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聖者の生涯&言葉&聖者についてコミュの聖者の生涯『アーナンダマイー・マー』

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コメント(29)

(1)

アーナンダマイー・マー


 アーナンダマイー・マーは、1896年4月30日、東ベンガルのケーオーリアという小さな村で生まれました。そこは当時もイギリス統治の影響がそれほど強くなく、またイスラム教徒の多い地域でしたが、イスラム教とヒンドゥー教は友好的な関係にありました。その地域のイスラム教徒の多くはヒンドゥー教の低いカーストからの転向者だったので、ヒンドゥー教的な雰囲気を多く残していました。彼らイスラム教徒の中には、ヒンドゥー教のカーリー女神の強い信仰者たちも多くいました。

 アーナンダマイー・マーの父は、ビピン・ビハーリー・バッターチャーリヤという名で、名門のブラーフマナ階級の出身でした。彼の日々の大部分の時間は、宗教的行為に費やされていました。特に彼は、神への賛歌を歌うのが好きでした。また、聖地巡礼などで長期間家を留守にすることもしばしばでした。

 アーナンダマイー・マーの母は、モークサダー・スンダリーという名で、過去に多くの賢者を輩出した家系の出でした。彼女も夫とともに、神への賛歌を歌うことを好み、また自らも賛歌を作り、それはその地域でとても人気の高い賛歌となっていました。

 この二人の最初の子供である女の子がわずか9ヶ月で亡くなり、その三年後に、アーナンダマイー・マーは生まれました。彼女が生まれる直前、母のモークサダー・スンダリーは、神や女神の夢を、頻繁に見たといいます。

 アーナンダマイー・マーの幼名は、ニルマラー・スンダリー(汚れのない美しさ)と名づけられました。

 その後、四人の弟と二人の妹が生まれましたが、父親の収入は少なく、家族は貧しさの中で生きなければなりませんでした。そのため、子供たちは満足に学校教育を受けることができず、ニルマラーは合計で二年足らずしか学校に通うことができませんでした。
 しかしその短い期間においてニルマラーは、学校の教師を感動させたと言います。なぜなら彼女は、あまり勉強時間がないはずなのに、いつも教師の質問にすらすらと答えるということが続いたからでした。ニルマラーが長いこと学校を休み、久しぶりに学校に出てきたときでさえ、ニルマラーが教師のあらゆる質問にすらすらと答えるので、教師は驚いていたのです。
 実はニルマラーは実際に勉強時間は少なかったのですが、偶然に勉強したわずかな部分を教師が質問するということが続いたのです。また、勉強したことがない箇所を質問をされると、学んだことのない単語が頭に浮かび、すらすらと答えるということもよくあったそうです。

 こういう感じだったので、実質的には彼女はほとんど学校教育を受けていないに等しい人でした。後に聖女と尊敬される彼女の鋭い智性は、まるでラーマクリシュナのように、まったく学問によらずに内側から湧き出た純粋な智性なのでした。後に彼女はこう言いました。
『誰かが本当に神だけを望むならば、彼は心で神の本を読むことでしょう。印刷された本に何の用がありましょうか。』

 
 
つづく 
(2)

 幼いころからニルマラーは大変陽気だったので、周りの人々から、『ハーシ・マー(微笑みの母)』とか『クシール・マー(幸福の母)』などといったあだ名で呼ばれていました。
 正統なヒンドゥー教の家系の出で保守的なニルマラーの母は、ニルマラーがイスラム教徒と交わらないように気をつけ、イスラム教徒に触れた後は沐浴して浄化しなければいけないと考えていましたが、ニルマラーは気にせずにヒンドゥー教徒もイスラム教徒も関係なく楽しく交わっていたので、毎日何度も沐浴させられるはめになっていました。
 また、キリスト教の宣教師たちがケーオーリアー村に来たとき、ニルマラーは彼らを訪ね、彼らの誠実さと信仰心に大いに感動しました。ニルマラーはキリスト教の賛美歌を歌うのも大好きでした。

 ニルマラーは正式な宗教教育は受けませんでしたが、インドの子供たちは通常、周りの大人たちを観察し、日々やるべきことを吸収し、自然にさまざまな儀式などを行なえるようになっていくのです。ニルマラーも小さいときから、父に祈りの詠唱を学び、父の宗教儀式に毎日熱心に参加するようになりました。

 ニルマラーは小さいときから、普通の子供ではないことを示すいくつかの兆候を見せていましたが、両親はその重要性をあまり理解していませんでした。

 たとえばある日、彼女は何気なく母親に尋ねました。

「お母さん、私が生まれたすぐ後に、チャクラヴァルティさんが私たちを訪問しませんでしたか?」

 母は非常に驚きました。ニルマラーが生まれて数日後、チャクラヴァルティという人が実際に家にたずねてきていたのです。もちろん、そのことを誰もニルマラーには教えていないはずでした。それは明らかにニルマラーが、出生のときから鮮明な意識を完全に有していたというひとつの証明です。

 またニルマラーは時々、トランス状態に入りました。
 またあるときは植物と話をしたり、あるいは目に見えない存在と話をしているのが見られました。

 しかし両親はこれらについて過度に驚いたり注目したりはしていませんでした。これらの例は時々見受けられるだけであり、またニルマラーのすばらしい陽気さと愛らしさは、それらの奇行を補って余りあるものだったからです。

 また、ニルマラーの何かに対する信義の心は、本当に注目に値しました。
 たとえばあるとき、ニルマラーの親戚がニルマラーをシヴァ寺院に連れて行ったとき、ある用事のために、ニルマラーに、寺院の前で待っているように言ってそこを去りました。
 しかしその親戚は、ニルマラーのことをすっかり忘れてしまい、数時間以上がたってしまいました。親戚が気づいて寺院に戻ったとき、『ここで待っていなさい』と言って去ったまさしく同じ場所に、ニルマラーがまだじっと座っているのを発見したのでした。

 また幼いころ、こんな事件もありました。ニルマラーには、貪りが強く、激しい性質の祖母がいました。ある日、ニルマラーが4歳か5歳のころ、ニルマラーは祖母のために、凝乳が入ったポットを持ってきました。それは、ポットのふちまでいっぱいに凝乳が満たされていました。貪りの強い祖母は、ニルマラーが、余った凝乳を自分ももらえることを期待して、ふちいっぱいまで凝乳をついで来たのだと思い、非常に腹を立てました。そしてニルマラーを強くしかり、お前には凝乳をやらないと言いました。するとその瞬間、何もしていないのにポットにひびが入り、すべての凝乳がこぼれ落ちてしまったのです。祖母はそれから二度と、その不思議な孫娘に、凝乳を与えないなどと言うことはありませんでした。



つづく
(3)

この地方の慣わしで、ニルマラーはまだ幼いころに結婚しなければなりませんでした。その相手は正統なブラーフマナ階級の者でなければならず、また、インドの伝統で新妻が持参する持参金も、家計の事情から、最小限に抑えなければなりませんでした。
 このような条件の下に両親は念入りに捜索し、ラマニ・モーハン・チャクラヴァルティという男を、ニルマラーの結婚相手として選びました。彼は後にはシヴァ神の別名である『ボーラーナート』という名前で呼ばれました。

 こうしてニルマラーは、1909年2月7日にボーラーナートと結婚したのでした。それはニルマラーがまだやっと13歳になろうかというころのことでした。ボーラーナートの正確な年齢は不明ですが、ニルマラーよりもかなり年上だったことは間違いありません。
 結婚後5年間は、二人は一緒に住むことはありませんでした。
 ボーラナートは基本的な教育を受けており、結婚したときの職業はアティパーリアーという街の警察官でしたが、結婚の数ヵ月後に警察官を辞め、その後は職を転々としながら、東ベンガルのあちこちを放浪していました。
 
 ニルマラーは1910年までは両親と一緒に暮らしていましたが、14歳になったとき、シュリープルという村にある、ボーラーナートの兄の家へと行くことになりました。
 新妻は普通は夫の母から、妻としてのさまざまな教育を受けるわけですが、ボーラーナートの母親は、二人の結婚の二年前に亡くなっていました。そこで、ボーラーナートの一番上の兄であるレーヴァティー・モーハンの妻であるプラモーダー・デーヴィーが、ニルマラーの花嫁教育を担当することになったのです。

 ニルマラーの愛らしさと幸福な雰囲気は、この家でも皆を魅了し、プラモーダー・デーヴィーとレーヴァティー・モーハンは、ニルマラーのことが大好きになりました。

 ニルマラーは、家のすべての雑用を引き継ぎ、針仕事や機織りその他をこなしましたが、特に料理においては抜群の才能を発揮しました。
 また、洗い物や家の掃除においては、非常にまじめに全力で激しく取り組んでいたため、ニルマラーの手はいつもあざだらけになっているほどでした。
 このように、この家庭におけるニルマラーの奉仕は、常に完璧でした。それらのことをニルマラーは、自然な献身の心で行なっていたのでした。ニルマラーはすべての雑事を完璧に行ない、ほかにやることはないかと、プラモーダー・デーヴィーにたずねました。プラモーダーは感心していつも、家庭の主婦がやるべきことは他にはもう何もないと答えるのでした。

 ニルマラーが後に聖女として有名になった後、彼女はこの義理の姉のプラモーダーをたずね、この当時の幸せな日々について思い出を語り合ったことがありました。このシュリープルでの4年間の日々は、ニルマラーの人生の中でも、忙しくも、のどかで穏やかで幸福な日々だったのです。

 ニルマラーの霊的な資質の現われも、このころはまだわずかに現われるだけでした。彼女はたまに、不意にトランス状態に入りました。たとえば台所などで、無意識の瞑想状態に入っているニルマラーを、プラモーダーが発見することがありました。しかしプラモーダーは、特に驚きませんでした。ニルマラーがいつも激しく働いているので、疲れて寝てしまっているのだと思っていたのです。

 レーヴァティー・モーハンが亡くなった数ヵ月後の1913年、シュリープルでのニルマラーの生活は、終わりを告げました。
 その後ニルマラーは実家に帰り、両親と一緒に約六ヶ月暮らした後、1914年、東ベンガルのアシュタグラーマという地で、初めて、夫であるボーラーナートと一緒に暮らし始めたのでした。

 

つづく
(4)


 ニルマラーとボーラーナートの結婚生活は、とても風変わりなものとなりました。

 ボーラーナートは、ニルマラーを一般的な普通の村の少女だと思っていましたが、まず彼女がほとんど学校教育を受けていないと知り、失望を覚えました。そこでボーラーナートはニルマラーに本をプレゼントし、教養を身につけさせようとしましたが、彼はすぐに、ニルマラーには一般的な学問を追求する傾向がほとんどないということに気づきました。

 また、ボーラーナートがニルマラーに最初に夫婦としての肉体的な接触をしようとしたとき、ニルマラーは激しくそれを拒否しました。ボーラーナートはこのときは、ニルマラーがまだ子供なので、これは一時的なことであり、そのうちに正常な女性のようになるだろうと考えていました。しかし結局、この後も二人は一度も肉体的な関係を持つことはありませんでした。ニルマラーは、まったく性欲を持っていなかったのです。

 後に、ボーラーナートの死後、1938年に、アーナンダマイー・マーは、彼女の最も親しい信者の一人であったディディに、自分たちの結婚生活を回顧してこう言いました。

「ボーラーナートの心の中には、わずかな世俗的な考えの影さえも、決してありませんでした。夜、一緒にベッドで寝るときも、マローニ(ボーラーナートの姉の孫娘)と一緒に寝るときのように、子供に対するような純粋な姿勢しか見せませんでした。
 あなたは、何度も見たことがあるでしょう。夜、この体(アーナンダマイー・マー自身のこと)が神の至福のサマーディの状態に入り、その近くにボーラーナートがいたことを。彼は戸惑うことなく、至福のサマーディに入っている私の体を警備するかのように、気を配ってくれていました。
 最初のころ、この体が至福のサマーディの状態に入ったとき、それは一般的には仮死状態のように見えるので、ボーラーナータは非常に驚いたようです。しかしそのうち、マントラや神の名を唱えることで、この体を通常の意識に戻すことができるということを彼は知ったのです。」

 人々は、ボーラーナートが禁欲生活を送ることができたのは、ニルマラーの神秘的な力によるものだと考えるかもしれませんが、ボーラーナート自身も、極度に自己をコントロールする能力があったのは明白です。
 そもそも、一切の肉体関係を持たないというこのような夫婦生活を、ボーラーナートが喜んで受け入れていたという事実を見ても、ボーラーナートも普通の人物ではなかったということが推測されるのです。

 これは特にインドの社会の中では、驚くべき変則的な現象であったことを、心に留めなければなりません。なぜならインドの社会は伝統的には男尊女卑の傾向が強く、女性は常に男性に従うものという常識があったので、ニルマラーの禁欲的傾向にボーラーナートが素直に従ったというのは、まさに驚くべきことだったのです。

 ニルマラーは清純な禁欲生活を貫きましたが、それ以外に関しては夫のボーラーナートに対して常に従順で、彼を神と見て崇拝さえしていました。
 とはいえ、この夫婦の関係は複雑でした。ニルマラーは日々、影のように従順に控えめに夫に尽くしましたが、一方、精神的な修行においては、常にニルマラーが夫を指導する立場にあり、後には正式にニルマラーはボーラーナートのグルになったのです。

 ニルマラーの母親は、彼女にこう言いました。
「あなたは、あなたの両親として夫を見、仕えなければなりませんよ。」
 
 ニルマラーは母の言いつけどおり、能率的に家庭の任務を遂行し、通常はあらゆることにおいて夫に従っていました。しかし時にニルマラーは、突然に神の意思を感じ、ある行動をとらなければならないと感じることがありました。このようなときは、どんな人が反対したとしても、ニルマラーは神の意思を遂行しました。
 もちろんこのような場合も、ニルマラーはまず夫にその行動の許可を求めるのが常でしたが、夫がそれに同意しなかったときも、あきらめずにあらゆる方法で夫に賛成をさせようとするのでした。

 後に、ニルマラーの霊的資質が世に知られ、アーナンダマイー・マーとして有名になってからは、彼女は夫と離れて、他の男性のスタッフとともに、インドの各地に呼ばれて旅行することもありましたが、そのようなときにも常に彼女は夫の許可を求め、『正しさ』を保つのでした。

 また、アーナンダマイー・マーの祝福を受けようと、男女問わず多くの人々が彼女の元にやってくるようになりました。通常、インドの伝統では、女性は外部の人々の目にはあまり触れてはならず、特に若い人妻は常にヴェールで顔を多い、夫以外の男性にあまり顔を見せてはならないとされていましたが、ボーラーナートは非常に寛大に、人々がアーナンダマイー・マーと触れ合い、祝福を受けることを許したのでした。

 しかし彼女の友人や親戚たちは、このような状況を見て、彼女に厳しい批判を浴びせました。

 また、結婚していながら禁欲を守り続けるというニルマラーの精神的な特徴が明白になったとき、ボーラーナートの親族たちは彼に、ニルマラーと別れて、ちゃんと息子を産んでくれる『普通の妻』を見つけるように促しました。それに対してボーラーナートは反抗し続けましたが、ボーラーナートは親戚たちのことも大好きだったので、狭間に立って苦しめられました。

 ボーラーナートは、性生活を行なって子供を生むという妻の役目を果たせないニルマラーと、周りから反対されながらもなぜ死ぬまで一緒にい続けたのでしょうか? ――もちろんそれは、彼がニルマラーから受ける霊的な祝福と、それによる彼自身の精神的・霊的達成が、彼が味わうことのできなかった普通の夫婦のセックスや子供を得る喜びを、補って余りあるものだったからです。
(5)

 ニルマラーとボーラーナートは、最初のころ、アスタグラーマの、サーラダ・サンカル・センという人の家に住んでいました。そしてニルマラーのすばらしい霊性の高さを最初に『発見』したのは、センの義理の兄弟である、ハラ・クマール・レイでした。
 ハラ・クマール・レイは、教養はあるけれども情緒不安定な人でした。彼は、宗教的熱情に襲われ、彼の仕事(何らかの事務の仕事)を満足に遂行できないということがしばしばありました。

 ハラ・クマール・レイが初めてニルマラーに会ったとき、彼は『マー(母)』と言って、無意識のうちに地面にひれ伏しました。
 そのとき以来、ハラ・クマール・レイは、事あるごとにニルマラーの役に立とうとし、そしてついには、ニルマラーに毎日お会いすることを許可してほしいと、ボーラーナートに懇願しました。毎日彼女と話をし、また彼女のプラサードを受けたかったためです。
(※一度神や聖者にささげられた食事のお下がりはプラサードと呼ばれ、神聖なものとされます。)

 ボーラーナートはこれを受け入れ、ニルマラーに対しても、彼にプラサードを与えるようにと言いました。

 ある日、ハラ・クマール・レイがニルマラーに対して深い敬意を示しているとき、突然彼は、次のような予言的な言葉を叫びました。
『今私があなたを「マー(母なる神)」と呼んでいるように、いつか全世界があなたをそう呼ぶときが来るでしょう!』

 このアスタグラーマの地で、ニルマラーが普通の人間ではないと気づいたのは、ハラ・クマール・レイだけではありませんでした。ボーラーナートの友人の一人であるクシェートラ・モーハンも、ニルマラーにひれ伏し、ニルマラーのことをドゥルガー女神であると言いました。

 また、あるとき村人たちとともに神への賛歌を歌っている間に、ニルマラーが至福のサマーディの超意識状態に入ってしまいました。当然、村人たちの目はニルマラーにひきつけられ、ニルマラーが普通の人間ではないということに、多くの人が気づき始めたのでした。
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 1916年、アーナンダマイー・マーは重病にかかったため、彼女の両親が住んでいたケーオーリアーの近くのヴィディヤクトという場所に移り住みました。

 ここでの一つのエピソードは、マーが、本当の至福のサマーディ状態と、擬似的なトランス状態との違いを明確に見極めることができることを証明しました。
 マーのいとこのアンナプールナが、サマーディのようなこん睡状態に入りました。無智な村人たちは、アンナプールナを聖女だと思い、崇拝し始めました。
 しかしマーが自らも至福のサマーディ状態に入りながらアンナプールナに会ったとき、彼女は至福のサマーディに入っているわけではなく、夫が不在であることからくる悲しみにより、トランスのような状態になっているだけだということがわかりました。
 そこでマーは、アンナプールナの耳元で、
『あなたの最愛の人からの手紙が、まもなく届くでしょう』
とささやいたところ、アンナプールナはトランスから覚め、通常の意識状態に戻ったのでした。

 後年にもマーは、一見聖者に見える人がトランスに入っているときに、それが本当のサマーディではないことを見抜き、通常の意識に戻すことを行ないました。そして聖人ではない人がサマーディに入った振りをする、いわゆる霊的な詐欺について、人々に警告を発しました。

 マーは1918年までヴィディヤクトにとどまり、その後バジートプルというところで再びボーラーナートと一緒に暮らし始めました。このバジートプルにおける、1918年から1924年までの6年間は、マーの人生の中で、『サーダナの遊び』と呼ばれる時期でした。この時期、マーはサーダナ(解脱・悟りのための修行)に励み、さまざまな経験をしました。

 通常、われわれのような普通の人間や、道の途上の修行者が、今生において解脱や悟りを得ようとするとき、肉体を持った師の存在は不可欠です。弟子は師についてさまざまな指導と試練を与えてもらい、自己のカルマを浄化し、修行のステージを上がっていくのです。
 一方、もともと完成者として、世の人々を救うために地上にやってきた神の化身たちの場合は、本来は師を必要としません。しかし一応、師に弟子入りする形をとり、成就していくパターンと、一切他人に師事することなく、自己の内側の声だけを聞いて成就していくパターンと、両方あるようです。

 たとえばラーマクリシュナやパドマサンバヴァなどは、本来はもともと完成された魂でしたが、後の人への模範を示すため、何人かの師につき、修行をし、成就のステージを示していったといわれています

  そしてアーナンダマイー・マーの場合は、明らかに後者のタイプでした。マーには明確な人間の師がおらず、また、経典なども読んだことがありませんでした。サーダナのさまざまな段階を、マーは、ただ自分の内側から聞こえてくる声に従って、修行していったのです。

 この時期、夜になると、マーはさまざまなマントラを唱えていました。また、さまざまなアーサナを行なっている修行者たちの道場の隅に、マーが座っているのが見かけられました。

 これについてマーは次のように言っています。

「サーダナのさまざまなステージがこの体を通して明らかにされていたとき、さまざまな経験をしました。
 時々、『このマントラを繰り返しなさい』という声をハッキリと聞きました。そこで私が『何のマントラですか?』と聞くと、『ガネーシャのマントラです』とか、『ヴィシュヌのマントラです』などと、その声は答えるのです。
 あるときは、私の中にふと、『この声の主は、どんな姿をしているのかしら?』という疑問がわきました。そうしたらすぐに彼は、自らその姿をあらわしたのです。
 こういう具合に、あらゆる疑問や質問が私の中にわくたびに、すべては迅速な答えによって対処されました。そのようにして、全ての疑いや不安は、即座に消滅していったのです。
 またあるとき、その声は、『今日からあなたは、誰に対してもお辞儀をしてはいけません』と言いました。『あなたは誰ですか?』とたずねると、その声は、『あなたのシャクティです』と答えたのです。
 私は、私の中に、時に応じて私を導いてくれる、いくつかのタイプのシャクティがいることを知りました。こういうことがサーダナの各段階で起こり、真理の悟りが段階的に明らかになっていったのです。
 しばらくして、私の内側からこういう声が聞こえてきました。
『あなたは誰に従いたいと思うのですか? あなたは「すべて」です。』
 これを聞いて、すぐに私は、この宇宙のすべてが、私自身の現われであることを理解しました。
 そうして、部分的な悟りは、完全なる叡智に変わりました。そしてこの世のすべてのさまざまな現われの源である「唯一の実在」である、自分の本性を発見したのです。」
(7)

 毎晩行なわれるマーのサーダナの光景は、それをいつもそばで見ていたボーラーナートの心を、強い畏敬の念で満たしました。
 マーはよく、至福のサマーディの状態に入ったまま、何時間も神の歌を歌い続けました。
 またマーは、何時間もハリ(ヴィシュヌ神の別名)の名を唱え続けたりしましたが、これはボーラーナートを不快にさせました。ボーラーナートはヴィシュヌ神の信奉者(ヴァイシュナヴァ)ではなく、シヴァ神やその配偶者であるカーリーやドゥルガーを礼拝する、シャークタ派の信者だったからです。
 そこでボーラーナートが、シヴァやカーリーの名を唱えるようにマーに頼むと、マーはまったくこだわりなく、シヴァやカーリーの名を唱えるのでした。これはマーが宗派主義に陥らず、シヴァもヴィシュヌも、すべての神の名は唯一の絶対者をあらわしているのだということを悟っていたがゆえでした。

 初めのころ、マーは、夜にのみサーダナを行なっていたので、それを見ることができたのはボーラーナートだけでした。しかしその後、マーは昼間に他の人の前でも、サマーディに入ったり、マントラを唱えたりするようになりました。

 子供のように自由に振舞いながらサーダナを行なうマーの姿を見て、村人たちは奇異に思いました。
 ラーマクリシュナも、神に狂う修行段階の時期に、人々に狂人扱いされたように、マーの神的意識状態も、普通の人々には理解されませんでした。
 そして『彼女は悪霊に取り付かれたのだ』と結論付ける人も出てきました。

 以前は無条件で誰にでも愛されたマーでしたが、奇行をなし、悪霊にとりつかれたとみなされるようになって、その人気を失っていきました。そしてボーラーナートも、困った立場に立たされてしまいました。友人や村人たちが、マーのおかしな振る舞いをやめさせるようにボーラーナートにプレッシャーをかけていたのです。そして半ば強制的に、ボーラーナートは、マーを通常の意識に戻すための、悪魔祓いの祈祷師を呼ばされることになってしまいました。
 しかしある祈祷師が呼ばれ、彼がマーに手を触れたとき、祈祷師は体中が強烈な痛みに襲われ、地面にのた打ち回って苦しみ始めました。ボーラーナートがマーに懇願してやっと、祈祷師の痛みは取り除かれ、祈祷師はマーの前にひれ伏して、去っていきました。
 最終的にボーラーナータは、著名な医師であったドクター・マヘーンドラ・C・ナンディに相談することにしました。そしてドクター・マヘーンドラがマーを観察し、さまざまなチェックをした結果、マーが精神病ではなく、神の至福に酔った聖なる狂気の状態であるという結論を出し、ボーラーナートを安心させたのでした。
 この時代のインドは、今と比べて非常に神聖な宗教的な国でしたが、そのような国でさえ、やはり世俗的な人々の観念で成り立っているのがこの世界なのです。だからラーマクリシュナやアーナンダマイー・マーのような、その心のすべてが神に向かっているような人が現われると、世俗を常識とする人々から見ると、それはまさに「狂気」と映ってしまうのでしょう。

 ラーマクリシュナとアーナンダマイー・マーの共通点は他にもあります。それは二人とも、通常だったら長くかかる一つ一つの成就のプロセスを、ものすごいスピードで通過していったことです。

 ただし、ラーマクリシュナは、宗派にとらわれず、ヒンドゥー教の中のさまざまな修行や、ヒンドゥー教以外の修行までも行なって成就したことで知られていますが、マーに関しては、ヒンドゥー教内のさまざまな派の修行はこだわりなく行ないましたが、ヒンドゥー教外の修行を行なったという記録は特に残っていません。



 ある八月の満月の夜、ジューラン・プールニマーという祭儀の行なわれているときのことでした。マーはボーラーナートに夕食を用意した後、夜の修行を始めました。
 するとマーの中に、『今、自らグルの役割と弟子の役割を同時に演じなければいけない』というインスピレーションが生じました。
 そして秘儀のマントラが、マーの口からひとりでに流れ出しました。つまりマーは、自分で自分にイニシエーションを行なったわけです。マーは、自分の中でグルと弟子とマントラが一つになっているという実感のもとに、そのマントラを唱え続けました。
 この経験により、マーは、イニシエーションの本当の意味を理解しました。
「イニシエーションの本質とは、道を求めてさまよう修行者に対して、神自身がグルの役割を演じて現われ、彼の秘密を弟子に明かすこと」なのだと。

 しかし普通は、神は他の人間であるグルの姿をとって、弟子にイニシエーションを与えます。マーのような形で、自分で自分にイニシエーションを行なった他の聖者の例は、まったく知られていません。これもまた、アーナンダマイー・マーという聖者だけが持つ、他の聖者と違った特徴的な面の一つでしょう。
(8)


 自らがグルとなり自らにイニシエーションを与えるというセルフ・イニシエーションの経験をした後の数ヶ月間、マーの修行は、より急速に進んでいきました。
 マーは、ヒンドゥー教の教えや神話に出てくるような、さまざまな神々を実際に見、彼らに礼拝しました。
 といっても、普通のやり方で礼拝したわけではありません。マーの修行のすべての根底をなすものは、すべての一元化でした。マーの中で、礼拝者と、礼拝と、礼拝の対象の三者は一つに溶け、合一しました。すべての二元対立は消えうせました。

 この時期の数ヶ月の間、マーは、自分の肉体のことをほとんど意識していませんでした。ほとんど眠ることなく、また食物も、たまにわずかに口にする程度でした。
 当然、マーの境地を理解できない親類たちは、そんなマーのことを心配したり、怒ったりする者もいました。

 1922年12月の初めごろ、マーは初めて、ボーラーナートにイニシエーションを与えました。マーは、ヒンドゥー教の聖典などを読んだこともなかったにもかかわらず、聖典に説かれているとおりの方法で、ボーラーナートにイニシエーションを与えたのでした。
 そしてこの後、三年間、マーは完全な沈黙の行に入りました。彼女は、心から苦しんでいる人を慰めるためか、あるいはある重要なメッセージを誰かに伝えるためにごく数回言葉を発しただけで、後は完全に無言の日々をすごしたのでした。

 この時期、ボーラーナートは職を失ったため、二人は1924年4月に、東ベンガルの主要都市であるダッカに移住することになりました。それまで住んでいた小さな村であるバジートプルよりも、ダッカの方が、永続的な仕事にありつけると思ったからです。そして以前の雇い主でもあった、ナワブという男の下での仕事を確保しました。ナワブの所有する広大な土地の中の、ある庭園の管理人になったのです。そこの小さな家で、マーの「サーダナの遊び」は続けられました。
 そして偶然、同時期にダッカに移り住んだバジートプルの数人の知人たちによって、マーの不思議で崇高な状態の話が、たちまち広まりました。そしてマーの最初の敬虔な信者となった、「シャハ・バグ・ガーデンの母」をはじめ、ダッカの郵便局長であったプラーン・ゴーパール・ムケールジとその家族、地主のニシカンタ・ミトラとその家族、ダッカ大学の教授であったナニ・ゴーパール・バネールジ、ヴァキル研究所の講師であったバウル・チャンドラ・バサクなどが、その噂にひきつけられ、マーのもとにやってきて、その信者となりました。
 ほとんど文字も読めず、まともな教育も受けていないマーに、彼らのような人たちがひきつけられ信者となったのは、驚くべきことです。
 マーは、本当にまともに文字を書くことも読むこともできないように見えました。後年、マーはよく、サインを求められたときに、ペンでちょんと一つの点だけを書きました。そしてこう言うのでした。「それにはすべてが含まれています。」

 ラーマクリシュナも、同じくほとんど無学の人であったのに、多くの知識人たちが、彼の信者や弟子となりました。この点について、プラタプ・チャンドラ・マズンダルという識者は、こう言っています。
「彼(ラーマクリシュナ)の宗教は、至福そのものです。信者たちが彼にひきつけられるのは、信者たちの、理屈を超えた超越的な認識力によるものなのです。」

 マーの信者となった有識者たちも、同じようにマーの面前において理屈を超えた至福を味わい、彼女にひきつけられているようでした。
(9)

 この時期、マーは以前よりも頻繁に、通常意識を失ったサマーディ状態に入るようになっていました。ボーラーナートは、あるときは台所の掃除中に意識を失っているマーを見つけたり、あるいは意識を失って家の近くの池の中に落ちてしまっているマーを発見したこともありました。そこでボーラーナートは、マーを家に一人で置き去りにすることはできないと考えるようになりました。
 ボーラーナートはマーの世話を、彼の姉妹で、夫をなくして未亡人になっていたマーターリーに頼みました。以前にマーがボーラーナートの兄の家で花嫁修業をしていたとき、マーとマーターリーは友達になっていたのでした。そしてマーターリーは1959年にこの世を去るまで、マーの世話をし続けたのでした。

 1924年8月、マーの妹のスラバラーが、16歳の若さでこの世を去りました。これによってマーはひどく悲しんでいると思い、ボーラーナートは、マーの両親をしばらく自分の家に呼んで、マーの悲しみを和らげようと手配しました。ボーラーナートは、マーが死というものに対してまったく恐怖を持っていないということを、まだ理解していなかったのです。
 マーは、すべての存在の一元性を完全に悟っていたので、生と死のリーラーに心を動かされることはまったくありませんでした。
 マーは言いました。
「どんなことが起ころうとも、そんなことはどうでもいいではないですか?」


 この時期のあるとき、マーは、ダッカの近くにあるシッデーシュヴァリーという聖地のヴィジョンを見ました。
 マーのヴィジョンに従ってその地の調査を行なったところ、荒野の真ん中にある、人々に忘れ去られた、近寄りがたい雰囲気のカーリー寺院が発見されました。そして更なる調査により、この地には過去に多くの偉大な聖者や賢者とその仲間たちがいたということがわかったのでした。たとえばインド最大の哲学者といわれるあのシャンカラ・アーチャーリヤも、その場所でしばらくの期間過ごしたということでした。
 1924年の9月以降、マーはこのシッデーシュヴァリーのカーリー寺院にしばしば足を運び、一晩中そこにとどまるようになりました。
 そして1928年、このシッデーシュヴァリーに、アシュラムが作られました。これはその後、北インドにいくつか造られることになった、マーの信者たちのアシュラムの最初のものでした。
(10)

 マーとボーラーナートが住んでいた小さな家は、神の探求者たちをひきつける磁石のようでした。多くの求道者が、マーをたずねてやってきました。ボーラーナートは、マーの帰依者たちの利益のために、「若い妻は夫以外の男性に顔を見せたり、親しく接してはいけない」というヒンドゥー教の慣習を無視し、また、夫としてのマーに対する独占欲も捨て、多くの帰依者がマーと接することができるようにしてあげなければいけないと考えました。そこで1925年10月にマーの三年間の沈黙の修行が終わると、ボーラーナートは、たずねて来た者たちに、マーと自由に話をすることを許しました。
 しかし同時に、ボーラーナートはマーに次のような警告も発しました。
「世間に向けて本格的に君の扉を開く前に、よく考えてみなさい。
 この流れがもう少し強くなると、それはわれわれを飲み込み、圧倒され、抵抗できなくなるだろう。われわれがわずかな期間楽しんだつつましい夫婦生活は終わりを告げ、われわれには一切のプライバシーがなくなるだろう。」

 マーが最初に多くの人々の前に積極的に出て行くことになったのは、1925年に行なわれたカーリー・プージャーでした。
 カーリー・プージャーとは、カーリー女神への供養際です。カーリーとは恐怖の様相をした女神で、この宇宙の根源的エネルギーをあらわしています。このベンガル地方では、カーリーへの信仰が盛んでした。
 マーは最初は拒否していましたが、信者たちに頼まれて、自らが主催してカーリー・プージャーを行なうことに同意しました。
 儀式の最中、通常ならカーリーの像にささげる花とサンダルペーストを、マーは、自分の頭につけました。これは、カーリーの像は象徴に過ぎず、マー自身が真のカーリーの現われであることを示したものでした。
 次のような報告が残っています。
「そのようなときのマーのお顔は、きわめて美しく、輝いていました。そして儀式の間、すべての参加者は神聖な意識に満たされ、深い意識に引き込まれていました。」

 また、カーリーの儀式においては伝統的に、ヤギなどをいけにえにささげる習慣がありました。マーは一回目のときのみ伝統に従ってヤギをいけにえにささげましたが、その後は決して、動物をいけにえとしてささげないようにしました。
 このように、カーリーを礼拝しながらもいけにえの儀式は行なわず、自らがカーリーのための供物を受けたり、伝統的儀礼を無視したりしたのもまた、ラーマクリシュナとマーの共通点といえます。
(11)

 マーの神秘的なリーラーは、しばしば信者たちの心を圧倒しました。

 たとえば、1926年1月26日、日食の際に、マーが住んでいたシャハ・バグにおいてキールタンが行なわれた際の、とても詳しい記録が残っています。それは次のようなものです。
 
「マーは最初、わたしたちと同じように座っていましたが、次の瞬間、いきなり変貌しました。マーの体がリズミカルに揺れ始め、そして立ち上がり・・・というよりは何かの力で上方に自然に引っぱり上げられたように見えました。
 それはあたかも、マーが見えない力の手の中のただの道具になったかのようでした。・・・マーは風に流されるように、部屋の中をくるくると回りました。
 そして時折、マーの体が地面に倒れそうになったと思ったら、倒れる直前に、また突風に吹き上げられたかのように起き上がるのでした。それはまるで、マーの体が、何の重さも質量も持っていないかのようでした。
 そして突然、マーの体が、直立の状態からそのままバッタリと地面に倒れたのです。しかしマーはまったく怪我をしたりダメージをおっているようには見えませんでした。そしていきなり、つむじ風の中の葉っぱのように、マーの体がものすごいスピードで回転しました。そして2、3秒後、何事もなかったかのように、マーは体を起こして座りました。マーは今度はまるで神の像のように静止していました。マーの顔は紅潮して晴れやかで、体中が光り輝いているように見えました。」

 その後しばらくしてマーは、女神のような声で歌いました。

「おおハリ! おおムラーリ! おお魔を打ち倒す者!
 おおゴーパール! おおゴーヴィンダ! おおムクンダ! おおシャウリ!」

 マーの提案により、シャハ・バグでのキールタンは、毎晩のように行なわれました。そこでマーは、さまざまな恍惚と狂気の様相を見せました。毎夜の奇跡的なマーの姿を見て、信者たちは、宇宙創造の無限の美をあらわすために、神々の力がマーの中に降りてきていると確信するようになしました。

 また、キールタンの時のみならず、日中、たとえば海のさざ波など、自然の美しい光景などを見ただけでも、マーは至福のエクスタシーの状態になるのでした。
(12)

 1926年10月、マーは再び、カーリー・プージャーを執り行なってくれるようにと頼まれました。
 このときもマーは、伝統的なさまざまな決まりごとを無視して、独特の形でプージャーを行いました。
 まずマーはこのときから、儀式に動物のいけにえなどを使うことを許可しませんでした。その代わりにマーは、儀式のための神聖なる供養の火を絶やすことなく燃やし続けることを提案しました。この火は後にヴァラナシのマーのアシュラムで保存され続けました。
 また、儀式の終わりにはカーリーの像はガンジス河に流されるのが通例ですが、信者たちの求めに従って、マーは像を河に流すことをやめました。そして後にその像はラムナという地のマーのアシュラムに置かれ、それはあらゆるカースト、あらゆる宗派の人が礼拝してよいと、マーは定めました。
 もともと、一部のカーストにしか開かれていなかったヒンドゥー教の寺院を、後にマハトマ・ガンジーはすべてのカーストのために開いていく運動を行ないましたが、マーはガンジーに10年先んじて、それを行なっていたわけです。

 マーの寺院はイスラム教徒からすらも反発をされることはなく、またマー自身、多くのイスラム教徒から、愛情と尊敬を受ける対象でもありました。マー自身も、イスラム教を異教として卑下することなく、敬意を表していました。マーが住んでいたシャハ・バグ庭園には、偶然、イスラム教の墓があったのですが、その墓に対して、イスラム教のやり方でマーが祈りをささげている姿も見られました。それは無意識のうちに、マーの口から、コーランにあるアラビア語の祈りの言葉が、自然に出たのでした。

 あるとき、キールタン(神への歌や踊りをささげる儀式)の間、マーは、イスラム教徒が遠くから見ているのに気づきました。マーは歓迎のジェスチャーとともに彼らに近づくと、「アッラー、アッラフ アクバル(神は偉大である)」と、彼らのやり方で歌ったのでした。

 別のときにはマーは、イスラム教徒の労働者のところに歩いていって、彼ら皆に、アッラーの賛歌を歌わせたこともありました。

 そして何人かのイスラム教徒たちは、実際にマーの忠実な信者となったのでした。後にこのあたり(東ベンガル)がインドから分離され、マーがその地を訪ねることができなくなった後でさえ、この地のイスラム教徒たちは、マーのアシュラムの世話をし、維持のために必要なお金を寄付していました。

 マーはこう言っています。
「キールタン(ヒンドゥー教の神への賛歌)も、ナマズ(イスラム教の神への賛歌)も、まったく同じものなのですよ。」
 マーにとっては、ヒンドゥー教徒も、イスラム教徒も、同じく神を愛する者として、分け隔てない一つのものだったのです。
(13)

 マーはイスラム教徒たちからも大変愛されましたが、もちろんマーの信者の大半は、ヒンドゥー教徒でした。
 後に、マーの信者たちのグループは拡大していきましたが、その中心メンバーの多くは、1925〜1926年の間に、マーの信者となった人たちでした。1926年にはササンカ・モーハン・ムコーパディヤヤ博士、シヴィル氏とその次女であるアダリニ・デーヴィーなどが、マーに強い帰依を持ちはじめました。

 ムコーパディヤヤ博士は、現世的に恵まれた大変裕福な生活を送っていましたが、マーと出会い、現世を捨てました。

 ディディと呼ばれたアダリニ・デーヴィーは、非常に信心深い女の子でした。両親は彼女を結婚させたがっていましたが、神のみを求めるディディは、かたくなに結婚を拒み続けていました。 ディディと初めて会ったとき、マーはこう言ったのでした。
「ああ、あなたは今までずっとどこにいたのですか!?」
 これはラーマクリシュナが初めてヴィヴェーカーナンダに会ったときに彼が叫んだ言葉を髣髴とさせるものでした。

 ディディはマーの近しいアシスタントとなり、マーの家で家事などの奉仕を行なうようになりました。そして後にはマーのアシュラムの管理を任されました。


 女性の信者の中で最も信心深く、マーと親しかったのがディディだとするなら、男性の場合のそれは、裕福な農家の主であったジョーティシュチャンドラ・レイでした。後に彼はバーイジー(兄弟)という呼び名で知られました。
 彼は1924年の終わりごろ、初めてマーに会いました。マーは彼にこう言いました。
「私とあなたは、非常に強い霊的なつながりがあるのですよ。」

 バーイジーは、晩年に書いた遺書の中で、「私に明らかにされたマー」というタイトルで、おそらく最も洞察に満ちたマーの体験談を残しました。その中で彼は、ニルマラーが「アーナンダマイー・マー」と呼ばれるようになったきっかけについて、次のように書き記しています。
 ある日の午後、そのときバーイジーは非常に忙しかったのですが、マーに呼び出され、マーの家へ行きました。するとマーは彼に、「ボーラーナートとともに三人でシッデーシュヴァリーに行くことになっているのです」と言うのでした。
 そこで三人でシッデーシュヴァリーに行き、マーがカーリー寺院のそばに座っていたとき、バーイジーは突然、無意識の内に、心に浮かんできたことをボーラーナートに言いました。
「今日からわれわれは、マーのことを『アーナンダマイー』という名で呼ぼう」
と。
 この言葉を、ボーラーナートはすんなりと受け入れました。
 翌日、バーイージーは、なぜ仕事を中断させてまで自分に来るように言ったのかマーに質問したところ、マーは笑ってこう答えました。
「あなたが来なかったなら、他のだれがこの体に名前を付けたでしょうか?」

 −−マーの人生は、このような出来事に満ちていました。これらの例は、至福に満ちたマーが、宇宙のリーラー(神の遊戯)を完全に理解していたことを実感させます。マーに迷いというものはありませんでした。彼女はよくこう言っていました。
「すべてはただ(神によって)決められているとおりになるでしょう。」
(14)

 この時期、1926年前後から、多くの人々が、定期的にマーのもとを訪れるようになりました。それは、肉体的な病などをマーに癒してもらうことを期待してのことでした。
 しかしマーは決して、無差別に病人を治したりすることはありませんでした。信者に求められると、自分が今その人を治すべきかどうかを見極め、治すべきだと判断した場合のみ、癒しました。
 このような、病を癒す力、その他の超自然的な力については、サーダナー(成就修行)の副産物として、しばしば修行者に現われるのだとマーは説明しました。しかしそれらはあくまでも副産物であり、そういった超常的な力が修行の目的となってしまってはいけません。
 修行者は、そういった超常的な力が身についても、謙虚に、冷静に受け入れ、そして神の悟りこそが唯一の価値ある目的であるということを常に心に留めておかなければなりません。


 1924年ごろから、マーは、一人でものを食べる能力を失いました。彼女の指は、食べ物を手につかむことを拒否するようになったのです。そこで最初はボーラーナートに食べさせてもらっていました。そして後にはディディが、そして他の若い信者たちが、その役を受け持ちました。

 特に最初のころ、マーの食事量は異様なほど少ないか、または全く食べることを拒否していたので、信者たちは、困り果ててしまいました。 

 あるときはマーは、23日間、完全な断水断食を行ないました。
 長期間の断食の例は多くありますが、水も断ってこんなにも長期間普通に生きた例はありません。普通は水も断った場合は一週間が限度だといわれているので、これは世界的にも、大変珍しい例です。
 現代の西洋医学では、マーがなぜ、そんな状態で健康に生きることができたのか、説明することができませんが、そもそも本来人間は、通常考えられているよりも極端に少ない栄養で生きることができるのだということを、マーは身をもって示していたのかもしれません。

 ちなみにあのラーマクリシュナも、極端に少ない食事しかとることができなかったことで有名です。彼はたとえば神々に捧げられた供物のおさがりをほんの一口、口にする程度の食事しかしていなかったといいます。そこで心配した信者たちが、無理やりラーマクリシュナにもっと食事を食べさせたりしていました。これもまたマーとラーマクリシュナの共通点といえます。

 ある時期は、マーは、ほんのわずかなご飯と、熟して樹から自然に落ちた果実だけを食べると主張しました。熱心な信者が善意から、自然に落ちたものだと言って、そうではない果実を持ってくることもありましたが、マーは常にそのような嘘を見破りました。

 あるときは、マーが何日間も食物を口にしなかったので、ボーラーナートは、マーの命の心配を口にしました。それを聞いたマーは、その翌日、なんと、家にあったすべてのプリ(揚げパンの一種)とギー(純粋バター)を一人でたいらげてしまいました。そしてマーは言いました。
「もし、もっと多くの食物があっても、私はすべてをたいらげてしまったでしょう。ですから、私のために食事の準備をしないでください。もし私が本気で食べようと思ったら、たとえあなたがどんなに裕福でも、私を養うことはできないでしょう。」
 実際、マーはかつて、ある大きなパーティーの場において、20キロ近くのプリンを一人でたいらげたこともありました。しかしマーはこのような信じられないほどの大食をしても、全く体を壊したりすることもなかったのです。

 つまりマーは、食べなければ全く水も食物もとらなくて大丈夫、しかし食べようと思えばいくらでも食べられるという状態にあったわけです。これはマーが、単に「食べられない人」ではなくて、食物を採るとか採らないとかいうことを超越していたことを示しています。そして、現代人が食べ物を食べるとか食べないとかいうことにとらわれ過ぎであることを、マーは身をもって示してくれていたようにも思えます。

 普通の人の場合も、本来は人間の肉体は、普通考えられているよりも少量の食物だけを必要としています。しかしその味覚の記憶にとらわれ、人はいつもいつも、多くの食物を食べ過ぎてしまっているのです。
 
 ヨーガ修行を通じて、人は、食物への依存から解放され、霊的な手段でエネルギーを吸収し、生きることができると、アーナンダマイー・マーは断言しています。

 あらゆるものが、「唯一なる一者」の顕現であると完全に悟っていたマーは、あらゆるものから、空気からさえも、必要なものすべてを取り出すことができたのです。

 また、特にマーは、「食物を蓄えること」に対しても、厳しく戒めていました。
 たとえばあるとき、マーがカルカッタのある信者の家に行ったとき、その信者の家に多くの食物が蓄えられているのを知ったマーは、自ら食物倉庫に行き、そこにあった食物をすべて、近隣の住民たちに分け与えてしまったのでした。
(15)

 アーナンダマイー・マーは、食事だけではなく、呼吸からも自由になっていました。バーイージーによると、サマーディに入り、全く呼吸をしていないマーの姿が、しばしば見られたということでした。
 バーイージーは、ある日のマーのサマーディ状態について、次のように描写しています。

「彼女の顔は、強度な内的至福のために、真紅に輝いていました。
 彼女のすべての肉体の機能は停止しましたが、それでも、彼女の体のあらゆる孔から、すばらしい輝きが発されているのが見えました。
 そこにいた誰もが、彼女が深い神との交わりの中に沈んでいるのを感じました。
 そしてそのような状態は、10時間から12時間ほど、続いたのでした。」


 またマーは、ナーディーやチャクラなどの、霊的身体の解剖学についても精通していました。マーは実際に、自分で、それらを見、理解していたのです。
 マーは正確に自分が見たチャクラの形などを説明しただけではなく、霊的修行の進歩の間、どのようにそれらが機能するかなどについても、詳細に説明したのでした。
 

 マーの「サーダナー(成就法)」の段階は1926年までには終わりを告げ、それに伴う歓喜に満ちた珍しい現象は、マーの人生から、徐々に消えていきました。

 そしてこのころからマーは、彼女の信者たちから、「アーナンダマイー・マー」、または「ベンガルの母」、または「インドの母」などと呼ばれるようになり、その名声と活動は、ベンガル地方だけではなく、北インドに広く広がっていったのでした。
(16)
 1926年5月、マーは、彼女の信者でありダッカの郵便局長だったプラーン・ゴーパル・ムケールジの要請によって、デーオーガルフの神殿を訪問しました。プラーンは、郵便局長を引退した後、彼のグルであるバーラーナンダ・ブラフマチャリ・マハーラジのアシュラムの近くで暮らすため、デーオーガルフに移り住んでいたのです。
 プラーンはマーを、バーラーナンダに会わせました。
 この偉大なる賢者として知られるバーラーナンダは、マーを見るとひどく感動して、
「このお方は、人間の姿をした、母なる神だ!」
と叫びました。

 このバーラーナンダを通して、マーの存在は、他のマハートマ(偉大なる魂)と呼ばれる聖者たちの間に知られるようになり、聖者たちはマーのところに群がるように集まってきました。マーがどこに行こうとも、インド各地の聖者や賢者たちはマーにひきつけられ、マーの周りに集まってくるのが見られました。


 1927年の初めごろ、マーと側近たちは、ヒマラヤのリシケシとハルドワールの神聖な巡礼センターを訪問しました。
 ハルドワールにおいてマーは、ディディとその父に、そこで三ヶ月間、独居修行に励むように指示しました。マーは、二人にまだ残っていた現世的けがれを根絶するときが来たと感じ、そのような指示を出したのでした。ヒマヤラの簡素な生活下での独居修行は、彼らの現世的執着を根絶するのにぴったりの環境でした。

 ディディの父、ササンカ・モーハン・ムケールジーは初老の男性で、それまで快適な生活に慣れていましたが、このヒマラヤの修行生活において、過酷な生活環境に耐えなければなりませんでした。スピリチュアルな道とは、決して弱者の逃げ道ではなく、心身の頑強さが要求されるのです。彼はそれまでの快適な生活への執着を捨て、見事にこのヒマラヤでの厳しい修行生活に順応していきました。
 
 一方、マー自身はその間、至福に満たされながら、ヴァラナシや、クリシュナの聖地であるヴリンダーヴァンやマトゥラなどの聖地を巡礼しました。


 1927年7月、マーは、ウッタル・プラデーシュ州のヴィンディヤーチャルという地を訪ねました。当時、この場所はジャングルで、そこにいくつかの小屋が建てられているだけでした。マーはこの地でまるで昏睡状態のような状態でふらふらと歩き回り、ここはその昔、多くの聖者たちのヴァイブレーションによって祝福された場所だと説明しました。
 マーのこの指摘はインド政府まで伝わり、政府によってその地の発掘作業が行なわれたところ、実際にいくつかの寺院の跡が発見されました。
 その後、この地はマーのお気に入りのリトリートの場となり、さらに後にはここにマーのアシュラムが建てられたのでした。


(17)

 1927年8月、マーは至福に満たされつつ、自らの出生地であるケーオーラを訪問しました。
 しかしマーたちがかつて住んでいた家はすでにイスラム教徒たちに売り渡されており、改築されて、かつての面影は全くありませんでした。しかしマーは迷わずに、今は牛糞置き場になっている場所を見て、ここがかつて自分が生まれた場所だと認識しました。

 そこでマーが、その大地から一片の土の塊を手に拾うと、マーの眼から涙があふれました。
 
 ああ、何という神秘でしょう! 生死を越え、二元の世界を超えている、至高なる神の化身であるアーナンダマイー・マーが、喜びも悲しみも、苦楽を超えているはずの彼女が、このような、まるで大いなる悲しみや喜びに包まれているような情景を見せるとは!



 1928年9月、マーがヴァーラーナシーを訪れたとき、彼女は、ヴァーラーナシーのクイーンズカレッジの学長であり、インドで最も偉大なサンスクリット教師の一人である、マハーマホーパーディヤーヤ・ゴーピナート・カヴィラージと会いました。
 彼は後にマーの一番の信者のひとりとなり、マーに関する多くの出版物の責任者を務めました。
 
 ヴァーラーナシーにおいてマーは、祝福を受けに集まった人々に殺到され、取り囲まれ、ほとんど群衆の海の中に溺れたかのようになってしまいました。
 マーにはもう、個人的な、自分のためのだけの時間というものはありませんでした。大いなる慈悲によって、マーの人生は、彼女に精神的・霊的な救いを求めてきた人々にすべてささげられていたのです。

 アーナンダマイー・マーは偉大な聖者であり、聖なる母神そのものでしたが、インドにおいてもともと女性の地位は低いため、彼女の本当の神性を知らない人々は、マーを女性というだけでさげすんで見ることも多々ありました。
 多くの男性信者が、女性であるマーの足元に礼拝するとき、親類たちのあざけりに合いました。しかし親類たちが何を言おうとも、彼らはマーの発する聖なる磁気に抵抗することができず、人目を気にせずに、マーに礼拝をするのでした。



 1928年のはじめ、ボーラーナートは、職を失いました。
 その年の12月、マーは、ボーラーナートが、激しいサーダナー(成就修行)に励まなければならない時期がやってきたことを悟りました。
 マーはボーラーナートに、ターラーピートという火葬場で、孤独な瞑想修行に励むように指示しました(火葬場や墓地などは、ヨーガ修行に理想的な場所なのです)。
(18)

 1929年5月、アーナンダマイー・マーの誕生祝賀祭が行なわれたとき、マーは突然、ボーラーナートに、その日の夜、巡礼の旅に出発することを告げました。
 マーはヒマラヤのハルドワール、デーラドゥーン、ヴァラナシなどを旅しました。そしてこの短い巡礼の旅から戻った後、アーナンダマイー・マーは、もはや鍋をつかむこともできない状態になっており、そのために一切の家事を放棄しなければなりませんでした。
 この新しい状況は、ボーラーナートにとっては非常にショッキングな出来事でした。マーのもとで修行を始めていたとはいえ、ボーラーナートはまだ非常に人間的な観念が強かったのです。よって、日に日に、ボーラーナートのストレスはたまっていきました。その上、ボーラーナートの親類たちがその噂を聞き、ボーラーナートに、家長として妻にハッキリと意見をするようにと促しました。
 そこでボーラーナートは、勇気を振り絞って、マーに抗議をしました。マーは素直にそれを受け入れ、なんとか料理などをこなそうと頑張りましたが、病にかかってしまい、結局何もできませんでした。そしてボーラーナートも、数日後に病気にかかってしまいました。
 マーがボーラーナートの師として彼を導き始めてから、明らかにこの夫婦にとって、家庭生活のリーラーは終わりを告げていたのでした。

 そしてボーラーナートは、マーの作るおいしい料理をあきらめなければいけなかっただけではなく、もう一つの肉体的喜びもあきらめなければならなくなりました。それは快適なベッドでの眠りでした。
 1929年の10月ごろ、マーは再び体調を崩しました。マーはいつもは固い床の上に直接眠り、ボーラーナートは快適なベッドに寝ていたのですが、ある夜なかに、マーはボーラーナートを起こし、体調がすぐれないのでベッドを貸してほしいと申し出ました。ボーラーナートは喜んでベッドをマーに譲り、自分は固い床の上に床の上に横になりました。
 しばらくしてマーの病気は治りましたが、ボーラーナートは結局その後もずっと固い床の上に寝ることになりました。なぜなら、ボーラーナートが床に寝ている間に、マーは彼のベッドをバラバラに分解してしまったのでした。

 マーがこのようにして様々な手段でボーラーナートを訓練しているころ、マーは初めて、インド哲学の学者との会合をもちました。インド哲学者の議会が1929年にダッカで開催されたとき、何人かの学者が、マーの噂を聞いて訪ねてきたのです。
 
 学者たちは、無学であるマーに対して、何時間にもわたって深い哲学的質問を投げかけ、マーはそれらすべてに、素晴らしい答えを与えました。
 こうして学者たちの間でもマーの評価は確立され、その後も多くの学者たちがマーを訪ねてくるようになりました。
(19)

 1932年6月2日の夜、ダッカでマーの誕生祭が催された後、マーはディディに、自分はダッカを永久に去るという意志を伝えました。
 信者たちが彼女を説得して思いとどまらせようとしても、無駄でした。マーは言いました。
「私の心に生じた神の声に従って、私を行かせてください。」

 その日の夜の11時半ごろ、マーはバーイージーを呼び出しました。そして自分とボーラーナートとバーイージーの三人で、今からダッカを経つということを彼に告げました。
 バーイージーは、重大な決断をしなければなりませんでした。彼がマーについていくとすれば、それは彼もまた二度とダッカの家族とは会えなくなることを意味していました。彼は、アーナンダマイー・マーが、自分に家族との絆を断ち切らせようとしているということを理解しました。
 バーイージーは、いったん家に帰ってお金を取ってくる時間をくださいとマーに嘆願しましたが、マーはそれを許さず、今すぐに出発するとバーイージーに告げました。
 こうして三人は、ほとんど荷物も持たずに、ダッカに永遠の別れを告げて出発したのでした。真の放棄とは、現世的な心配や計画などは、露ほども入りこまないものなのです。

 駅に着いたとき、どこまでのチケットが必要か駅員に聞かれたアーナンダマイー・マーは、「この路線の終点まで」と答えました。そしてそれは偶然、聖地ジャガンナートグンジだったのでした。そして三人はさらにそこから、ヒマラヤ方面へ向けて進んでいきました。三人はどこかにとどまることなく、旅をし続けました。

 マーはまさに鳥のように、ずっと旅をし続けました。どんな土地にも2〜3日、多くても2〜3週間以上とどまることはありませんでした。

 マーは言いました。
「私は、一つの広大な庭が、宇宙に広げられているのを見ます。
 すべての動植物、すべての人間、そしてすべてのより高い生命体は、この庭の様々な場所に存在しています。
 この宇宙の多様性に、私はものすごい歓喜を感じます。
 あなた方の誰もが、この主の栄光の庭の中に、主の特別な相のひとつとして加わっているのです。
 私がたまたま、あなた方の兄弟を喜ばせるために、あなた方の前から一時的に消えたとしても、そこに何の悲しみがありましょうか? すべては主の栄光の庭の中なのです。」

 どこへ行っても、マーの行なうキールタンとプージャーは、人々の尊敬を集めました。人々はそこに神の存在を感じました。
 最初、アーナンダマイー・マーは、ベンガル語しか話せませんでしたが、その後、徐々にヒンディー語も身につけていきました。そうしてマーは各地を回って真理を振りまいたので、ベンガル人以外の多くのインド人や外国人たちにまで、彼女の信者は増えて行ったのでした。そして政府の高官、ビジネスマン、芸術家、学者、聖者、ジャーナリスト、王侯貴族など、さまざまな世界・さまざまな分野の人々が、アーナンダマイー・マーの信者になりました。
 すでに1933年に、のちにインド初代首相となるジャワハルラル・ネールの妻であるカマラ・ネールが、デーラドゥンに滞在していたマーを訪ねていました。その後カマラは、しばしばアーナンダマイー・マーに会いに来て、マーと一緒に瞑想をしました。至福に満ちたマーは、カマラに非常に親切にしました。
 その何年も後に、カマラは、アーナンダマイー・マーが瞑想中に自分に祝福を与え、クリシュナのヴィジョンを繰り返し見せてくれたのだと、そのときの思い出を語りました。そして彼女は、マーとの親交を通して、少なくとも毎日十五分間は神との交わりに時間を費やすよう、彼女の信奉者たちに語るようになったのでした。
 カマラが重病になったとき、至福に満ちたマーは、アルモラの近くの病院に、数回、彼女を訪問しました。カマラの死後、アーナンダマイー・マーによってカマラに与えられた数珠は、カマラの娘であり後にインド首相となったインディラ・ガンディーに譲り渡され、彼女はそれをずっと大事に手元に持っていました。
 ジャワハルラル・ネールも、インディラ・ガンディーも、共に何度もアーナンダマイー・マーのもとを訪問し続けました。

 また、カマラの仲介によって、アーナンダマイー・マーとマハトマ・ガンディーも、何度か会うことになりました。

 他にも、アーナンダマイー・マーの信者で社会的に有名な人は、多くいました。
 インドの大統領だったラジェーンドラ・プラサド、
 副大統領だったゴーパール・スワルプ・パタク、
 マイソールの裁判長だったスブダランジャン・ダスグプタ、
 グワリオルの王妃ヴィジャヤラジェー、
 裕福な実業家で慈善家でもあったジュガル・キショーレ・ビルラ、
 歌手のディリップ・クマール・ロイ、
 ダンサーのウダイ・シャンカル、
 カルカッタ大学のトリプラリ・チャクラヴァルティ教授、
 パトナ大学でビレシュワル・ガングリー教授、
 イスラム教の聖者ライハナ・ティヤブジなど。

 外国人の中では、あるオーストラリア人女性がアーナンダマイー・マーの信者となり、後に出家してブラフマチャーリニー・アートマナンダという名前になりました。
 彼女が最初にアーナンダマイー・マーに会ったとき、若干のヒンディー語を話せるだけでしたが、後に彼女は努力してベンガル語を完璧に身につけ、アーナンダマイー・マーの教えを英語に翻訳するのに尽力しました。

 開業医として成功していたフランスのある医師は、アーナンダマイー・マーのもとで出家してブラフマチャーリ・ヴィジャヤーナンダとなり、数年間、隠遁して瞑想修行を続けました。

 また、イギリスの有名なカメラマンのリチャード・ラノイ、
 フランスの映画プロデューサーのアーナウド・デスジャルディンス、
 そしてドイツの小説家のマリタ・マスチマン、
 彼らもまた、アーナンダマイー・マーが、自分たちの精神的な切望への「答え」であることに気づいた信者たちでした。
 また、ギリシャの皇太子や、カナダの首相なども、アーナンダマイー・マーを訪問しました。

 このように、1932年に「もうダッカには帰らない」といって放浪の旅に出て以来、アーナンダマイー・マーのリーラーは、神の助言を人々に与え続けることに費やされました。
 人類を妄想の眠りから悟りへと目覚めさせるためのこのような絶え間ないメッセージを、彼女はたった一人で、人々に与え続けたのです。
(20)


 アーナンダマイー・マーは、世俗の出来事には、全くの無関心でした。
 たとえばガンジーの非暴力運動、インドの独立運動などについても、彼女は全くの無関心だったのです。

 彼女が世事の出来事についてコメントしたのは、ほんのわずかでした。

 1947年にパンジャブの大虐殺が起きたとき、マーはただ、
「それらは起こるべくして起こったのです」
と述べただけでした。

 ガンジーが暗殺されたときは、マーは彼の死を、キリストのはりつけに例えました。

 この二つの例は別として、他の政治的な出来事に関して、マーは一切コメントをしませんでした。

 ドイツの小説家のマリタ・マスチマンは、1961年のキューバのミサイル危機のとき、マーのそばに滞在していました。
 マリタは、この危険な状況の中でも、アーナンダマイー・マーはいつもと変わらずに寂静の境地にあったと証言しています。
 このときマーのそばにいた経験は、マリタの意識をこの世の二元性の領域から解放するための手助けとなりました。
 そしてマーは、外側の世界のどんなことも、人の真の本性(真我)に影響を与えることはできないのだと、マリタに理解させました。
 純粋な至福が支配するところでは、一切の恐怖は消え去るのです。
 1937年、バーイージーは、シヴァ神の住まいであるカイラーシュ山の巡礼の旅に、マーとともに出かけました。
 この巡礼の旅の途中、バーイージーは、突然、すべてを完全に放棄したいという衝動に心を打たれました。その時、アーナンダマイー・マーは、自然に口からマントラを発して、バーイージーに出家のイニシエーションを与え、出家者としての名前としてスワーミー・モウナーナンダ・パルヴァットという名前を与えました。
 その数日後、彼は突然高熱に襲われて倒れ、「マー、マー」とつぶやきながら、アルモラの地で亡くなりました。

 また、ボーラーナートは1938年に天然痘にかかって亡くなりました。

 1936年には、アーナンダマイー・マーの父親も亡くなっていました。
 そしてマーの母親のディディマーは、1939年に、スワーミー・ムクターナンダ・ギリという名前で世捨て人になりました。それ以後、アーナンダマイー・マーは、自分の信者たちの指導を手伝ってくれるように母に頼み、彼女は死ぬまで、娘のそばでその救済活動の手助けをし続けました。そして1970年8月8日に、93歳で亡くなりました。
(終)

 アーナンダマイー・マーの信者の数は、日に日に増加していきました。そして新しいアシュラムも北インドおよび中部インドで増えていき、それらを管理する組織が必要になりました。そこで1950年2月、「シュリー・シュリー・アーナンダマイー・サンガ」が、以下の目的のために設立されました。

1.悟りへの道を促進するため。

2.成就法の修行のためのセンターを設立するため。

3.宗教行事などを組織的に行なうため。

4.サードゥや出家修行者に対して、無償で医療活動を行なうため。


 しかしアーナンダマイー・マー自身は、「シュリー・シュリー・アーナンダマイー・サンガ」の運営には、一切関与していませんでした。サンガの日々の活動は、41人の理事会と、10人の評議会によって運営されていました。そして在家信者からの布施が、サンガの唯一の収入源でした。
 
 1952年には、機関誌「ヴァルタ」が、ベンガル語とヒンディー語と英語で、出版を始めました。その内容は、アーナンダマイー・マーの教えや近況だけではなく、さまざまな宗教にかかわる人々を、精神的に励ますものでした。

 1964年には、貧困な人々に無償の治療を行なう近代的な病院が、ヴァラナシに設立されました。

 アーナンダマイー・マーは、これらの活動には直接かかわってはいませんでしたが、彼女が自ら責任を持って行なっていた活動が、1952年より始まった、年に一度の「サムヤム・ヴラタ(克己と自己制御の誓いの儀式)」でした。
 現代においては、インドでさえ、人々は世俗的な活動に深く巻き込まれ、完全なる放棄の生活を送ることを望む人はほとんどいません。アーナンダマイー・マーは、その事実をよく知っていました。しかし少なくとも毎年一週間は、人々が現世の生活を捨てて、精神的な探究に完全に没頭することを願っていました。
 サムヤム・ヴラタは、いずれかのアシュラム、または裕福な信者によって提供された場所など、毎年毎年、違う場所で行なわれていました。
 サムヤム・ヴラタの参加者は、その期間中、一日に一回、軽食をとるだけで、あとは断食します。そして口論や無駄話を慎み、コーヒー、紅茶、アルコール、セックスなども禁止されます。そして最大限に素朴で質素な生活を送ります。ときにはテントで生活することもありました。
 昼間は学者や聖者などが、放棄の生活について説法をしました。そして夜はアーナンダマイー・マー自身が、毎晩一時間ほどのサットサンガを行ないました。そしてその他の時間は、神の歌を歌ったり、瞑想のために費やされました。
 毎年、西洋人を含む約100人ほどの人たちが、このサムヤム・ヴラタに参加していました。
 ある信者は、サムヤム・ヴラタを、「スピリチュアル・トレーニング・グラウンド」という、とても適切な名前で呼びました。
 アーナンダマイー・マーは、サムヤム・ヴラタに参加する人々が、将来、物質的な富ではなく、神の実現を第一の関心事とする社会を作るための礎となると考えていました。

 一年のうちの一週間だけでも現世を捨てるように人類に促すことによって、アーナンダマイー・マーは、自らが半世紀にわたって行なってきた放棄の、その微小部分だけでも人々が実践するよう、願っていたのです。
 アーナンダマイー・マーは、高齢になっても自分の家を持たず、人々のために「飛び続ける鳥」であり続けました。
 彼女には常に多くの贈り物が信者から贈られていましたが、彼女自身はそれらに全くの無関心で、すぐに他の者たちに分配されるのでした。


 高齢となってからのアーナンダマイー・マーの身体には、当然、老いの痕跡が見られるようになりました。
 そして健康的にも、通常の現世の人間的観点から見ると、悪い兆候が多くありました。
 しかしながら、そのような病の中にあっても、アーナンダマイー・マーの心は、全く乱されませんでした。彼女はこう言いました。

「この肉体のために、不便さや不快を感じることはありません。
 また、この病気は素晴らしい遊戯でもあります。
 この肉体に関することは、例外なく、すべてが遊戯にすぎないのです。
 ただ神の意思に従って、さまざまなことが起きているにすぎないのです。」

 このようにしてアーナンダマイー・マーは、信者たちに対して、苦楽の二元性を超えた境地に達する努力をすべきであるということを、常に示し続けたのでした。

 
 そして1982年8月29日の日曜日、午後1時30分ごろ、アーナンダマイー・マーはこの地上でのリーラーを終えて、マハーサマーディに入り、不変の領域へと帰って行ったのでした。



終わり

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