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西田幾多郎コミュの『善の研究』の研究

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「純粋経験を唯一の実在として全てを説明してみたい」
(『善の研究』序文より)


『善の研究』を読んで気づいたことや考えたことなどをみんなで分かち合いましょう。

コメント(20)

>「純粋経験を唯一の実在として全てを説明してみたい」

すなわちそれ以外のすべてのことは虚妄あるいは幻に等しい、ということでしょうか?


また序文にはこうも書かれている。

「個人あって経験あるにあらず。経験あって個人あるのである」

ここで言う経験とは〈純粋経験〉のことでしょうか?
さて、純粋経験とはいかなるものだと皆さんは考えますか?
西田先生は昭和10年の「版を新たにするにあたって」でこう書いている。

「この書(『善の研究』)において直接経験の世界とか純粋経験の世界とか言ったものは、今は歴史的実在の世界と考えるようになった。
行為的直観の世界、ポイエシス(製作)の世界こそ真に純粋経験の世界である」

これはどういうことか?
西田先生は同じ所で『善の研究』の元となった考えを簡単にこう記している。

「実在は〈現実そのままのもの〉でなければならない。
いわゆる物質の世界というごときものは、これから考えられたものに過ぎない」

皆さんは〈現実そのままのもの〉と〈物質の世界〉の違いをどのように考えますか?
>#1純粋経験

身体が獲得してきた来歴。それを言葉によって分節する前の非明示的知識の集合。


>#2
純粋経験の世界は、行為や制作として具現化されます。それは「いのち」の働きを見れば明らかです。
純粋経験の世界は、行為や制作の継続のために直観的に整合性をとっていく「理」のネットワークです。
今で言う「オートポイエーシス(自己創出)」が一番近いのではないでしょうか?
オートポイエーシスは観測者の立場が反故にされています。その意味で「純粋」です。
オートポイエーシスは行為自体が境界を決定し、常に行為や制作をし続けることによってのみ存続が可能です。
世界は、そういう時間の関数として存在するもの=「歴史的実在」なんだよ、とおっしゃっているのではないでしょうか。



>#3〈現実そのままのもの〉と〈物質の世界〉の違い

〈現実そのままのもの〉とは、分節化されてない行為のネットワークと考えます。
ネットワークだから多対多の関係です。

〈物質の世界〉とは、多対多の関係を、1対1の関係に切り取った部分集合だと考えます。
〈物質の世界〉は、「1つの入力から1つの出力が決まる」ように記述されますが、そういう理想的な世界が存在するのではありません。それは人間の願望にすぎません。
〈物質の世界〉は、人間が切り取ったあくまでローカルな範囲でしか成立しません。
だから、けっして〈物質の世界〉から〈現実そのままのもの〉を記述することは不可能です。

そうではなく、世界をネットワークつまり関係として見ていこうという主張なのではないでしょうか。関係こそが実在です。
YUJIさん、ありがとうございます。
m(_ _)m

>(純粋経験とは)身体が獲得してきた来歴。それを言葉によって分節する前の非明示的知識の集合。

身体が獲得してきた来歴で、言葉によって分節する前の非明示的知識の集合とはどういう意味でしょうか?
身体が五感や意識などを通じて獲得してきた(いつからいつまでの間に?)さまざまなものすべてを指していらっしゃるのでしょうか?
それらが言葉によって分節化される前のいまだ明示されないナマの知識のまとまりすべて、という意味でしょうか?
78910さんのお名前を見て、猛烈に書きたいと思ったのです。


非明示的知識とは、<技の記憶>です。自転車の乗り方、ピアオの弾き方、熟練工の技能といった、言葉によって逐一トレースすることが難しく、またその説明を聞いたからといってすぐには実行できない、<行為としての記憶>を指します。

<技の記憶>を、「私」を中心として見ると、生まれてきて今日まで獲得してきた「生き方」のすべてを言います。この「生き方」こそが個人です。

このとき西田幾多郎が言った
「個人あって経験あるにあらず。経験あって個人あるのである」
(ここで言う経験は、純粋経験と見ていいでしょう)
が成り立っています。
経験=<技の記憶>が個人を保証しています。

個人の「生き方」は言語でいくら言っても「別のもの」でしょ。されど、西洋科学では明示的な言語で語ることしか興味がありません。純粋経験のリアルさから見れば、それらは虚妄あるいは幻に等しいでしょう。

________

<技の記憶>を、「私より大きい集合」を中心として見ることもできます。
プリウスを見た外国の技術者が、こんな高い技術はとても真似ができないと言いました。
<技の記憶>を、「ものを創る会社」を中心として見ると、会社設立から今日まで獲得してきた膨大な<行為としての記憶>の蓄積となります。
会社が保有する<技の記憶>は、技術者たちが「その場に居合わせることで伝わってきた」知識の集合体です。それは設計図や言語のような明示的なものには還元されません。
技術や知識は、技術者の所有物ではなく、技術者が対象に働きかける行為の中だけにあるのです。

技術者たちが集まって伝承してきた技術の集合を、拡張された身体の来歴(=行為の記憶)と見ることもできます。

「個人あって経験あるにあらず。経験あって個人あるのである」

この「個人」をものを創る「会社」、ものを創る「国家」に当て嵌めても成立します。

「会社」や「国家」の価値は、特許の数や資産といった明示的なもので決まるのではなく、培われ伝承されてきたナマの技の知識の優劣で決まります。

ああ〜、YUJIさんのおっしゃることが段々わかって来ました。
(^-^ゞ

僕は行きあたりばったりで『善の研究』を読み始めたばかりで、一体〈純粋経験〉が何を意味するのか、それこそこれから読むことによってしか知りえない状態なんですけど、

実はYUJIさんがおっしゃっている説明は僕が勝手にここまでで漠然と想像していたものとは異なります!

僕は勝手に序文だけから、西田先生がおっしゃる純粋経験とは仏教で言う〈真如〉を言い換えたものかなあと思っていたのですが、

そうじゃないとYUJIさんはおっしゃっているようですね(^_^)
西田幾多郎は読む人の数だけ解釈がありえるのではないでしょうか?

純粋経験を「事実そのままに知る」や「あるがままであること」とすると、僕にはあまり価値がないように感じました。
#2の「〜、今は歴史的実在の世界と考えるようになった。
行為的直観の世界、ポイエシス(製作)の世界こそ真に純粋経験の世界である」

この定義なら価値を見いだせます。

行為や制作を、純粋経験の基底に置いてこそ西田哲学が広がっていくと感じます。
自己投出のための場所の理論が生まれます。各個人の繋がり・ネットワークも論じられます。
「場所」と「個」は、限定(サポート)しあう関係です。
行為や制作を通して変形し続ける「個」、これこそが「ありのまま」・「純粋経験」に相応しいと思います。

ってなんだろー?
思案しながらいきましょー
僕たちは西洋の哲学者の書いたものなら、それこそ19世紀の哲学者のものでも、18世紀のものでも、16世紀のものでも、はたまた紀元前のものでさえ、わかりやすい翻訳で本当によく親しむことができる。
ところが、かえって日本人の書いたものとなると、
西田先生(1870〜1945)でさえとってもとっつきづらい時間の壁を文章に感じてしまう。
何て皮肉なことなんだ!
まず直接知覚、直接経験にしっかりと向き合おうとする西田先生の姿勢は、仏教の正統的な姿勢(上座部仏教のそれ)に通じるものだ。
思考や判断が始まる前の純粋経験にまずしっかりと立とうとすることは、ブッダが観(ヴィパッサナー)によってそうすることを指示したことに通じる。
私たちの日常的意識が、あまりに私たち自身の思考に巻き込まれた所を当たり前に思い込み、いわば当たり前の牢獄の囚人になっている状態から、ブッダも西田先生も解放させようと試みるのだ。
思考を一旦すべて削ぎ落とした直接経験に、直接経験だけに、しっかりと浸ってみよと。
しかし、その先に西田先生の凄さがある。
上座部仏教のどんな教科書(現代の長老方の著書や古代のアビダルマやそれへの注釈書)よりも、純粋経験と思惟というものそれぞれへの深いツッコミという点で西田先生は抜群である。
上座部仏教のあらゆる教科書は結局、初期経典の文言の語る範囲を本当には出ていない。
>>[013]

そうなんですよね。
西田先生はそういう繊細なツッコミをちゃんとなさっている。
西田先生の書いたものが終戦後、単なる反動思想のように考えられて日本人に忘れられるなら、
それは本当にもったいないことだと思います。
>>[015]

>カントの物自体に相当するのは純粋経験ではなくて純物質ではないか、と思われます。

そうですね。確かにここで西田先生は純物質という表現で、カントが言う「物自体」と同じものを指しているように僕も思います。


>そして純物質は意識に登場しないがあるかもしれない(あるいはある)のか、意識現象が唯一の実在と言っているのだから「ない」のか、ここがはっきりとはわかりません。

おっしゃるように、その点については西田先生はどう考えていらっしゃるのか、よく読み込まなければなりませんね。
>「精神の主観的統一を離れた純客観的自然が抽象概念であるように、客観的自然を離れた純主観的精神も抽象的概念である」

このような言葉をどういう意味に受け取るかというのは、案外難しいものですね。
「われわれにとって自然・外界とは、われわれの心抜きにしては元よりとらえようのないものだ。また、われわれの心も外界を捨象して成り立つような、抜き出せるようなものではないんだ」
という意味でしょうか?


>「実在は凡て統一によって成立するが、精神においてこの統一が明瞭なる事実として現れるのである。実在は精神において完全なる実在となるのである」
 
確かなものとして何ものかが浮かび上がるということは、われわれの精神の統一を待って初めて可能なことである、という意味でしょうか?


>「精神は実在の統一作用であって大なる精神は自然と一致するのであるから.....自己が大きくなり客観的自然と一致するにしたがって幸福となる」

「精神が統一・充実に向かう時、より確かなものが明らかに見られるようになってゆく。したがって精神の完全なる統一、最終的な達成はあらゆる自然の明哲な認識に一致する。それは何の見落としも過失もない精神の実現であるがゆえに真の幸福の実現でもある」
という意味でしょうか? 

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