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聖者の生涯&言葉&聖者についてコミュの聖者の生涯『サーラダー・デーヴィー』

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インド三大聖者の一人、ラーマクリシュナの奥さんであった、サーラダー・デーヴィーの生涯です。


☆Shavari先生(http://mixi.jp/show_friend.pl?id=535251&from=navi)の書かれたサーラダー・デーヴィーの生涯をご紹介いたします。

コメント(33)


(1)

 1836年にカマールプクルに生まれたラーマクリシュナは、幼少時から神を見神することへの強い熱意を持ち、後に実際にその修行を成就しました。
 ラーマクリシュナが見神の境地に至った最初のころは、激烈な体験が続き、神に酔い、普通の生活ができないような状態になっていました。その振る舞いはまさに狂人のようだったのです。
 彼の母と兄は、ラーマクリシュナを通常の状態に戻そうと、彼を結婚させることを計画し、いろいろな努力をしましたが、なかなかうまくいきませんでした。
 それを知ったラーマクリシュナは、二人の計画に反対するどころかむしろ愉快そうに笑い、
『いったいあなたたちはどこを探してるんですか? ジャイラームヴァーティのラーマチャンドラ・ムケルジーの家に行ってごらんなさい。(自分の妻となるべき)女の子が見つかるでしょう。』
と言いました。

 そうして1859年5月、ジャイラームヴァーティで、ラーマクリシュナはサーラダーという女の子と結婚をしました。といっても、この時点でラーマクリシュナは23歳でしたが、サーラダーの方はまだわずか5歳でした。当時、この地方では、このような幼年時からの結婚は珍しくありませんでした。
 結婚の翌日、ラーマクリシュナは若き花嫁を伴って故郷のカマールプクルに戻りましたが、その後、ラーマクリシュナはドッキネッショルのカーリー寺院で激しい霊的修行に励むようになり、サーラダーは故郷に帰って家の手伝いをするようになりました。
 
 1867年、胃腸の病にかかったラーマクリシュナは、治療のために故郷のカマークプルに戻ってきました。このころのラーマクリシュナは、激しい霊的な神の狂気の悟りの時期は過ぎ、天真爛漫な子供のような聖者として完成の境地にありました。14歳になっていたサーラダーは、ここで6ヶ月間をラーマクリシュナとともに過ごし、初めて聖者である夫のその人格にじかに触れたのでした。
 ラーマクリシュナは、現世を捨てた聖者としての理想をサーラダーに説いただけではなく、客の迎え方、年長者に払うべき敬意、若年者への気遣い、そして家族への奉仕に自己をささげることなど、在家者としての務めも説きました。

 ラーマクリシュナはよく皆に、霊的な真理や自分の体験を何時間もかけて話していましたが、まだ若かったサーラダーは、よく話の途中で眠り込んでしまいました。周りの人は彼女を起こそうとしましたが、ラーマクリシュナはそれを止めて言いました。
『いいから起こさないであげておくれ。もしも全部聞いてしまったら、彼女はもう地上にとどまってはいないだろうよ。翼を広げて飛んでいってしまうよ。』

 ラーマクリシュナは、サーラダーの気持ちを傷つけてしまったときには、必ず何らかの埋め合わせをされたと言います。あるときラーマクリシュナは、近くの村で行なわれた宗教劇を見に行くことになりました。サーラダーと他の婦人たちも一緒に行きたいと言いましたが、ラーマクリシュナは許可しませんでした。
 サーラダーと他の婦人たちはとてもがっかりして傷ついたのですが、芝居から帰ってきたラーマクリシュナは、今見てきた劇を、その甘い声と完璧な記憶力と見事な演技力で、事細かな部分まで完璧に再現して見せました。サーラダーと他の婦人たちは、がっかりしていたのも忘れ、ラーマクリシュナが真似られた芝居に夢中になったのでした。


つづく
(2)

 1872年6月5日、ラーマクリシュナは36歳、サーラダーは18歳になっていたころのことでした。ラーマクリシュナが住んでいたカーリー寺院では、ショーダシー・プージャーという祭典が行なわれていました。
 その日、ラーマクリシュナは、一般向けの祭典とは別に、自分の部屋で、秘密の儀式を行なう準備をしていました。夜九時から行なわれたその儀式には、ラーマクリシュナの指示により、サーラダーが呼ばれていました。
 ラーマクリシュナはサーラダーに、神のために設けられた座に座るように指示しました。すでに半意識的な神的ムードに入っていたサーラダーは、ラーマクリシュナの言葉のままに神の座に座りました。
 ラーマクリシュナは祈りを唱えて女神を呼び出されました。
『おお、聖なる母よ。おお、永遠の乙女、あらゆる力をつかさどられるお方! 完成に至る扉を開きたまえ。この乙女の心身を清め、衆生の救済のために彼女自身のうちにご自身を現したまえ。』

 この儀式の間、サーラダーは、半意識のまま、動くこともしゃべることもできませんでした。そしてついにラーマクリシュナとサーラダーは完全にこの世の意識を失い、超越的な次元で一体となりました。

 こうして儀式は終わり、片田舎の素朴な少女だったサーラダーは、聖なる女神の化身としての意識と地位を与えられたのでした。

 この特別な儀式の後、六ヶ月間、ラーマクリシュナとサーラダーはひとつの部屋でともに過ごしましたが、生涯一度も肉体的な関係を持つことはありませんでした。
 それどころかこの時期、昼夜を問わずに至高の法悦状態に入り続けるラーマクリシュナに、サーラダーは戸惑いを隠せませんでした。ラーマクリシュナは夜も一睡もすることなく、神に酔った状態で意味不明の言葉を話したり、泣いたり、笑ったり、死体のように不動になったりしました。
 あるときはラーマクリシュナがサマーディに入り、死体のような状態になったまま、長い間この世の意識に戻ってこないこともありました。サーラダーは恐怖しましたが、このような時はラーマクリシュナの耳元で神の御名を繰り返せば意識がこの世に戻ってくると知り、それからはそのようにしました。しかしラーマクリシュナがいつそのような状態に入るかまったくわからなかったので、心配したサーラダーは、いつもラーマクリシュナと一緒に一晩中起きていました。そのようなサーラダーの苦労を知ったラーマクリシュナは、これからは一緒の部屋で寝ずに、少し離れたナハヴァトという場所で休むように指示しました。

 
 ナハヴァトのサーラダーの住居は湿気が多く、そのためサーラダーはひどい赤痢に冒されてしまいました。1875年9月、小康状態にあったサーラダーは、故郷のジャイラームヴァーティに帰りました。しかしまもなく病はぶり返し、生命の危機に陥りました。
 サーラダーの危篤を耳にしたラーマクリシュナは、非常に悲しんでこう言いました。
『どうなってしまうのだろうか。この世にやってきて去るだけなら、肉体の形をとったことの目的をいつ果たせようか!』
 サーラダー自身は、やせ衰えた自分の体を鏡で見てこう言いました。
『まったくうんざりだわ! 肉体などというものは! 今ここで脱ぎ捨てさせてください。どうしてこれ以上生かしておくことなどありましょうか。』

 あるとき、サーラダーの体中がひどくむくみ、体中の穴から体液が流れ、目もほとんど見えなくなってしまいました。
 サーラダーの弟は彼女に、
『シンハ・ヴァービニー女神の像の前に横たわり、女神が妙薬を与えてくれるまで、飲食を断つべきだ』
と言いました。サーラダーも同意し、サーラダーは飲食を断ってシンハ・ヴァービニー女神の前に横たわりました。しばらくするとついにサーラダーのヴィジョンに女神が現われ、ひょうたんの花の絞り汁に塩を混ぜたものを点眼するようにと指示しました。サーラダーが言われたとおりにすると、目が見えるようになり、病も回復に向かいました。

 ラーマクリシュナ自身もサーラダーの故郷のジャイラームヴァティに何度か訪問しましたが、皆からよく『狂った婿』として嘲笑されていました。ラーマクリシュナは時々座席から飛び上がって、
『このたびは、イスラム教徒も不可触賤民(チャンダーラ)も含めて皆が救われるだろう!』
などと叫びました。村人たちは、『なんと気の狂ったことを!』と言いました。
 ラーマクリシュナはどこへ行ってもいつも皆の中心でくつろぎ、歌と話で皆を大いに楽しませました。しかし時に人の偽善を砕く鋭い言葉や、きわどい冗談などを発し、決まりが悪くなって座を立つ者もいました。そのような時、ラーマクリシュナはその場に残った者たちに言うのでした。
『雑草抜きは終わった。さあ、腰を下ろしなさい。私が話をしよう。』



つづく
(3)

 ここで、ドッキネッショルを頻繁に訪れ、サーラダーとともに多くの時間をすごした、ラーマクリシュナの女性の弟子たちについて、少し紹介してみましょう。

 「ヨーギン・マー」として知られる、ヨーギンドラ・モーヒニー・デーヴィーは、カルカッタの高貴な家庭の出身で、威風堂々とした風貌と、威厳ある立ち振る舞いの人でした。若いときに富豪の名家の美男子と結婚しましたが、夫は不摂生な生活におぼれて道徳的に堕落し、散在して財産を失ってしまいました。長男は生後六ヶ月で亡くなり、長女は結婚しましたが、結婚生活がうまくいかずに夫のもとを離れました。
 絵に描いたような現世幸福の状態から、すべてが悲劇的に粉々に砕け散っていく経験をしたヨーギン・マーは、現世のむなしさを実感し、信仰に心を向けたのでした。
 そして初めてドッキネッショルにラーマクリシュナを訪ねてきたヨーギン・マーは、ちょうど、神の至福に酔い、酔っ払っているような状態になっているラーマクリシュナを見たのでした。ラーマクリシュナは、ヨーギン・マーが食事をとらずに来たと聞くと、すぐにサーラダーのもとへ行かせました。サーラダーは愛情深く彼女をもてなし、やがて二人は親密な関係になりました。ヨーギン・マーは、サーラダーについてこのように言っています。
「マザーを訪れると、いつも胸のうちの秘密を包み隠さず打ち明けてくださいました。よくわたしの意見を求められました。
 わたしは、片時でもマザーから離れることは大きな苦しみでした。毎週のようにドッキネッショルに通って、時にはそこで夜をすごすこともありましたが、そのようなときにはマザーはご自分のベッドにわたしを引っ張っていって、傍らに寝かせてくださったのです。」
 ヨーギン・マーは、サーラダーの髪をよく編んでいました。サーラダーは彼女の編み方が大変気に入っていたので、ヨーギン・マーがまたやってくるまで、何日も待っていることもありました。
 
 「ゴーラープ・マー」として知られる、ゴーラープ・スンダリー・デーヴィーは、正統なブラーミンの家庭に生まれましたが、結婚生活は幸せなものではありませんでした。息子と娘を残して夫は早死にし、その後、その後を追うように、息子と娘も亡くなったのでした。
 悲しみの中、神の慰めを求めていたとき、近くに住んでいたヨーギン・マーに出会って、ラーマクリシュナのもとへ連れて行かれたのでした。ゴーラープ・マーはラーマクリシュナに心中を打ち明けると、むせび泣きました。ラーマクリシュナはゴーラープ・マーをサーラダーに会わせ、
「おなかいっぱい食べさせてあげなさい。深い悲しみも癒えるだろう。」
と言いました。そしてラーマクリシュナはゴーラープ・マーに、この世の幸福のはかなさを語り、神のみを愛することを強く説きました。そしてラーマクリシュナはサーラダーに言いました。
「このブラーミンの女を見守ってあげなさい。彼女はお前とずっと一緒に暮らすことになるだろう。」
 ゴーラープ・マーは、規律正しさを好み、毒舌家だったといわれますが、心は純粋でした。サーラダーは彼女についてこう言っています。
「ゴーラープ・マーの心はとても純粋です。かき乱されることがないのですよ。彼女はプライドとか虚栄心の何たるかを知らないのです。」

 ラーマクリシュナの姪であるラクシュミーマニーは、ラーマクリシュナの信者たちから愛情をこめて「ラクシュミー・デーヴィー」と呼ばれていました。非常に知的で、並外れた記憶力の持ち主でした。幼いころから控えめで、親しい身内の者としか話をしませんでした。12歳で結婚しましたが、若くして未亡人となることをラーマクリシュナは予言していました。結婚後間もないある日、仕事を探しに家を出た夫は、その後二度と姿をあらわしませんでした。
 十四歳でドッキネッショルに来て、ラーマクリシュナからイニシエーションを受け、ナハヴァトのサーラダーの小さな部屋で一緒に暮らし始めました。
 ラクシュミー・デーヴィーは後に男性的な性質を見せるようになりましたが、それに対してラーマクリシュナは干渉しませんでした。しかしサーラダーにはこう言いました。
「あれが彼女の性質なのだ。でもお前が彼女の真似をしてはならないのだよ。お前は女性らしいつつしみをなくしてはいけない。」

 
 ゴーウリー・マーは、若いころから霊性の生活を強く求め、ヒンドゥーの神々に強い愛着を持っており、特にクリシュナを深く信仰していました。彼女の母は、彼女が世俗を放棄してしまうことを恐れ、縁談をまとめようとしましたが、ゴーウリー・マーは母にこう言いました。
「わたしが嫁ぐのは、永遠のあのお方(クリシュナ)だけです。」
 しかし彼女の意志とは裏腹に、母により結婚の手はずは進められていきました。そして結婚式の前夜、ゴーウリー・マーは逃げ出しました。こうして18歳にしてゴーウリー・マーは世俗を捨て、さまざまな聖地を旅しました。彼女の持ち物といえば、数冊の聖典と、首からつるしたクリシュナの石の象徴だけでした。
 七年後、25歳のときにドッキネッショルを訪れ、ラーマクリシュナに会ったとき、ラーマクリシュナは彼女を直ちに弟子として受け入れました。その後、サーラダーと一緒に住み、ラーマクリシュナに献身的に奉仕をしました。
 ある日、ゴーウリー・マーが庭で花を摘んでいるのを見たラーマクリシュナは、
「さて、ゴーウリー、わたしが地面に水を注いでいるから、お前は土をこねなさい。」
と言いました。この謎のような言葉は、ゴーウリーに、苦しんでいるインドの女性たちの幸福のために働きなさい、ということをあらわしていました。
 ゴーウリー・マーが、自分は人里離れたヒマラヤに入り、少女たちに修行の指導をしたいと言うと、ラーマクリシュナは言いました。
「いやいや、お前はまさに、この町でこそ働かねばならないのだよ。霊的な実践はもう十分に積んだのだから、今は女性たちへの奉仕に人生をささげなさい。彼女たちはひどく苦しんでいるのだよ。」

 アゴーラマニは、ゴーパーラ(赤子としてのクリシュナ)を強く信仰していたので、「ゴーパーラ・マー」と呼ばれていました。九歳のときに結婚しましたが、すぐに未亡人となりました。まもなくカルカッタ近くの寺院に移り住み、そこで何時間も、何日も、何年も、霊的な修行に没頭しました。
 彼女は高揚した霊的体験の中で、ラーマクリシュナの中に、ゴーパーラの現われをたびたび見ていました。そしてサーラダーのことも義理の娘のように愛していました。

 こうした女性信者たちは、切っても切れない愛の絆で、サーラダーと結ばれていました。法友であった彼女たちは料理などの家事でサーラダーを手伝い、こうした関係は生涯続いたのでした。


つづく
(4)


 ヒンドゥー教徒の女性はみな、夫を神のごとくみなすこと、そして身体と心と魂をもって仕える事を教えられますが、サーラダーはラーマクリシュナを、「永遠にして絶対なる神」そのものとみなしていました。ラーマクリシュナに仕えることは、神を礼拝することであると感じていたのです。
 後にサーラダーはこう言っています。
「師に仕えていると思えば、自分の身体の苦痛なんて苦になりませんでしたよ。純粋な至福のうちに日々は過ぎていったのです。」
 
 ラーマクリシュナはサーラダーの夫であっただけではなく、修行の師でもありました。サーラダーとラクシュミーは、以前に別の僧から修行のイニシエーションを受けていましたが、ラーマクリシュナは二人に改めてイニシエーションを与え、修行をさせました。
 サーラダーは多くの家事仕事をこなしながらも、マントラなどの修行に日々長時間を費やしました。
 当時のことを思い出し、後にサーラダーはこう語っています。

「ドッキネッショルでは朝三時に起きて、瞑想に座ったものですよ。自分の身体のことも、周りの世界のことも、すっかり忘れてしまったこともよくありました。
 あるとき早朝に瞑想をしていると、やさしいそよ風が吹いてきて、私の赤い縁取りの布を背中からはずしてしまったのに、私は気づかなかったのでした。
 こうした状態にあった私の様子を、師がご覧になっていらしたことは知りませんでした。
 月夜には月を見つめて祈りました。
『私の心があの月の様に純粋でありますように!』」

 また、ラーマクリシュナの至福に満ちた状態について、サーラダーはこう述べています。

「なんてユニークなお方だったでしょう! どれほど多くの人々の心を啓発されたことでしょう! いかに絶えざる至福を放っておられたことか! 師のお部屋には笑い声、物語、そしておしゃべりや音楽が昼も夜も響き渡っていました。」
「師が歌われると、私はナハヴァトのすだれの陰にたたずんで、そのお声を何時間でも聞き続けたものでした。歌が終わると、合掌して師にお辞儀をしました。なんと喜びに満ちた日々を過ごしたものでしょう! 昼も夜もひききらず人々が押し寄せ、霊的なお話は終わることがありませんでした。」
「あの方が悲しそうにしてらしたのを見たことはありません。五歳の少年とでも老人とでも、誰とでも陽気に楽しんでいらっしゃいました。」

 ラーマクリシュナはサーラダーの修行を注意深く見守り、彼女が規則正しく瞑想をするように計らっておられました。朝三時になると、師はサーラダーとラクシュミーが寝ているナハヴァトに行き、ラクシュミーに言うのでした。
「起きるのだ。そしておばさんを起こしておくれ。いつまで寝ているつもりだ。夜が明けるぞ。瞑想を始めなさい。」
 冬の間、サーラダーは、ラクシュミーをもう少し長く寝かせてやりたいと思っていました。師が起こしに来たのを知ったサーラダーは、ラクシュミーの耳元でささやいたものでした。
「答えちゃだめよ。あの方は眠れないのよ。まだ起きる時間じゃないわ。カラスやカッコウでさえまだ寝ているわ。床から起き上がらないでね。」
 中から応答がないとき、ラーマクリシュナは、時々、扉の下から水を注いでからかいました。サーラダーやラクシュミーは、寝床がぬれてしまわないように、飛び起きなければなりませんでした。こうしてラクシュミーは、早起きの習慣を身につけたのでした。

 ある朝、具合の悪かったサーラダーは、起きる時間になっても床を抜け出せませんでした。こうしたことが数日間続きました。これが心のトリックであることを理解した彼女は、いつもの時間通りに起きるように自らに強いたのでした。不動の意志と決意なくしては霊性の生活に成功できないことを、彼女はよく弟子たちに教えていました。
 
(5)

 1885年12月11日、病が重くなるばかりだったラーマクリシュナは、新鮮な空気が吸えて日当たりの良い、カルカッタ北部の郊外にあるカーシープルのガーデンハウスに移されました。

 ラーマクリシュナはサーラダーに言いました。
「案ずるな。やがてお前は、私の写真が人々の家々で礼拝されるのを見るだろう。誓って言う、本当だ。」

 ラーマクリシュナの体の衰弱は進み、もうほとんどしゃべることもできないような状態になりましたが、それでも彼は、身の回りの世話をする弟子やたずねて来る信者のために、身振り手振りと、ささやくような声で、教えを説き続けました。


 ラーマクリシュナの死の直前、彼はサーラダーをじっと見つめて、まるで非難するかのような強い口調で言いました。
「ねえ、お前は何もしないのかね。これ(師自身の事を指して)が全部しなければならないのかね。」
 サーラダーは抗議するように言いました。
「ですけど、女の私に何ができましょうか?」
 当時のインドはまだまだ女性の地位が低かったし、サーラダーは特別に控えめな性格だったのです。しかしラーマクリシュナは言いました。
「それは違うよ。お前は多くのことをしなければならないだろう。」


 また別のとき、サーラダーがラーマクリシュナに食事を運んでくると、師はベッドで目を閉じて横になっていました。
「さあ、おきてください。お食事の時間ですよ。」
と彼女が言うと、師は、はるか遠い世界から戻ってきたような顔をしながら、言いました。
「カルカッタの人々をごらん。暗闇にもがく虫けらのようだ。お前が彼らに光明をもたらさねばならないのだよ。」
 サーラダーは答えました。
「そのことは後で考えることにいたしましょう。さあ、お食事を。」


 また別のとき、ラーマクリシュナはサーラダーの前で、次のように歌われました。

 なんという重荷に私は耐えていることか!
 誰にわかってもらえようか。
 絶えているものだけがその重荷を知っている。
 どうして他のものに知ることができよう。

 そしてサーラダーに言いました。
「これは私一人の重荷ではないのだ。お前もともに背負わなければならないのだよ。」



 つづく
(6)

ついに、ラーマクリシュナの最期の日が来ました。1886年8月16日のことでした。ラクシュミーとともに部屋に入ってきたサーラダーを見て、ラーマクリシュナは言いました。

「お前がここにいてくれてうれしいよ。海を越えたはるか遠くの国に行くような気がする。とても遠いところだ。」

 サーラダーはわっと泣き出しました。ラーマクリシュナはサーラダーを慰めて言いました。

「なぜ思い煩うのだね? お前は今と同じように生きていくだろう。彼ら(ラーマクリシュナの弟子たち)が私にしてくれていることを、お前にもしてくれるだろう。ラクシュミーの面倒を見て一緒にいてやりなさい。」

 これがラーマクリシュナがサーラダーに語った最後の言葉でした。

 夜半過ぎ、一時六分を回ったころ、ラーマクリシュナはハッキリとした声で、最愛の神カーリーの名を三度唱えられると、深いサマーディに入りました。そしてその後、二度とその肉体に魂が戻ることはありませんでした。
 枕元に立っていたサーラダーは泣き叫んで言いました。

「母よ! おお、カーリーよ! 私が何をしたというのでしょう。私一人をこの世に残して逝かれてしまうなんて!」

 サーラダーはこのように泣き叫びましたが、すぐに自分を制すると、自室に戻り、厳粛な沈黙に入りました。

 当時の心境を、サーラダーは後にこう語っています。
「あのお方がお隠れになった後の悲しみは耐え切れないものでした。何度も繰り返し自分に言ったものです。
 『あのようにすばらしい方が逝ってしまわれたのです。どうして私が生きていなければならないのでしょう』
 何もすることができなくて、私は人を避けていました。」

 サーラダーが再び内的平安を見出すようにと、ラーマクリシュナの在家信者であったバララーム・ボースは、サーラダーを巡礼の旅に送り出そうと計画しました。
 こうしてラーマクリシュナの死の二週間後、サーラダーは、ゴーラープ・マー、ラクシュミー、Mの妻のニクンジャ・デーヴィー、そしてラーマクリシュナの若い弟子たちのうちヨーゲーン、ラトゥ、カーリといった者たちを伴って、ラーマクリシュナにゆかりの深い聖地ヴリンダーヴァンへの巡礼の旅に出たのでした。

 ヴリンダーヴァンに到着したサーラダーは、ラーマクリシュナの死の直前にカルカッタを離れ、師の死に目に会えなかったヨーギーン・マーと再開しました。サーラダーは、「おお、ヨーギーン!」と言って彼女を抱きしめ、二人で泣き叫びました。

 このころ、サーラダーはラーマクリシュナを思い出してしょっちゅう泣いていました。しかしある夜、ヴリンダーヴァンで眠るサーラダーの夢の中に、ラーマクリシュナが現われて、言いました。

「どうしてそんなに泣くのだね? 私はここにいるではないか。どこに行ってしまったというのだね? ある部屋からもう一つの部屋に移るだけのことではないのかね?」

 この時期、サーラダーに繰り返し現われたラーマクリシュナのヴィジョンは、彼女の悲嘆を幾分癒してくれました。


 つづく
(7)

 ヴリンダーヴァンは、クリシュナとラーダーにもゆかりの深い場所で、ラーマクリシュナも、この地でクリシュナの生涯のさまざまな出来事を思い出し、多くのヴィジョンを経験されたのでした。サーラダーはこの地で、霊的恍惚のうちに日々を過ごされました。

 しばしばサーラダーは深いサマーディに入り、動かなくなりました。おつきの者たちが彼女の心をこの世に引き戻そうと、神の名やラーマクリシュナの名を繰り返し唱えました。するとサーラダーは通常意識へと降りてくるのですが、こうした法悦状態にあるときのサーラダーの声や話し方、食事の仕方、歩き方、そして身のこなしなどは、ラーマクリシュナそっくりになるのでした。こうして人々は、ラーマクリシュナとサーラダーがひとつであることを確信したのでした。

 またあるとき、サーラダーは、二日間近く、サマーディに入ったままいたことがありました。この経験の後、サーラダーは、非常に大きな変貌を遂げました。常に至福に浸り続けているようになり、すべての悲しみや嘆き、ラーマクリシュナとの別離から来る喪失感などが消え去り、穏やかで澄み渡った幸福な気分に浸るようになりました。そして時折そのすばらしい至福の状態でクリシュナの存在を希い、激しい愛を伴ってクリシュナの名を呼ぶ様子は、周りの者に、クリシュナの恋人であるラーダーのことを思い起こさせました。実際、サーラダー自身も、周りの者に、自分のことをラーダーだといっていたということです。

 ヴリンダーヴァンのクリシュナ寺院においては、サーラダーは、「他者の欠点を見なくなりますように」と熱心に祈りました。そして実際、この願いはかなえられ、サーラダーは、慈悲と忍耐の権化と呼ばれるようになりました。
 晩年、周りの人々が他人を批判しているのをご覧になったサーラダーは、彼らにこうおっしゃいました。
「昔は私も、他の人の欠点が目に付いたものでした。そこで師にお祈りし、その恩寵によってその習癖を脱したのです。実は他の欠点を見るのが人の性質なのです。人の長所を喜べるようにならなければなりません。人は確かに過ちを犯しやすいけれども、気にしてはいけません。人の欠点だけがいつも目に付くようなら、欠点だけを見るようになってしまうでしょう。」


 ある日、ラーマクリシュナのヴィジョンがサーラダーの前に現われ、スワーミー・ヨーガーナンダにイニシエーションを与えるようにという指示を出し、そのためのマントラまで教えました。サーラダーは最初、このヴィジョンは自分の錯覚だと思いました。また、もしそんなことをしたら、人々が、「ほら、師が亡くなって間もないのに、彼女はもう自分の弟子を持ち始めたよ」などと言って非難するかもしれないと思い、当惑しました。
 しかしこの後三日間、ラーマクリシュナはヴィジョンに現われ、サーラダーに同じことを言うのでした。三日目にサーラダーは、ラーマクリシュナのヴィジョンに向かって言いました。
「ヨーゲーン(ヨーガーナンダ)とは話すこともありません。どうして私にイニシエートができましょう。」
 ヨーガーナンダは、ラーマクリシュナの若い弟子の一人で、一緒にヴリンダーヴァンにやってきた仲間の一人でしたが、極度に慎ましい性格だったサーラダーは、男性であるヨーガーナンダと二人きりになるということはありえなかったのです。
 するとラーマクリシュナのヴィジョンは、「イニシエーションのときには、ヨーギーン・マーにも一緒にいてもらうように」という指示を出しました。
 そしてなんと、ヨーガーナンダ自身も、同様のヴィジョンを見、サーラダーからイニシエーションを受けるようにという指示を、ラーマクリシュナから受けていたのでした。

 

 こうしてとうとう、サーラダーはヨーガーナンダにイニシエーションを与え、ヨーガーナンダはサーラダーの最初の弟子となったのでした。これがサーラダーの、ホーリー・マザーと呼ばれる、偉大なる師としての、新しい人生の幕開けとなったのでした。


 結局サーラダーは、一年近く、このヴリンダーヴァンにとどまりました。その間サーラダーは、毎日規則正しく瞑想を続けました。あるとき一緒に瞑想していたサーラダーとヨーギーン・マーは、目を開けた状態であまりにも深く瞑想に没入し、目玉にハエが止まっていても気づかず、目を傷めてしまったこともありました。
 このような、規則正しく激しい瞑想修行によって、多くのヴィジョンやサマーディを経験しましたが、そのほとんどは、全く口外されることがありませんでした。


 一年近くをヴリンダーヴァンで過ごした後、ホーリーマザーは何人かの仲間とともに、聖地ハリドワールを訪れました。ハリドワールは、ヒマラヤから流れ落ちるガンジス河の流れが、最初にインド平野部に入るところなので、神(ハリ)の門(ドワール)と呼ばれるのです。サーラダーはそこに、ラーマクリシュナの髪の毛と爪を流しました。
 次にサーラダーは、聖地アラハバードに向かいました。ここは、聖なる河であるガンジス河とジャムナー河が合流する聖地です。ここにもサーラダーは、ラーマクリシュナの残りの髪の毛を流しました。このときのことを、後にサーラダーはこう述懐しました。

「河の水は穏やかでした。しかし私が手に師の髪の毛を握ると、突然波が起きて、それを運び去っていきました。すでに神聖とされるその場所は、その神聖さをさらに深めるために、師の髪の毛を私の手から取り上げていったのです。」


 つづく
(8)

 ヴリンダーヴァンへの巡礼からカルカッタに戻ったサーラダーは、バララームの家で数日間を過ごした後、数名のラーマクリシュナの信者とともに、ラーマクリシュナの実家のあるカーマールプクルヘ旅立ちました。一行は貧しかったため、駅から25キロも歩かなければなりませんでした。
 カーマールプクルに一行が着いて間もなく、サーラダー以外の者たちは、カルカッタに帰っていきました。このときからサーラダーは、ラーマクリシュナの実家において、貧困と孤独と人々の容赦ない批判に耐えながら、非常につらい状況の下で、約一年を過ごしたのでした。
 かつてラーマクリシュナは、サーラダーに対し、自分の死後はカーマールプクルに住むようにと指示していたのでした。そこで、辛い状況にありながらも、サーラダーはその指示に従い、カーマープクルに住み続けたのでした。
 ラーマクリシュナの死後の当初、ドッキネッショルのカーリー寺院の当局は、月々7ルピーを、未亡人となったサーラダーに支給していました。しかしサーラダーがヴリンダーヴァン巡礼に行っている間に、ラーマクリシュナの甥のラームラールが、
「ラーマクリシュナの裕福な信者たちが彼女のお世話をするだろうから、寺院からの支給は必要ない」
といって、勝手に支給をストップさせてしまったのです。
 これを聞いたサーラダーは、何の抗議もせず、全く冷静な態度でこう言いました。
「支給を止められてもわたしはかまいません。師を失った私が、あの人たちのお金でどうするというのです。」

 しかし実際、多くの信者は、サーラダーがそのような状況に置かれているということを知らなかったので、サーラダーは誰からの援助も受けることなく、ラーマクリシュナの実家で、貧しい日々を送らなければなりませんでした。ときには、ご飯にかける一つまみの塩さえもない有様でした。着るものはボロボロでした。そんなときでも、ラーマクリシュナの、
「金銭のために他人に手を差し出してはいけない」
という忠告を思い出して、サーラダーは誰にも頼ることなく、その貧困に一人で耐え続けたのでした。
 あるとき、自分の実家を訪ねたサーラダーのあまりの困窮ぶりを知った彼女の母は、自分と一緒に暮らすようにと泣いて何度も懇願しました。しかしサーラダーは同意せず、こう言いました。
「私はカーマープクルに戻ります。神が私に定められたことを、私たちは知るでしょう。」
 このような経済的困窮のみならず、さまざまな困難にサーラダーはさらされていました。
 常にラーマクリシュナと共にあると確信していたサーラダーは、一般的な慣習に逆らって、夫の死後も、赤い縁取りのあるサリーと腕輪を身につけていました。しかし保守的なカーマープクルの村人たちは、サーラダーのそのような態度は言語道断だと批判したのでした。どこへ行っても彼女は、人々の悪い噂の的になりました。
 あまりの苦しみに耐えかねたサーラダーは、かつてラーマクリシュナと共に暮らした、ドッキネッショルのガンジス河へと旅をしようかと考えました。するとその瞬間、サーラダーは、目を開けたまま、はっきりとしたラーマクリシュナのヴィジョンを見ました。ラーマクリシュナは弟子たちをひきつれて、道路を歩いていました。そしてその足元からは水が噴き出し、河のように流れ出しているのを見ました。サーラダーはこれを見て、自分自身に対してこう言いました。
「ああ、師はすべてでいらっしゃる。ガンジス河は師の御足から湧き出たのです。」

 サーラダーは花束をつむと、それをラーマクリシュナに捧げました。ラーマクリシュナはこう言いました。
「腕輪を外してはならないよ。ヴァイシュヴァナの聖典を知っているかね?」
 サーラダーが知らないと答えると、ラーマクリシュナは、ゴーウリー・マーが午後にやってきて、それについて説いてくれるだろう、と言いました。

 午後になると、本当にゴーウリー・マーがやってきて、サーラダーに言いました。
「あなたの夫は神ご自身に他ならないのですから、あなたが未亡人であるはずはありません。」

 この一連のヴィジョンとゴーウリー・マーの言葉は、サーラダーの心に安堵と確信をもたらしました。これ以降、サーラダーは、人々の非難に耳を貸すことはありませんでした。
 忍耐の権化であったサーラダーは、このような経済的・精神的な苦境の中にあっても、そのことを誰にも言いませんでしたが、あるとき、ある女中を通して、サーラダーの苦境の話が、ラーマクリシュナの弟子や信者たちの間に伝わりました。彼らは驚きと嘆きのあまりに言葉を失いました。あの自分たちの偉大なる師、ラーマクリシュナの妻であり、彼女自身、聖なる魂の化身であるとあがめられていたサーラダーが、そのような困窮の中で一人耐えているなど、皆、予想だにしていなかったのです。

 彼らはお金を出し合って、手紙とともに、サーラダーに送りました。その手紙には、自分たちが生活のお世話をするので、カルカッタに至急出てきてほしい、と書いてありました。
 しかしこれを知った村人たちは、大反対しました。というのも、ラーマクリシュナの弟子たちは若者が多かったので、未亡人であるサーラダーが、あのような若い男たちの世話を受けて暮らすなど、とんでもない、と主張したのです。
 サーラダーは、いずれ自分はラーマクリシュナの弟子たちと共に暮らすであろうということを予期していまいた。それでもなお彼女は、多くの村人たちの意見を聞いてみることにしました。村人たちのほとんどは、サーラダーのカルカッタ行きに大反対しました。
 しかし、この村に、プラサンナマイーという女性がいました。彼女は、その眼識の深さと、神への信心深さにより、村人たちから尊敬されていました。サーラダーが彼女に意見を求めると、プラサンナマイーはこう言ったのです。
「何をためらっているのです。もちろん、カルカッタに行くのですよ。ガダイ(ラーマクリシュナの本名)の弟子たちは、あなたの子供のようなものじゃないの。村人の噂話になんか、耳を貸すことはありません。きっとあなたは行くことになるでしょう。」

 
 そうして1888年4月、サーラダーはついにカルカッタにやってきましたが、そこに定住することもなく、その後、何度かカルカッタとカーマープクルを行ったり来たりしていました。

 この時期に、このような出来事がありました。ラーマクリシュナの信者だったハリシュの妻が、夫の心を世俗の生活の方に向けさせようと、ある薬をハリシュに飲ませたのでした。その薬のせいで、ハリシュは脳をやられてしまい、錯乱状態になってしまいました。
 ある日、サーラダーを見つけたハリシュは、錯乱状態のまま、サーラダーを追いかけ始めたのでした。
 このときのことを、のちにサーラダー自身が、こう語っています。
「私の家にはそのとき誰もいなかったので、私は誰にも助けを求めることもできずに、穀倉の周りを早足で歩きだしました。彼は追ってきました。私は七回その周りをまわって、止まりました。私は自分の本当の姿をとって彼を地面にねじ伏せると、両膝を彼の胸に乗せて強く彼を平手打ちしました。彼は息切れし始め、私の指は赤くなりました。」
 その後、ハリシュは正気を取り戻すと、ヴリンダーヴァンに向けて旅立ち、そこで正気を取り戻しました。
 このときサーラダーがとった「自分の本当の姿」というのがいったい何だったのか、それは誰にもわかりませんが、一つ言えるのは、この時期すでにサーラダーは、以前のラーマクリシュナのような、神秘的な高揚したムードにしばしば入っていたということです。サーラダーをただのラーマクリシュナの未亡人だと思っていた人々も、そのようなサーラダーの神秘的な性質を知るにつれ、徐々にサーラダーを神聖な存在として見るようになっていきました。

 例えばこの時期のある瞑想におけるサマーディ体験を、サーラダーはヨーギーン・マーにこう語りました。
「はるか遠い国を旅してきたかのように思えました。人々は私にたいそうやさしくしてくれました。私は非常に美しい姿をしていました。師がそこにおられました。彼らが優しく師のそばに私を座らせました。あの時の私の喜びを言葉で表わすことはできません。
 意識を一部回復すると、すぐそばに自分の肉体が醜い屍のように横たわっているのが見えました。それでそこに入っていくのが不安になりだしたのです。全く戻る気持ちにはなれませんでした。長い間あってようやく、私はその肉体に戻る決心をし、再び肉体世界の意識に返ったのでした。」

 またあるとき、深いサマーディに没入していたサーラダーは、半ば通常意識を取り戻すと、
「おお、私の手はどこかしら。足はどこかしら」
と叫びました。それからサーラダーが肉体意識を完全に取り戻すまで、長い時間がかかりました。
 これはかつてラーマクリシュナによってヴィヴェーカーナンダが体験させられたのと同様の体験で、不二一元の無分別サマーディを経験するときの状態でした。



つづく
(9)

 サーラダーのそれ以外の三人の弟たちはみな長生きしましたが、三人の間には絶えず不和が生じていました。誰がサーラダーからお金を一番多くしぼりとれるかと、いつも競い合っていました。こうした心ない弟たちに対してもサーラダーはできる限りの金銭的援助をしました。

 また、彼らの妻、そしてその娘たちは、互いに嫉妬しあい、些細なことでいつもいがみ合っていました。サーラダーが彼女たちをなだめるために示した忍耐は、筆舌に尽くしがたいものがありました。サーラダーはこう言いました。
「人々の犯す罪に常に耐えている大地のように、忍耐強くあらねばなりません。人はそのようでなくてはなりません。」

 亡くなったアバーイチャランの妻スラバラは、もともと精神不安定の兆候がありましたが、ある日、台所でばったりと泥棒に出くわしたのをきっかけに、本当に気がおかしくなってしまいました。そのため、彼女は子育てができなくなり、彼女の幼い娘であるラーダーラーニーを育てる責任を、サーラダーが負うことになったのでした。

 スラバラは精神が錯乱していた上に毒舌家でもあり、サーラダーに対していわれのない誹謗中傷をし続けました。サーラダーはある日、こう言いました。
「私の心は霊界を高く舞い上がりたがっています。あの人たちを気の毒に思うので心を地上に留めているのです。そしてその見返りといったら、罵倒と侮辱だけなのですから。」

 しかしこのスラバラも、なぜかたまにサーラダーに対して深い敬意を示すことがありました。例えばあるとき、サーラダーの手がうっかりスラバラの足に触れてしまったことがありました。するとスラバラは大変恐怖して、言いました。
「私はどうなってしまうの!?」
 ヒンドゥー教の伝統では、聖者や目上の者の体に足で触れるのは良くないとされており、それは悪業になるとされているのです。この場面でスラバラがこのような反応を見せたということは、いつもサーラダーを罵倒していたスラバラが、実はサーラダーを尊敬していたことを示しているのです。
 いつも自分を罵倒しているスラバラが急にこのような殊勝な態度をとったのを見て、サーラダーはおかしくなってしまい、大笑いすると、弟子にこう言いました。
「ラーマがブラフマンの化身であるナーラーヤナご自身であり、シーターが宇宙の聖なる母、原初の力であることをラーヴァナは百も承知だったのですよ。それでもなお、シーターをいじめるのはやめませんでした。
 あの子(スラバラ)も、私が誰なのか分かっているのです。よく分かっているのよ。でもやっぱり自分の役割は演じなくてはならないのです。」



つづく
(10)

 ラーマクリシュナの死後まもなく、サーラダーがこの世への興味を全く失っていたとき、サーラダーはあるヴィジョンを見ました。
 赤い着物を着た幼い女の子が自分の目の前を歩いており、そこにラーマクリシュナがあらわれ、その子を指さして、
「支えとしてこの子にしがみついていなさい」
と言ったのでした。

 その数年後、故郷のジャイラームヴァ―ティを訪ねた折、サーラダーは、気が狂った義理の妹のスラバラが歩いているのを見ました。そしてその後ろを、スラバラの幼い娘であるラードゥことラーダーラーニーが、地面を這いまわっているのを見たのです。
 この哀れな様子を見たとき、サーラダーの中に、不思議な感情が沸き起こってきました。サーラダーはすぐにその場に飛んでいき、ラードゥを抱き上げました。
 このとき、ラーマクリシュナのヴィジョンが再びあらわれ、
「地上におけるあなたの心の支えとして、この子にしがみついていなさい。この子がマーヤーである。」
と告げました。

 このとき以来ずっと、サーラダーはラードゥに深い関心を示し、ラードゥの方もサーラダーを愛の権化と見ました。
 しかし成長するにつれ、ラードゥは、気難しくて手に負えない人物になっていきました。強情さと無邪気さが、そして狂気性と素朴さが、奇妙に入り混じった性格でした。
 サーラダーはある日、こう漏らしました。
「ラードゥはこんなに成長しましたが、ほとんど分別がありません。師は彼女を通じて私に何という重荷をおあたえになったのでしょう。」

 ラードゥは性格に問題があっただけでなく、頭の働きも鈍く、体も弱かったので、常にサーラダーの心配の種となっていました。それでも、いや、それだからこそ、サーラダーはラードゥに一層の強い愛を向け続けました。
 いわばサーラダーの心がこの世を超えて高い世界に昇ってしまわないように、地上につなぎとめる絆として、ラーマクリシュナによって用意されていたのが、このラードゥだったのです。

 ラードゥは、母のスラバラがそうだったように、長い間自分の面倒を見てくれたサーラダーにいつも歯向かい、罵り、悪態をつくようになりました。他の人では決して耐えられないようなひどい仕打ちを、サーラダーに与え続けました。ラードゥはまるでサーラダーを苦しめるために生まれてきたかのように、サーラダーを苦しめるためのどんなわずかな機会も逃さないのでした。
 その後、ラードゥは結婚し、子供も産みましたが、ラードゥは夫の実家に住むことを嫌がり、夫と共にサーラダーのもとに住み続けました。ラードゥの夫は裕福な家の出でしたが、あまり頼りにならない人物でした。
 結婚や出産を経験しても、ラードゥは落ち着くことなく、その狂気性や常軌を逸した行動はよりひどくなっていき、サーラダーを苦しめ続けました。サーラダーのある弟子は、このころのことを、日記の中にこう記しています。

「赤ん坊が六カ月になった今も、ラードゥは衰弱のために立ち上がることさえできない。這いまわるのがやっとだ。
 さらに悪いことに、彼女はアヘン中毒になってしまった。ホーリー・マザー(サーラダー)は、最近は調子を崩して熱を出されることもある。ラードゥにアヘンの常用をやめさせようとされたが、ラードゥは断固聞き入れなかった。
 ある朝、野菜を切っておられたホーリー・マザーのところに、ラードゥがアヘンを欲しがってやってきた。ラードゥの心を見透かされたホーリー・マザーがおっしゃった。
『ラーディ、いい加減になさい。なぜ立ち向かえないのです。もうあなたの世話は見きれませんよ。私はあなたのために、信仰やすべてのものを断念してきたのですよ。これだけの出費をどうして賄うというのです。』
 こうした不快な言葉に逆上したラードゥは、野菜籠から大きなナスをつかみあげると、力を込めてホーリー・マザーに投げつけた。背中に強く当たり、たちまち痛みが走った。師の写真を見つめると、手を合わせてマザーは祈られた。
『主よ。どうぞあの子の非礼をお許しください。正気を失っているのです。』
 それからご自分の御足からとった塵をラードゥの頭につけておっしゃった。
『ラーディ、師は言葉でさえも私を傷つけられたことなど一度もありませんでした。それなのにあなたが私を苦しめることといったら。私が本当は誰なのか、どうしてあなたにわかりましょう。あなたたちと一緒に暮らしているからといって、軽んずるのですね。』
 ラードゥはわっと泣き出した。ホーリー・マザーはつづけられた。
『ラーディ、私が腹を立ててしまったら、あなたを守ってくれる人は三界にだれ一人いなくなってしまうのですよ。』
 それからシュリー・ラーマクリシュナに向かって言われた。
『おお、主よ。あの子のことでお怒りにならないでください。』」




つづく
(11)

 ラーマクリシュナの在家の弟子の中で、最も傑出した三人は、ギリシュ・チャンドラ・ゴーシュ、マスター・マハーシャヤ、ナーグ・マハーシャヤの三人でした。
 
 ギリシュは、インドラ神のような、英雄的な弟子でした。彼は詩人、劇作家、俳優であり、カルカッタの社交界で際立った存在でした。ラーマクリシュナと出会う前の彼は、大酒のみで放蕩生活を送っていましたが、ラーマクリシュナと出会って完全に別人となりました。以前は無神論者だった彼は、今や熱烈な信仰者に生まれ変わったのでした。
 ラーマクリシュナは、ギリシュの知力、推察力、信仰心を高く評価していました。ギリシュはラーマクリシュナの存命中から、ラーマクリシュナは神の化身であると宣言してはばからなかった、数少ない弟子の一人でした。

 初めのころ、ギリシュは、サーラダーのことを、単に「グルの妻」とみなしていましたが、高い敬意を抱いていました。ある日、彼が妻と共に自宅のテラスにたたずんでいると、すぐ近くにあるバララームの屋敷のテラスを、サーラダーが歩いているのが見えました。ギリシュの妻は、
「ごらんなさい。マザーがテラスを歩いていらっしゃるわ」
と言いましたが、ギリシュはすぐに顔をそむけて、
「いや、だめだ。私の眼は罪深いのだ。こんなふうにマザーを見てはならない。」
と言うと、テラスから立ち去ってしまいました。

 ラーマクリシュナの死後、ギリシュに、一人の男の子が生まれました。妻は出産ののち、亡くなりました。
 その子が三歳になったとき、スワーミー・ニランジャナーナンダの強い勧めで、ギリシュはその子を連れて、サーラダーが住んでいたウドボーダンを訪れました。
 男の子はまだしゃべることができませんでしたが、サーラダーが住んでいる二階を指さして、「わあ、わあ」とだけ言いました。サーラダーの従者がその子を二階に連れていくと、サーラダーの部屋の床を、うれしそうに転げまわりました。その後、その子は一階に降りて来て、父親の手を引っ張って、サーラダーの方に連れていこうとしました。ギリシュはわっと泣き出して、言いました。
「どうしてマザーのところに行けようか。私は極悪人なのだ。」
 しかし男の子は許してくれず、父親を引っ張り続けました。とうとうギリシュは意を決して、息子を抱くと、階段をのぼっていきましたが、その足は震え、目からは涙があふれていました。
 そうしてサーラダーの前にひれ伏すると、ギリシュは言いました。
「息子のおかげで、あなたの聖なる御足を拝むことができました。」
 この息子は、まもなくして亡くなりました。
 またそのしばらくのち、ギリシュはサーラダーを訪ねてジャイラームヴァティーにやってきました。久しぶりにサーラダーの姿を一目見た瞬間、ギリシュは感動に震え、驚きの声をあげました。
「ああ! あなたはあのときの母ではありませんか!」
 ギリシュはその数年前に重い病で寝込んでいたとき、聖なる女神がプラサードをくださる夢を見て、そのとたんに病から癒されたという経験がありました。サーラダーがあのときの女神だったと気づいたギリシュは、サーラダーは女神として常に自分を見守ってくださっていたのだと知ったのでした。彼はサーラダーに尋ねました。
「あなたは私にとってどんな母なのですか?」
 サーラダーは答えました。
「あなたの本当の母なのですよ。あなたのグルの妻だとか、義母だとかいうただの母ではありません。本当の母なのです。」

 このときから、ギリシュは、サーラダーの正体に気づきました。あるときギリシュは目に涙をためながら、このように言いました。
「神が人としてお生まれになるということは、大変信じがたいことだ。――まるでわれわれのうちのただの一人のように。
 宇宙の聖母が、質素な村の女の姿で目の前に立っているなどと夢にも思えようか?
 マハーマーヤ―が、まるで普通の女の人のように家事その他の任務を果たしているなどと想像できようか?
 それにもかかわらず、彼女は偉大なマーヤーであり、シャクティであり、宇宙の母であられるのだ。神の母性の理想を確立し、万人の解放を受け合うために化身されたのだ。」


 1912年2月、突然、ギリシュは亡くなりました。サーラダーは悲しんで言いました。
「真のインドラが亡くなりました。」

 あるサーラダーの弟子が、サーラダーに尋ねました。

「マザー、無意識の状態で肉体を離れた者たちは、死後、より高い霊性を得ることができるのでしょうか?」

 サーラダーは答えました。
「ひとが意識を失う前に最も強く心を占めていた思いが、死後の方向を決定するのです。」

(弟子)「確かにそうです。夕方の六時少し過ぎに、ギリシュ・バーブは、
『ラーマクリシュナ万歳! さあ、行こう!』
と叫びました。それから意識を失って、それきり意識は戻りませんでした。』

(サーラダー)「意識を離れるときに、彼は心の中の思いに浸っていたのです。
 彼ら(ラーマクリシュナの弟子たち)は、皆、彼(ラーマクリシュナ)から来て、彼に帰っていきます。彼らはみな、彼から来ました。……彼の腕から、足から、髪などから。彼らは師の手足であり、彼の一部なのです。」
 英雄的なギリシュとまったくの好対照をなしたのが、ナーグ・マハーシャヤでした。彼は謙遜、慎み深さの権化でした。ナーグもギリシュと同様、サーラダーを、至高なる宇宙の女神の化身とみなしていました。

 ラーマクリシュナの死後、ナーグは何度かサーラダーのもとをたずねました。初めての訪問のとき、ナーグのことを知らない女中が、サーラダーにこう報告しました。
「マザー、このナーグ・マハーシャヤとは何者でしょう? マザーにごあいさつ申しあげていますが、あんまり強く頭を床に打ち付けるので、血が出そうになっています。スワーミーがやめさせようとしていますが、彼は一言も話さず、意識を失っているかのようです。気がふれているのでしょうか?」

 このころ、通常は、男性の信者に、サーラダーが直接会うことはありませんでした。しかしナーグの信仰に深く心を動かされたサーラダーは、ナーグを部屋に連れてこさせました。スワーミーに手を引かれてやってきたナーグは、その額は腫れあがり、足取りはおぼつかず、眼は涙であふれていました。サーラダーが彼をそばに座らせると、ナーグはただ「お母さん」と繰り返すだけでした。

 あるときは、サーラダーは葉っぱの皿の上に食物を載せてナーグに差し上げました。するとナーグは、その食物のみならず、葉っぱの皿までも食べてしまったのでした。

 またあるときはサーラダーは、いつもみすぼらしい格好をしていたナーグのために、新しい布をプレゼントしました。しかしナーグはそれを身につけることなく、サーラダーへの敬意のしるしとして、いつも頭に巻いていたのでした。

 ナーグ・マハーシャヤが亡くなった後、サーラダーはこう言いました。
「数知れぬ信者がここに来ました。でも彼のような人はいません。」
 マスター・マハーシャヤことマヘーンドラナート・グプタは、学校の校長をしていました。自分の学校の子供たちを次々とラーマクリシュナのもとに連れて来て、そのうちの何人かはラーマクリシュナの近しい弟子になりました。
 ラーマクリシュナの死後は、ラーマクリシュナの多くの弟子たちが、マスター・マハーシャヤのもとを訪れました。マスター・マハーシャヤは、会話がどのように始まっても、数分後には、必ずラーマクリシュナやラーマクリシュナの教えに話を持っていくのでした。
 マスター・マハーシャヤは知的で物静かであり、ギリシュともナーグともまた違ったタイプの信者でした。背が高く立派な体格をしており、色白で髭を伸ばし、まるで旧約聖書の預言者のような雰囲気を漂わせていました。

 マスター・マハーシャヤは、ラーマクリシュナの死後、サーラダーを金銭的に援助し続けました。サーラダーも、マスター・マハーシャヤとその家族に特別な愛情を抱いており、マスター・マハーシャヤの妻のニクンジャ・デーヴィーとは、何度も一緒に巡礼の旅に出かけました。

 マスター・マハーシャヤは、自分の感情をあらわにすることはほとんどありませんでしたが、その内側では、ギリシュやナーグと同様に、ラーマクリシュナだけではなく、サーラダーに対しても計り知れない信仰心を抱いていました。

 あるとき、サーラダーのある弟子が、肉欲に悩まされ、心の平安を失って、サーラダーのもとにやってきました。弟子の相談に対して、サーラダーは何も言わずに、ただ彼をじっと見つめました。
 サーラダーに迷惑をかけてしまったと感じたその弟子は、その場を去り、ただちにマスター・マハーシャヤのもとへとおもむき、心の不安を告白して、祝福を請いました。マスター・マハーシャヤは彼に言いました。
「どういうわけだね? 君はマザーの子供で、深く愛されているのですよ。どうしてその君が乞食のようにふるまわなくてはならないのだね? マザーが一瞥を投げかけてくださったのではないのかね?」
「ええ、マザーは私を長い間見つめてくださいました。」
「それならば、何の心配があるだろうか。」
 ベンガル語の歌を引用して、マスター・マハーシャヤはさらにこう言いました。
「聖なる母からおやさしいまなざしを投げかけられた者は、至福の内に泳ぐのだ。」
 マスター・マハーシャヤがこの歌詞を三度、深い熱情をこめて繰り返すと、信者は心に平安を感じました。そしてサーラダー自身が、自分をマスター・マハーシャヤのもとに送られて、そのおやさしいまなざしの意味を説明されたのだと気づいたのでした。



つづく
(12)

 ヴィヴェーカーナンダが西洋での布教に成功した後、ヴィヴェーカーナンダの西洋人の何人かの弟子たちが、救済計画に身をささげるために、インドにやってきました。

 1898年三月、数人のヴィヴェーカーナンダの西洋人の女性の弟子がサーラダーを訪ね、サーラダーは彼女たちとともに食事をともにしました。この出来事は大きな意味をもっていました。サーラダーはヒンドゥー教の習慣に厳格であり、特に食事に関しては、自分と違うカーストの人間と一緒に食事をすることはなかったからです。
 しかしここでサーラダーが、西洋人である彼女たちと会食をしたということは、いわばインドへの西洋人たちの受け入れを、彼女が承認したということを意味していました。
 このときの訪問者の一人であったシスター・ニヴェーディターは、のちに次のように記しています。

「マザーこそやさしい愛の権化、まさに甘美さそのものでいらっしゃいます。そしてまた少女のように陽気であられます。
 マザーは正統派の習慣を厳守されてきた方ですが、初めて西洋人をご覧になったとたん、こうしたすべてが溶け去ってしまったのです。
 他の訪問者の常にならって、私たちも携えた果物をお捧げしました。すると誰もが驚いたことに、マザーはそれを受け取ってくださったのです。これによって私たち全員の面目が施され、私たちの仕事の将来は何事にも勝る最大限の可能性を与えられたのでした。」

 サーラダーはその後も、ヴィヴェーカーナンダの西洋人の弟子たちとは、親しい間柄でありました。
 シスター・デーヴァマーターは、サーラダーは彼女たちとともに、子供のように冗談を楽しんだり、おふざけに夢中になることもあったと記しています。 
 あるときは、イギリスの店で見つけたビックリ箱のおもちゃをラードゥに持っていくと、サーラダーは大変喜びました。そして箱を開けて人形がピューという音を立てて飛び出すたびに、サーラダーはその音を真似ては抱腹絶倒するのでした。

 シスター・ニヴェーディター(捧げられたもの)は、このころのサーラダーの回想録を、次のように記しています。
 スワーミー・ヨーガーナンダが家の一階にくらし、門番を務めていました。
 サーラダーと親しく交わっていた女性の弟子には、ゴーラープ・マー、ヨーギーン・マー、ゴーパーラ・マー、そしてラクシュミーがいましたが、皆、未亡人でした。
 サーラダーは毎朝日の出よりずっと早くに目覚めて瞑想の座につきました。サーラダー自身が、聖堂での日々の礼拝を務めました。
 午後には多くの信者がサーラダーを訪ねてきました。
 男性の信者とはサーラダーは直接話はせず、ある年配の女性を通して話をしていました。
 女性の信者とは、サーラダーはよく軽いおしゃべりをしていました。
 夕方の礼拝の後、信者たちとともに賛歌を歌い、瞑想しました。
 サーラダーはニヴェーディターには特別の愛情を示し、瞑想のときには近くに座るように言われていました。ニヴェーディターはこの時間を「平安の時」と呼んでいました。
「ご自身のうちに完全に沈潜されているサーラダー・デーヴィーからは、ダイナミックで強烈な力が放たれていた。まさに人生の本質に触れておられたのだった。」

 ある日の夕方、ニヴェーディターがサーラダーの御足に額で触れると、サーラダーは彼女の頭に手をおいて祝福を与えながら言いました。
「さて、これからあなたの仕事が始まるのですよ。」

 サーラダーはニヴェーディターを深く愛し、「コーキ(赤子のこと)」と呼んでいました。
 ニヴェーディターが、ラーマクリシュナの髪の毛が少しおさめられた銀の小箱をサーラダーに差し上げたことがありました。サーラダーはこう言っていました。
「礼拝の時間にあの箱を見るたびに、ニヴェーディターのことを思い出します。ある日あの子が言ったのでした。
『お母さん、私は前世ではヒンドゥー教徒だったのです。今生では師の教えを広げるために、イギリスに生まれました。』と。」

 ある日従者が、サーラダーのトランクに古い絹のぼろきれを見つけて、それを捨てようとすると、サーラダーは言いました。
「いいえ、わが子よ。それは、ニヴェーディターが深い愛情をこめて送ってくれたものです。取っておきましょう。」
 こう言ってそのぼろきれを自ら丁寧に畳んで箱に戻すと、さらにこう言いました。
「これを見るとニヴェーディターを思い出すのよ。なんてすばらしい子だったことか! 最初は直接私たちに話せなかったのです。ベンガル語に通訳する人が必要だったのよ。その後、彼女が私たちの言葉を覚えたのでした。」
 1910年12月、法友であるサラ・ブルの闘病中に、マサチューセッツ州のケンブリッジからニヴェーディターがサーラーダーにあてた手紙には、二人の間の深い愛が表わされています。

「あなたの愛しい足元で幼子であることで十分であることが、どうして私はわからなかったのでしょう?
 愛しいお母さん! あなたは愛に満ちていらっしゃる! 力づくで駆り立てるような世俗の愛ではなく、あなたの愛は誰にも善をなし、悪を望まない穏やかな平安なのです。お遊びに満ちた黄金の輝きなのです。
 数ヶ月前、あれは何と祝福された日曜日だったことでしょう。ガンガーに船出する直前、偶然あなたをお見かけした私は、急いで駆け戻ったのでした。あなたからの祝福と歓待を受けて、なんと素晴らしい自由を感じたことでしょう! 
 最愛のお母さん、あなたに素晴らしい賛歌と祈りを贈れたなら、でもそれでさえも厚かましく騒々しいことなのです!
 確かにあなたこそは神からの賜物――シュリー・ラーマクリシュナが世の人々に抱かれた愛の聖杯。
 師の亡き後のさびしい日々にあって、師が子供たちに残された忘れ形見。
 そしてあなたの御前の私たちは、ひたすらじっと静まっておらねばなりません。――ほんの少しだけの楽しいお遊びをするには!
 確かに『神からの賜物』は静かなものです。――そっと気づかれることもなく私たちの人生に忍び込まれる――大気と日ざし、そして庭とガンガーの甘美さ。これらは静かなるものです。あなたのように。
 どうかあなたの平安のマントを、かわいそうなサラに送ってください。あなたの思いは愛することも憎むこともない、高次の静けさの中にあるのですね。……それは蓮の葉のしずくのように神の内にあってうちふるえながらも、世俗に触れることのない甘美な祝福ではないでしょうか。
 永久に、私の愛しいお母さんへ、あなたの愚かなコーキより。」


 1911年、ニヴェーディターが亡くなった時、サーラダーは涙を流して言いました。
「ニヴェーディターの信仰のなんと真摯であったことでしょう! どんなことでも決して苦にせず私に尽くしてくれたのでした。
 よく夜にやってきました。私の眼に明かりが当たって眩しそうにしていると、ランプの周りを紙のかさで覆ってくれました。
 心をこめて私に平伏して、ハンカチで私の足の塵を取ったのでした。私の足に触れるのさえ躊躇していたかのようでした。」

 居合わせた女性信者たちがニヴェーディターの死を悲しむと、サーラダーは言いました。
「生きとし生けるものは、偉大な魂を思って泣くのです。」




つづく
(13)
 
 師であり夫であるシュリー・ラーマクリシュナの存命中も、そして肉体の死後も、サーラダーは自らを、ラーマクリシュナの召使であり、道具であり、師の足元に逃げ場を見出した多くの求道者の一人なのだと語っていました。

 信者から祝福を求められると、よくこう言いました。
「師(ラーマクリシュナ)があなたを祝福してくださるでしょう。」

 また、ある信者から助言を求められたときには、こう言いました。
「私に何がわかりましょう。私は師から教えられたことを繰り返すだけです。『ラーマクリシュナの福音』をお読みなさい。あなたに必要なことはすべてわかるでしょう。」

 そして、人生の誘惑という落とし穴に落ち込まないよう、シュリー・ラーマクリシュナにしがみつくように、繰り返し信者に説きました。

 ある日健康を尋ねられた弟子が、「マザーの祝福のおかげで元気です」と答えると、サーラダーは彼を叱責して言いました。
「あなた方は皆、同じ間違いをしているわ。どうして何にでも私を持ち出すの? 師(ラーマクリシュナ)のことは話せないの? あの方のご意思ですべてが起こっていることが話からないの?」

 そしてラーマクリシュナ自身については、サーラダーはよくこのように語っていました。
「あのお方は至高の神であり、至高の女神であられます。
 すべてのマントラの真髄であり、あらゆる神々の権化なのです。
 プルシャにしてプラクリティであられます。
 そしてご自身のうちには、すべての神々がおられるのです。」

 サーラダーはどこにでもラーマクリシュナの写真を持ち歩き、日々礼拝していました。そして師の写真を、師の生きた身体そのものと見、写真の師と親しく話をしたり、食事をささげたりしていたのでした。

 しかし同時にサーラダーは、実は自分がラーマクリシュナとひとつである、ということも、隠そうとはしませんでした。

 かつてラーマクリシュナ自身も、サーラダーを、妻であり弟子であると見ると同時に、自分に智慧を授けるシャクティ女神そのものとしても見ていました。

 ある日、少年の弟子であるラトゥが瞑想していると、ラーマクリシュナは彼に言いました。
「お前は馬鹿ものだ。お前が瞑想している神は、今汗だくで鍋釜を磨いているところだ。」
 こう言って、ラトゥにサーラダーの家事を手伝わせたのでした。

 サーラダーが実は普通の人間ではない、ということに関するラーマクリシュナの発言は、他にもさまざまにありました。

「彼女から腹を立てられた人は、私の力をもってしても守りきれない。」

「もし彼女が怒ったら、破壊できないものはない。」

「寺院におられるマー(宇宙の母なるカーリー女神)は、ナハヴァトに住んでいるマザー(サーラダー)と同じ方なのだ。」


 


つづく
(14)

 あるとき、南インドの聖地ラーメーシュワルへの巡礼を提案した者がいました。「ラーマーヤナ」によると、かつてセイロンで魔王ラーヴァナを滅ぼし、インドに帰還したラーマとシーターが、最初に触れたインドの地がこのラーメーシュワルであり、また、シーターがシヴァ神の像を作って礼拝した重要な聖地でもありました。

 サーラダーは喜んでその提案に賛成し、当時マドラスのラーマクリシュナ・マトの長を務めていたラーマクリシュナーナンダ(サシ)が、旅行の全行程の責任者を引き受けました。こうして、数人の信者と、ラードゥを含むサーラダーの親戚の一行で、ラーメーシュワルへの巡礼の旅に出たのでした。

 ラーメーシュワルでは、サーラダーは毎日、シヴァ神の像に詣で、礼拝に参加しました。ある日、シヴァ神の像を礼拝していたサーラダーがふと、こう言いました。

「ちょうど私がここに安置して差し上げたときと同じに見えます。」

 その言葉の意味を信者に尋ねられると、サーラダーは答えました。

「何でもないのよ。ぼんやりしていて舌がすべったのですよ。」



 その地方をおさめていた藩主は、ヴィヴェーカーナンダの弟子だったので、サーラダーに対しても大きな尊敬と崇拝の念を抱いていました。ある日彼は役人に命じて、
ダイヤモンドその他の宝石などの藩の宝物をサーラダーに見せ、好きなものをお取りくださいと伝えました。
 サーラダーは、今回の旅はラーマクリシュナーナンダがすべて快適に取り計らってくれているので、何の贈り物も必要ありません、と答えました。しかし藩主の気持ちを傷つけないように、姪のラードゥが何か欲しいものがあるかもしれません、と付け加えました。
 藩主への思いやりからこのように言ったものの、サーラダーは、ラードゥが何も欲しがりませんようにと、心の中で熱心に祈りました。
 ラードゥは様々な宝物を眺めると、言いました。
「ここから何をもらおうかな? こんなものは欲しくはないわ。鉛筆をなくしてしまったので、一本買ってもらえるかしら?」

 これにはそこにいた誰もが驚き、そしてサーラダーは安堵のため息をつき、近くの店で鉛筆を買って与えました。



つづく
(15)

 ラーマクリシュナの高弟でラーマクリシュナ・ミッションの僧院長だったラカールことスワーミー・ブラフマーナンダは、毎朝サーラダーの家を訪ねて、家の者にサーラダーの健康状態について尋ねていました。しかし自分の感情があふれ出ることを恐れ、二階に上がってサーラダーに直接会おうとはしませず、代わりにゴーラープ・マーや召使たちと軽いおしゃべりをしました。
 ある朝、ブラフマーナンダはいつものようにやってきて、いつものように階上におられるサーラダーに敬意を表しました。するとゴーラープ・マーが言いました。

「ラカール、マザーが、どうして礼拝の始まりに、信者がシャクティ(聖母)をなだめなくてはならないのかお尋ねですよ。」

 ブラフマーナンダは答えました。

「それは、ブラフマンの完全なる叡智のカギは、聖母が保管されているからです。『母』が慈悲深く扉の錠を外して下さらなければ、ブラフマンと交流するすべはないのです。」

 それからブラフマーナンダは、神に酔った吟遊詩人のように歌いました。

 おお、心よ、シャンカリ(シヴァ神の妃)の御足の瞑想に没入し続けよ
 没入し続け、人生の苦しみを抜け出すのだ。
 三界には実体がない。それなのに心はそこをさ迷い歩く。
 ハートに聖母を瞑想せよ。
 カマラカンタは言う、
 マザーの栄光を歌え。
 そうすれば世界は至福の河となる。
 その河をゆっくりと漕いで行きなさい。

 ブラフマーナンダは歌いながら法悦のうちに踊り、ついには酒に酔った者のように、「ホ、ホ、ホ!」と叫びながら、家を飛び出しました。

 二階のポーチからそれを見ていたサーラダーは、ブラフマーナンダの法悦の様子を見て、喜びました。
 ある時は、サーラダーはブラフマーナンダと他の数名の信者とともに、ベナレスから約11キロ離れたサールナート(お釈迦様が初めて法を説いた場所)を尋ねました。その帰り道、なぜかブラフマーナンダは、乗っている馬車を交換してくれるよう、サーラダーに頼みこみました。ブラフマーナンダの強い願いを聞き入れて、サーラダーはそれを承諾しました。
 するとそのブラフマーナンダが乗った馬車が事故にあいました。ブラフマーナンダは無傷でした。これに関してサーラダーはこう言いました。

「私がこの小さな事故にあう運命だったのです。それをラカールが、いわば力づくで自分の肩に背負ってくれたのです。私の方の馬車には子供たちも乗っていました。ラカールがいなければ、子供たちはどうなってしまっていたでしょうか。」


 
 ベナレスにおいては、サーラダーはチメリ・プリという高齢の聖者と会いました。ゴーラープ・マーが聖者に、誰に食事を与えてもらっているのかと尋ねると、聖者は、
「マザー・ドゥルガーじゃ。他の誰だと思うかね?」
と、まるで子供のような純粋な顔をして言いました。
 これを見てサーラダーは大変感動し、喜びました。ベナレスには他にも高名な聖者と呼ばれる人たちがいましたが、サーラダーはこのチメリ・プリに会った後は、他の聖者には会おうとしませんでした。



つづく
(16)

 ベナレスへの旅から戻ったサーラダーは、再びカルカッタとジャイラームヴァティーで、信者たちへの霊性の奉仕の活動に没頭しました。世俗の苦しみに喘ぐ多くの人々、また神の至福を求める多くの人々が、彼女のもとに助けを求めてやってきました。サーラダーは身分の上下、貧富、罪人・善人も問うことなく、あらゆる人々を受け入れ、愛を注ぎました。
 弟子がみずから修行を実践できない時には、彼らに代わってサーラダー自身が修行に励みました。弟子の悪行の重荷を引き受け、肉体的な苦痛を喜んで背負いました。それは何の見返りも、感謝の言葉すら求めない愛でした。
 あるときサーラダーは弟子にこう言いました。
「あなたたちが解脱に至るまで、この世でもあの世でもその責任を負い、導きつづけるでしょう。」

 1918年、長い間サーラダーに献身的に仕えてきたプレマーナンダが亡くなりました。サーダラーがそのショックから立ち直るのに数日かかりましたが、その後、すぐにまた普段通りの奉仕の生活に戻りました。しかしその頃から、元気だったサーラダーの体も、徐々に弱っていき、歩くのには杖が必要になっていました。ジャイラームヴァティーでは、マラリアのためにしょっちゅう床につく日々が続きました。

 このころから弟子は、サーラダーの日々の振る舞いが、以前とは徐々に違ってきていることに気付きました。たとえば以前は、お供物をラーマクリシュナにささげる前に誰かに食べさせるなどということは絶対に許しませんでしたが、このころから、まだラーマクリシュナにささげていないお供物を、少年や小鳥にあげることがたびたびありました。その理由を聞かれると、サーラダーは答えました。
「彼らの中に師(ラーマクリシュナ)を見るからよ。」

 またあるときは、自分の枕をおつきの女性に使うように渡して、こう言いました。
「師はあなたたちすべての中に住んでおられるのよ。」

 このころ、サーラダーの心はすでに、あのクリシュナの愛人ラーダーがそうだったように、すべてがラーマクリシュナであると見える次元に引き上げられていたのです。



つづく
(終)

 1919年12月13日、サーラダーの誕生日の夜、サーラダーは発熱し、その後、容態は悪化し続けました。田舎のジャイラームヴァティーでは十分な治療を受けられないので、サーラダーナンダはサーラダーをカルカッタに連れて行くことを決心しました。

 カルカッタにサーラダーが到着した時、ヨーギーン・マーとゴーラープ・マーは、痩せ衰えたサーラダーのお体を見て、身震いしました。
「マザーはなんというお姿になられたものでしょう。お体はすっかり黒ずんでいらっしゃる。それこそ骨と皮だけではありませんか。こんなにお悪いとは思いもよりませんでした。」

 翌日からサーラダーナンダは、思い切ってさまざまな治療の手配をしました。ホメオパシー、民間療法、アロパシーなど、著名なカルカッタの医師たちによってさまざまな医療が試されました。ついにその病気は「黒熱病」と判明しましたが、当時、この病気の特効薬はまだありませんでした。サーラダーナンダは各種の医療行為に加えて様々な宗教儀式も行ないましたが、全く効果はありませんでした。

 サーラダーの病気は悪化の一途をたどり、日に二、三度は激しく熱が上がり、意識を失うほどでした。
 ある信者はサーラダーに、聖ラーマクリシュナに病気の回復をお願いしてくださいと頼みましたが、サーラダーはこう答えました。
「どうしてそんなことができましょうか。師が定められたことは必ず起こります。私に何が言えましょう。師がお連れ下さるときにはまいりましょう。」

 そのような激しい苦痛を伴う病床にあっても、サーラダーは弟子たちにイニシエーションを与え続けました。ある弟子がそれをやめさせようと、こう言いました。
「このイニシエーションはやめましょう。マザーは他人の罪をご自身に背負って苦しまれているのです。」

 しかしサーラダーはこう答えました。
「なぜそんなことになるの? 師がお生まれになったのは、ラスゴッラ(インドのお菓子)を召し上がるためだったのかしら?」
 病床にあったサーラダーは、4月24日、幼いころからサーラダーによく尽くしてくれたラーマクリシュナの高弟アドブターナンダの死を知らされました。
 そして5月14日はラーマクリシュナの代表的な在家信者の一人バララーム・ボースの息子の死を、そしてその一週間後には、自らの実弟バラダの死を知らされました。
 このように立てつづけに悲しい知らせを受け、サーラダーは涙を流しました。
 
 サーラダーは自らも、一つ一つ、自分を現世につなぎとめていた絆を断っているように見えました。ある日、闘病生活により衰弱したサーラダーの体に弟子が言及すると、サーラダーは答えました。
「ええ、わが子よ。私はとても弱っています。師がこの肉体を使って成し遂げようとされていたことは成就したのです。今私の心が求めるのは師だけです。他の何も求めません。
 私がどんなにラードゥを愛し、彼女のためにやってきたかわかるでしょう。でも今の私の態度は全くその反対なのです。あの子がやってくると、わずらわしくなって自分に言うのですよ。『私の心を引きずり降ろそうとするこの子が、どうしてここにいるのかしら』とね。こうしたことはすべて私の心をこの世に引きとめて、師のお仕事を続けるようにと、師がなされたことなのですよ。そうじゃなければ師が亡くなられた後、どうして生きることなどできたでしょう。」

 以前からの古い友人たちが訪ねてきても、サーラダーは会うのを拒否するようになりました。そして最後には、ついにラードゥとの絆を完全に断ち切ろうとしたのでした。

 サーラダーの姪であるラードゥは、まさにラーマクリシュナが、サーラダーをこの世につなぎとめるために置いた存在でした。サーラダーに対して悪態をつき、ひどいことを言い、多くの迷惑をかけてきたラードゥでしたが、サーラダーはなぜかこのラードゥを深く愛し、20年間にわたって、眼の中に入れても痛くない存在として、このラードゥがいたのでした。ラードゥにしばらく会えないと、サーラダーは耐えられないほどなのでした。
 そのような「この世にサーラダーを結びつける最後の絆」であったラードゥをも、サーラダーはついに断ち切ろうとしました。死の数日前、サーラダーはラードゥに、自分のもとを離れて故郷に帰るように言い、おつきの者にも、ラードゥを故郷に帰らせるように言いました。
 おつきの者は尋ねました。
「なぜですか? ラードゥなしに生きられるのですか?」
 サーラダーは答えました。
「できますとも。私は心を引っ込めてしまったの。」
 この一連の出来事を知ったサーラダーナンダは、深いため息をついてこう言いました。
「これ以上、マザーを地上にお引き留めするのは無理でしょう。ラードゥから自分を解放されたからには、他に何の希望もありません。」

 しかしサーラダーナンダは最後の望みをかけて、もう一度サーラダーの心をラードゥに向けさせようとしましたが、失敗に終わりました。そのときサーラダーはこう言いました。
「引き上げられた心は二度と降りてこないことを、しっかりと覚えておきなさい。」

 ラードゥに対してサーラダーが最後に言った言葉は、次のようなものでした。
「私は糸を切ってしまったのよ。あなたにどうすることができるかしら。私が人間だと思っているの?」

 サーラダーをただの伯母だとみなしてきたラードゥには、この言葉の意味がわかりませんでした。

 亡くなる前の週、サーラダーは、サーラダーナンダを部屋に呼びました。サーラダーナンダがベッドの前にひざまづくと、サーラダーは彼の手をつかんで、言いました。
「シャラト。私はすべてを残していきます。」
 そしてすぐに手を離しました。
 サーラダーナンダは非常な努力をして涙をこらえると、立ち上がって静かに部屋を出ました。

 死の数日前には、サーラダーの両足は腫れあがり、歩くこともできなくなりました。その頃、以前ラーマクリシュナと会ったことがある女性信者がやってきました。部屋に入ることは禁じられていたので戸口に立っていると、それをサーラダーが見つけ、部屋に入るように指示しました。彼女は入ってくると、泣きながらサーラダーに言いました。
「お母さん、私たちはどうなってしまうのでしょう。」

 サーラダーは、か細い声で答えました。

「どうして恐れることがありましょう。あなたは師にお会いしたじゃないの。何をおびえるというのです?」

 それからさらにこう言いました。

「あなたに話しておきましょう、子供よ。
 平安を望むのなら、誰の欠点も探らないことです。自分の欠点を調べなさい。世界を自分のものとすることを身につけなさい。子供よ、誰一人、他人はいません。全世界があなたのものです。」

 これが、ホーリーマザーことサーラダー・デーヴィーが、悩める人類に贈られた、最後のメッセージでした。
 1920年7月21日午前1時半ごろ、サーラダーは最後に数度深い深呼吸をすると、そのまま深いサマーディに入り、肉体を捨てました。その瞬間、長い病に苦しみつづけた肉体には安らぎが生じたように見え、神々しい光が放たれました。そのため、多くの信者は、まだサーラダーが亡くなっていないと思ったほどでした。

 サーラダーの死後、彼女に献身的に仕え続けたサーラダーナンダは、サーラダーが荼毘に付されたベルル・マト、サーラダーが最後の11年間を過ごしたウドボーダン、そしてサーラダーの生誕地であるジャイラームヴァティーの三ヵ所に、サーラダーのための聖堂を建てました。
 これらの聖堂の上には「マー(母)」と一文字が記された旗がはためいており、サーラダーの信者たちは、その旗を見るたびに、サーラダーが自分たちに繰り返し約束されていた、次のような祝福の言葉を思い出すのでした。

「私は徳ある者の母。そしてよこしまな者の母。
 悩める時にはいつでも自分に言い聞かせなさい。『私にはお母さんがいるのだ』と。」



終わり

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