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橋川文三を考えるコミュの橋川文三の授業

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橋川さんの学部・院での講義やゼミについて、思い出を語っていただけらうれしいです。

僕自身、ご存命中、同じ駿河台の校舎に出入りしながら、ついに1度もお会いしなかったので、直接謦咳に接しられた皆さんの言葉を聴きたい(読みたい)、と思いました。

すでに折に触れ別の個所で述べられたことでも、あらためてここに記していただければ。

コメント(6)

 1980(昭和55)年。tokonamigawa明治大学2年生。
 12月頃 入ゼミ試験。明治大学和泉校舎。
 はじめて橋川文三先生、かまいち氏にお会いしました。
 廊下で待機していると、けして力強いとはいえない足取りで、初老と呼んで差し支えない小柄な男性が階段を上がってこられました。写真をみたこともなかったのですが。「あっ、この方が橋川先生だ」と直感しました。
廊下で3年生と語り合われている橋川先生の様子は、今も記憶しております。橋川先生の留学の関係で、4年生はいなかったと思います。

 当時の3年生から型どおり「入ゼミ志望の動機はなんですか」と尋ねられ、「入学前に読んだ丸山真男『日本の思想』が面白かった。こんなことまで分かるんだ、と驚きました。東京教育大学で日本史を専攻していた従兄弟に『立教に神島二郎がいる。明治に橋川文三がいる』と聞かされて、明治大學を受験しました。」とお答えしました。
 頤を少しあげて「ほー」という表情をされていた先生のことが思い起こされます。

 何の質問に対する答えだったか「高校時代には野球をやっていました。」と答えたのに対して、後にフランス文学を愛好されていることを知った3年生から「君は王選手のことをどう思う」と質問されました。私は沢木耕太郎の「破れざる者たち」を読んだ印象から、榎本喜八との比較などを語った記憶です。
 この後、質問した学生に「あなた、なんでそんなことを聞くの」と橋川先生が問うておられました。
>>[1] 思い出すなあ…。その光景。あなたの代は明大の<悩めるサヨクの>陳列場でしたね。すげえ奴らが入って来るんだなあと思いました。二部からも、兆民とかM田とか、すごいやつらが受験して、本当にどきどきしたものです。
「王選手」? それを聞いたのはゼミ長の「k」でしょう? かれはフランス文学に興味はなかったと思いますが…。
「あなた、なんでそんなことを聞くの」という橋川さんの肉声に、久しぶりに大いに笑いましたよ。
ちょっと余裕ができたら、わたしもここにゼミの思い出を書こうかなと思います。

でも、学部中、わたしはマジメなゼミ生ではありませんでしたね。そんなわたしが、「K」になぐられたことも今ではイイ思い出です。
本当に、あの頃の明治の政治学科は優秀な人材が揃っていましたね。嘆息。
>>[2]

「あの頃の明治の政治学科は優秀な人材が揃っていましたね。嘆息。」

そんなにひろがる話かね(苦笑)
あーたが よく持ち出すtoneだけど(再び苦笑)
>>[4] それはそうですが、やはり優秀だったと思いますよ!話は広がらなければ面白くないではないですか。
こんばんは。
さて、

「洗心洞」さんこと福井さん(某大手予備校講師)が、先日このコミュにこのような「つぶやき」を寄せられました。



福井紳一です。先月、『戦中史』(角川書店)を上梓しましたが、「あとがき」に、1983年12月10日の、ご自宅での最後になってしまったゼミのあとの飲み会の思い出を書きましたので、書店に行ったおりには、手に取ってみて下さい。
http://u0u0.net/IIK2

矢も楯もたまらず、早速注文(Amazon)し、本日ただいま届きました。

邪道ですが、まず「あとがき」を読みました。私にとって、福井氏の思想は昔から知っているので本文はあとでよいのです。
あの時がよみがえってまいりました。

福井さん、悪いが引用させてもらいます。

どのトピックに引用しようか迷ったのですが、これはやはり、ガンジーさんが
たてた、ここが最良と思い、UPさせていただきます。

<私事ですが、福井さん、無断引用申し訳なし。お許し願えますよね。話変わって、実家に昨年引っ越しました。貴兄宅とも徒歩圏内? ぜひお立ち寄りください!>

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福井伸一『戦中史』(角川書店 2018)「あとがき」より

 高橋和巳の小説の中に「言い訳のつかないくらい学問をさぼった」というような言葉がありました。十代半ばにして社会に関わって以来、「言い訳」は、それこそ山ほどありましたが、「言い訳のつかないくらい学問をさぼった」ことは歴然とした事実でした。高校の教員を経て現在の職への採用が決まった初冬、急遽、大学院に籍を置いて学問をし直そうと思い、翌春から橋川文三先生や、海野福寿(うんのふくじゅ)先生の学恩を受けることになりました。橋川先生からは思想と向き合うことの重さ、海野先生からはマルクス主義に基づく歴史の視点を学びました。
 病を得ていた橋川先生の院生のゼミは自宅で行われるようになっていました。著作は高校生のころから愛読させて頂いていたので、江戸期の私塾を彷彿させる橋川ゼミでの時間と空間は貴重なものとなりました。しかし、それは長いものではなく、1983年12月17日未明、橋川先生は急死されました。享年61歳でありました。そのため、12月10日が最後のゼミになってしまいました。
 『思想の科学 NO.49 主題(ママ)橋川文三研究』(思想の科学社)に寄せられた文章の中に、最後のゼミに触れたものがありました。そこに、、「ゼミ終了後のコンパで先生は、院生の歌う『スペイン人民戦線の歌』に涙されたという」との伝聞が載せられていることを、のちに知りました。
 このことは、初めて公に話しますが、その「院生」とは筆者でした。その夜、一人一人に歌うように言われました。薩摩の「おはら節」を歌う者や、先生のお好きな軍歌であった「戦友」を歌う者もあったように思います。
 筆者は、「第七旅団の歌」を歌いました。1960年代、1970年代の学生運動の中で、よく歌い継がれた歌でした。一番は「俺(おい)らの生まれはここではないが 俺ら胸はともに高鳴る 頭の上にはおんなじ旗だ」で始まり、二番は「妻と老(おい)とを家に残して、世界の果てから集まり来しは 一歩も退却するためならず」始まりますが、最後は一番も二番も「第七旅団のゆくところ ファシストは滅ぶ 第七旅団のゆくところ ファシストは滅ぶ 進め! 進め!」で終わります。
 しかし、慶應義塾大学の我々の仲間は、「ファシストは滅ぶ ボルシェビキは滅ぶ」とわずかな替え歌で歌いました。その替えた部分を歌った時、先生は「そう、そうなんだよな」と小さくつぶやき涙されことを記憶しております。この思いでが本書の基調になっています。
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コミュの皆様さまにもご一読をお勧めします。なお、この12月10日には、他に「兆民さん」、「カツラブさん」、K氏、「後に誰かの妻となる女性」、不肖私がおりましたことを付け加えます。

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