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仏教コミュの『ヴィマラキールティがお説きになった経(維摩経)』

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このコミュではまだ『維摩経』が取り上げられていないようですので、ここでは『維摩経』について皆さんと思う存分学びたいと思います。

わが国で最も古い書物は聖徳太子が著された『三経義疏』ですが、これは『勝鬘経』、『法華経』とともに『維摩経』についても聖徳太子が解説・注解なさったものです。


「私は昔、林の中に入り樹の下で坐禅を実践しておりました。
そこへヴィマラキールティがいらっしゃり、私にこうおっしゃいました。
『シャーリプトラよ、必ずしもそのように坐って行うのが坐禅ではない。
坐禅とは三界にあって心も体も現成させないこと、これを坐禅と言うのだ。
滅定から決して立ち上がることなく、それでいてさまざまな行いを確かになすこと、これをこそ坐禅と言うのだ。
仏の教えから決して離れることなく、凡夫のもろもろの活動を確かに行うこと、これを坐禅と言うのだ。
心が内に安住することもなく、外にかまけることもない、これを坐禅と言うのだ。
さまざまな意見に振り回されることなく三十七の覚りへの道の階程を修行すること、これをこそ坐禅と言うのだ。
煩悩を断ずるに至らなくとも涅槃にしっかりと入ること、これを坐禅と言うのだ。
もしこのようにしっかりと坐禅を実践する者がいたならば、その者は仏の印可するところである』
と。」

コメント(49)

78910さん

生きながら死人となりてなり果てて 思いのままにするわざぞよき

江戸時代の至道無難禅師ですが、三界にあって心も体も現成させないこと、それでいてさまざまな行いを確かになすことの両方を実現している歌かと思います。

維摩経の世界が、仏道なのか童話なのか、判然としない気もしますが、
過去の日本人がその境地まで至ったことを考えると、仏道を直指していると考えていいと思います。
ジセンさん

>生きながら
死人となりて
なり果てて
思いのままに
するわざぞよき


ここで死人というのは、もちろん滅定にある者の心に己れの心も体もまったく分別されるところが無くなっているさまを表現したものですね。
でも、生きているから世俗世間の中で、やっぱりいろいろな俗事に手を染めざるをえない。
すなわち、無分別智に行ったきりになってしまうのではなく、思いのままにちゃあんと世間における行いをなしうる後得智も豊かに開かれなければならない。
78910さん

私には、どうかは分かりませんが、
二段階構成ではないはずです。行ったきりでおしまい。行ったきりのところで普遍が行われる(生活が営まれる)で良いかと思われます。
ジセンさん

>二段階構成ではないはずです。行ったきりでおしまい。行ったきりのところで普遍が行われる(生活が営まれる)で良いかと思われます。


もちろん、分別性にとらわれてある状態から円成実性へとしっかりと行くことは間違いなく必要ですが、そこにはまだ陥り易い菩薩の十の錯乱があるとアサンガ師は注意なさっています。
その一つが、分別は実体ではないからといって「すべてが一つだ」と一つにとらわれ、分別ができなくなってしまう錯乱です。
これにかからないために、円成実性の無分別智に至った後の後得智があえて指南されているのではないでしょうか?
世俗的生活を捨てきって、人の気配のない森林や山間で静かに坐禅・瞑想に励むことこそ理想的あり方だとしていた出家独占あるいは出家至上主義へと収縮してゆく傾向にあった仏教のありようを、
ヴィマラキールティ(維摩)は「静かな場所にとらわれるな!」と鋭く批判した。
森林や山間に入らずとも、さらには世俗的生活を捨てなくとも、この汚れた世界の中で安らぎと一枚に成りきらなくてはならない!
維摩経ではただ坐って行う瞑想だけでなく、日常生活すべてを瞑想にすることを説いているのでしょう。
禅の十牛図の十番目の境地でしょう。
つまり常に気づきをもって生きるということでしょう。

常に気づきを持って生きるためのテクニカルな事を書きます。

坐って「いわゆる瞑想」をしていたとします。
(瞑想にもいろいろあるでしょうが、ここでは気づきを瞑想と呼びます)
瞑想の時間が終了して、立ち上がるとき、ここが一番重要です。
立ち上がる動作、手や足や腰や背中や首や呼吸など、全身すべてに意識を向け、
ゆっくりと気づきを持って立ち上がります。
その気づきを絶やさないようにして少しづつ動作速度を上げて、日常の行動の速度に戻します。

初めのころは日常の行動に戻るとやがて気づきを忘れてしまうかもしれませんが、それで構いません。
「いわゆる瞑想」と日常生活での気づきに段差ができないようにすれば良いのです。
続けていると日常生活でも気づきを絶やさないようにすることができるようになってきます。

また歩く瞑想も効果的です。
歩く瞑想は通常ゆっくり歩きますが、やはり「いわゆる歩く瞑想」の時間が終了したときに、
「あ、終わった」と意識に段差をつけずに、気づきを絶やさないように、
徐々に歩く速度を速め通常の速度に戻します。
慣れてくると、普段通常の速度で歩いているときも、
ゆっくり歩く瞑想と変わらない意識状態で歩けるようになります。
『維摩経』の冒頭で釈尊(この経典では釈尊はすでに超越的存在として物凄いものに描写されている。この超越的存在として手の届かないような釈尊を中心とするまったく壮大な世界がこの経典の世界だ)は、ヴァイシャーリー市の長者の子、宝積らに仏のまします世界(仏国土)というものがいかなるものか、教えを授ける。
次のように受け取らせていただきました。
m(__)m


仏は一人一人の衆生に合わせた世界をまことに見事に一人一人に与えているのだ。
「こんな境遇は嫌だ」とか「こんな人生は嫌だ」とか私たちは思いがちだけれども、虚空には家を建てることもできない。
すなわち、まず何らかの土地がなければ家を建てられないのだ。
そこで仏は一人一人にその境遇、その人生、その世界を与える。
それを元に自らの家を建てよ!
そこで自分を完成させよ!」
だから、僕は僕が見ている僕の人生というものにおいてこそ、僕という人間を完成(成仏)させなければならない。
まさに僕の人生こそが、僕にとって僕を成仏させるべき二つとない場所なのだ!
   維摩経

「このように私は聞いています。
ある時、ブッダはヴァイシャーリー市のマンゴー樹園に行かれて、修行僧8千人、菩薩3万2千人とともにいらっしゃいました。
どの方々も人々に認められ、大いなる智慧と、それを得るための行いとを完成なされていて、諸仏の不思議な力に守られていらっしゃいました。
法の城を護るために正しい教えを受け保ちながら世にとどろかせ、ひとりひとりのお名前は十方に知られていました。
人々から請われなくても、自ら進んで人々の友となって、皆を安らかにしていらっしゃいました。
三宝を受け継いで盛んにし、決して絶えないようにして、悪魔とか敵対する者たちとかを平らげ、さまざまな異なる教えを静めていらっしゃいました。」
>人々から請われなくても、自ら進んで人々の友となって、皆を安らかにしていらっしゃいました。


私たちは自らブッダを始めとする善友を求めて、大いにその清らかな教えから学ぶことの大切であるのはもちろん、
自分もその真実の成果を人々の善き友となって分かち持つ尊い純真なる責務を持つものですね。
維摩詰所説経(鳩摩羅什訳)弟子品第三より

>われは昔、かつて林中において樹下に宴坐(心を鎮めて坐禅すること)せり。時に維摩詰は来りて、われにいいていわく、
ただ舎利弗よ、必ずしもこの坐を宴坐となさざれ。それ宴坐は三界において身意を現ぜず。これを宴坐となす。
滅定よりたたずして諸々の威儀を現ず。これを宴坐となす。
道法を捨てずして凡夫の事を現ず。これを宴坐となす。
(中略)
煩悩を断ぜずして涅槃に入る。これを宴坐となす。
もしよくかくの如く坐す者は仏の印可する所なりと。
>滅定から決して立ち上がることなく、それでいてさまざまな行いを確かになすこと、これをこそ坐禅と言うのだ

こういうタイプの文をしばしば、見るのですが、なんだか生きる屍のようで、どうなんだろうと思ったりします。
さらに勘違いとして、一切の感情を離れた状態というのが、逆に何をしようが何を言おうが、感情から言っているのではなく、冷静な観察によるものなのだから正しいのだ的な発言を生むことがあります。オウムのポアなんかもそんな気がするんですよね。
日常においては、喜怒哀楽という感情を受け止めつつ、それに振り回されないという方が、私にとっては、間違いの無いことのように、最近は感じたりします。
>>[22]

それは、滅定というのは死人同然になることではないかというご理解でしょうか。
>>[23] 死人同然というより、世俗の感覚を断ち切った状態というか、無常の世界を離れた状態というか、うまく言えませんが、世間的な善悪などの倫理を超えた境地のように思えます。
要するに世間で生きるからには、世間の感覚を無視しないと言うのも、中道っていうことな気がします。
>>[24]

諸々の威儀を現ずというのは、まさに世間のさまざまなことをやれることを意味していないでしょうか。
生きる屍どころか、ちゃんと生き生きと生きている姿を言っているのだと思います。
>>[24]
そうですね。
維摩さんは、
感覚を遮断して安心するのを涅槃とせずに
世間の中で、世間の波風を受けつつ、振り回されないのが涅槃だよ、と言ってるみたい。
うーんなるほど、その後の文を読むと確かにそんな感じですね。(;^_^A
話を蒸し返す訳ではないが、このトピとは無関係に、以前からある素朴な疑問として、阿羅漢のように大悟して煩悩を滅尽した人が、普通の人のように生きていけるものなのだろうか?
つまりそこに普通の人の感覚や感情はもはや存在しないのではないか?
という疑問があったが、仏教のゼロポイントによれば、六根六境の滅尽によってもたらされるのは、認知そのものの消失ではなく、分別の相、別の言葉で言えば戯論がなくなるということらしい。わかったような、わからんような。
途中、操作ミスで投稿されたので、2投稿になってしまいました。
>>[28]

経典に伝えられる釈尊は、とてもやさしい、人間的な人のようですよ。
アヌルッダの針に糸を通してニッコリ笑って喜んだり、
修行所の外で泣いているチューラパンダカの頭をやさしくなでて、
「お経が覚えられなくても泣くことはないんだよ。
本当の愚か者は自分の愚かさを知らない人なんだよ。
君には素晴らしい向上心があるじゃないか。
それは君の宝物なんだよ」
と言ったり、どう見ても、普通の人の多くが理解できる感覚や感情を持っていたように思います。

大地さんの悟りのイメージは知りませんが、
経典で伝えられている仏陀は、普通の人の感覚や感情を持っていたように見えます。
>>[30] ええ勿論、仏陀が優しい人だったということは、私の僅かな読書量でも、わかるわけですが、六根六境への執着から完全に解放された時に、普通の人の感覚って存在するのだろうか?という、まあ理屈としての疑問があったわけですが、魚川さんの仏教思想のゼロポイントによれば、感覚がなくなる訳ではなく、戯論がなくなることだそうで、とりあえず、納得した次第です。
>>[31]

煩悩をまったく無くすなんて言うと、好きだ嫌いだとか、暑い寒いとか、嫌だ嬉しいとかの普通の人の感覚がまったく共感し合えなくなってしまうんじゃないかという疑問は、大地さんに限らず仏教に触れた人たちからしばしば提出されるものですが、
そういう感覚機能をまったく燃やし尽くしてしまうわけではありませんね。言葉では滅尽とかと表現されると、そこについつい誤解の余地が生じるのですが、
かつて持っていた健全な感覚機能が不能化したり死滅したりするわけではないことを理解しなくてはなりませんね。
それらはちゃんと保持されている。使うことができる。また、かつて存分に味わった感覚を思い出すこともできる。

ただ、そういう感覚に執着して、そういう感覚に振り回されることがなくなる、常にそういう感覚より大事な真実が胸に温かく輝いているようになる、ということだと思います。
>>[32] きれいにまとめると、そういうことなんでしょうね。
>>[34]

僕たちは凡夫のままでありたくないって思うし、
かといって、まったくの仏として世間を超出してしまっていいのかとも思う。
世間の人々とともに暮らしながら菩薩としてのあるべき道を歩みたいって思いますね。
ある時、ブッダはヴァイシャーリー市のマンゴー樹園で修行僧8千人、菩薩3万2千人とともにいらっしゃった。彼ら彼女らはどんなふうであったかという描写が始まる。

人々から請われなくとも、自ら行って友となり、皆を安らかにしてやるのだという。
なかなか出来ることじゃない。見倣わなくちゃ。

三宝を受け継ぎ、盛んにして、絶えないようにしていたという。
大事なことだなあ。見倣わなくちゃ。

情け深さ、慎み、耐え忍び、精進、落ち着き、智慧、巧みな方便はどれも具わっていないものがないという。
素晴らしい。
維摩教を読まずに、随分恥知らずなコメントをしてたなと思う。
大乗仏典は物語性が強いのかな?
とりあえず、中村元さんが鳩摩羅什の漢訳から和訳した、初心者向けのを買ってみた。
一番安かったから。w
サンスクリットから和訳したのは、随分高いですね。^_^;
>「さらにこの人たちは無所得にして、

何ものも生起しないという認識に達していて、

不退転の教えを説かれる。

人々の機根をよく知って、誰に対してであろうと戸惑うことなく、

大いなる功徳と智慧でみずからの心を修しており、

やわらかな相好に満ちあふれ、その好ましさは第一で、

世間の人々が執着するような装飾いっさいを捨てている。」


一文一文、味わわずにいられませんね。
>さらにこの人たちは、縁起の理に深く通じており、
諸々のあやまった見解を打ち破っていて、
有と無の二つの極端説も完全に破っていて、その残滓を残さない。


こういう記述は本当にすごいですね。
第11章でブッダはアーナンダに教える。

「この世には四つの魔と八万四千の煩悩の門があって、生きる者たちを悩まし苦しめているが、諸々のブッダは実はこれらを通してブッダの働きを成し遂げるのである。
これを〈あらゆるブッダの法門に入る〉と名付けるのだ。」


私たちが人生において苦しむ不運、逆境、自らの煩悩なども、実はブッダの教えに入る法門に他ならない!
でも全然良くならないじゃ無いですかw

>>[43]

「自らに襲いかかる不運や逆境、煩悩なども、きっとブッダが私を教え導くための法門なんだ」と、しっかりと自分において受けとめることが大事なのだろうと思います。
自動的に良くしてくれるということではなく、一人一人の側の心の受けとめ方と、そのように受けとめた後の身の持ち方こそが良くしてくれるのだろうと思います。
第12章においては、ブッダが維摩に問うている。
ブッダ・如来を観るとはいかなることか、と。

今日、私たちはブッダがどうだとか如来がどうだとか口にしているが果たして、どんなふうにブッダを考えているのだろうか。どんな如来を見据えているというのだろうか。

こんなふうにブッダを観るのは正観であり、そうでない見方は邪観であるということを維摩は答える。
ここの所も大いに学ばされますね。
第1章の始めには、ヴァイシャーリー市のマンゴー樹園でブッダを囲んで坐る菩薩たちについての記述がある。

>情け深さ、慎み、耐え忍び、努め励み、落ち着き、智慧、および巧みな方便力は、どれも具わっていないものがない。

挙げられている一つ一つの徳を噛みしめながら、わが身をかえりみずにいられませんね。
第1章の終わりでシャカムニ・ブッダがその仏国土すなわち娑婆世界がいかに浄らかであるかということを、大地を足でさすってあらわに皆の者に見せてやると、宝積たち五百人の長者の子息は、〈いかなるものも生じないのだという悟り〉を得た。
さらに八万四千人の会衆みんなが、無上の悟りを得たいという心(菩提心)をおこした。


さまざまに嫌なことが起きているように見えるこの娑婆世界も、実はブッダに揺すられずとも、しっかりと智慧の眼で見ることができたならば、浄らかさを遮(さえぎ)るものなど何も確かには生じていない。
第2章の冒頭では維摩の人となりが簡単に紹介されている。

「すでにかつて、無量の仏たちを供養して、深く善根を植えており、
〈何ものも生じはしない〉と認識する悟りを得ており、
その弁才は無礙であった。
神通に遊戯し、
さまざまな真言を保持し、
恐れのない境地を実現しており、
悪魔や敵対する者どもを降伏させ、
深い法門に入り、
智慧の完成を豊かに実現し、
巧みな方法に通じている。
・・・(まだまだ描写される)」
(つづき)
「大願がすでに成就しており、
衆生おのおのの心のうちの願いをまざまざと見抜き、
彼ら彼女らの機根の善し悪しも手に取るように見透す。
仏道にあって久しく心がもっぱら落ち着いており、
決定的に大乗のうちにあって、
いかなる行動をなすに際しても、よく思量している。
悟った者のありよう・ふるまいに住し、
その心の大いなるありようはまるで海のようだ。
諸々の仏も彼を褒め讃え、
諸々の弟子たちや帝釈天や梵天、四方を守護する神々などが彼を敬ってやまない。
・・・・・」

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