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聖者の生涯&言葉&聖者についてコミュの聖者の生涯「スワミ・プレーマーナンダ」

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コメント(8)

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スワミ・プレーマーナンダの生涯


 スワミ・プレーマーナンダは本名をバブラームといい、1861年12月10日、ベンガル州の美しい村に生まれました。

 一家の一人娘のクリシュナバヴィニが、ラーマクリシュナの熱心な信者だったバララーム・ボースに嫁いだことから、バブラームの母親などもラーマクリシュナを訪ね、祝福を受けました。

 バブラームは、生まれつき精神主義的な傾向を持っていました。たとえばほんの二、三歳のとき、誰かが結婚のことでバーブラームをからかうと、バーブラームは回らぬ舌で、「ああ、結婚させないでね。ね、お願い。僕、死んじゃうから」と抗議したのでした。

 村の学校を卒業すると、バブラームは高等教育を受けるためにカルカッタに出てきて、最終的にメトロポリタン・インスティテュートのシャムプクル分校に入学しました。そのとき、偶然にもこの学校は、後に「ラーマクリシュナの福音」の著者として有名になるMことマヘンドラナート・グプタが校長を務めていました。さらには、後のブラフマーナンダことラカールもこの学校の生徒であり、バブラームと同じクラスで学ぶことになったのでした。

 バブラームが初めてラーマクリシュナと会ったのは、聖典の読誦会の場でしたが、そのときはバーブラームは、聖典の読誦を聞きに来ていたラーマクリシュナの存在に気づきませんでした。

 その後、ラーマクリシュナの噂を兄などから聞くようになり、バブラームはラーマクリシュナにとても会ってみたくなりました。親友のラカールが頻繁にラーマクリシュナのもとを訪ねていることを知り、バブラームはある土曜日、ラカールと、ラームダヤル・チャクラヴァルティという知り合いと一緒に、ドッキネッショルのラーマクリシュナを訪ねることになりました。

 バブラームがラーマクリシュナと面会したとき、ラームダヤルがバブラームをラーマクリシュナに紹介すると、ラーマクリシュナは、
「ああ、お前はバララームの親戚なのか! それじゃあお前も私たちと関係があるのだな」
と言い、しばらく話した後、バブラームの人相その他を丹念に調べ、「よし、よし」と言いました。

 それからラームダヤルの方を向いて、言いました。
「ナレンドラは長い間、ここに来ていないのだ。私は彼に会いたくてたまらないのだよ。彼にここに来るように言ってくれないか? 忘れないだろうね?」

 ラームダヤルは、「確実にお伝えいたします」と答えました。


 
 その夜、三人はそのままそこへ泊まることになりました。ラーマクリシュナはそのまま自分の部屋で寝ることを勧めましたが、瞑想の邪魔になるのではないかと心配して、バブラームとラームダヤルは外で寝ますと言い、ラカールだけが部屋の中で寝ることになりました。

 その夜中、バブラームとラームダヤルが寝ているところに、ラーマクリシュナが腰布を小脇に抱え、酔っぱらいのようによろめきながら近づいてきました。そしてラーマクリシュナは、ラームダヤルに再びこう言いました。

「彼(ナレンドラ)に来るように言ってくれるね? 私は、まるで誰かがこんなふうに私のハートをねじってでもいるかのように感じるのだ。」

 そしてラーマクリシュナは、自分の着物をねじってみせたのでした。

 ラーマクリシュナの言葉や身振りの一つ一つが、ナレンドラに会えないことからくる、言いようのない心の苦悶を示していました。

 そしてラーマクリシュナは自分の部屋に向かって二、三歩進むとまた戻ってきて、再びラームダヤルに、
「だから、あのことを彼に伝えるのを忘れないでおくれ」
と、何度も念を押しました。

 ようやく部屋に帰ったと思ったら、一時間後、再びラーマクリシュナはやってきて、ラームダヤルに言いました。

「いいかい、彼はとても純粋なのだ。私は彼をナーラーヤナの化身とみなしているのだ。彼なしでは生きられない。彼がいないと、私のハートはこんなふうによじれるのだ。」

 そう言うと、ラーマクリシュナはまた自分の着物をねじりました。そしてさらに、悲痛な思いでこう言いました。

「私は彼のために、まるで拷問にかけられているような苦痛を味わっているのだ。一度でよいから、彼をここに来させておくれ。」

 そしてこの光景はこの後も、一時間ごとに繰り返されたのでした。

 「何という愛だ!」と、バブラームは思いました。しかし同時に、「ナレンドラが応じないのは何と妙なことだろう?」とも思いました。


 この最初の訪問で強くラーマクリシュナに惹きつけられたバブラームは、次の週の日曜日に再びドッキネッショルのカーリー寺院を訪ねました。バブラームを見ると、ラーマクリシュナは喜んで言いました。

「よく来たね。ピクニックをしているから、パンチャヴァティにお行き。ナレンが来ているよ。彼と話すといい。」

 バブラームがパンチャヴァティに行くと、そこにはナレンドラ、ラカール、その他数人の若い信者たちがいました。ラーマクリシュナが大変愛している弟子ということで、バブラームはナレンドラに対して初めから愛と称賛の念でいっぱいでした。ナレンドラは友人たちと話をしていましたが、間もなく歌を歌い始めました。バブラームはナレンドラの美しい歌に魅了され、「ああ、彼は何と多才なんだろう!」と独り言を言いました。

 これはバブラームにとって、師ラーマクリシュナとのより親密な交わりの前奏曲となりました。ラーマクリシュナの大いなる愛、純粋さ、神聖さは、日が経つにつれていっそうバブラームを引き寄せていきました。そして自分と師の関係は今生だけのものではなく、遠い過去生から続いているものである、ということが、少しずつバブラームにもわかってきました。彼は人生の最高の理想の実現を見いだしたのでした。

 ラーマクリシュナに会ったとき、バブラームは二〇歳でしたが、彼は年齢よりもずっと若く見え、そして非常にハンサムでした。彼の性格は、俗世のけがれにはいささかもおかされていませんでした。実にその生涯を終えるまで、彼は子供のような無邪気さを失わず、人間によある過ちとは全く無縁でした。
 ラーマクリシュナもバブラームの完全無欠な純粋さを見抜き、よくこう言っていました。

「バブラームはまさに骨の髄まで清らかだ。いかなる不純な思いも、彼の心身を横切ることは決してない。」
(2)


 その完全無欠な純粋さのために、バブラームはラーマクリシュナの侍者に最適な人物と思われるようになり、ラーマクリシュナも彼をそばに置くことを好まれました。
 ある時期からラカールやラトゥなどの少年たちがラーマクリシュナの侍者として寺院に住み込むようになりましたが、しばらくするとラカールは様々な事情で時折留守をするようになりました。そこでラーマクリシュナはある日、バブラームにこう言いました。

「誰との接触にも耐えられるというわけにはいかないのが、私の状態なのだ。お前がここにいてくれると、たいそうよいのだが。」

 そこでバブラームは時折ラーマクリシュナのもとに泊まり、身の回りの世話をするようになりましたが、家庭争議の種となることをおそれて、あえて常時住み込もうとはしませんでした。

 しかしこのようにして師に身近でお仕えするようになったことで、バブラームの心はより内側に向かうようになり、学校の勉強はつまらなく感じ、怠けるようになりました。
 そのためか、一八八四年に受けた入学試験で、バブラームは不合格になってしまいました。それを伝え聞いたラーマクリシュナは、冗談交じりに、「それは良かった。彼は束縛から解放された」と言いました。英語の合格(パス)とベンガル語の束縛(パーシー)をかけたのでした。

 ある日、バブラームの母がラーマクリシュナに会いに来たとき、ラーマクリシュナは彼女に、バブラームを自分のそばに置いていってくれるよう頼みました。そのときすでに彼女もラーマクリシュナの信者になっていたので、むしろ彼女は喜んでそれを承諾しました。彼女はただ、自分が神への厚い信仰心を得られるようにということと、子供たちよりも遅く死ぬことのないようにということだけを願い、そしてそれらは結果的に叶えられたのでした。

 このときからバブラームは侍者として常にラーマクリシュナのそばで暮らすようになり、ラーマクリシュナはいつも彼をダラディ(魂の友)と呼びました。バブラームがラーマクリシュナから離れてカルカッタに行っているときなどは、ラーマクリシュナはバブラームを愛するあまり、しばしば子供のように大声で泣きました。

 ラーマクリシュナのそばにいるうちに、バブラームは、ラーマクリシュナが同席していると、多くの人が、賛歌を聴いているうちに法悦状態に入ることに気づきました。しかしまだ自分はその経験がないことを残念に思い、バブラームはラーマクリシュナに、自分もそのような状態を楽しみたいと懇願しました。バブラームのしつこい懇願に折れて、ラーマクリシュナは母なる神に祈りを捧げました。しかし母なる神は、「バブラームはバーヴァ(法悦状態)ではなくジュニャーナ(神の叡智)を得るでしょう」と告げたのでした。

 ある日、ラーマクリシュナの弟子で少々誤った独自の考えを持っていたハズラが、バブラームやその他の若い弟子たちに、師のそばでおいしいものを食べて楽しく暮らすだけではなくて、超能力のような目に見えるものを与えてくださるように師にお願いするように助言しました。そのよからぬ意図をかぎつけたラーマクリシュナは、バブラームをそばに呼んで、こう言いました。

「それで、お前は何を望むことができるのかね? 私が持っているすべてのものは、もうすでにお前たちのものではないか。そうだ、悟りという形で私が得たものは何もかも、みんなお前たちのものなのだよ。だから、隔てを作って関係をまずくする、物乞いの考えは捨ててしまいなさい。それよりも、私との深い縁を自覚して、すべての宝の鍵を手に入れなさい。」
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 やがて師ラーマクリシュナに咽頭癌が発見され、治療のためにコシポルに移られると、他の近しき若い弟子たちと共にバブラームもそこへ移り住み、誠心誠意、師のお世話をしました。
 そして師ラーマクリシュナがこの世を去った後は、「バラナゴルの幽霊屋敷」と呼ばれた場所で正式に出家の誓いを立てました。このときナレンドラはバブラーム
に「プレーマーナンダ(真の愛の喜び)」という出家名を与えました。それは、聖なる愛の女神であるラーダーがバブラームの中に部分的に化身しておられると、かつてラーマクリシュナが語っていた言葉に沿ったものでした。

 この後、このラーマクリシュナの若き弟子たちは、あるときは集まって、またあるときはそれぞれが放浪しながら修行を続けて行きました。そして欧米にその名をとどろき渡らせたヴィヴェーカーナンダことナレンドラによってラーマクリシュナ・ミッションが組織され、インドおよび欧米において、ラーマクリシュナの教えに端を発する救済活動は着々と進んでいきました。

 ヴィヴェーカーナンダが若くしてこの世を去った後、ラーマクリシュナ・ミッションの諸事に気を配る仕事は、ブラフマーナンダにゆだねられました。そのため彼はインド各地を旅行しなければならず、本部であるベルル・マトに常駐して管理する仕事は、プレーマーナンダが任されることになりました。
 聖堂での日々の礼拝、若い出家修行者たちの訓練、僧院の生活を切り盛りするための種々の雑務、信者や来客への接待や指導――これらのすべてがプレーマーナンダの時間を埋め尽くし、休息を取る時間はほとんどありませんでした。
 子供が親の性格を反映するように、ラーマクリシュナの弟子たちは皆、師ラーマクリシュナの性質の一部を反映していました。プレーマーナンダは師の、すべてを費やすことを惜しまない、あらゆるものへの愛という側面を、他の誰よりも反映していました。すべての人々は彼の優しい愛を感じ、彼を僧院のお母さんと見なすようになりました。子供に甘い母親のように、彼は正しい道を踏み外して社会から見放された人々をも、保護の翼の下にかくまったのでした。

 あるカルカッタの若者が、悪い仲間の影響で悪の道に迷い込みました。彼は麻薬中毒になり、更正させようとする友人や身内の努力もすべて無駄に終わりました。
 この若者の親類の一人がたまたまプレーマーナンダを知っていました。彼はすべてをプレーマーナンダに話し、慈悲を求めました。プレーマーナンダはみずからその若者の所へ足を運び、僧院に来るように言いました。若者はやってきて、僧院での一日を楽しく過ごしました。帰り際、プレーマーナンダは若者に、また来るようにと言いました。初めて会ったときにすでにプレーマーナンダに惹きつけられるものを感じていたその若者は、その後、数回僧院を訪れ、それによって徐々に、悪に染まって固まった心が氷解していきました。彼はこう思いました。

「何と不思議なことだ! 身内や友人でさえ、私をおそれ、私の事を恥じ、敬遠しているというのに、どうしてこの人はあのような優しさと愛情を、何の縁もない私にそそいでくれるのだろう。あの方は、私の過ちを何もかもご存じだ。あの方の愛には利己主義というものがない。あの方の愛は何と素晴らしいのだろう!」

 しばらくしてこの若者は現世を捨てて出家し、放棄と奉仕の生活を喜んで受け入れたのでした。
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 やがて、プレーマーナンダの目に見えない愛の力に導かれるようにして、多くの人々がラーマクリシュナ僧院を訪れるようになりました。そして多くの人々は、たった一度プレーマーナンダと会見しただけで、消えることのない印象を心に刻まれたのでした。
 たまに、午後になって僧たちが休息しているときに、思いがけずに遠くからはるばるやってきた信者の一団が到着することもありました。そのようなときはプレーマーナンダは、休息中の僧たちを煩わせたくなかったので、誰にも告げずに一人で台所に行き、信者たちのための食事を作ったりしたものでした。

 師ラーマクリシュナに対する堅固な信仰を持っていたプレーマーナンダは、僧院にやってきて、師ラーマクリシュナに捧げられた供物のお下がりを頂戴した者はどんな人でも、将来いつの日か必ずや真理に目覚めるだろうと固く信じていました。彼はいつもこう言っていました。

「人々が楽しみを見つけられる場所は無数にある! ある人たちは売春宿に行き、他の人たちは娯楽場に行くかもしれない。しかしここに来る人たちは、それ故に、内になにがしかの霊的価値を持っていると思わなければならない。そうでなければ、どうして彼らはやってこなければならないのだね?」

 プレーマーナンダは、僧院に来た人々の心に、いかに信仰の灯火をつけるかということに心を尽くしていました。後年、ラーマクリシュナ僧院で修行する僧の中で、プレーマーナンダと実際に会ったことがる僧たちの多くが、プレーマーナンダから受けた愛の霊感を、自分の生涯に決定的な影響を与えたものとして回顧していました。彼らは、とうてい返すことのできない恩恵を、プレーマーナンダから受けたのでした。
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 様々な気質や性格のメンバーからなる大きな僧院を統括する仕事は、多大な忍耐力及び寛容さが要求されました。しかしプレーマーナンダの精神は、それに耐えうるものを持っていました。ある日彼はこう言いました。

「私は瞑想とジャパを終えて、聖堂の階段を下りてくるとき、繰り返し繰り返し、師のあのマントラを唱えます。『耐えよ、耐えよ、耐えよ(サー・シャー・シャー)』と。忍耐する者は残り、しない者は駄目になるのです。」

 プレーマーナンダにはプライドと利己主義の形跡すらなく、みずからを、師ラーマクリシュナの手の中にあるただの道具であると思っていました。
 彼の気高く神秘的な眼は、俗世を神の光で包んでいました。その光で包まれた世界からは、悪は逃げ去ったのでした。
 彼は他者の過ちを見ても、その中にみずからの短所を見ました。何通かの手紙に、彼はこのように書いています。

「この教訓を、私は師のもとで学びました。少年たちが何か間違いを犯しても、私は推論し、彼らに落ち度はないと気づくのです。どんな落ち度でも、それは私の落ち度なのです。私は自分が善人だなどとは思ってもいません。私は学ぶために来たのです。学ぶことに終わりはありません。
 師よ、私に正しい理解をお与えください――これが私の祈りです。他者の過ちに気づく事によって、私たちは徐々にそれに染められてしまうのです。私たちは、他人のアラ探しをしに来たのではありません。私たちがここにいるのは、学ぶためなのです。
 主よ、あなたがすべてなのです。私は誰を叱るべきでしょうか? すべては神なのです。黄金を覆っている塵の量に違いがあるだけなのです。」
(終)

 プレーマーナンダは、振る舞いが温和であることに、非常に重きを置いていました。「サードゥになりたければ、まず温和であれ!」としばしば繰り返して言いました。また、次のように言って残念がりました。

「この頃は、社会生活を営む上で、また普通の意味で、良い作法、物静かな振る舞いに、誰も注意を払わない。師は、そういうことを私たちに教えるのに最大限の注意をお払いになったのだよ。」


 またプレーマーナンダの気高い眼には、すべての女性は「母なる神」の現れと映っていました。プレーマーナンダの真っ正直な態度、しみ一つない清らかさと魅力、そしてある種の女性的な優雅さに惹かれて、女性たちもプレーマーナンダの前では心からくつろぐのでした。パーダー(女性が他人に顔を見せない風習)を厳守している身分の高いイスラム教徒の婦人たちでさえ、プレーマーナンダの話を聞くために、僧院にやってきたのでした。
 
 ラーマクリシュナの弟子たちを結ぶ絆は、愛と敬意が同じだけ寄り合わされて作り上げられていました。兄弟弟子同士における畏敬に満ちた態度は、プレーマーナンダの中に特に顕著に現れていました。たとえばラーマクリシュナ・ミッションの長をつとめていたブラフマーナンダの前では、まるで身分の低い召使いのように振る舞いました。ブラフマーナンダが僧院に滞在しているときは、朝、ブラフマーナンダの部屋を訪ね、挨拶をしてからでないと、その日の仕事を始めないのでした。

 また、個人的な快適さに関しては、修行者らしい無関心さがありました。食事の時などは、自分の皿から最も良い食べ物を、年少のメンバーたちに分け与えました。衣服は、どうしても必要なもの以外は決して持ちませんでした。デーオーガルでプレーマーナンダが病気になったとき、ある信者が、プレーマーナンダにシャツを四枚送りました。それを知ったプレーマーナンダは、それを受け取った侍者を厳しく叱りました。
「私には、多くのシャツを持つ習慣がないのだ。こんなに多くの衣服を持つことは、出家修行者に似つかわしくない。」
 また、プレーマーナンダが亡くなったとき、遺品が欲しいと思った信者たちがあちこち探してようやく見つかった彼の所持品は、空っぽのキャンバス・バックと、数冊の本だけでした。
 プレーマーナンダは、ベルル僧院の管理者としての仕事を6年間つとめた後、兄弟弟子のシヴァーナンダとトゥリヤーナンダと共に、アマルナートへの巡礼の旅に出ました。この旅から戻ると、今度はベンガルの各地方へと布教の旅に出ました。
 これらの長旅により伝染病にかかったプレーマーナンダは、転地療養のためにデーオーガルへと移り住みました。そこで一年半闘病生活を送り、病気は回復に向かっていたのですが、突然、今度はインフルエンザにかかってしまいました。プレーマーナンダはカルカッタの有名なラーマクリシュナの在家信者バララーム・ボースの家に送られ、そこであらゆる医療が施されましたが、回復の見込みは立ちませんでした。

 晩年プレーマーナンダの肉体を苦しめたこれらの病も、彼の澄み切った信仰心を一瞬たりとも曇らせることはありませんでした。健康なときも病のときも、彼はいつも「師の恩寵だけが支えです」と繰り返していました。そして、シュリー・ラーマクリシュナの御名を、いつも唱えていました。

 また、致命的な病で苦しんでいるときでさえ、プレーマーナンダは、信者たちへの心配りを忘れることはありませんでした。病の中でも信者の世話を焼こうとするプレーマーナンダに誰かが抗議すると、プレーマーナンダはこう言いました。
「これは私の性分なのだ。信者に奉仕することは、神を崇拝することなのだよ。」

 世を去る二日前には、プレーマーナンダは、彼が不在の間に僧院を管理していた僧をそばに呼び、感情を込めた優しい声で、
「一つのことをやってもらえるだろうか?」
と言いました。
「何をしたらよいのか、どうぞおっしゃってください」
とその僧が答えると、プレーマーナンダは、
「信者たちに奉仕することができるかね?」
と言いました。
「はい、やります」
と僧が答えると、プレーマーナンダは、
「では、忘れるのではないよ」
と、ほとんど哀願するように、僧に言ったのでした。


 そして1918年7月30日の午後、兄弟弟子たちの見守る中、プレーマーナンダは肉体を去り、マハーサマーディに入ったのでした。

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