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13世紀の世界史コミュの[管理]中国

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●金朝

金(きん、英Jin Dynasty、1115年 - 1234年)は、金朝(きんちょう)ともいい、中国北半を支配した王朝。遼・北宋を滅ぼし、西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したが、モンゴル帝国(元)に滅ぼされた。都は初め会寧(上京会寧府、現在の黒竜江省)、のち燕京(中都大興府、現在の北京)。

世宗の後をついで1189年に即位した章宗は漢文化への傾倒が激しく、自ら第二の北宋の徽宗を自認して、絵画・書の作品を残した。また、この時期は国内が安定した事もあって明昌の治とも称されている。しかし、北方モンゴル高原では部族勢力の動きが活発化してタタルや契丹の反乱が激しくなり、金は鎮圧に際してケレイトやモンゴルの助けを借りたためケレイトやモンゴルの勢力が増大し、1206年にモンゴルのチンギス・ハーンによる高原の統一を間接的に助けた。一方、北方の動乱の情報を得て金が疲弊したと考えた南宋の宰相韓タク冑はこれを好機と見て1205年に金に攻め込んだが、金に撃退され、南宋は韓タク胄の首と引き換えに和約を結ばなくてはならなかった。

そのような中で7代衛紹王が即位すると、チンギス・ハーンはこれに対する朝貢を拒否して金と断交し、1211年に自らモンゴル軍を指揮して金領に侵攻した。内モンゴルにいた契丹人を服属させたモンゴル軍は金軍を破って長城を突破し、2年あまりにわたって金の国土を略奪した。敗北を重ねた金では1213年にクーデターが起こって将軍胡沙虎によって衛紹王が殺され、さらに胡沙虎が殺された。相次ぐ敗北により抵抗の手をふさがれた新帝宣宗は同年にモンゴルに対する和議に踏み切り、モンゴルに対する君臣の関係を認めて歳貢を収めることを約束し、皇族の娘(廃帝・衛紹王の皇女)をチンギスに嫁がせる屈辱的な内容の講和を結んだ。

講和によりチンギスは撤兵するが、金は翌1214年にモンゴルを避けるため河南の開封に遷都した。このとき、金の南遷に動揺した契丹の一部が中都(燕京)で反乱を起こしてモンゴルに援軍を求め、チンギスも金の南遷を和約違反と責めて金に対する再侵攻を開始した。1215年夏、半年以上モンゴル軍の包囲にさらされた末に中都は陥落し、金は故地東北を含む黄河以北の大部分を失った。

金は開封を本拠地に河南地方で辛うじて命脈を保ったが、その後もモンゴルの南進を食い止められず1234年についに開封を包囲、占領された。最後の皇帝哀宗は開封から脱出し蔡州に逃れるところをモンゴルと南宋の連合軍に挟撃されて自殺し、金は滅亡した。(Wikipediaより)

コメント(1)

歴史ではないんですが、こんな会がもたれます。
この会は、日本における宋代文学学会に相当するものです。


====== 第11回宋代文学研究談話会 ======

宋詞研究会、文科省科研費「寧プロ」詩文受容研究班、宋代詩文研究会 共催

■日時 5月26日(土) 10:00am-18:00pm
■会場 早稲田大学西早稲田キャンパス16号館2F「大会議室」
■参加費 1000円
             (敬称略)
−午前の部−
(?) 南宋詩における散文語の詩語化 ―「爲地」句を例として―
      慶應義塾大學非常勤講師 阿部 順子
(?) 日本宮内廳書陵部藏宋本《游宦紀聞》書後
      北京大學中文系  顧 永 新
(?) 柳永詞の收録状況から見る『草堂詩餘』
      大阪大學大學院文學研究科  藤原 祐子
−午後の部−
(?) “太學體”及其周邊諸問題
      復旦大學中文系  朱   剛
(?) 東坡詩文日本受容史俯瞰
國學院大學文學部 石本 道明
(?) 宋代文學傳播研究的思考
武漢大學中文系  王 兆 鵬
(?) 元代江南における散曲と詞をめぐって
      佛教大學文學部  中原 健二
(?) [特別講演] 南宋文人における詩と詞
      東北大学名誉教授  村上 哲見

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