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悲運の名将・明智光秀コミュの光秀謀反の謎

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なぜ、光秀は信長を殺したのか、僕は信長が朝廷をほろぼして自分が日本国王になろうとしたからだと思います。
信長は古い秩序を徹底的に破壊してきました。
最終目的は朝廷だったと思います。
光秀はそれを阻止したのだと思ってならないのです。
みなさんは、どう思いますか?

コメント(35)

光秀はすでに高齢であり
自分なき後の光慶が信長→信忠体制への以降の狭間で
粛清されると思ったのではないでしょうか。
もちろん、天下獲りの野望もあったでしょうけど。
難しいですね。噂?では光秀単独ではなく後ろ盾があったとも言われていますし、それが足利家とも言われてますから朝廷や室町幕府的な政体を守る為とも考える事が出来ますし、純粋に天下取りだったかもしれないし。
信長が生きていたら日本の近代化はもっと早かったと聞いた事があります。光秀は目まぐるしく変わる事柄に古き良きものが打ち消されてしまわないかと考えたかも。
いずれにせよ謎ですよね。タイムマシン出来たら山崎共々見に行きたい場面です。
わーい(嬉しい顔)はじめまして、大介です。
亀岡に隣接した八木に住んでいます。亀岡の人が光秀で御国自慢が出来ない部分を感じています。長い時間にデリケートな部分が育ってしまいました。
そこで、少しでもお役に立ちたく努力しています手(グー)
以下の情報をコピーして進んでお客様にお渡ししています。ご一読くだされば有難いでするんるん

西の鯖街道・歴史を創った人物?
「丹波武士と本能寺の変」
光秀、強権政治に反発

 亀岡城の建築に着手し、城下町の基盤整備に努めた戦国時代の武将、明智光秀を再評価する機運が最近、亀岡市で高まっている。そうした中、ガレリアかめおかで「光秀」をテーマに開かれた第五十七回丹波学トークで大阪市立大学の仁木宏助教授が「丹波武士と本能寺の変」について講演し、同トークとして過去最高の約二百人が聴き入った。

 どうして光秀が信長を暗殺したのか、社会的背景から考えると、「強権政治」と「自治」という、戦国武将が目指した秩序回復に向けての二つの方向性の「揺れ動き」が、「本能寺の変」として現れたといえる。そして、それには丹波武士の影響が見られる。
 信長が目指した強権的な政治は、人々を魅了した一方、社会に大きな戸惑いを与えた。当時の戦国武将にとって天下統一による社会秩序の回復は共通の目標。しかし、その手法については二つの大きな方向性が存在していた。
 一つ目は、「信長的発想」。強大な権力の下に社会秩序を収斂(しゅうれん)されることを目指した。二つ目は「自治」の思想。戦国時代に入り、朝廷や寺院といった既存の権力の影響から解放された人々は、ある意味で「自由」だった。その中で、堺や京都といった都市の「自分たちのことは自分たちで解決する」という風潮は、戦国武将の間にも広がった。
 丹波地方では、中小勢力が均衡していたため大きな戦争がなく、社会が安定していた。その中で、自治システムが発達した。中央からの介入も跳ね返し、自由独立路線を維持していた。
 信長上洛後、丹波攻略を命じられた光秀。亀山(亀岡)を拠点に侵攻を始めたが、丹波武士たちの挟み撃ちに遭い敗走した。その後、亀山城築城に着手、一つずつ攻略諸点を築きながら地元勢力を一年かけて丁寧に手なずけ、丹波統一に成功する。
 その後、丹波各地で城下町を中心に軍事的でなく、経済活性化を目指した地域整備を進め、在郷の武士たちを城下町に住まわせるといった当時最新の支配方法を展開した。しかし、これは「自主独立」を目指す丹波武士の目には「強権的」に写った。
結果、無謀な反乱に走った土着勢力もいた。
 光秀は、丹波統治を経て、そうした勢力への親近感を持ち始めていたのではないか。本能寺へ向かった光秀軍のほとんどは丹波勢で構成されていたと思われる。自治自衛、相互協力を尊重する丹波武士の社会の姿に接した光秀が、うまい支配を行って武士たちに受け入れられた一方で、取り込まれていった。丹波を統治した経験が、信長的な強権的な支配への反発を生み出し、光秀最後の決断に影響を与えたのでないか。(7月8日)

大阪市立大助教授 仁木 宏さん
 にき・ひろし 1962年東大阪市生まれ。京都大学大学院博士課程国史学専攻学修了。98年から現職。専攻は日本中世史。「新修亀岡史」では、戦国時代の丹波地方や明智光秀に関するテーマで執筆した。

【この内容は、京都新聞平成十八年八月十七日朝刊に掲載されたデータを転載いたしました。】    本紙面作成:2008/01/27

推薦関連書物 家村耕 著 文芸社発行
「摂丹の霧・鬼神信長と人間光秀」第一作
「明智の娘ガラシア・悲運の中に凛と生きて」第二作

西の鯖街道は、若狭・丹波・山城を舞台とした広域連携事業です。問合せ先は、
片山金蔵商店   TEL:0771-42-2304
先に紹介いたしました家村耕氏の本を画像で紹介いたします。
Qoopapaさんの意見に近いけど

光慶ではなくて、光秀本人が粛清されるのではないか?
と光秀が誤解した結果

っというのが私の卒論の結論です

細かく理由を書こうとすると
卒論を実家から引っ張り出してこないといけないので
割愛いたします
 はじめまして。ぺヤングといいます。
 光秀が何故、信長を裏切ったのかについては、色々歴史学的にも諸説があるようですが、僕自身は光秀自身が家臣と一致結束して突発的に行動を起こしたというよりも、やはり光秀の背後で有力な人物が糸を引いていたのではないかと考えます(けしかけたという証拠を示す古文書は、まだ発見されていませんが…)。
 明智光秀は、基本的に既存の権威や体制を大事に考える思想を持つ一方、主君織田信長は天皇さえも否定し、自らが日本国王として天下の中心にたとうとした、天理をわきまえない「無法無天の暴君」だったと言えます。
 従って、このまま天下が織田信長に傾いていけば、豊臣秀吉以上にもっと早い段階で明や高麗に侵攻したかも知れませんし、国内の統治体制は信長を中心に、早晩「コペルニクス的転換」とでも言うべき、大きな政治変動によって一変していたかもしれません。
 かつての足利幕府のような既成の権威を尊重する光秀の考え方とは明らかに鋭い対抗関係を持つものであり、このことが謀反を促す一因につながったのかもしれないと推測するのであります。
 しかも、本能寺の変から山崎の合戦までの間、明智勢に旧足利幕府に仕えていた京極高次のような武将が加勢していたり、信長と長年敵対関係を持っている西山本願寺がいち早く使者を派遣し、光秀と一脈通じていたり、あるいは足利義昭本人が毛利一族に再三光秀を助けるよう決起を促すなど、光秀が打たれるまでの短期間にも関わらず、実にこれだけのことが周囲で起きているのです。
 光秀が体制固めのために、親密な土豪や与力だけでなく、織田信長と敵対する武将にまで支援を求めることは確かに考えられますが、とてもわずか一週間の間にこれだけのことが光秀本人の努力のみによって成しうるとは、到底考えられません。
 かような意味で、光秀自らが天下取りのために決起したというのは明らかに短絡的な見方であり、むしろ信長によって権威を否定された足利義昭なのか、あるいは天皇制そのものを陥れようと本気で挑戦する信長に脅威を感じていた朝廷(なかんずく官位が相当高い公家衆の一部)が、光秀を裏で動かし、時には周囲を動員して助けていたのではないかと考えるのであります。
背後に徳川家康の影があったという説もありますよね。でも、誰もが出来なかった信長を倒したのですから、光秀最強です。ただ、天下を治める力は不足していたと思います。
歴史にifは禁物ですが、山崎の戦いに際して、光秀が安土城守備についていた明智秀満以下三千の精兵を一旦転出させ、編成に加えていたなら、戦いの経過はかなり変わっていたはず・・・と思うと、残念な気がします。

少し古いスレですがアゲときます(笑

個人的に光秀は超loveですが、光秀が悪者にされるのは仕方ない側面も

本能寺での謀反。当時の情勢、光秀の立場人脈を考えれば、仮に背後に黒幕があったにせよ、児戯に等しい行為です。光秀ほど明晰な頭脳を持った人間が何故?と、信じ難いのが本音です。また、本能寺で敷いた光秀の布陣にも疑問が。周到な性格とされる光秀が小勢を大軍で急襲したにも関わらず、本能寺及び二条城の包囲完了までに相当の時間を費やしてる上、攻囲は完璧ではなく、両所から逃れ得た人は少なくありません。天下人の信長を亡ぼし、それに取って代わる意思があるなら、この場合一人の逃亡者も許さないのが定石です。相当に冷静さを欠いていたのではないでしょうか

本能寺の変そのもののは勿論、光秀の軍事能力の評価を下げる点が多かった事は間違いなく、非常に残念である反面、その弱さ脆さに人間味があり、好感を持てたのも事実です
本能寺の変はクーデターとして半分は大成功だったと思います
その後の処理を元から深く考えてなかったと思うのは、
私の考えすぎでしょうか?

秀吉の中国大返しがクローズアップされていますが
秀吉より近くに織田信孝と丹羽長秀がいました
長秀も無能ではありません
山崎の前に、信孝・長秀と衝突していた可能性だってあったのです
信孝が秀吉より早く動いていたら、歴史はまた変わっていたでしょう

光秀の軍事能力は本能寺の変以降で下がったとは思いません
本能寺の変がなければ織田家中筆頭であり続けることは可能だったでしょう
疑心暗鬼から発生した私怨のような思えて仕方ないのです
少なくとも、現存する文書を紐解く限り

新たな文献が発見されればこの意見は変わるかもしれません

あと、あゆさんの日本史教育…について
一言、言わせてもらうならば
歴史は公平に語られるものではないのです
常に勝者の影響を受けるのです
本能寺の変の場合
その後の勝者、羽柴秀吉を美化するものが多数書かれるのは当然のことです
時の権力者を正しくても光秀より劣るとは書けません
書きませんし、書いたらとんでもない事になります
信長公記でさえ光秀が秀吉の援軍に向かったいくつかの事実を
総見記では逆に書かれています

織田の後を継いで天下を取る秀吉には
光秀を悪役にすることが格好の大義名分となったのです
歴史はそういうものです

大日本史料でも、この時期はまだきちんと編纂されていないので
完成を早く望みますが…
だいぶ先でしょうね

酒呑人さん矢印(右)初めまして

本能寺は光秀の私怨に拠る所が大きいと考えられてる訳ですね。戦後の処理を深く考慮してなかった、という点は自分も同じ意見です。怨恨により変を起こしたのであれば、光秀の心理状態は平常ではなかったはずです。その事が戦後の仕置を見誤らせたと考えれば、道理であるといえますし。
光秀の軍事能力〜と言ったのも、平常心でない光秀だったからこそで、決して光秀の持つ軍事能力そのものを疑ってる訳ではありません。山崎も結果惨敗こそしましたが、開戦時の圧倒的劣勢(戦闘体制を整えられない状態)を考えたら、よく善戦した戦だと思いますし、光秀軍の結束・戦闘能力の高さも窺えます。あくまで本能寺に於いての話になります。

変の理由ですが、自分は私怨+何者かの後押しがあったと考えてます。疑心暗鬼で平常心を失った光秀の隙に付け込み、変にまで踏み切らせたのは、その何者かの後押しが決定打となったのではないかと。ただしそれが何者なのかとなると、諸説ある上に個人的にも提言しかねますが(苦笑

前面の敵と戦闘中に、突如後方が敵となる
これは相当に混乱の原因になると思われます。
事実、京に最も近かった信孝の軍は、本能寺の一報で崩壊しているようですし
ある意味、きちんとした体制をを保ったまま帰ってきた秀吉が異常ともいえます。
だからこそ、光秀は準備不足のまま秀吉と戦う羽目となり、それが負けに繋がったと考えるならば、後のことを考えていなかったとは言い切れないように思います。

信長誅殺後は、一応一通りの政治工作してるみたいですし
全くの無計画でもなかったんではないでしょうか。

黒幕に関しては、割と否定的な観点です。
事を為した後、その黒幕を最大限利用しなければならないところを
なぜか独力で解決しようとしているように思われるからです。
「信長が天皇を排し、自らが王となる野望を持っていた。」

という考え方は一般的なんですか?


多くの神社仏閣を焼き払ったとされる信長も、日本の歴史の根幹となる伊勢神宮、出雲大社、熱田神宮については、大変丁重に扱ったという話を聞いた事があります。

その時代の大名が誰もやらなかった皇室の復興事業に率先して関わっていた事からも、どうもそのような魔王的イメージを持てないんですよね。


光秀の謀反については秀吉との共謀という考え方がスッキリします。

★ポイントは信長亡き後のバテレン追放令

最初は秀吉も信長のバテレン政策に同調していたけど、日本人が奴隷として売られていく姿を見る内に考え方が大きく変わっていったらしい。外資系に侵食されていく日本の将来を憂う気持ちについて、秀吉と光秀は想いを同じくしていたのだと思います。


「・・・しかし主君を討つには死を覚悟せねばなるまい。」

「ならばこの光秀が死のうではないか。秀吉殿、何ぴとよりも速く拙者の首を上げにきてくだされ!」

こうして本能寺の変が起こり、光秀は歴史からフェイドアウトしていくこととなる。さらに天海同一人物説につなげていくと、ロマンが深まるわけですね♪


という事で「共謀説」です。

宜しくお願いします☆
『本能寺の変』は本当に凄い☆
世の中を変える手本☆犯罪抑止の鑑☆
現在
無差別殺人なんかして「勝ち組が憎い」「世の中が悪い」「世の中を恨む」とか言ってる犯人は、何れも、自分の不幸や不遇の原因にたどりつけていない。または原因から目を背けている。その結果、原因とは何の関係も無い罪無き人を害してしまう。

明智光秀は織田信長を討った☆当時、世の中の状態がどうであれ、世の中の中心にして発信源を叩いた☆
これを勝家だの秀吉だの蘭丸だのを叩こうものなら未然に防がれた上に打ち首なのは明白。

原因について僕は、ストレスや罪悪感といったものだと思う☆ストレスをもたらす存在が信長であったと。
だから単独犯だと思います☆
黒幕として名の上がる方々には、愚痴を聞いてもらってただけだと思うのです☆吉見だの近衛だの☆だから決定的証拠が無い☆
リアルタイムに聞き込みが出来たと仮定して
「前に光秀さん愚痴ってはいましたけど、まさか、こんな事になるとはね」てなとこかと・・・
具体的にストレスや罪悪感のネタとしては叡山(坊主や女子供を根絶やしにして心が痛む)だの対波多野母親人質(和解など駄目って事は母を見殺し?マジで?)だの家康接待罷免&転封(母を見殺しにした末に得た領地を?)だの
母や無抵抗なものへの罪悪感で自分を責める
上司(信長)の命令に端を発してるとはいえ、注進をせず遂行した自分を責める
遂行した功績に信長は確実に報いてくれるので今の自分があるという事実と葛藤
これらが合わさった結果では?
と思います☆
はっきりと怨恨というより微妙な心理状態かと察します☆
>さいとうさん

丹波平定戦における母見殺しの逸話は
史実ではなく後世の創作では?
小説とかドラマでは出てきますけど。

でも、信長に仕えるのは相当なストレスだったことは
想像にかたくないですね。
はじめまして。光秀の決意に大きく影響をあたえたのは、恵林寺における旧主
土岐頼芸との邂逅の結果ではなかったでしょうか。

四月二日、大雨の中を、信長は予定通り諏訪を立って甲府の大ケ原に陣を移した。その日の午後、躑躅ケ崎の信忠は長谷川与次・関十郎右衛門・赤座七郎右衛門尉らを奉行にして佐々木二郎隠し置く過怠を糾弾すべく恵林寺を包囲した。すでに二度程使者を出して、佐々木二郎らの引き渡しを求めていた。
「引き渡すことは出来ぬ。寺は守護不入、また信玄公の菩提寺でもある。即刻に立ち去れ」
 その都度快川は拒絶していた。それで、三度目の使者には、光秀自身が行くことにした。光秀は湿りけをおびた山門の急な階段を十人の護衛を従えて登っていった。山門をくぐると、僧衆らが光秀を取り囲み、そのまま楼上の僧坊に連れていった。部屋の中央に快川紹喜が座し、その左右に十余人の長老が控えている。
「お久しゅうござります。明智光秀にござります。国師様ご受難とうけたまわり、罷り越しました。どうか、武田の残党をお引き渡しの上、ひとまずこの寺を立ち退きくださりませ」
「いずれは、そなたが参るであろうと思うていた…。のう光秀、当寺は信玄公の菩提所ゆえ、織田の恨みをかうのはいたし方あるまい。されど寺には世俗の権威は及ばぬのが仕来りではなかったか。守護不入の権利は朝廷によって保護されてきたもの…。境内を取り巻く織田の軍勢を早々に立ち去らしめるが帝にお仕え申し上げる武人としてのそなたの役目ではないか」
「仰せごもっとも、なれど、天下布武の信長公に、その理は通じませぬ」
 信長にとって、神社仏閣が持つ守護不入の権は一刻も早く壊滅させねばならぬものである。その時、国師の後ろに座っていた長老が、
「光秀、わしを覚えているか」
と声をかけた。国師の影に隠れて、その面容を定かに捉えることが出来ない。光秀は立ち上がってそこに座る老人を見据えた。
「…土岐のお屋形様では……」
 声の主は土岐頼芸であった。光秀は父と訪れた南泉寺で主家筋に当たる土岐頼純、頼芸の兄弟に幾度も会っている。といっても、四十年も前のことで、光秀がやっと十五歳になって元服したての頃であった。今、頼芸を思い出すことが出来たのも、快川紹喜からの連想のせいで、その頃も頼芸はいつも快川和尚と共にいたのである。
「光秀、寺は守護不入、武家の権力は及ばぬ。朝廷により保証されているこの権利が信長により覆されるようでは、帝の存続さえ危ういと思わねばならぬ。土岐家は貞純親王を祖とする清和源氏。頼光、頼政と続いた武門の誉れ高き家筋じゃ。取り分け、鵺退治で名高い頼政公は治承三年、以仁王を戴いて平氏打倒の兵を挙げ、宇治の平等院で壮烈な討ち死にを遂げられた。その血をひく光秀が、誇りも信念も捨て去って、平氏を称する信長の走狗に成り果て、わが大導師、大通智勝国師が住持を勤め、土岐家と祖を同じくする清和源氏、信玄公の菩提所、恵林寺毀壊(きかい)に手を貸すとは本末転倒も甚だしい所行と言わねばならぬ。慎め、光秀。そなたは帝より丹波平定を賞され下賜(かし)の品まで頂戴したというではないか。賢きあたりにおかせられてもそなたをたよりにされているのはそなた自身が一番よく知っているはず。光秀、自分の心に恥じることをするものではない」
「……まことに面目なきことながら、…それはかないませぬ。ひとまずこの寺を立ち退き、後日を期してくださりませ」
「後日を期すとはどういうことじゃ。光秀にそれが出来るというのか」
 光秀に和尚が詰め寄った。その勢いに乗じるように頼芸も言を続ける。
「そなたの心中にわしらが望む後日があるならば、わしは信長に下って、そちの後日を見届けてもよい。ただし、わしの余命は幾許もない。わしが生きている内にわしらが望む後日を実現することじゃ」
 頼芸は高齢である。和尚と共に恵林寺で死ぬもよし、しばし生き長らえて、光秀の心を試してみるもよしの思いであった。
「それではお屋形様、わたしについて、ひとまず下山くださりませ」
「これは面白い、お屋形様、光秀の心を確とお見届け下さりませ。拙僧は三界不変の法輪に仕える身、寺と運命を共にいたし、あの世から光秀の有り様を見届けることにいたしましょう」
 快川和尚は合掌して一礼すると、再び説法を始めた。光秀は身一つで下った土岐頼芸を護衛の武将に守らせて、黄昏の山門を降りていった。山門の両脇にはいつの間にか薪が堆く積み上げられている。
「馬上の姫君」風一 http://nnr2.netnovel.org/rank17/html/
本能寺の変は、四国攻めを止めたかったのでは?
明智光秀は、土岐氏で光秀自身。一族を大事にした方だそうで。
同じ土岐氏の斎藤利三。
明智光秀の腹心ですが、史実や大河ドラマでは最後まで本能寺に反対した事に成ってますが(^^ゞ
斎藤利三を介して、長曽我部元親と義兄弟で本能寺の翌日は、四国攻め開始日。
光秀は、四国攻めを止めたかったというのは説あり、しかも、後に家康が春日局を徳川家光の乳母に採用していることから。
本能寺の時、徳川家康と明智光秀が同盟してた可能性があると言われてます。
斎藤利三の子供や石谷氏の子供は、土佐に逃れて来てたみたいなので、明智光秀の子供も逃れて来てた可能性も坂本竜馬が明智光満の子孫とされてる由縁もここから、あとの時代に坂本家が物語を作った理由ですねたらーっ(汗)
単に信長を倒して自分がテッペンに立ちたかった。自分がボスになるために光秀は謀反をしたと思いますよ。

自分のすべてをかけてボスになろうとしたところがいいじゃないですか。

消される前に消しにいった度胸。

400数十年前の本能寺の変の時が近づいてきました。下記の本を読みました!!!!

左の明智憲三郎氏の著書は2009年刊の名著で、これまでの歴史を観る目を根本から変える、それこそ目から鱗ともいえる衝撃的な内容で、歴史の捉え方に大いに考えさせる著書です。

一方、右の井上慶雪氏の著書もつい最近発刊された書で、今までの通説を一つ一つ見直して新事実を明らかにしていて、これまた目から鱗の著書です。是非、二つの著書を比較して読むとますます、この歴史的なクーデターが面白くなってきます。

世の歴史学者や歴史小説家のコメントが聞きたいものです!!!!!

但し、井上氏の著書には、時期的な事かも知れませんが、明智氏の著書に全く触れていないこと、そして、肝心の”本能寺の変”当日前後の記述が無い事が不可解に思います。

これから、何度も読み返す必要を感じております。

これら、本能寺の変に関する二つの著書には共通することがあります。両著者ともに、世の言う歴史学者ではなく、愛好者がこれまでの通説・資料を一つ一つ検証して書くという姿勢を取っておられる事です。
情報過多の世の中、これからは歴史を考えるとき、このような目で捉える必要があるのではないか?
本当に勉強になりました。

単純に光秀ファンのひとりとしては、信長公との確執・怨恨とか、天下を取りたいという野望とかでなく、このままいったら、武家社会、ひいては日本国が危ぶくなるといった、危機感からあのクーデターを実行したのでは。結果としては、多大の犠牲を払ったことになりましたが。 小生はそう思いたいです。

本能寺の変
動機について新しい資料がでてきたみたいですね。
四国攻め反対というものらしいですが。
長宗我部とは関わりがあるので考えられなくもないですけど。
怨恨とか野望とかいろんな要因はあったと思います。
ただ、直接のキッカケは何だったのか…。
光秀本人に聞かない限りわからないですよね。
最近長宗我部からの手紙が見つかりましたね。長宗我部を守るためとも言われていたり、朝廷を守るために言われていたりと色々言われてますね。明智光秀は信長のやり方についていけれなかったと思います…決して天下が欲しくて謀叛をしたわけではないと思ってます。守るべきものがあったり、ストレスだったり、色んな理由が複雑に絡み合ってるんだろうなと思います。今となっては本当の理由なんて分からないけど、そこがまた魅力ですよね。
>>[28] 私も本能寺の変には興味があります 昨年は現在の本能寺境内にある資料館も見学 大河ドラマ軍師勘兵衛を機に明智の子孫の方が書いた本も読みました しかし、この謎はやはり言われるとおり本人に聞かないとわからないですねえ 
ただ一つ言えることは天下を取り、長く生きて汚名をばらまいてしまった秀吉に比べたらあの時あの場で最後を迎えた信長の生涯の方が生き様としてはよかったように思えます
荒っぽさもありますが、信長 秀吉 家康の中では私は信長が好きですね 今回は、ルーズベルトゲームでも好演した江口信長だったんでよけいに素敵でした 
>>[30]
私も三英傑の中では信長が一番好きです!
生きざまがカッコ良いですからね。

本能寺の変は残念な出来事でしたが、信長も光秀が相手ならまさに「是非にあらず」と
いった気持ちだったのかもしれませんね。

江口信長あまり評判良くなかったようですが、私は好きでした( ^^)

>>[31] 実はルーズベルトゲームのエキストラで参加したとき江口さんにもお会いしましたが、年齢とともに風格が出て、演技も磨かれているように思います 両方の役で見せた眼光の鋭さなど男性から見ても魅力を感じましたね 江口信長から出た有名なせりふ「是非に及ばす」も決まってました コメントが本題からそれているかもですね 失礼しました
>>[32]
引き続きのトピずれですが・・・。
ルーズベルトゲームにエキストラで参加されていたのですか?
いいですね〜。
知り合いの男の子がイツワの野球選手で出演していたので
毎週楽しみに観てました( ^^)
>>[33] エキストラといっても居住地に近い豊橋市民球場での観客役です イツワの選手なら立派な俳優さんですよ
トピずれ失礼しました 本題にもどります 光秀の狙いはどうあれ、実際に起こった事件としての「本能寺の変」はまるで小説家や脚本家が望むようなサスペンスに満ちた事件だったと思います 現実は創作以上に奇なりですね 後生の人々が想像してあまりあるような素材を提供した光秀 それこそこの決断が是か非かは別として後生へ与えた影響は大ですね 順調に信長が天下をとったとしていたら信長の生き様も平凡なものになっていたような気がします ちょっとちがった観点で意見を書かせていただきました 歴史を真摯に見つめようとしている方々には甚だ低次元の論であることをお許しください

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