫ぶ「何言ってるの?セックスしたわけじゃないのよ!自分の体が自分の意思に反して、好き勝手にされることの意味が分かる?!奪われたのは、私の尊厳、私の生命、私のまさに人生そのものなのよ!」


被害者の意思。これも新しい。従来の被害者増は、意思なき「弱者」だった。それはレイプが意思に反することとジレンマ的に並立する。意思に反してレイプされた、だからその後も意思がない・・・???告発する意思があるなら、レイプのときにも意思があったんじゃ・・・??? このようにジレンマを押し付けられ、モノ言えぬ弱者、あるいは動けぬ弱者に甘んじろと、レイプが本物なら弱者らしく被害者らしく振舞えと、押し付けられてきた。私たちが見たかったのは、弱く、はかなく、手折られ、倒れ付し、涙する。自分では訴えられず、怒りを示すこともほとんどなく、まして怒鳴ったりしない・・そんな被害者だった。周囲が被害者を助けるかどうかを決めるんだ、だから可哀想と思われてナンボなんだ、という弱者の強要。判定者としての驕り。自分で行動できるなんて、実は被害者じゃないんじゃないか?などという憶測。そんな男並みの!人間は、被害者のはずがないじゃないか!と思われてきた。速攻パンツ脱いで、さあ精液採取して!なんて、ありえないんじゃないか?そんなことができる女なら、レイプは被害でもなんでもないんじゃないか?etc。・・こうした「誤った被害者像」もまたレイプに対する私たちの恐ろしいステレオタイプであった。社会は実のところ、さまざまな手段で、被害者に弱者でい続けてほしかったのだ。名乗り出る被害者、告発する被害者を、やんわりと、いや確実に、社会は拒否し続けてきたのだ。名乗り出てくるなんざ、別の目的があるんだろうと。失われ、そして回復したいものが何かを見もせずに、金だろう、社会的攻撃だろうと摩り替えて、ただ蓋をして安心するために、被害者に弱さを強いてきた。

しかしこの映画で主人公は、自分でパンツを提出し、自分で警察に怒鳴り込み、加害者に「また、ごまかしたのね!」と叫び、そして裁判で事実を明らかにする。次なる犯罪に手を染めることなく、暴力の連鎖に巻き込まれることなく(「私も我慢したんだから、あなたも我慢しなさい」と将来誰かに言う存在になることもまた、暴力の連鎖である)、自分は悪くないと信じ、自尊心を守り抜き、そして暴力を裁ききらせた主人公。加害者の周辺には、実は何人もの他の被害者がいた。放置しておけばさらに被害は増えただろう。彼女は、暴力を断ち切ることさえ、いつの間にか、成し遂げたのである。そこにいるのはもはや被害者を超えて、サバイバー、さらにタイトルのままに「告発者」だった。それは、人権を自らの手に、自らの手でもう一度つかみなおす者の称号である。


映画では主人公は幾重にも不利だ;シングルマザー、出産経験者、無職、貧乏、20歳そこそこ。どうせ出産したんだろう、どうせ初めてのエッチじゃないんだろう、どうせ医者の金目当てだろう。等などの誹謗中傷を浴びる。

転居を余儀なくされた主人公の子が、新しい近所の子に聞かれる「どうして引っ越してきたの?」「ママのことを誰も信じないから」「嘘つきなの?」「そうかもね」。嘘つき、嘘つきの子・・・彼らはこれから、そう呼ばれていくのだ。事実が裁かれない限り。子どもたちの会話は、恐ろしいほどに、これまた、リアルではないかと思わせられた。リアルの世界では、レイプ被害者をさんざんこうした言葉が襲ってきた。そしてこれからも襲う。奪われたのは被害者自身の尊厳だけではない。被害者の親愛なる人たちの尊厳もまた奪わてゆく。

映画では、主人公はこれを聞いたあと、心を決め、父親に私的に再捜査する人を雇うための費用の借金を相談する。父は言う「もう終わったことじゃないか」。彼女は答える「みんなにとってはね」。

「みんなにとってはね」・・・この言葉の重さを、これまで、誰がリアルに描いただろうか。

みな被害者にさまざまなものを押し付けて、社会全体で、口をぬぐってきた。自分たちの社会にはレイプなどないかのように振舞うために。町の平和な雰囲気を演出するために。この映画は、それに確実に「ノー」を叫んだ女性の話である。

映画の最後で父は娘にこう言った「お前を誇りに思うよ」。
判決後に裁判官もまたこう言った「あなたの勇気をたたえます」。

そして、この断固とした「ノー」が勝ち取ったものを、さらに応援する社会の話につなげなければならないと思わせられる映画でもある。レイプが奪うものの本質を見極め、確実に裁ける社会を作らなければならない。

報復殺人まで強いられることはなくなったとしても、被害者は今もなお、「告発」という重責を強いられていることに変わりはない。だとすれば告発を受け止める社会を作らなければならない。レイプ犯が一定数社会の中に存在する現実があるからこそ、被害者を孤立させず、告発をしやすくし、暴力の循環を根絶することこそ、私たち第三者の力がつぎ込まれなければならない分野である。

レイプを許さない社会は、人を尊重する社会の基礎である。次なる展開は、私たちのリアルが担っている。

ちなみに。
正しい日本軍、を信じたいがために、韓国人の慰安婦を黙らせようとする社会は、つまり現在進行形で、告発者を押さえつける社会です。この映画を見終わった後にでも、ぜひ、同じ苦しみに焼かれた韓国人慰安婦の告発のことを、思い出してほしい。告発者を押さえつけることは、暴力を容認することである、ことも。

さらにちなみに。
この映画ではプライバシーの問題が描かれていない。実際のケースでは、プライバシーをどう扱うかに関して、被害者の意思が尊重されるところまで、ケアされなければならない。善意なら、何でもかんでも報道してもいい、わけではないのである。なぜなら、告発は、間接的には社会のためであっても、実は何よりもまず、被害者の回復と自尊心の取り戻しの作業に、他ならないからである。

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