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聖者の生涯&言葉&聖者についてコミュのシュリー・チャイタニヤ・マハープラブの生涯

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 「シュリー・チャイタニヤの生涯」は、ジャドゥナート・シルカールの『チャイタニヤの福音』の要約を元に、クリシュナダース・カヴィラージ(1517−1582年)によってまとめられた、最も信憑性の高い書物です。チャイタニヤの同年代の人物であるジャドゥナートはラグナート・ダースの弟子で、プリーに住んでいた時にチャイタニヤの従者を務めていました。クリシュナダース・カヴィラージはサンスクリット語とペルシャ語に長けており、彼は青年期に故郷ブルドワンを離れてヴリンダーヴァンへ向かって放浪し、ヴリンダーヴァンから12マイル離れたラーダークンドに腰を落ち着けました。若い頃からほとんどの作品をサンスクリット語で執筆していましたが、ファンの要望で古典ベンガル語で執筆を始め、彼が他界する一年前の1581年にその最高傑作を完成させました。

 ジャドゥナート・シンカールのこの素晴らしい書物の要約の翻訳に加えて、アムリタバサール・パットリカの有名な編集者であるシシル・クマールゴーシュによって描かれた『主・ガウラーンガ』の要約版からの資料もあり、その中で、チャイタニヤについてのベンガル語の他の書物から抜粋した事実に基づくこの偉大な化身の若年期について、啓蒙的で非常に興味深い記述をしています。

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【若年期】

 1486年2月4日の月食の日、シュリー・チャイタニヤ(1486-1533年)は、ナヴァディープのマーヤープル居住区で、聖典に造詣深いパンディットであった父ジャガンナート・ミスラと母親サチの間に生まれました。
 ナヴァディープは現在のカルカッタから北方75マイルほど離れたナディア地区の聖なるガンガーのほとりにあり、15世紀の当時は学問の中心地であり貿易も栄えていた豊かな町でした。ナヴヤ・ニヤーヤと呼ばれる、ミティヤーで誕生した新論理学が、ナヴァディープでも既に導入されていました。それはガンゲーサ(西暦1200年頃)を筆頭にした偉大な学者たちの継承によって発展したものでした。ニヤーヤを学び偉大な研究者やナヴァディープの機関の認可を獲得するために、インド中から学生がナヴァディープに集まりました。このような学問の発展もまた、ナディアの豊かな社会の中で、学生や教授への惜しみない援助によって支えられていました。

 チャイタニヤが世に出現することとなる15世紀に入り、学問の中心地として評判はあるものの、ナヴァディープには霊性の光が欠けていました。ヴィシュヌ派は公の宗教でしたが、一般のパンディットたちは霊的熱意を持っておらず、タントリズムの発展と共に肉食とアルコールの摂取が彼らの生活に浸透していきました。宗教は単なる儀式へと退化していき、宴と軽薄な気晴らしによって時々中断される、辛らつで例証的な論争に、パンディット達はその知的追求を費やしたのでした。このようなパンディットたちの生活の中に、ヴィシュヌ派の重要な教えである「神への信仰心」はありませんでした。

 主の誠実なヴィシュヌ派信者であり、教養のあったアドヴァイタ・アーチャリヤは、このようなバクティの衰退と物質主義的支配を目の当たりにして衝撃を受け、常にクリシュナに祈りを捧げていました。

「おお、主よ! あなた様自らが化身してくださらなければ、衆生はどのように罪償いができるのでしょうか。」

 その祈りに応えるために、チャイタニヤはこの地上に顕現されたといわれています。
【サキーの概念】

 クリシュナとラーダーの遊戯はきわめて深く、サキー(仲間)またはラーダーの同性の友人のみがそれを理解できました。サキーの魂としてクリシュナを崇敬していた者達だけが、この遊戯の充足感を楽しみました。それゆえ、帰依者たちは、魅惑の戯れをおこなうラーダーとクリシュナに注目するサキーの態度に順応することで、献身的信仰を実践しました。

 しかしサキー自身はクリシュナとの遊戯を望んでおらず、クリシュナとラーダーの戯れを企てることに情熱を感じていました。ラーダーは真にクリシュナの愛の希望の柔らかい蔓(カルパラタ)であり、サキーはそのつる植物の葉であり花であり芽でした。ラーダーとクリシュナの戯れの花の蜜は、歓喜の葉や花の形をとったサキーが流したそれの千万倍以上もあふれ出しました。互いに向けた無私の愛は滋味(ラサ)を強め、クリシュナはそのような無欲の愛の光景を喜びました。

 ゴーピーたちが感じていた愛は、欲望とは完全に別物でした。カーマ(愛欲)または性的欲望はただ個人の感覚的満足を目的としますが、ゴーピーたちはただクリシュナの喜びだけを探し求めていました。

 ヴェーダ崇拝を放棄してクリシュナを崇敬していたゴーピー達の情熱の甘露は、クリシュナの心を動かしました。クリシュナと同時代に生きたヴラジャの人々のような渇仰的な愛の道を進むことで、人は次の生で、模範としていた渇仰を持つヴラジャの人の姿をとり、クリシュナを得るのです。
 ラーダーとクリシュナの戯れを心に思い巡らすことで、私たちはサキーに生まれます。クリシュナを単に神としてどれほど崇拝しても、彼に到達することはできません。サキーとして、ゴーピーとしてクリシュナに奉仕をすることによって、彼に到達します。アストラル体でサキーによるクリシュナへの模範的奉仕に思いを巡らせることで、次の生でサキーとしてラーダー・クリシュナの御足に到達するのです。」



【ラーダーとクリシュナの人格を持つチャイタニヤ】

 このようにして、チャイタニヤとラーマーナンダ・ロイは、ラーダー・クリシュナとその崇高な愛の形について語り合い、歌と踊りと共に10日間を過ごしました。そしてついにチャイタニヤは、ラーマーナンダに本性を現しました。ロイの視界から苦行者の姿は消え、彼は究極の受容的歓びであるラーダーと歓喜の王子クリシュナが融合した姿を見ました。
 ロイは、チャイタニヤの権化はクリシュナが彼自身の歓喜を味わうために、ラーディカーの美しさと彼自身の感情を併せ持ったのだということを知り、その光景を見て恍惚状態に入りました。チャイタニヤはロイに触れ、彼を通常意識に戻して、その本性についてのロイの理解を確固たるものにしました。

「私はこの姿をあなたに見せた。この身体は色白ではなく金色だが、それはラーダーに触れたせいである。彼女は牛飼いの王子以外には触れない。私は自分の心で彼女の感情を思い、クリシュナの素晴らしい甘さを経験するのだ。このことは秘密にしておくように。」

 そして10日が経過した後、チャイタニヤは、出発する際にロイに命じました。

「この世の心配事は捨てて、プリーへ行きなさい。私も巡礼を終えたらすぐにそこへ戻る。プリーでクリシュナのことを語りながら、共に幸せに暮らそうではないか。」
【巡礼中のいくつかの重要な出来事】

 チャイタニヤの巡礼は二年を要しました。セーチュバンダとカンニャクマーリに至るまでの旅の途中、彼は全ての聖地の重要な中心地に行き、数ヶ所の重要な中心地以外は、聖地から聖地へとすばやく移動しました。
 シュリーランガムという所では、主はヴーェンカタ・バッタという信仰深い人物とチャトゥルマースヤ(季節祭)の四ヶ月間滞在しました。毎日彼はカーヴェーリで沐浴をして歌い、ランガナータの前で踊りました。そこで主は、神の前で意味も分からずに毎日ギーターを読んでいるブラーフマナに会いました。ある学者たちはその男に侮辱的な言葉を吐いて小ばかにしていましたが、彼はそんな学者たちのあざけりを気にすることなく、うっとりとした様子で読んでいました。男の打ち震える身体と歓喜の涙を見て、主は、何に刺激を受けてそれほど有頂天になっているのかとたずねました。男は答えました。

「私はギーターの意味も分からない無知な者です。私はただグルの命に従って読んでいるのです。うっとりした気持ちになると、私は自分の心の目の前に、二輪馬車に座った黒く美しいクリシュナが、その御者であるアルジュナに話を聞かせているところを見るのです。」

 チャイタニヤは、「あなただけがギーターを読むにふさわしい。あなただけがその本質を理解している」と言いました。

 チャイタニヤと共に滞在していたヴェーンカタ・バッタは、ラクシュミー・ナーラーヤナを信仰していました。彼はナーラーヤナを神とするシュリー・ヴィシュヌ派に属していました。チャイタニヤは多数の発言や聖書の引用を通じて、クリシュナが神であり、ナーラーヤナはその放たれた輝きであることを彼に理解させました。彼は言いました。

「それが全衆生の心を勝ち取ったクリシュナの魅力なのです。ヴリンダーヴァンの人々は、彼が仲間の一人であり、神だとは思っていませんでした。彼らはクリシュナがヴラジャの長の息子であって神だとは知らなかったのです。クリシュナをヴリンダーヴァンの人々のように崇敬した人々のみが、彼に達することができました。しかしナーラーヤナとクリシュナは本質的に同一です。それはラクシュミーとゴーピーたちも同じです。ゴーピーの格好をしたラクシュミーは、クリシュナの仲間であることを体験しました。しかし信仰的教義は、神の中に複数の存在を認めていません。よって、信者達は与えられた異なる彼の姿を瞑想するのです。」

 シュリー・ヴィシュヌ派のヴェーンカタ・バッタはこのようにして、クリシュナ信仰の実践をするように説得されたのでした。

 マドゥライでは、チャイタニヤはラーマダースという名の信者と共に滞在しました。ラーマダースは、ラーマーヤナの中でラーヴァナがシーター女神を連れ去ったことを悲嘆して、断食をしていました。チャイタニヤは彼に、それは正しいことではないと伝えました。
 セーチュバンダに到着すると、クールマ・プラーナの朗読が聞こえてきました。その内容は、ラーヴァナが連れ去ったシーターは実は火の神の世話を受けて身代わりに置いた幻のシーターであり、ラーヴァナ破滅後のシーターの厳しい火の試練は、本物のシーターを取り戻すためだったというものでした。チャイタニヤはその内容をプラーナからコピーし、帰国後マドゥライに到着してからラーマダースにそのコピーを渡し、彼の嘆きを和らげました。

 帰国時、チャイタニヤはカーニャクマリから以前のトラヴァンコル州を通り過ぎました。ティルヴァッタール(インド南部のタミル・ナードゥ州)のアディ・ケーシャヴァ寺院で彼はブラフマ・サンヒターと呼ばれる珍しい手書き原稿を見つけました。それはヴィシュヌ派経典の真髄であり、そこには全ての教義と実践が数語にまとめて書かれていました。彼はそのコピーを作り、大事な所有物として持ち歩きました。

 チャイタニヤはその後、西インドと中央インド地域を通りました。ゴーンド族の地で、部族の首領のナオーロージが、身代金を支払わなければ彼に危害を加えると脅しました。チャイタニヤは意志の力で彼を信者に改宗させました。ナオーロージは悪の道を放棄して苦行者となったばかりでなく、チャイタニヤの忠実な従者となりました。

 ドワーラカーは、チャイタニヤが西インドで立ち止まった重要な場所のうちの一つでした。大事な所有物として偉大な書物であるクリシュナ・カルナームリタの写しを持ち歩いていたのも、この地域を旅行中のときでした。その後、彼はプリーに向けて、彼の偉大な信者であり友人のラーマーナンダ・ロイの地ヴィディヤーナガルに到着するまで、ゴーダーヴァリー、ナルマダーやタプティの土手などの数々の聖地を通り抜けました。
【プリーへ戻る】

 チャイタニヤはラーマーナンダ・ロイに、統治者を辞めてプリーを訪ねるようにと再び助言し、クリシュナ信仰の布教と二年間の巡礼を経て、最後の目的地に到着しました。チャイタニヤはヴァースデーヴァ・サールヴァバウマに温かい歓迎と崇敬を受け、彼に二つの嬉しい知らせを打ち明けました。その一つ目は偉大な信者であるラーマーナンダ・ロイとの出会い、二つ目は最も貴重な所有物となった無類のクリシュナ信仰の福音であるブラフマ・サンヒターとクリシュナ・カルナームリタを得たことでした。
 彼はオリッサとベンガルの学者や信徒たちに、これらの書物を広めました。

 チャイタニヤの帰参はプリーの人々にとって大きな喜びでした。カーシ・ミスラは自分の家を出て、主がそこに宿泊できるよう手配しました。サールヴァバウマは地域の重要な住民全員でもある、ジャガンナート寺院のすべての従者に彼を紹介しました。
 主への謁見許可を求めていた者の中の一人に、オリッサの君主のプラターパ・ルドラがいました。彼は偉大な信者でしたが、チャイタニヤは出家修行者の身分としてそのような世間的地位と身分を持つ人物に会うべきではないとして面談を拒みました。そこでサールヴァバウマたちは、山車祭の日にジャガンナートの列の前で信者達と共にチャイタニヤが踊って歌っているときに、彼の前に普通の信者の装いをさせた王を連れてくる計画を立てました。主が恍惚状態に入っているとき、プラターパ・ルドラ王は主の前に平伏し御足に触れました。そしてそのとき王が美しい旋律で詠唱したバーガヴァタの詩は、魂が震えるような影響をチャイタニヤに及ぼしました。チャイタニヤは高い霊的ムードで王を抱擁し、それによってクリシュナ・バクティが王にもたらされました。

 ニラーチャルにチャイタニヤが帰着したことで、ナヴァディープの信者達の心は大きな期待に膨らみました。約二百人にもなった彼らの一団は、チャイタニヤに会うためにプリーに四ヶ月滞在し、その間彼らはサールヴァバウマによって配慮されたプリーの寺院の手厚いもてなしを楽しみました。
 日夜、主は恍惚状態の中で彼らと歌い踊りました。彼は途中で集団を四つに分けました。ハリの叫びと共に八つのドラムと32のシンバルが地区に鳴り響き、プリー中が情熱的信仰の洪水によってハリの御名の波を浴びました。主は四つのキールタン集団を従えて寺院を一周し始めました。たびたび彼は恍惚状態に入ったため、身体が地面に叩きつけられぬようにラーマーナンダのサポートを必要としました。このようにしてチャイタニヤは信者達と共に、絶え間ないサンキールタンの中でこの上なく幸せな時間を過ごしたのでした。
【山車祭】

 寺院の山車祭が近づいてくると、彼と彼のすべての信者達は、百の水瓶と箒を持って、彼のために用意された建物の掃除に従事しました。大声で詠唱されるクリシュナの御名が響く中、別の聖堂も含めた全寺院内の埃払いや清掃がおこなわれました。
 程なくして山車祭の日がおとずれ、15日間の隔離の期間を経たジャガンナートが、スメール山のように高く、金色に光り輝く車に乗って姿を現しました。車は天蓋に刺繍が施され、周囲には旗がはためいていました。数多の小さなベルが、絶えず音楽を奏でていました。
 主は一団を7グループに分け、4団を車の先頭に配置し、2団を車の両側、そして残りの1団を後方に配置しました。不思議なことに7団すべての位置から、主を眺めることができたと言われています。
 主は同時に八つのサートウィカ・バーヴァを顕現して、全力で踊りました。彼の髪は膨らんだ毛根から逆立ち、歯はぶつかり合って、体からは汗が血と共ににじみ出ていました。支離滅裂な言葉を声に出し、頻繁に顔色をバラ色やマリカ花のような色に変えました。そして時々枯れ木のように鈍重な様子で立ちすくしていたかと思うと、微かな呼吸で口から泡を吹き、床を転げまわりました。
 チャイタニヤから発せられる渇仰的情熱によって膨大な数となった熱狂的群集の中を、車はゆっくりと移動していきました。車はバルガンディの庭に到着し、ジャガンナートへ午後のボーグ(供物)を捧げる用意がされました。大量の様々な種類の食物が、神の両側に積み上げられました。主はベランダに引き下がり、激しいダンスによって完全に疲れ切った様子で横たわりました。チャイタニヤのすべての信者たちは、ジャガンナートの美味なるプラサードを大いに楽しみました。ボーグの後、再び車は出発しようとしましたが、象が引っ張ろうともそれはびくともしませんでした。しかし主が車を押すと、それはガタガタと音を立てて動き出しました。
 チャイタニヤと一団は、歌い踊りながら車に同行しました。夕方になってグンディカの庭に到着し、神像は車から取り出されて王座に置かれました。

 ジャガンナートはこの庭に9日間留まりました。この行進の意図は、クリシュナに他ならないジャガンナートが、毎年ドワーラカーからゴーパやゴーピーたちと楽しく過ごしたヴリンダーヴァンに行くというものでした。グンディカの庭は、森林や池で9日間彼が遊び過ごしたヴリンダーヴァンと見立てられました。
 9日目に、ラクシュミーにヘーラ・パンチャミが開催され、ジャガンナートは車で普段の寺院に戻りました。この進行の間も、主は至福の中を踊り歌ったのでした。

 その後チャイタニヤは、彼と共に四ヶ月間滞在していたナヴァディープの信者たちに対し、彼らが在家であることと、チャイタニヤが明示した新しいヴィシュヌ派の福音を布教するために彼らの存在が必要であることを理由に、ベンガルに帰郷するよう命じました。彼はまたニティヤーナンダにもベンガルに行くよう命じ、アドヴァイタと共に福音をベンガル中に伝播するよう指示しました。
 チャイタニヤはその後もプリーに三年間留まり、毎日をジャガンナートの前で歌い踊って過ごしました。
 毎年山車祭の期間中は、彼の活力ある仲間たちの恩恵を受けようと、女性を含めた膨大な数のナヴァディープの信者たちが、プリーを訪れるのです。
【ヴリンダーヴァンへ出発】

 プリーに三年間滞在したあと、チャイタニヤは、クリシュナが神の遊戯をしたヴリンダーヴァンへの巡礼を熱望しました。
 彼はガンジス河で沐浴し、ヴリンダーヴァンへ行く前にナヴァディープで母親に会うために、少数の信奉者を引き連れてプリーを出発しました。
 チャイタニヤ一行の北方のオリッサの国境までの滞在と寄宿先までの手配はプラターパ・ルドラ王によってなされましたが、国境では激流の川を渡り、ワイン飲みで狂信的なイスラム君主が支配する国を通り抜けなければなりませんでした。しかしチャイタニヤの魅力的な人柄としびれるような信仰によって、イスラム君主の国境警備人は敬虔な信者となり、彼の旅路を手助けをしました。
 その後、チャイタニヤはベンガル地域のガンジス川の土手をボートで進み、途中でパーニハーティとカーマルハーティに立ち寄りました。これらの地では多くの人々がチャイタニヤをひと目見ようと集まり、熱狂的信仰は伝染病のように群衆に広がりました。
 チャイタニヤはさらに旅を進め、シャーンティプルではアドヴァイタの家に10日間滞在し、そこで母親のサチにも会い、彼女の悲しみを癒したのでした。チャイタニヤは母親の足元にひれ伏し、足を握りしめて、ヴリンダーヴァンへ行く許可を請いました。そして母親の了承を得たチャイタニヤは、シャーンティプルでの短期滞在後一度プリーへ戻り、ヴリンダーヴァンへ向けて出発しました。

 旅の進路は獣や野蛮人が出没するコター・ナーグプールの森を横切っていました。可能であればどこででも食物を調達してチャイタニヤのために調理をするバールカンドラ・バッターチャリヤという一人の従者のみが同行していました。この旅で、この男は野蛮人からヴィシュヌ派信者になったのでした。

 素晴らしいことに、チャイタニヤの存在によって、トラと雄鹿が仲良くお互いをなめ合い、野生動物たちは彼のそばを並んで歩きました。チャイタニヤが沐浴していた水たまりにやってきた象たちは、クリシュナの御名を鳴き、水を撒き散らして踊り始めました。孔雀や鳥たちはチャイタニヤを見ると、そばに寄ってきてクリシュナの御名を歌い踊りました。
 ジャールカンド州では、チャイタニヤは残忍で暴悪な地域部族にクリシュナへの信仰を説き、彼らを救済しました。

 このようにしてチャイタニヤは、旅につきものの困難や危険な目に遭うことなく、カーシー(ヴァーラーナシー)に到着するまで、素晴らしい景色を楽しみながら森を抜けて旅を続けました。



【ヴァーラーナシーにて】

 チャイタニヤはヴァーラーナシーで、マニカルニカ・ガートで会った信者のタパン・ミスラと共に10日間過ごしました。そこにはプラカーシャーナンダという高慢な一元論者がおり、彼はチャイタニヤがプリーにいる頃に下品な手紙を送ってきたことがありました。あるブラーフマナが、チャイタニヤのヴァーラーナシー滞在を、次のようにプラカーシャーナンダに知らせました。

「その荘厳さと力に対してふさわしい表現が見つからないほどの苦行者が、ジャガンナートからやってきました。彼は大きい手足と最上の黄金のような麗しさ、長い腕、蓮華のような目といった、神が持つすべての特徴を備えています。誰も彼もが彼を見てクリシュナの御名を唱えています。バーガヴァタ・プラーナの中の偉大なすべての特徴が彼に見受けられます。彼がクリシュナの御名を歌う時、涙がガンガーのように目から流れます。彼は踊り、笑い、歌い、泣き、またある時はライオンのように叫んでいます。彼はクリシュナ・チャイタニヤという名です。彼に会うことは、神の鋳型を知ることのようです。」

 哲学者プラカーシャーナンダはただ笑ってその報告をあざけり、この新参者を苦行者ではなく名人と呼び、「ヴェーダーンタの所在地であるカーシーでは、センチメンタルな株の取引はしない」と言って、その評判を却下しました。


 チャイタニヤは、彼が聖なるトリヴェーニ(聖なる三本の川の合流点)で沐浴することになったアラハバードまたはプラヤーガと呼ばれる聖地へと旅を進めていきました。ヤムナーの景色は、その急流に無謀にも身を投げたくなる程、チャイタニヤをクリシュナ意識でいっぱいにしました。
【ヴリンダーヴァンにて】

 チャイタニヤはヴァーラーナシーに10日間滞在した後、今度はシュリー・クリシュナの生誕地であるマトゥラーに向かいました。その町の光景に、彼は渇仰的情熱の恍惚状態に入りました。マトゥラーに滞在している間、チャイタニヤはトランス状態で踊り歌い通しでした。
 彼はここで、彼の師であるイーシュワラ・プリーの指導者であったマーダヴェーンドラ・プリーによってイニシエーションを受けたブラーマナと、驚くべき対面を果たしました。チャイタニヤはそのブラーフマナから、マーダヴェーンドラ・プリーが復活させた秘密のゴーパーラ像をゴーヴァルダナの丘に奉ったことを知りました。
 チャイタニヤはヴィシュラム・ガートで沐浴した後、ケーシャヴァの生誕地でケーシャヴァの像に礼拝しました。そしてマトゥラーと近隣のマドゥヴァナ、タールヴァナ、クムダ、バフダなどのすべての聖地を巡礼しました。チャイタニヤがそれらの地を訪れると、草を食んでいた牛達は彼を囲んで鳴き、優しく彼の手足をなめました。鹿の群れは彼の顔をじっと見つめ、彼の体をなめ、怯えもせずに彼のあとを追いかけました。黒鳥とミツバチ達はチャイタニヤを見て甘く歌い、孔雀は彼の前で踊りました。チャイタニヤが行くところの木や植物は芽吹き、歓喜の涙を流すようにして蜜を垂らしました。花や果物でいっぱいの枝は、あたかも贈り物を携えて急いで友人を出迎えるように、チャイタニヤの御足に頭をたれました。
 ヴリンダーヴァンに行く途中、クリシュナの御名を歌いながらいつも踊っていたチャイタニヤの敬虔な信仰心は、プリーにいた頃のそれよりも10倍も強くなりました。そしてマトゥラーに到着し、ヴリンダーヴァンの森をさまよい歩いていた頃には、それはさらに千倍にも強くなっていきました。これは1515年11月、彼が29歳の頃のことでした。

 歴史的には、近代ヴリンダーヴァンは、ジャドゥナート・シルカールが述べたように、チャイタニヤの弟子であり後輩であったルーパとその兄弟のサナータナと従兄弟のジーヴァという三人のゴースワミの創造でした。彼らはチャイタニヤの信仰の主要な思想であるアチンティヤ・ベーダベーダの哲学を系統立てた偉大な学者たちでした。

 チャイタニヤにとっては、神秘的なヴリンダーヴァンは、ナヴァディープにいた頃から彼の頭を悩ませる夢の国でした。1509年、時の経過と共にジャングル化していったヴリンダーヴァンをクリシュナ時代に再興するための先駆者として、チャイタニヤは弟子の一人のローカナート・チャクラヴァルティを送り出しました。1515年にチャイタニヤが訪ねた時も、この地はまだあまり発展していませんでしたが、彼の訪問は、ここがシュリー・クリシュナに関わる聖地であるという認識を確立しました。
 ベンガルからやってきた三人のゴースワミとヴィシュヌ派信者にとって、とりわけラジャマンシン(皇帝アクバルの将軍であり統治者)の時代から、ヴリンダーヴァンの発展のための支援を延長することが可能となりました。
 チャイタニヤのヴリンダーヴァン滞在は2〜3ヶ月程の延長をしただけの短期滞在となりました。チャイタニヤは常に歌いながらラーダー・クンダやゴーヴァルダナ、ゴーヴィンダ・クンダやカンヤの森、カーリヤの湖、ラウハヴァナ、ゴークラなどの数々な聖なる地を訪れ、信奉者たちにクリシュナ・プレーマを分け与えました。
 しかしそこでの生活は、常に一つの危険をはらんでいたのです。チャイタニヤはヤムナーの景色を眺めてはその激流に頻繁に身を投げ出してしまうため、彼の仲間は何度もチャイタニヤを救出しなければなりませんでした。彼らは、チャイタニヤをあまり長くヴリンダーヴァンに滞在にさせておくのは危険だと感じ、巧妙にチャイタニヤを説得して、滞在から数ヶ月後、プラヤーガ(アラハバード)に帰らせることにしたのでした。

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