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哲学が好きコミュの物語を求める理由

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映画、マンガ、TVドラマ、アニメ、小説、ゲームetc

世界には、さまざまな媒体を通して「物語」が溢れています。また、物語という表現形態は、いつ始まったのかすら分らないほど原初的なものです。

ならば、何故に人間は「物語」を求めるのでしょうか?




**注意**

このトピでは、皆さんの自由に議論ください。内容の流れでのトピずれであっても、トピ主としては大歓迎です。
また、僕に対するコメントなどは積極的に返答していくつもりですが、さまざまな理由で遅れてしまうことが予想されます。その場合は、そういう事情なのだと御容赦ください。
また、僕自身が大変な不勉強で有りますので、いろいろな場面でお手数をかけてしまうかもしれません。なるたけ自分で解決していく所存ではありますが、そうできない時はお許しください。

**注意**

僕の駄文だけではイマイチ話の趣旨が伝わりにくいと思いますので、参考程度に文章を挙げておきます。

内容は、押井守さんの「御先祖様万々歳」という作品のあるキャラクターの長台詞を僕なりに纏めたものです。


*参考*

人間は自己の物語の最初と最後を体験することはできない。常に体験するのは他者の誕生であり、死別である。
だからこそ人間はその生と死の曖昧な狭間で常に揺れ動き、それ故に始まりと終わりが明確に存在する「物語」を欲するのだ。

*参考*

こんな感じでお願いします。

コメント(21)

人間とは、この世界において、現象的な、根源的な根拠のない存在だと思います。

それ故に、人間は、自分とこの世界の確固とした結びつき=根源的な根拠を求めます。

なぜならば、それが無いと、人間は「常に揺れ動く」不安な自我を守りきれないからです。

物語とは、演劇であり、旅であり、人は物語によって、自己の存在の有意味性と思考と行動の指標を与えられる。


そういう意味で、物語は、「現代の神話」ではないでしょうか?
物語の原始は伝承つまり神話に他ならないが、
多様化される社会で言語のソレは複雑化してきた。

自らが共感できる確かな物語を求めるのは、
自身を世界認識の裡に結びつけたいが為に他ならぬことは、
神話の時代からまったく変わっていない。
物語の中で心を洗われ、物語によって元気を与えられることがあるから
長らく放置してしまってスイマセン。もう少し早く返答しようと思っていたのですが、思いのほか最近立て込んでおりました。
ええ、言い訳はこの辺にしておきます。

それと、下手に例文を挙げてしまったためか、皆さん文体まで例文に似せていただいたようですが、そこら辺は気にしないで頂いて結構です。
完全に僕の、紛らわしいことこの上ない「こんな感じでお願いします」という駄文のために起きてしまったものだと、反省するばかりです。
書きこんで頂いた方の中でも堅苦しい思いをされた方がいると思います。スイマセンでした。



>ゆっくり丁寧に生きるさん

>>人間とは、この世界において、現象的な、根源的な根拠のない存在だと思います。
それ故に、人間は、自分とこの世界の確固とした結びつき=根源的な根拠を求めます。
なぜならば、それが無いと、人間は「常に揺れ動く」不安な自我を守りきれないからです

僕も、人間の根源的な欲求にこのような自我の安定を求めるものは存在すると思います。
しかし、なぜ人間は物語という構造を用いたのでしょうか?
それこそ、律法であったり、哲学的なテキストではいけなかったのか?
つまり、なぜ神『話』なのかを考えていきたいんです。


<ボディーブロー

スイマセン。僕の駄文とアホな例文のために、ボディーブローさんの仰ることがイマイチ理解出来ていない状態です。
下手に理解したつもりになって返答してしまうのは、それなりに危険な気もするのでお手数ですが、

>>物語られる世界が大きくなるほどに 物語の価値観が現実生活にそくして
均一化していくのは それが消費されるものだからではないでしょうか?

の部分をもう少し噛み砕いて教えていただけると助かります。


>りょさん

お話の内容、全くの同意です。ただ、ゆっくり丁寧に生きるさん同様、なぜそれが物語でなければならなかったのかを考えて頂きたいのです。
物語、という構造のどんな特徴が優れていたのか。人間のどのような欲求が適切に解決するためによかったのか。
といった視点でお願いします。


>革彫師さん

他の世界を覗くため、というのは一つの答えだと思います。
物語の始祖は、多分「噂話」か、「ホラ話」の類だと僕は思います。
つまり、「隣の山田さんの出世話」や「赤ちゃんはコウノトリが運んでくる」といった話が普遍化していったものが神話や伝承の類なのかと思います。だから、神話とかは神様の話と英雄譚が多いのかなぁ、とか思ったりもします。
しかし、物語というのはあくまでも情報に過ぎないと思うんです。
なら、その情報を受け取っても結局その世界は自我が再構築した主観的世界に過ぎない訳で、僕自身はそこら辺があまりスッキリ出来てないんですよ。
物語を求める理由は複数の要素が混ぜ合わさっている、と僕は考えています。な
ので、一つの要素に反する一つの具体例をあげることは本質的には無価値であると思うのですが、革彫師さんのお答を聞きたいとも思いますので、質問させていただきます。

仮に「自我(フロイトの自我)は、せめて他の世界を覗こうとして物語を求めるのだ」として、物語に「共感」を求める人種は何故存在するのでしょうか?




>愛里棲さん

世間一般で言うところのカタルシスを求めて、というところですね。
ならば、なぜ物語にはそのような効果があると思いますか?








>ならば、何故に人間は「物語」を求めるのでしょうか?


他者の誕生と他者の死しか体験できず自らの誕生と自らの死など体験できるはずもないところの「人間」におき、自らの一人称-誕生観や自らの一人称-死観など説明できるはずがないにも拘わらず『一人称主体の生や死を直接的に語るなどとは非常におこがましく同時にその語り内容は必然的に偽内容となる』ので、人は『実際とは別である-あらかじめな偽空間を創り出すことによりその中で自分の代わりに主人公を立てては自らの生観・死観をその前提的な偽上で以って間接的に語ろうとする』。

それが「物語(モノを語ること)」への希求性-背景であると私は考えます。
同時にそれが、当トピの問いに対する答えであるとも考えます。
物語は哲学の方法だった様です。特にホメロスやヘシオドスの神話だったり、ソクラテスの問答法だったり、私達って何か物語にする方が記憶に残る様です(^∀^)ノ

何か哲学的な意見にならないか…。

「私達の生活に、物語って無限にあるのって何で?」って言ったら、私達の生の営みだって思う。

人間の頭の中に、物語はいっぱいある!!

それは何で;ω;って話が、このスレッドか!!撃沈。

>>しかし、なぜ人間は物語という構造を用いたのでしょうか?
>>それこそ、律法であったり哲学的なテキストでは、いけなかったのか?


皆さんのおっしゃっていることと重なっていると思いますが
人間は、心の安らぎと
新生の喜びを求めます。そのためには
無意識との対話が
重要になってくると考えます。

その対話は、言語での認識ではなく

自我が消滅し(一瞬であろうとも)
深い無意識を体験し
感じることだと考えます。

ですから、秩序・規則性を備えた言葉を押し込められたテキストでは
人は心底、安らげたり、新生の喜びを得ることができないのではないでしょうか。

神「話」にパターンがあるとしても、1人1人の無意識への旅において、それはパターンを超越した
その人のみの体験です。

>>物語というのは
あくまでも情報に過ぎない。

私は、この表現には少し、納得がいきません。

ありがとうございました。


人は生きている中で、漠然と今まで自分が生きてきた物語というものを常に抱え、
また、未来に向かっても漠然とこれからの自分の物語というものを思い描いているのかもしれませんね。
そしてそれらをより鮮明にしたり、より丁寧なものにするために、
さまざまな外部の物語から刺激を受け、吸収しているのかもしれませんね。
脈々と受け継ぎたい民族的政治的意図
高倉健主演の『昭和残侠伝』『昭和残侠伝 唐獅子牡丹』『昭和残侠伝 死んで貰います』の3本を連日連夜、初めて観ました。
日本のヤクザ映画のようなものにはもともと拒否感のあった僕は、最初の1本を観はじめた当初はそれを感じざるをえない自分に気づきましたが、次第に映画自体の素晴らしさに惹きこまれ、とうとう3本も立て続けに観てしまいました。
こんなに素晴らしい映画だとは思いませんでした。
健さん人気の強烈な原点が初めてわかりました。

健さんとともに池部良さんというのも、何てカッコいいんだと思いました。
日本の男の立ち居振舞いの美しさが見事に描かれていた。

松方弘樹さんや梅宮辰夫さんが今のジャニーズのような感じで出ていて、人に歴史ありと思うとともに、過ぎた歳月を思わされました。

映像も美しく、話しの筋もほんとよくできていて、泣かせ所、沸かせ所もうまくできている。
金正男が高倉健の大ファンで入れ墨まで入れたというその心酔がよくわかる。
『昭和残侠伝』を観ると、戦後の焼け野原から浅草の街が復興してゆく前の原点が描かれてもいる。
その土地その土地を支配するヤクザの組から商品を手配してもらって露店で販売し暮らしを立てるテキヤ稼業の庶民が、やがて組主導の屋根付きのマーケットへと糾合されてゆく一時期の物語だ。
ヤクザ同士の組と組の争い事には警察権力も及び腰で、まずは組同士で収まる所に収めよという姿勢が垣間見える。
浅草とか東京のそれぞれの街で今現在、暴力団がどのような力を持ち行使しているのか、僕は詳しくは知らないけれども、戦後社会に根を張っていた彼らの既得権がこの社会でいかに生き長らえているのだろうか。

芸術作品として本当に素晴らしい映画だが、下手するとヤクザを美化したり賞揚することになりかねないから、今では宣伝も売り出しも難しいだろう。
未来の子供たちの教育やあるべき社会の建設と価値観が真っ向から対立する部分をやはり含んでいる。
それらを括弧に入れて(エポケー)楽しめる余裕があって初めて、暴力的価値観に単純に洗脳されてしまうことも回避できる。

そして所々に、確かに言葉というものの美しさや、社会における立ち居振舞いの重要性や、義理人情と呼ばれてきた心情の揺るがし難い価値に気づかされる所がある。
それらはむしろ今日の私たちも、是非とも吸収すべきものだと感じざるをえなかった。
さてはじめようか。
わたしはマントと長財物を用意した。
かえりにはうまい酒をあがなおう。

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