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切なさと哀愁の詩(歌詞)や小説コミュの切ない夫婦のお話です、、《春風駘蕩》 by 本庄七瀬

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少しだけ、私の妻のことを話したいと思う。定年を迎え、ただ毎日を食いつなぐ男の日記だと思ってくれてもかまわないし、送り手のいない手紙だと思ってくれてもいい。他になす術もなく、一人書斎でペンをとる私の誰にも言えない内緒話に少しだけお付き合い願いたい。



私の心は、とても長い間、雨催いのようでした。
二十年近く連れ添った妻が、そう言い残し消息を立ってから、今年で丸七年が経とうとしています。この七年間は、私にとって稲妻のように早々と過ぎて行ったわけでもなく、一日一日に感謝するように時を刻んできたわけではありません。ただ、自ら終止符の打てないこの人生に身をまかせ、終わりの見えぬ旅の中、もがく最中にいるのです。



妻が家を出て行った時、私は、すぐに妻が私の処へ帰って来るだろうと高をくくっており、動揺した記憶も、意気消沈した記憶もありません。逃した魚は大きいとでも言いましょうか、当たり前にあった夫婦という居場所の尊さは、時が過ぎ、季節が変わる度、今になって私を追いつめているのです。しかし、現在、妻と直接連絡が取れない状態であることから、私が何を言っても、今となっては取り越し苦労にすぎません。
六年前の正月。妻から送り先のない年賀状が届いた日に、私は、辞書を開き、「雨催い」をひきました。ふと、妻の最後の言葉を思い出したのです。「どんよりと曇って、今にも雨の降り出しそうな空の様子」と記載がありました。書斎の窓を開けて空を見上げると、棚雲が空全体を覆い隠してしまっていて、その日は偶然にも雨催いにふさわしい情景でしたから、私は妻を思い、初めて心を痛めたのです。それからの私は、部屋で一人過ごしながら妻のことを考えるようになりました。二十年間も夫婦生活を営んでいながら、私が憶えている妻の記憶は決して多くはありません。妻をどんな人であるかを説明することも一困難なのです。しかし、そのわずかな記憶の糸をたぐり寄せ、紐解きながら生きる以外私には道がありません。



年末になると、私は、妻が机に向かう姿を思い出します。十二月二八日の妻は、まるで冬に向かってせかせかと働く蟻。意気揚々と川を下るサクラマスのようでした。妻は、早朝からパソコンの前に座り込み、カチカチと音を立てながら、デジタル写真を取り込み、フォトショップという機能を起動させます。老眼鏡をヒーローが戦う前に使うアイテムのように耳にかけると、さらに音を立てながら、画面に浮かび上がった写真の一つ一つを開いていきます。時々、低いライオンのような声でうーんと唸ります。
この日の彼女の奮闘中、私は、遊び方の分からぬ猿のようにじっと座ってその様子を眺めていました。その後ろ姿は、今でもはっきりと憶えています。
妻は、私と結婚してから二十年間、(パソコンを使っていたのはわずか数年ですが)毎年「年賀状」という彼女の一大イベントを懸命にこなしてきました。結婚当初は、イラストを書いたり、消しゴムで版画をつける程度のものでしたが、凝り性な性格が彼女を駆り立て、紅白歌合戦に望む有名な歌手のように、年賀状を出し終わると、翌年の年賀状の思案を始めるまでになりました。妻は、物事を思い立つと、ほぼ同時に決断をする気質があり、丑年の年に牛のイラストを書くために北海道まで足を運んだ時は、たいそう私を驚かせました。私が、何も北海道まで行く必要はないのではないかと嗜めると、妻は、笑って航空券を見せたのです。
さらに、妻は、友人や同僚用、教師や上司用、親戚に送る用など、毎年三、四種類の年賀状を作りました。私の勤めていた会社に送る年賀状は、毛筆で書かれたものが多かったのですが、友人などに送る年賀状は個性的なものが数多くありました。例えば、寅年には、「竹と虎」の有名な絵を真似て水墨画を描いた後、竹のにおいがつけたいと言い出しました。お風呂場に竹のお香を大量に炊き、匂いをしみ込ませようとしましたが、あっけなく失敗に終わり、最終的には竹を買って来て大きな鍋でぐつぐつ煮た湯につけるという暴挙に出ました。薄茶色で私の手の皺のようにヨレヨレになった年賀状は、友人達から何があったのかと一報をもらう程に奇抜な年賀状でした。
とにかく、妻の治子は、清楚で素朴な様相とは異なり、少し変わった女性でした。



私が治子と出会ったのは、35歳の春でした。当時の私は、物流の会社に勤め、複数の女性とお付き合いをしながら、高級車を買えるぐらいの貯金もありました。周りには結婚を急かされることも多かったのですが、三十半ばを過ぎても私の中で「結婚」という二文字が浮かんだことはありませんでした。私は、金も女性も、ほしいと思ったものは何でも手にはいることを誇示していましたし、自画自賛の天狗でしたから。田舎の母が、そんな私を心配し、お見合いを持ちかけた相手が治子でした。実物はすでに治子が捨ててしまいましたが、当時届いた治子のお見合い写真は、お世辞でも可愛らしいとはいえないものでした。私の好んで付き合う女性のような華やかさや艶やかさもなく、その頃はすでにカラー写真が普及し色がついていましたが、ほとんどそれを感じさせない程さえない写真でありました。私は、すぐ母に断りの連絡を入れました。しかし、それをはじめから分かっていた母は、すでにお見合いの日取りを決めており、私は渋々治子と会うことになったのです。



京都の磯城屋という名の老舗料亭で私と治子はお見合いをしました。実際の治子は、写真で想像した通りの女性で、赤い着物に赤い口紅をつけていましたが、子供が七五三で初めて親に塗りたくられたような未熟さがあり、女としての妖艶な魅力からはかけ離れていました。私は、治子と向かい合い、いくつか会話をしましたが、途中からは何を言ってこの場から去ろうかと、そんなことばかりを考えていました。
「あなたは、たけるちゃんにとても似ている」
治子がそう口にしたのは、私が「明日仕事が早いので」と席をはずそうとした時でした。「たけるちゃん??」と私が訊くと、治子は鞄から小説を取り出して、その主人公に私が似ていると繰り返しました。私が、その主人公はどんな人間なのかと訊くと、治子は、少し黙って考えた後「春風駘蕩な人です」と答えました。それから、聞いてくださいますか?という言葉を皮切りに、そのたけるちゃんという主人公がどんな男性で、どれほど素晴らしいかをあらすじを含め約1時間語り続けたのです。私は、治子の容姿と異なるその見事な語りっぷりに目を丸くしました。私の付き合っている女性達は、いつも私を追いかけさせる危うさや男をひきつける優美さがあったのですが、自らの思いを滝のように語る無遠慮さに近い無邪気さは持ち合わせていなかったのです。だから、私は、治子ともう一度会うことを決めました。

その日、帰宅してから私は辞書で「春風駘蕩」をひきました。「春風がそよそよとそよぐさま」と「温厚な人」というような記載がありました。治子が何故、その聞き慣れない言葉を知っていたかといいますと、文学部だった彼女は、和歌や綺麗な古語を好み、気に入ったものは手帳に全て書き込んでいました。一度見せてもらったことがありますが、私には無縁の言葉ばかりで、実際私にとって不必要だと思われる語もたくさんありました。治子は、その語や文章の中でも季節の入った言葉を口にすることが多かったように思います。




「春・夏・秋・冬って並んでいるけど、本当は春が最後なんじゃないかしら」
近くの河原へ桜を見に行った時、治子は突然そう言いました。それは、思い付いたような口調でありながらも、振り返った時の治子の目は真剣でした。私が、何故かと問うと、治子は、すらすらといくつかの和歌を読み上げてくれました。

梅の花 あかね色香も昔にて おなじかたみの春の夜の月
花の色は うつりにけりないたずらに わが身よにふるながめせしまに
ことしより 春知りそむる桜花 ちるといふ事はならはざらなん

治子のその時呼んだ句は、結婚して以来もよく口にしていたため、私も今では暗記してしまう始末です。治子は、そっとささやくような声で言いました。
「春の歌は、切ない歌が多いんです。それに、人は、春が来る度に年をとったことを実感します。だから、春がきっと最後の季節なの」
よばれ桜の舞う中で、悲哀な眼差しで空を見上げる治子は、私の目の動きを止める程に美しく、私はその治子の横顔から視線を外すことができませんでした。しかし、治子にひきつけられる何かを感じながらも、私には、複数の女性がおり、やはり今の生活を崩してまで治子と一緒になることは出来ないと思いました。言葉を選びながら、私がどれ程結婚にそぐわない男であるかを私は治子に伝えました。
「かまいません」治子は、きっぱり、あたり前のようにそう答えました。
「今、何て言いました?」
「私は、あなたに何人女性がいても、かまいません」
そう言った治子の顔には、偽りや偽善のかけらは見当たりませんでした。まっすぐな瞳は、私の視界を完全にとらえ、二人の間にはただ無音の桜の雨が降り注いでいました。私は、内心とても動揺していて、返事に躊躇しました。治子は、そんな私を見て僅かに微笑みました。
「あなたは、あたしに興味がなかったでしょう。お見合いに来る気も最初からなかった。あなたの表情を見ればすぐに分かりました。でも、あなたはあたしの長い話を最後まで聞いてくれました。私には、あなたの妻としてあなたの求めるもことはすべてやってのける自信があります。私の足りていない所は他の女性で補ったとしてもそれは仕方のないことです」
この時の私の顔を想像出来ますか。私は、混乱と辟易に捕われ、女の強さを知ったのです。いや、しかし、今の表現には語弊があります。私は、こんなに私にとって都合の良いことはないのではないかと内心は喜んでいました。今の女性関係をひきずったまま伴侶を持つということは、私の想像を超える新しい世界であり、私は目の前できゅっと唇を結ぶ治子を今すぐ手に入れたくなってしまったのです。




早雪が街を白く染め始めた十二月。私と治子は結婚しました。式の後、私は、夫としてなすべき約束を治子と二つ交わしました。治子が十分に好きなものを買えるだけの金を稼ぐことと、休暇の日は、必ず治子といることでした。治子は、毎朝私よりも早く起き、どんなに私の帰りが遅くなっても私が眠るまで起きていました。料理の腕も掃除も主婦業と呼ばれるすべてが卓越しており、治子の言葉通り完璧な妻でありました。私は、結婚前から付き合っていた女性三人のうち二人と別れ、麻美という名の女子大生とはその後も不倫の関係を続けました。
私が、麻美と不倫を続けるのには、二、三理由がありました。一つは、彼女が私の地位や金に思いを寄せていて、今以上の関係を求めていないという点。もう一つは、私自身が一人の女性だけを愛する自信がなかった点でした。それゆえに麻美との関係は、当初の予想以上に長引く結果となりました。治子との夫婦生活の半分は、常に彼女の影がちらついていたように思います。麻美との関係を続けて行くか、終わらせるかの判断は私がしましたが、どれ程関係が続いても私が麻美に求めるものは快楽と男としてのプライドに過ぎず、彼女が別れ際「本当は奥さんと別れてほしかった」などと泣き言を言わなければ、結局のところ完璧な不倫相手でありました。麻美との長い関係に終止符が打たれた時、私は、ようやく本当の意味で治子と向き合うことが出来たように思います。その後の私は、すべての欲求を治子に向けました。会社の愚痴も、性欲も、私を形作るすべてを治子に転嫁し始めたのです。



元旦に情事をした後、治子がつぶやいた一言を私は今でも憶えています。
「こうゆうの姫はじめって言うのよ」
私は、隣に横たわる三十五歳になった治子をさすがに「姫」とは思えず、思わず苦笑したのですが、治子が恥ずかしそうにシーツにくるまる姿をいとおしいと思いました。治子に対するこの気持ちが、果たして人を愛するということなのかは分かりませんでしたが、他の女性を抱いた時にはなかった感情であるのは確かでした。
「子供作ろうか?」と治子が言い始めたのもその頃でした。私も治子も結婚してから子供の事を口にしたことは一度もありませんでした。もしかすると、治子は私が他の女性と別れるまで待っていたのかもしれないと最近では思うようになりました。すべて知っていたのかもしれません。私は、治子ほど子供がほしいという気持ちはなかったのですが、治子が三十代後半に差し掛かり、もう体力的にも後がないことは重々感じており、治子が私に何かを求めたのは初めてだったので、私もそれに同意しました。
それから約1年、毎晩のように私たちは情事を行いました。時には、一方的に私の欲求を満たし、時には、動物がじゃれ合うように私は治子を抱きました。そして、いつからか治子に女の色気を感じるようにもなりました。治子は、私との営みの最中に急に恥ずかしそうに私から離れる素振りをしたり、身をまかせていると思ったら突然馬乗りになって私を自分の物にしたり、毎晩別の女性を抱いているような錯覚が生じました。治子と手をからませるだけで、私は全身の力が抜け、このままずっと二人でいるのも悪くないと思いました。治子は、私に愛していると繰り返し、私も自然とそれに応じられるぐらい二人の距離は縮まっていきました。
しかし、二年たっても私たちの間に子供は出来ませんでした。私は、安心する反面、一歩一歩近づく懸念の足音を感じ始めました。情事に励んでいる途中で、時々私の性器は、叱責された子供のように元気がなくなるようになったのです。初めは、仕事で疲れているのだと思いましたし、うまくいかない日は、治子にもそう言い訳をしました。しかし、体を合わせる喜びを忘れてしまう程に悩ましい夜の営みは、私にとってだんだん苦痛となっていきました。



不安にかられた私は、ある日治子に内緒で友人に病院を紹介してもらいました。そして、覚悟はしていたものの、ある病気を通告されました。それは、通称EDという病気でした。勃起機能の低下が主ですが、EDの症状は、どれも私の不安とぴったり二枚ガラスのように重なりました。もし、あなたが男性であれば、妻にこのことを相談するでしょうか。残念ながら、私の中でその選択肢は初めから存在しませんでした。己に対する失望の波に飲まれ、ただ息をすることしか出来なかったのです。私は、それからわざと深夜に帰宅したり、早朝から出かけるなど治子を極端に避けるようになりました。治子は、それでもソファにもたれ掛かって私の帰りを待っていたり、私より早く起きようと目覚ましをかけることもありました。私は、その治子の姿に感謝するどころか、何ともなしにイライラするようになりました。
私にとってEDは、男というレールの上からはじかれたという絶望感そのものでした。かつて、予想もしなかった現実が私を襲い、夜も十分に眠れぬ日が続きました。治子自身に冷たく足らわれたり、露骨に避けられる原因があったのではもちろんありません。急によそよそしく離れていった私に、治子は何も言いませんでした。



そんなある日、私が深夜に帰宅した時、治子は布団もかけずにベットの上で寝息を立てていました。私は、治子を起こさないようにクローゼットから新しい布団を取り出し、治子にかけてからその日はリビングのソファで寝ることにしました。毛布を体に巻き付けていざ寝ようとすると、頭上で治子の声が聞こえました。
「あなたってコシダカウニみたい」
私は、布団の隙間から顔を出して「ウニ?」とあからさまに顔を歪めました。
「コシダカウニには、身の回りの物を身にまとって身を隠す習性があるの」
治子の突拍子のない言葉には慣れていた私でしたが、この時は、血が頭まで登って行くのを感じました。治子の気持ちを理解するよりも、行き場のない苛立ちが完全に上回っていて、治子の目や言葉は、私という人間に対する批判にも哀れみにもとれました。私は、何も答えずにトイレに入りました。水道の閉め忘れた蛇口のようにぽたぽたと用を足し、結局、治子の隣に寝たのですが、わずかな残尿感が更に私を不快にさせました。治子は、私の横で肩をふるわせながら泣いているようでした。しかし、私は、男として性器が反応しないということ以上屈辱的なことはなく、鼻を啜る治子の横で泣きたいのは自分だと唇を噛んでいました。
その後も私が治子に自分の病名を打ち明けることはありませんでした。私は、ずっと治子に対して冷血な他人のような夫であったと思います。

平日は、会社と家の往復を繰り返し、休日は、家にいましたが治子と会話もなく過ごしました。それでも治子が私の食事を作り続けたことは、私を追いつめもしました。治子は、何のために私との結婚を選んだのか、それがどんなに考えても分かりませんでした。ただ、女中のように私の身の回りのお世話をすることが治子の幸せだったのでしょうか。私は、夫婦と称される人たちのあるべき姿が今でも分かりません。
私は、治子に、結局は赤の他人ではないかと突きつけたこともありました。治子は、そんな私に「遠くの親戚より近くの他人と昔から言うじゃありませんか。私は、田舎で暮らすあなたのお母さんよりもあなたを助けることが出来るのです」と答えました。治子は、私が、いくら治子を傷つける言葉を言っても、決して感情的になることも、私を責めることもありませんでした。いつも、平気な顔をして、私に向かい合うのです。治子との二十年間を振り返ると、私は治子こそ春風駘蕩な女性だったのではないかと思います。しかし、そのことに気がついたのは、治子が家を出て行ってしまった後のことです。



EDを通告されてから一度だけ治子を抱いたことがあります。数年ぶりに見た治子の裸体は、性欲をかきたてるには痩せすぎていて、今にも折れてしまうのではないかと心配になるほどでした。私は、治子の体を大事に抱きとめ、ゆっくりと交わりました。治子は、その情事の後、「あなたは私のことを愛してる?」と訊きました。その言葉は、私に痛烈な痛みを走らせました。儚くも消えてしまいそうな弱々しい治子の瞳を長くは見ていられませんでした。
「愛しているよ」
私は、治子の髪を撫でそう答えました。すると、治子は微笑み、目を閉じたまま「儀同三司の母がこんな歌を詠んでいるの」と言って、百人一首の中の一つを詠み上げました。
「あなたが私を愛すると言ったことは、きっといつか終わりが来るから、今日を最後に私は死んでしまいたいっていう歌よ」
治子は、そのたった一言を待ち続けていたのでしょうか。私の首もとにキスをして、なついた猫のように寄り添いながら治子は眠りにつきました。そして、その次の朝、治子は家を出て行きました。



私は、治子のよく口にしていた「飽きる事のない梅の花の色や香りも、春の夜の月も、昔と何も変わらない」という権中納言定頼の歌は、花の色や月の輝きを讃えた讃歌だと思っていたのですが、実際は、変わりゆく自分を嘆いた歌であることを知りました。治子は、春が来る度に、自分の老いや終わりゆく人生を嘆いていたのです。

治子が私の前から姿を消し、私の手元には元旦に届く送り先のない年賀状が六枚あります。鳥年の年賀状には、飛び立った鳥の絵と「立つ鳥あとを濁さず」ということわざが書かれていました。その下には、小さな字で「私はあなたの妻として生涯を閉じたい」とも書かれていました。それは、立つ鳥のように、何も残さずに私の前から消えることが出来ない治子の優しさゆえの苦悩であるのかもしれません。そして、治子のその優しさに私は何十年間も甘え続けてきたのです。
去年のねずみ年の年賀状には、ねずみの後ろに鞠で遊ぶ猫が描かれていました。毛筆で「あなたがねずみであるならば、私は喜んで猫になるでしょう」とも書かれていました。猫が干支に入れなかったのは、ねずみに出し抜かれたからだという小話は有名ですが、私の後ろを歩き、私を夫として立て続けた治子の夫婦生活を表しているように思えました。



私は、治子がいなくなって、一人では何も出来ない無力な男であることを実感しました。私が台所に立っても、何が何処にあるのか私は微塵も知らなかったのです。ゴミの分別も洗濯も私はしたことがなかったのです。治子は、この二十年間見えない刷り込みをたくさんしていたのだと思います。治子を失った今、私は、彼女の一種の魔法によって、出口のない迷路へ迷い込んでしまいました。
私が治子を愛しているのかは今も定かではありません。しかし、治子の残したたくさんの言葉は、私の細胞を雁字搦めにし、彼女を思わない日常はもうなくなってしまったのです。



今、何よりも私を追いつめているものは、たった一人の女性を幸せにすることも出来ない愚かな自分自身でしょう。これまでの人生で、私はまさにねずみのように、人を出し抜き、地位と名誉を手に入れ、女を騙し、快楽を得てきました。人を愛するとはどういうことなのか。この年になっても、いやこの年にならなければ私には考えることすら出来ませんでした。

私は今、愛について、夫婦について自問自答を繰り返す日々の中でなんとか答えを見つけ出そうとしています。しかし、冒頭で述べたように、治子に私の思いを伝える術は何もありません。私が時間をかけ、愛についていつか答えを出す日が来ても、結局のところは取り越し苦労なのです。

私は、今、治子がしていたすべてのことを思い出しながら、台所に立ち、風呂の湯を沸かし、洗濯をします。一年に一度、治子から届く年賀状を春の訪れを待つ動物のように、ただ待っているのです。

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