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仏教コミュの言葉と世界像と覚り

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僕たち人間はこの世界で暮らし、この世界に向き合う時、自分が関心を向ける諸々の対象を言葉によって他と区分してとらえ、自分の外部や内部をそうやって言葉で区分されたいくつものものから構成されていると考える。それが僕たちの世界像になる。
原始社会においては言葉による区分の仕方は今と違っており、それによって今とは違う世界像を彼ら彼女らは持っていた。
また、地球上が情報のグローバル化がなされていなかったそれぞれの時代には、それぞれの言語圏、それぞれの文化圏で異なる世界像が持たれていた。
また、魚や獣や昆虫や微生物などの仏教で言うところの畜生たちは人間のような言葉以前の対象のとらえ方によって、彼らなりの対象区分でそれぞれ独自の世界像を構成している。
さらに、仏教という一つの世界を見ても、初期経典がお釈迦さまの遺した言葉だとして描く世界と教団分裂後のそれぞれの部派が精緻化したアビダルマに描き出された世界像は微妙に異なるし、たくさんの大乗経典が生まれて来るとそれぞれの経典がつかみ出した世界像は大きく異なっていたりする。


こういう人間の言葉による諸々のものの区分の仕方に依存して出来上がっている世界像に人間が自ら寄りかかり、縛られ、苦しみを脱しきれずにいるさまを明らかに見て、

言葉によって区分される以前の絶対無区分の境地にまずは立とうとすることは、実は釈尊以来、仏教がずっと指し示して来た真如を知るための不可欠の前段だと思います。


(皆さんと共に学ぶために、あえて未熟な自分が叩き台として書かせていただきました。)

コメント(105)

仏の覚りって、複雑だったり高度に抽象的だったりするのかな。
伝えにくい、ってのは認めるにしても、
伝えにくい、イコール難しい複雑だ高度に抽象的だ、ってしてしまえば、ミスリードになる。

仏の伝えたかったことは、禅語でいえば、平常心是れ道みたいな、至極平明なことだったんだろうと思う。
平明なものほど伝えにくいことがある。

仏のあとに生まれた人たちが、仏の教えは難解だ、と言い出したんだろうと思う。
平明がわからない、出来ないから、これは難解にちがいない、ってなったんだな。
真ん中(真理)を突き進める道は無く。どちらかに片寄り、人々に伝える事でしか進めない。

感性的な事だから、言葉で伝えようとしても一言で伝えられる言葉は今も無く。言葉を増やす事で、解釈は相手の基準により変わるから、誤解を招く。

簡単な事だが、難解な事。


伝われば、難解な言葉もいらなくなる(笑)

本当は、ぐだぐだ論じているより行動(笑)

行動に勝るものなし。

しかし、理論的に通す事は、真理への精度と一体となる志を高めるには必要なこと。


成せる者は、背中で見せて感じさせて、論じて聞かせて知らせる。

それは、正に仏陀。

現実的に仏陀は、必要。

しかし、仏陀は、必然的にも偶然。によって誕生する(笑)

>>[068]

一つ一つのあらゆるものがさまざまなものに依存し、さまざまなものを縁として(原因や条件として)成り立っているんだと、深く広く見渡すことは、ブッダが教えて下さった大切な縁起の理(ことわり)であり空観ですね。
もちろん私たちが外に見るものについてばかりでなく、内に見る自分の一つ一つの思い、考え、決断なども例外を免れずやはりいずれもさまざまなものを縁(原因や条件)として初めて成り立っていることを見る。

では外なるものも内なるものもみな、このようにさまざまなものに依存し、さまざまなものを縁として成り立っている様子がありありと観察されるのだとしたら、所詮私たちには何も自ら方向性を選び、自ら苦労精進して、何かを夢見て歩んでゆくなんてゆうことは単なる空想でしかないのだろうか?


この問題について真〔まこと〕さんは一つの丁寧なお答えを書いて下さっていると思います。
>>[68]

解りやすいですね。

見習いたいと思います(^o^)
分り易いか?
そうかなー

「随縁」はよいとして、縁によって自由に変わるという自由性があると言ってるが、
正確には縁によって変化するという可塑性があると言うべきじゃなかろうか。

可塑性だから、精進により善の方向へ変わりうる。

しかし自由性と可塑性では、かなりニュアンスは変わってくると思う。

自由には変われない。狭い一定範囲を長時間を掛けて変わるんだろうな。
ナーガールジュナ論師著『中論』第18章 アートマン(我)の考察

1 もしも我が五蘊なら、我は生滅を有することになる。(これはおかしい。)
もしも我が五蘊と異なるものならば、我は五蘊の相を持たないことになる。(これもおかしい。)

2 我がないならば、どうして我の所有物があろうか。
我と我の所有物がともに鎮まったなら、これは私の物であるという観念は脱落し、これは私だという観念も脱落する。

3 これは私の物であるという観念が脱落し、これは私だという観念も脱落した者はもはや存在しない。
これは私の物であるという観念が脱落し、これは私だという観念も脱落した者をつかまえる者は、実は何もつかまえはしない。

4 内に向かっても、外に向かっても、これは私の物であるとか、これは私だという観念が滅した時、執着も滅して、それにより生も滅する。

5 業と煩悩が滅するから解脱がある。
業と煩悩は分別から生じる。分別は戯論から生じる。
しかし戯論は空において滅する。
6 諸仏は、時にはアートマン(我)は有ると仮に説かれ、アートマンは無い(無我)とも説かれ、また時にはアートマンは有るのでもなく無いのでもないと説かれた。

7 心がすべて滅したなら、言葉によってとらえられるものも滅する。
真理は不生不滅であり、実に涅槃のごとし。

8 一切はそのままに真実である。
一切はそのままに真実でない。
一切はそのままに真実であるのでもないし、そのままに真実でないのでもない。
これらが諸仏の教えである。

9 他のものを原因とすることなく、寂静で、戯論によって戯論されることなく、分別を離れ、異なるものでもない。
それが真理の特性である。 
第18章もとても味わい深い章ですね。

第1偈 もしもアートマン(我。実体としての私)が五蘊に認められるというなら、アートマンは生と滅とを有するということになってしまい、これは矛盾だ。
では、反対にアートマンは五蘊とは異なると言うとしたら、私には五蘊の相がないということになってしまい、これもおかしい。
>>[79]

この第18章の第6偈は、仏教は無我の教えだというふうに普通受け取っている身には一種、驚きさえ覚えさせるものですね。

第6偈 諸々の仏陀は、時にはアートマンは有ると仮に説かれ、アートマンは無い(無我)とも説かれ、また時には、アートマンは有るのでもなく無いのでもないとも説かれた。

確かに仏教さえ如来蔵のような、ほとんどアートマン(不変の実体)を思わせるものを説くに至ったことさえあった。
大地さん、そして皆さん、このような解釈でいいのでしょうか。
如来蔵は、とりあえず関係ないっしょ。

実体が無いから、無いんではないでしょ。
実体がないまま、実際にあるのが現実です。縁起にして空です。

実際にあるんだから有りで、実体は無いんだから無しで、実体がないままに有るんだから、有とも無しとも言えない。

アートマンの言葉を使って言えば、
不変のアートマン・私というものは存在しない。ある断面を切り取れば、私というものは存在するんだけど、その断面をもって私ということは出来ないです。
>>[80]

チャンドラキールティの注釈では、中論18-6は、以下の3つのパターンについて語ったものであるとされています。

●不善を為すものに対しては、それをやめさせるために我があると説いた。
「そんなことをしていたら、あなたのアートマンは来世で悪いところに生まれ変わってしまいますよ!」

●善を為しているが、実体視に縛られているものには、無我を説いた。
「あなたにはとても良い心がけがあります。いよいよ真理(無我)について学びましょう」

●すでに涅槃に近付いたものに、無我もまた実体ではないことを説いた。
「このような真理(無我)がありますが、それすら実体ではないのですから、執着してはいけません」

中論18-6の「仏陀はあるときには、アートマンがあると説いた」というのは、このチャンドラキールティの注釈のように、真理に暗く不善を為す者に対しては、そのようにして説くこともあったという意味と理解するのが定説のように思います。
また、如来蔵は、決してアートマンの実有を説いたものではないと私は思いますし、そのような理解は、如来蔵が説かれた文脈を正しく理解していないように思います。
>>[81]

如来蔵をもちろんアートマンとは関係ないという受けとめもありますが、如来蔵はウパニシャッドのアートマンそのものだという見解もあるので言及した次第です。
その下でジセンさんがおっしゃっている有ると無いと有るでもなく無いでもないの話はとても面白い所ですが、ジセンさんの言うアートマンと仮設された私の二段構えの話は第18偈にはなく、第18偈ではアートマンの話だけで仮設された私についての言及がない所も、
果たして古代インドでアートマンと言う時、そこには仮設された私さえ含ませるようなニュアンスがあったのか、なかったのか、考えさせられます。
>>[82]、チャンドラキールティ論師の註釈について詳細をご紹介いただきまして、どうもありがとうございます。

   
>中論18-6の「仏陀はあるときには、アートマンがあると説いた」というのは、このチャンドラキールティの注釈のように、真理に暗く不善を為す者に対しては、そのようにして説くこともあったという意味と理解するのが定説のように思います。


アートマンは有ると考えるバラモン教が広く行き渡っていたブッダの時代には、相手によっては「いやいや、アートマンは無いんだ」と論争するよりも、相手のその考えを尊重した上で善い行いに導くという指導をされたこともあったのでしょうか。


>また、如来蔵は決してアートマンの実有を説いたものではないと私は思いますし、そのような理解は如来蔵が説かれた文脈を正しく理解していないように思います。


如来蔵についての僕の言及は、特に松本史朗先生の考えを視野に入れたものですが、果たして仏教がアートマン肯定に逆戻りしてしまったのか否か、その議論はなかなか難しいものですね。
>>[83]
アートマン≒私のつもりで書いたので、二段構えのつもりは無いです。
私でなく我としといたほうが
78910さんのお書きになった「アートマンは無い(無我)」と相応するので良かったですね。
如来蔵について。

如来蔵について語るには、如来の種なんだから、如来について分かってなければ具合がわるい。
もしかして、如来蔵を学べば如来が分かるんでないかな?と思ってる人は居ないかな?

もし如来や同義の涅槃について知ったなら、如来蔵について、有る無しの議論にはならないと思う。

如来や涅槃について、スターの言葉を借りて、如来蔵について考えてみると、

涅槃とはすっかり安心すること。如来とは安心し終わった人。と言うことができる。

我々は不安に追い立てられて、一時も安住することができないけれど、誰だって安心する場所や、安心した記憶があると思う。
安心し終わった人から見れば、誰でも安心することが出来ると思うだろう。
安心の種があるかと問われれば、そんなものはない。

如来蔵があるかと聞かれれば、そんなものは無いけれど、
誰でも安心することは出来ると、諸仏は説いたんだと思う。
>>[84]

>アートマンは有ると考えるバラモン教が広く行き渡っていたブッダの時代には、
>相手によっては「いやいや、アートマンは無いんだ」と論争するよりも、
>相手のその考えを尊重した上で善い行いに導くという指導をされたこともあったのでしょうか。

そのように理解するのが定説のようです。
↓この論文は、まさに中論18-6について書かれており、チャンドラキールティの注釈の引用や、宝行王正論などの引用もあり、分かりやすいと思います。

http://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/72/1/culture4_137-149.pdf#search='%E4%B8%AD%E8%AB%96+18%E7%AB%A0'

>如来蔵についての僕の言及は、特に松本史朗先生の考えを視野に入れたものですが、
>果たして仏教がアートマン肯定に逆戻りしてしまったのか否か、その議論はなかなか難しいものですね。

「仏教」というものをどのように解釈し、「アートマン」というものをどのように解釈するかは、人によってかなり幅がありますね。
私は以前、如来蔵についてだいぶ議論したことがあります。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6136990&page=4&id=75861550

こちらの197〜に書いてあるので、もしヒマで好奇心があるようなら読んでみてください。
ちょっとは参考になるかもしれません。
皆さん、いつもありがとうございます。

>>[88] スターさん、ご紹介くださった吉村均さんの論述はまさに私たちがこうして『中論』の一つ一つの偈頌に向き合っていることの関心に応えてくれる一つの研究実例であり、とても興味深いものですね。
どうもありがとうございます。
こういうものをゆっくり、じっくり読んでみたいという気持ちが僕にもあります。とてもよい参考になると思います。
第18章の第6偈について、サンスクリット語原文がわからなかったので、実は僕は中村元先生の和訳から逸脱して、アートマンが有る、無い、有るでもなく無いでもないというふうに四句分別の方向で受け取ってみたのですが、
スターさんからご案内いただいた吉村均先生を始め、いくつかの和訳や注解を参照させていただいたところ、この偈頌についてはそういう四句分別の方向で訳していたり、註釈しているものは見つからず、どうやら特に諸仏の3番目の説き方は中村元先生他の著していらっしゃる通り、
「アートマンなるものは無く、無我なるものも無い」
というふうに、アートマンの否定と合わせて、無我なるものを実体視することを否定したもの
と受け取るのが原文にそっているのかなあと思います。
諸仏が「アートマンが有る」というふうに説くのはあくまでも仮に説くだけだと言われ、「アートマンは無い(無我だ)」と説くことについては仮に説くとは言っていないところを見ると、諸仏の本意はアートマンは無い(無我)ということだろう。
その上で、アートマンが無いからといって、今度はその無我・空を実体視してしまうことを戒めて、無我・空なるものも無いんだよと言っているのが第6偈の主旨のようですね。
そうすると、第7偈はアートマンという人の実体視のみならず、無我ということ・空性ということを今度は実体視してしまいがちな人間のすべての指向性がいっさい滅して、何も言葉でもって対応するものが無くなった所こそ、
すべてが不生であり不滅である涅槃だとおっしゃっているわけで、ことのほか深く受けとめられるわけですね。
第18章の第8偈はまた考えさせられる偈頌ですが、どのような意味でしょうか。

諸仏は、時には「いっさいはあるがままで真実である」と説いたり、時には「いっさいはあるがままは真実ではない」と説いたり、時には「いっさいはあるがままで真実であるわけでもなく、真実でないのでもない」と説いた、
という意味でしょうか。
>>[94]

究極の真実とか、究極的に到達する所というのは、言葉でもってどのように捕捉しようとしても(すなわち四句分別のどれかによって捕捉できるのじゃないかと思ったところで)、結局すべて嘘になってしまうばかりで、そのように言語・戯論を絶している、
ということですね。
>>[97]

世俗諦として相手の機根に寄り添って智慧と慈悲から説かれたものならば、真理であるけれども、
究極の真理(勝義諦)かと言えばそうではない。
したがって究極的には真理ではないけれども、世俗における人々を救う説法としては真理(世俗諦)であって偽ではない、
ということでしょうか。
何のロジックもなしに出鱈目に言葉を使うということはそもそもないでしょうし、
ただ雰囲気だけで受けとめるのも過失を内包しているおそれがあると思います。
もちろん、骸骨のようなロジックのやり取りから漏れてしまうものを繊細に拾い取ることはどんな場合でも大切ですね。
精緻なロジックだと、厳密な意味にはなるんだけど、どうも伝わらないというか、ずれて感じたりしますね。
むしろ詩のように、余韻を持たせた方が伝わったりする場合がある様に思います。

今日は、久しぶりにお酒を頂いたのですが、しゃべっている自分が別人の様に感じました。
病気でせうか?w
もう、戻ったけど。
龍樹のやったことは、精緻なロジックはロジックによって破される、ということではいかな。
中論を論理学の教科書と思って勉強する人は古来多かったんだろうけど、
むしろ、論理学を否定する本じゃないか、なんて印象を持ったよ。

ロジックで得られた結論が、どうして役に立たないか、という疑問に答えることは出来ないけれど、
真理にたどり着けないのは、勉強が足らないとか考えが精緻で無いから、ということではなさそう。
本質的にロジックでは真理にたどり着けないことを、龍樹が明らかにしたと思うんだが、どうだろう。

だから、大乗経典は、詩であったり物語であったりするのかも。
ブッダが遺された言葉を編集した原始仏典に基づいて、正確に論理を駆使してそれらの言葉を分析していったら、どんなことが明らかになるかといった仕事がまさに部派仏教時代のアビダルマだとしたら、
そういういかにも論理的に精緻な、寄せ木細工のような構築物は論理みずからのせいで簡単に壊すこともできるんだよということを龍樹の『中論』は示して見せたとも言えますね。
>>[104]

おはようございます。

仏教をはじめ世界中の種々の宗教を信じている人はそれはそれで否定しませんが、他の宗教や宗派を否定したがります。

私の俺の信じている宗教や宗派が一番いいのであると。

聖職者のプロ達をはじめ信者達は自分自身が信仰している宗教や宗派が一番いいと思っているので、その概念から脱出出来ず、固定観念で縛られているのです。

その人達に何を言っても聴いてくれません。

反対な事を言えば、気持ちを害することは明白で、反論の繰り返しで、誹謗中傷合戦で埒があきませんよね。

俺たちの宗教が一番いいと自分自身で検証した発言やコメントを聴いたことがありません。

理系人の思考法としては、比較表を作成し、夫々の特性要をマトリック図に表し、数値付けをして、点数の一番得られたものが一番いいと判断します。

また、コストパーフォマンス(性能対価格)のような思考法で、費用対効果を算出し、これが一番経済的に有利であり、一番いいと判定するわけです。

日蓮宗のように「法華経」が一番いいとか、〇〇宗の「〇〇経」が一番いいと、理系人の思考法でジャッジされた意見・見解は見たことがありませんよね。

私が半世紀余り、理系人としての思考法で、現場観察・現場検証し、分析・解析・精査して得た結果は、「〇〇経」が一番いいとジャッジできませんでしたね。

判定基準はないからです。

仏教の経典、仏陀の言葉、それらを寄せ集めたスッタニパータ、法華経をはじめ様々な経典は、優劣なく、軽重なく、同じですよ。

どの経典を診ても、どこをセクションを診ても、「金太郎飴」構造・構成になっていますね。

即ち、どこをカットしても、「慈悲」が表現されているのですよ。

「真理は同一である」と聖者達は言いておりますので、仏教をはじめ世界中の様々な宗教の真理は同一であることに気づくことが重要なのです。

第36項目に記述されたアローカ様の「気づき」ですよ。

気づき、発見、悟り、みな同じような意味合いの同義語表現ですよ。

俺の宗教が一番いいのだ!!と言っている叫んでいる間は、世界の平安・平和は達成できないことp明確ですね。

自然界の生物・動物は、人間が創作した宗教の聖典・経典での思考法は持ち合わせていません。

聖典・経典はどれも創作物としての最高峰ですよ。

著作権法第1条の柱書の後半に「文化の発展に寄与することが目的と掲載されています。

産業財産権での特許法第1条の柱書の後半に「産業の発達に寄与する」ことが目的と記述されておりますよ。

宗教での聖典・経典が、今までに「文化の発展に寄与した」でしょうかね。

宗教戦争をはじめ、宗教者達の激論・暴言で、世界中の悲劇・不幸が繰り返されていますよね。

なぜ、悲劇・不幸が止まないのか、考察されたことがあるでしょうか。

ここに原点・源泉があるのですよ。

世界は色々な人種がいて、色々な考え方がありますが、「真理は同一である」ことに気づかれた人が何人いるのでしょうかね。

色々な世界観はありますが、「真理は同一である」ことの世界観が、人類一人ひとりに宿されるならば、世界の平安・平和は達成できるのですよ。

世界中の様々な宗教や宗派の特性要因で、共通点・共通項を探し出せば、自ずから、「真理は同一である」ことを見い出せるのですよ。

毎日毎日が新しい発見(気づき)であり、発見出来たことへの喜びと感謝の日々であり、これこそ歓喜に満ちた人生となっているのですよ。

「歓喜の人生」、共に謳歌していきたいものですね!!



感謝



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