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超過激バトルワンダーランドコミュの欧米史面白ゼミナール

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サイードが「オリエンタリズム」で批判しようが何のその、
日本はバリバリ欧米中心史観だw
日本人研究者がどれだけ言おうと、中世ローマ帝国(ビザンツ帝国のこと)や大清ウルス(清朝のこと)などは全然浸透しませんexclamation

イスラーム世界の方がアリストテレス哲学を良く研究していて、
中世ヨーロッパはそれを逆輸入してたとか、
宗教改革のルターの信仰義認論は、農民戦争以前にそもそも地方の農民には受けてないとか、
日本人の欧米中心史観を皆でちゃんと覆しましょうexclamation

コメント(185)

フランス革命時に話題になった
「アンシャンレジーム」
意味は旧体制

フランス革命は様々な人が研究しさまざまな考察があります
ここで「フランス革命」を論題として掲げます!

コメントをお願いいたします!
>>[147]

おまえよう「死にトピ」ってトピ主に失礼だと思わんのか(怒)?
>>[149]

はぁっ?

私が言っているのは こ・れ

「死にトピ」って(表現は)トピ主に失礼だと思わんのか?

そう表現したのは私ではなくインターだよ?
理解できないの?
>>[151]

私はトピ主を一切バカにしてないことも分からないか?

わからんよ!
「死にトピ」なんてもういうなよ(怒)!
そんなトピはこのコミュにはないんでね!
管理人として言っておくわ!

フランス革命が起こる以前の16〜18世紀に、ブルボン王朝が敷いていた絶対王政による政治、社会体制を表す言葉を「アンシャン・レジーム」といいます。
直訳すると「古い体制」という意味で、フランス人の政治思想家アレクシス・ド・トクヴィルの『アンシャン・レジームと革命』や、哲学者イポリット・テーヌの『近代フランスの起源』などの著書で用いられたことから、用語として定着しました。
アンシャン・レジームの特徴は、身分制度にあります。国民は、聖職者で構成される「第一身分」、貴族で構成される「第二身分」、市民と農民で構成される「第三身分」の3つに分けられていました。
第一身分は約12万人、第二身分は約40万人で、合わせても全人口の2%ほどにしかなりません。ただ彼らは特権階級と呼ばれ、国土の大半を封建領主として支配し、免税特権も有していたのです。
一方の第三身分は約2000万人の農民と約450万人のブルジョワジー(商工業を生業とする中産階級)で構成されていました。3つそれぞれの身分が参加して議論する「三部会」に代表を送る権利はもっていたものの、三部会そのものがほとんど開催されなかったため、実質的には国政に関与することはできませんでした。
人数の少ない第一身分と第二身分の人々が土地を支配し、官職を独占し、年金支給など数々の権利を得ていたのに対し、大多数を占めている第三身分の人々は、重税に苦しみながら貧しさに耐えるしかないという矛盾した社会構造だったのです。

アンシャン・レジームの矛盾とは
ひと口に「第三身分」といっても、そのなかでさらに大商人・金融業者・大地主・徴税請負人からなる「富裕市民」、商工業者からなる「中流市民」、職人・徒弟・労働者からなる「下層市民」、「農民」などに分類されます。
経済や商工業が発展していくなかで、富裕市民や中流市民は富を蓄積して経済的に豊かになり、実力にふさわしい政治的な権利を要求するようになっていきました。なかには貴族の身分を「買う」者も現れます。これを「売官制」といいます。
新たに貴族になった人は「法服貴族」、古くからの貴族は「帯剣貴族」と区別され、両者の間でも対立が生じていくことになるのです。
一方で国民の大多数を占める「農民」は、国や領主、教会などから多重に課される税金に苦しんでいました。さらに、1783年にアイスランド南部にあるラキ火山で大規模な噴火が発生し、噴煙被害や天候不順による凶作と飢饉が発生。ますます農民たちの生活は困窮していくのです。
過酷な労働と飢えから、若い女性でも皮膚は固く、深い皺が刻まれているという記述も残されています。また十分な水道設備がなく、不衛生で窓もない藁の家に住んでいて、ヴェルサイユ宮殿などに代表されるような特権階級の人々の暮らしとは雲泥の差がありました。
このような身分間の社会的な格差やねじれの現象を「アンシャン・レジームの矛盾」といい、フランス革命を引き起こす大きな要因となりました。

アンシャン・レジーム体制でおこなわれた「球戯場の誓い」とは
1701年に起きた「スペイン継承戦争」や1775年に起きた「アメリカ独立戦争」への援助など、たび重なる戦争と飢饉で財政が破綻していたフランス。
国王のルイ16世は、重農主義経済学者であるジャック・テュルゴーや銀行家のジャック・ネッケルらを登用して財政の改革を試みますが、失敗してしまいます。財政を再建しようと、これまで免税特権に守られてきた第一身分と第二身分からも徴税すべく、新たな制度を制定するための三部会を招集しました。1789年5月のことです。
三部会における議決方法をめぐって、特権階級と第三身分は激しく対立します。第一身分と第二身分は、「身分ごとの議決」を主張。しかしこの方法では、第一身分と第二身分が特権階級への課税に反対すれば、第三身分が賛成をしたとしても2対1で敗れることになります。
一方で第三身分からは、代表者が1人1票をもつ「三部会合同での議決」を主張しました。この方法であれば、第一身分と第二身分の合計よりも、第三身分の人数が多いため、有利になります。
結局、議決方法が決まらないまま40日以上が経過。業を煮やした第三身分の議員たちは6月17日、自分たちが国民を代表しているとして、第三身分ではなく「国民議会」であると宣言します。
国王が議場の閉鎖などの妨害に出ると、6月20日、ヴェルサイユ宮殿の球戯場(テニスコート)に集まり、王国の憲法が制定されるまで解散しないと誓いを立てました。これを「球戯場の誓い」といいます。
国民議会には後に第一身分と第二身分も加わり、7月9日には「憲法制定国民議会」と改称。憲法の制定に着手します。国王がこの動きを武力で抑えようとしたことに対し、7月14日にパリ市民がバスティーユ牢獄を襲撃。これがきっかけとなって、フランス革命が勃発しました。

アンシャン・レジームのなかで広まった啓蒙思想

当時のヨーロッパでは、宗教や偏見にとらわれず、人間の理性によって普遍性と不変性をもった思考で世界をとらえる「啓蒙思想」が広がっていました。
たとえばそれは、政府や法律がなくても、誰もが基本的人権をもっているという「自然権」や「平等主義」、国家や体制が国民の同意によって成り立つ「社会契約説」、政治の決定権が国民にあるとする「人民主権論」などの概念として説かれるようになります。
こうした思想をまとめていったのが、ジャン=ジャック・ルソーやヴォルテールなどに代表される哲学者や政治学者です。多くの知識人に影響を与えていきました。
しかし、それにもかかわらず当時のフランス政府は、第三身分出身で貴族に質素倹約を進言したジャック・ネッケルを罷免、さらに憲法制定国民議会が採択した「人権宣言」をルイ16世が拒絶するなど、失策といえる行為を重ねていきます。
物価の高騰や重税で不満を抱えていた国民と、啓蒙思想を受けて従来の社会体制であるアンシャン・レジームへの不満を抱くようになった知識人らが共鳴し、フランス革命へとつながっていったのです。
そして革命は、「自由・平等・友愛」を掲げ、アンシャン・レジームの大きな特徴である「身分制度」を一掃していきます
日本の場合は大きく言うと武士と農民でした
豊臣秀吉が積極的な分離を行ったのですが
江戸時代に「士農工商」として農民を形だけは第二身分に置いたとも言えます
フランスの場合は聖職者と貴族が農民たちを支配したということになります
フランス人権宣言・・・・正式な名称は「人間と市民の権利の宣言」といい、フランス語では「Déclaration des Droits de l'Homme et du Citoyen」と表記されるフランス人権宣言。1789年に「フランス革命」が発生した後、革命派に協力したラ=ファイエットらによって起草、発表されました。
「基本的人権の尊重」と「人民主権」を宣言し、以降発表されたさまざまな人権宣言の先駆けになったといわれています。
1789年になると、王政を批判した人々が収容されていた「バスティーユ牢獄」を民衆が襲撃する事件が発生。これをきっかけに、「フランス革命」が始まることとなるのです。この動きを受けてフランス議会は、フランス人権宣言を採択。1948年には国際連合が「世界人権宣言」を採択したことにも示されるように、その理念は世界共通のものとして重視されるようになりました。

https://honcierge.jp/articles/shelf_story/7196
しかし、国王はこのような新事態を認めようとせず、なおも議会の弾圧を企てたので、パリの民衆は
ふたたび立ち上がり、10月はじめ女性たちを先頭にヴェルサイイユへ押し寄せ。国王一族を
パリに連れ帰った
国民議会もこれと同時にパリに移った
当時、国民議会を指導したミラボー、ラファィエットなどは立憲民主主義者で、
王政を廃止する考えはなかった
ヴァレンヌ逃亡事件・・・マリーアントワネットに動かされたルイ16世が革命に対抗しようとしたが失敗
立法議会召集・・・フイヤン派とジロンド派が対立

国民公会の設置・・・男子普通選挙で共和派が多数を占め
王政廃止、共和制樹立(第一共和制)

そして急進共和主義のジャコバン派が台頭
その中心人物の一人がロエスピエールなわけです
恐怖政治

さて、1793年6月ジャコバン派はジロンド派を議場から追放し
国民公会の指導権を握った。
急進的な施策を次々とおこなった
そして10月以降
マリー=アントワネットやジロンド派の人々、反革命容疑者を次々に処刑し
いわゆる恐怖政治を行った!
しかしジャコバン派指導者内部で
ロベスピエールは過激派のエペール、穏健派のダントンらを粛清し独裁を強化しようとしたが
まもなくパリ民衆の支持を失い孤立、ついに1794年7月27日にテルミドールのクーデターが起きた
ここにジャコバン派は勢力を失い、恐怖政治は終わった。
マリー=アントワネットは有名ですが処刑されてしまったんですね!
この辺は「ベルサイユの薔薇」が好きな人にコメしていただきたい!
ナポレオンの登場

ナポレオン=ボナパルトはコルシカ島の生まれ士官から始まりやがて統領政府を作った
その後、ナポレオン法典を制定し自分が皇位についた
軍事で瞬く間にヨーロッパを席巻したが
ロシア遠征の失敗から没落し、ワーテルローの戦いで敗れ退位した
はたしてこれらすべてを「フランス革命」
というのだろうか?
私は疑問である!
タクシーキリスト教における教会(ギリシア語: ἐκκλησία、
ラテン語: ecclesia、英: church)とは
ギリシャ語の「エクレシア(ἐκκλησία=国のために召集された集会)」の訳語で
「人々の集い」の意味から転じております。電車Wikipediaより電車
(世界史の窓より)
宗教改革
16世紀、ローマ=カトリック教会を批判したルターに始まるキリスト教の改革運動。社会変革と結びつくと共にキリスト教世界を二分する新旧両派の激しい宗教戦争を巻き起こした。

 The Reformation 16世紀の前半、ドイツのルター、スイスのジュネーヴにおけるカルヴァンらの教会改革から始まって、キリスト教世界をカトリック教会とプロテスタントに二分することとなり、同時に社会と政治の変動をもたらした大きな変革が宗教改革である。イギリス宗教改革はイギリス国教会のカトリックからの離反と言うかたちで行われた。
 宗教改革はヨーロッパの精神世界と政治世界においても最高権威であったローマ教皇を頂点とした教会支配を脅かすものであったので、その動きに対抗して、カトリック教会でも対抗宗教改革が試みられ、大きく変化した。またほぼ同時期に展開されていたルネサンス、大航海時代との密接に結びつき、ヨーロッパ世界の近代への移行を準備したと言うこともできる。宗教改革から始まった新旧二派の対立は、深刻かつ広範囲な宗教戦争に転化し、ほぼ17世紀まで続くこととなる。この宗教戦争を経ることによりヨーロッパには主権国家が形成されていく。 → 1517年という年 「エラスムスが卵を産み、ルターが孵した」

ルターの宗教改革とその広がり
 ローマ教皇がドイツにおいて贖宥状を発売したことに対してルターが1517年10月31日、ヴィッテンベルク城内の教会の門扉に『九十五ヶ条の論題』を発表して批判したことから宗教改革が始まった。
 ルターは「信仰によってのみ義とされる」(信仰義認説)と説き、その理念はローマ教会の「信仰と善行によって救済される」という教義とするどく対立することとなり、ドイツは大きな混乱に巻き込まれた。時の神聖ローマ皇帝カール5世は1521年のヴォルムス帝国議会でルターに教義撤回を迫ったが拒否されたため、ヴォルムス勅令を発してルターを異端と断定、追放に処した。ルターはザクセン選帝侯フリードリヒに保護され、聖書のドイツ語訳を完成させ、『聖書』やルターの主著『キリスト者の自由』は活版印刷によって民衆の間に新しい宗教観を浸透させることとなった。

https://www.y-history.net/appendix/wh0903-005.html
山川の詳説世界史より

三十年戦争・・・神聖ローマ帝が、事実上、大小の諸侯領の連合体と化していたドイツは、
「大航海時代」における西欧列強の国民的発展に遅れをとった。そのうえ、ハプスブルグの和議
ののちも、反宗教改革の動きのなかで宗派上の紛争がやまず、ついに1618年に、三十年戦争
とよばれる大きな戦乱がおこった。その口火は、オーストリアの属国ベーメン(ボヘミア)の
新教徒がハプスブルグ家の国王(のち皇帝に選ばれる)の旧教化政策にむかっておこした反乱で
あるが、、戦火はたちまち帝国の西部・北部へと広がり、しかも皇帝と旧教諸侯にはスペインが
加勢し、デンマークは新教徒をたすけるため介入したので、国際的な宗教戦争となった。
デンマークが敗退し。傭兵隊長ヴァレンシュタインの皇帝軍が北ドイツを制圧すると、バルト海に
利害関係を持つ神教国スウェーデンの国王グスタフ=アドルフがドイツに上陸し、旧教軍を圧迫した。しかしスウェーデンの干渉は旧教国フランスに支援されており、グスタフ=アドルフの戦死に
で和平気分が高まると、フランスは公然と参戦して皇帝軍と戦った。この事実は、三十年戦争が
ハプスブルグ家対フランス王家の、中世末以来続いている権力闘争の一環でもあったことを示している。
1648年のウエストファリア条約で、三十年戦争も終わり、ドイツの宗教改革は回復されたが、
フランスはアルザス地方、スウェーデンは北ドイツの沿海地域に領土を得、ドイツ諸侯には
ほとんど完全な主権が承認されたので神聖ローマ帝国の分裂状態は決定的となった。
またスイスとオランダの独立がこの条約で正式に認められたのに対し、長年の戦乱に荒らされ
人口も激減したドイツは大打撃を受け、西欧諸国に対する社会経済的な立ち遅れは著しくなった。

世界史の窓

ウェストファリア条約
1648年、三十年戦争の講和条約。最初の近代的な国際条約とされ、主権国家間の国際関係である主権国家体制が成立したという意義がある。

 1648年、ウェストファリア会議で成立した、三十年戦争の講和条約。世界最初の近代的な国際条約とされる。ウェストファリアは、ネーデルラントに接したドイツ西部の地方で、その中心の二つの都市、ミュンスター市とオスナブリュック市で講和会議が開かれた。会議は1642年に開催されることになったが、皇帝とカトリック諸侯の内輪もめや、フランスの参加が遅れたことなどのため、1644年にようやく始まった。会議の場所が二カ所になったのは、フランス(ミュンスター市)とスウェーデン(オスナブリュック市)という戦勝国を分離させ、それと個別に交渉して有利に講和しようと言うドイツ諸侯の策謀があったからであった。いずれにせよ、神聖ローマ皇帝、ドイツの66の諸侯、フランス、スウェーデン、スペイン、オランダなどの代表が参加した、世界で最初の大規模な国際会議であった。会議は45年から実質的な討議に入り、延々と3年を要して、1648年にようやくウェストファリア条約が締結され、三十年戦争を終結させた。
条約の内容
 次の5点に要約することが出来る。
1.アウクスブルクの和議が再確認され、新教徒の信仰認められる。またカルヴァン派の信仰も認められた。(宗教戦争の終結)
2.ドイツの約300の諸侯は独立した領邦となる(それぞれが立法権、課税権、外交権を持つ主権国家であると認められる)。 → 神聖ローマ帝国の実質的解体
3.フランスは、ドイツからアルザス地方の大部分とその他の領土を獲得。
4.スウェーデンは北ドイツのポンメルンその他の領土を獲得。
5.オランダの独立の承認(オランダ独立戦争の終結)と、スイスの独立の承認
フランス・スペイン間のピレネー条約 なお、フランス(ルイ14世・マザラン)とスペイン間の戦争は継続され、両者の講和は遅れて1659年のピレネー条約で成立した。ピレネー条約でフランスはアルトワを獲得、ルイ14世とスペイン王フェリペ2世の娘マリー=テレーズの婚姻を取り付けた(これは後に重要になる)。またこの時イギリスはピューリタン革命の最中であったので、この条約には関わっていない。

条約の意義
POINT 次の3点に要約することが出来る。
1.宗教改革以来の新旧両派の対立を終わらせ、ヨーロッパ中央部を人口及び資源の面でカトリック圏とプロテスタント圏に均等な勢力圏を構成させ、新旧両教派の勢力均衡を図った。
2.この条約によって、神聖ローマ帝国は実質的にドイツ全土を支配する権力としての地位を失い、ハプスブルク家はオーストリアとそのほぼ東方を領有することになった。そのため、ウェストファリア条約は「神聖ローマ帝国の死亡証明書」と言われている。
3.また、神聖ローマ帝国の実質的解体に伴って、ドイツの領邦はそれぞれ独立した領邦国家として認められた。これによって中世封建国家に代わって主権国家がヨーロッパの国家形態として確立したとされている。



 → 主権国家体制
 三十年戦争の講和会議であるウェストファリア会議で成立した、ウェストファリア条約の意義は上の三点に要約される。それらをさらにまとめて言えば、ウェストファリア条約によって「西欧国際体制」ができあがった、ということである。
西欧国際体制
 西欧国際体制 western state system とは、一般に、主権国家の概念の確立・国際法の原則・勢力均衡の国際政治、の三要素からなる、近現代の国際関係の特質である。その三要素は次のように説明できる。
•主権国家 内部においては国家権力が最高の力として排他的にな統治を行い、かつ対外的には外国の支配に服することのない独立性を持った国家である。主権国家においては、国家主権の及ぶ範囲の「国民」と「領土」が次第に明確にされる。
•国際法 主権国家の利害が対立して戦争となった時、国家間の関係を律する法が必要であると認識されるようになった。西欧国際体制のルールとしての国家間の法律が国際法であり、三十年戦争の最中にグロティウスの『戦争と平和の法』などで提唱された。
•勢力均衡 国際法だけで主権国家間の利害を調整できない場合、戦争を回避する手段として、ある国家だけが絶大な力を持つことがないように同盟関係を築いて、国家間の力の均衡(バランス・オブ・パワー)を図った。
※ただし、17世紀のウェストファリア条約の段階は、主権国家が成立していたが、それは各国の君主が絶対的な国家主権を行使する「絶対主義」(絶対王政)であり、明確な国民意識や国境線で区切られた領土、傭兵ではない国民軍、さらに国民主権という概念やその政治機構などを特質とする「国民国家」が形成されるのは18世紀後半のフランス革命に代表される市民革命の時期を待たなければならない。また、欧州の範囲にとどまっていればこの体制は有効だったが、19世紀後半から植民地問題が加わり、帝国主義段階となると国家の暴走を止められなくなり、また非ヨーロッパ諸国が台頭してくると、この体制は機能しなくなる。<木畑洋一『国際体制の展開』世界史リブレット54 1997 山川出版社 p.5-7>

古代ローマ史(日本大百科全書より)

 ローマ人は、イタリア半島中部テベレ川下流域に紀元前数百年のころから小さな共同体集落をつくっていたが、やがてギリシアのポリスと同じような構造をもった都市国家に発展し、前4世紀初めごろからしだいに近隣の都市国家や種族を征服し、前3世紀末には地中海西部の覇者となり、前2世紀にはすでに地中海東部をもその支配下に入れるほどの大帝国をつくりあげていた。このような海外領土の獲得は、紀元後1世紀から2世紀初めに至るまで間断なく続き、117年には最大版図を実現した。それはほぼライン、ドナウ両川の線(一部はそれを越える)、ティグリス川を越えて今日のイランに食い込む線、それと黒海に囲まれるすべての地中海北岸の地域、地中海東岸のシリア、レバノン、イスラエル、ヨルダン、それにアフリカ北部の砂漠以北の地域とエジプト全土、さらにイングランドとウェールズを包含するものであった。歴史上これらの広大な地域が一つの政治的支配の下に置かれたことは、後にも先にもこのとき以外にはなかった。この大帝国は、紀元後4世紀末に東西分治が最終的に定まり、476年に西の帝国が事実上消滅するまでの長年月、幾多の消長は経つつも存続した。東の帝国は、1453年に滅亡するまで、コンスタンティノープルを首都として国際場裏に長く威容を誇った。

 ローマ帝国の支配によって、これらの地方に栄えたそれ以前の諸文明、諸文化間の交流が生まれ、経済的交易圏としてもこの広大な地域がまとめられ、帝国以後の中近東、東西ヨーロッパ、やがてイスラム化する北アフリカの諸地域の発展する素地をつくった。
 この長いローマの歴史は、前6世紀までの先史時代と王政期、それ以後前1世紀末までの共和政期、それ以後紀元後5世紀後半までの帝政期とに3区分して説明されるのが便宜である。この時代区分はおもに政体の変化によるが、発展の時期区分としても妥当である。
 なお、西ローマ帝国滅亡後の東ローマ帝国の歴史については、別項「ビザンティン帝国」を、また、ローマの法律、神話、文学、演劇、美術については、それぞれ「ローマ法」「ローマ神話」「ラテン文学」「ローマ演劇」「ローマ美術」の項目を参照されたい。
[弓削 達]


 ローマ人以前のイタリア半島には、まずテラマレ文化と総称される青銅器文化、それを吸収したビラノバ文化とよばれる鉄器文化がすでに存在していたところへ、紀元前8世紀ごろには南部にギリシア人の植民が始まり、同じころ中北部にエトルリア人が定住した。その後におそらく北から移住してきたのがインド・ヨーロッパ語系諸族で、そのうちの一派ラテン人の一部がテベレ川下流域に小集落をつくった。これがローマの始まりで、前6世紀の初めまでに近くの七つの丘に分散定住していた彼らが集住して都市国家をつくった。考古学はこれを前575年以前と考えている。
 この最初期の歴史については、考古学的証拠以外には伝説しか残っていない。伝説は、トロヤの敗将アエネアスの子孫のロムルスとレムスなる双子の兄弟のうち、前者が初代の王となり、続いて、ヌマ・ポンピリウス、トゥルス・ホスティリウス、アンクス・マルキウス、タルクイニウス・プリスクス、セルウィウス・トゥリウスおよびタルクイニウス・スペルブスの6代の王がたったことを語るが、この王政時代はさまざまな徴候から北方エトルリアの勢力下に入ったことが確実視されている。
 この時期には、軍事、政治、祭祀(さいし)をつかさどる王に対して、有力氏族の長たちの構成する元老院がこれを補佐し制肘したので、王の権力は独裁的ではなかった。人民は氏族を基礎として3部族(トリブス)に分かれ、各部族は10クーリアに分かれた。クーリアは兵士提供の基礎とされた。重要な国事や氏族の裁量を超える問題はクーリア民会で決められたから、これがこの時期の政治・軍事組織であったわけである。人民は、特定の家柄に属し多数のクリエンテスを擁する貴族(パトリキ)と、それ以外の平民(プレブス)とに分かれていた。

共和政
第一期(前509〜前264)
紀元前509年、ローマ人はエトルリア系の王タルクイニウス・スペルブスを追放し、王の権限を受け継いだ任期1年の2人の最高政務官(コンスル)と元老院を中核とする共和政を始めた。初めの250年ほどは貴族と平民の身分闘争が激しく、前494年には平民が大挙して聖山に立てこもり、共同体の分裂の危機を迎えたが、平民に、平民の権利を守る護民官などの設置、平民だけの民会の開設などを認めた貴族の譲歩によってこの危機は切り抜けられた(聖山事件)。このころ全市民総会の意味をもつケントゥリア民会が最重要な民会として存在していたが、これは財産額によって等級づけられた不平等な投票権によって運営されるもので、貴族と平民の富裕な上層だけで決議が決まる差別的民会であった。前5世紀前半には、旧来の氏族を基礎にした3トリブス制を廃し、地域を基礎にした新トリブス(区)制が設けられた。区は領土の拡大に伴って増加し、前241年には35になった。ローマ市民はすべて区民として登録され、トリブス単位で投票するトリブス民会も設置され、ケントゥリア民会とトリブス民会は、政務官選挙、法案決議などに関して機能を分けて運営された。
 平民に対する貴族の政治的譲歩はさらに続き、前367年には、従来貴族によって独占されていたコンスル職が平民にも開かれ、プラエトル(法務官)職、ケンソル(戸口調査官)職もこれに続いて開放され、前287年には平民会決議が全市民を拘束する法と同価とされるに及んで、貴族、平民間の身分闘争は終わった。前4世紀以後は、貴族にかわって、コンスルを出す平民最上層の家柄と貴族とからなるノビリタス(名門)が国家の支配層となった。
 このように貴族が平民に譲歩を続け共同体の分裂を回避したのは、この時期に近隣諸種族との戦争が続き、それに勝つための軍事的必要からであった。この時期の戦争としては、前5世紀のエトルリア人との戦い、サビニ人など東部の山地種族との激しい戦闘があったが、前396年には最強のエトルリア都市ウェイイを陥落させた。しかし、前387年には北からケルト人が侵入し、ローマ市に放火、略奪した。この痛手から立ち直る間もなく、ラテン諸都市との全面戦争に入り、前338年これに勝利を収めてラティウムを勢力下に置いた。その支配は、ラテン諸都市の市民に完全なローマ市民権を、非ラテン系諸市の市民には、ローマでの投票権は欠くがローマ人との対等の通婚権、通商権を含む不完全なローマ市民権を、それぞれ与え、他の都市を同盟市とするというやり方で、このような等級づけられた市民権の付与と同盟関係の網の目による把握は、後のローマ帝国支配の構造の原型となった。その後、前275年までに南東部のサムニテス(サムニウム人)を服属させ、北東部の諸種族と同盟し、南部にも進出して、ポー川以南のイタリア半島を制覇するに至った。前273年にはプトレマイオス王国と友好条約を結ぶなど、ギリシア世界とも対等の関係をもつまでに至った。
第二期(前264〜前133)
イタリア半島を統一して西地中海の雄となったローマは、カルタゴ、スペイン、ヘレニズム諸王国などとの戦争に突入する。まず、カルタゴとは三次にわたるポエニ戦争(前264〜前146)でこれを徹底的に破壊し、この間、シチリア、サルデーニャ、スペイン、アフリカを次々と海外領として獲得し、これを属州として設置した。イタリア北部の諸種族をも前3世紀末から前2世紀前半にかけて制圧し、さらにアドリア海に沿ったダルマチア海岸にも勢力を植え、前2世紀なかば過ぎにはマルセイユからポー川以北のイタリアを通ってバルカン半島西部に至るまでの一帯を勢力下に置いた。
 東部に向かっては、前3世紀末の二度にわたるイリリクム戦争に勝ち、さらに、第二ポエニ戦争に際してローマを苦しめたカルタゴの将軍ハンニバルと同盟したマケドニア王国との二度にわたる戦争と、同じくハンニバルの亡命を受け入れたシリア王国との戦争にも勝利を収めた(前2世紀初め)。第三次マケドニア戦争をピドナの戦い(前168)の勝利で終わらせると、ローマの対東方政策は苛酷(かこく)となり、諸都市への課税、ギリシア諸都市からの1000人の人質の獲得、エペイロスでの15万人の住民の奴隷化、マケドニアの属州化、コリントスの破壊と全住民の奴隷化、などが次々と実行された。こうした情勢をみて、ペルガモン王アッタロス3世は遺言で王国をローマに贈った(前133)。ローマはこれを属州アシアとした(前129)。
 海外領の獲得はローマ社会を変質させた。騎士身分の富裕者は海外領での徴税請負人(プブリカーニ)となってますます富み、属州総督になった元老院議員は不当な仕方で私腹を肥やした。一方、農民は兵士として長期間出陣したため農地の経営がうまくゆかず、その農地を富裕になった元老院議員や騎士身分の者が買い集めた。こうして大土地所有が生まれるが、ここでは大量の捕虜奴隷を用いてオリーブやブドウなどの商品作物が生産され、また牧畜も拡大した。家内奴隷も増加し、ここに世界史上ユニークな奴隷制社会が生まれた。土地を失った貧農は大都市とくにローマに流入し、国家の扶養に頼る遊民化した。他方、富裕者の奢侈(しゃし)は極端化し、富裕な家の女性の権利と自由(性の問題を含めて)は高まった。ヘレニズム文化の流入も伝統的な質朴さを破壊した。こうした社会的変質はローマ兵士の弱体化をもたらし、その現実は、ケルティベリア(ケルト・イベリア)人と長く戦わねばならなかったスペインで顕著となった。この危機もヌマンティアの攻略(前133)でいちおう切り抜けられた。前125〜前121年には南ガリアの諸種民も制圧され、ここもローマの属州となった。

末期、内乱期(前133〜前31)
しかし、ローマ社会の変質からくる軍事的危機は去らなかった。この問題を解決すべくグラックス兄弟は土地の再分配を中心とする改革運動を行ったが、いずれも反対派に殺された。その結果は、北アフリカのヌミディア王ユグルタとの戦争における苦戦、北方からのゲルマン諸種族の侵入に際しての敗戦、アラウシオにおけるローマ軍の全滅(前105)となって現れた。そこで、名門出身ではない将軍マリウスは、武装自弁能力のある有産農民を徴募する従来の兵制を改めて、貧民からの志願兵を募ってこれに武装を与える新制度を導入し、ようやくゲルマン人を敗退させることができた。
 一方、この時期には帝国各地で奴隷蜂起(ほうき)が多発した。とくに前130年代アテネ、デロス、ペルガモン、シチリアに起こり、ことにシチリアのそれは二度にわたって本格的奴隷戦争となり、一時奴隷の王国すら生まれた。前73〜前71年には、イタリアにおいてグラディアトル(剣闘士奴隷、剣奴)のスパルタクスを首領とする蜂起が最大時には4万の軍勢を集め、いずれもローマ正規軍の出動によってかろうじて鎮圧された(スパルタクスの蜂起)。これらは、ローマの支配の果実としての奴隷制の肥大化がもたらしたしっぺ返しであったが、他方ローマの支配に手を貸したイタリア同盟諸市は、ローマの利己的政策に憤慨し、反ローマの総反乱に立ち上がった。この同盟市戦争は、ポー川以南の全イタリア人へのローマ市民権付与(ローマ人との完全平等化)によって収拾された(前91〜前87)が、この措置は、都市国家としてのローマが事実上終わったことを意味していた。
 
ローマの国家構造は全面的に変革されねばならなかった。変革の方途をめぐってポプラレス(民衆派)とオプティマテス(閥族派)との内戦となり、その権力闘争のなかでマリウス、スラ、キンナ、ポンペイウス、クラッスス、そしてカエサルらの将軍が権力を握っては倒れた。彼らは、この権力闘争に勝つための権力基盤を属州や近隣王国のクリエンテラ(被護関係)化に求めたため、この内乱期にかえってローマの支配領域は拡大した。ポントス王ミトリダテス6世に対してはスラ、ついでポンペイウスが攻めてこれを滅ぼした(前63)。この間に、ガリア・キサルピナ(ポー川以北のイタリア)、ビティニア、キリキア、クレタ、キレネ(リビア)が属州とされ、前64年にはシリアもポンペイウスによって属州とされた。カエサルは前58〜前50年ガリアに遠征してケルト人を鎮圧し、これを属州とした。その後起こったカエサルとポンペイウスとの内戦では、ポンペイウスが敗戦を続け、エジプトに逃げ込もうとしたが、上陸寸前に殺された。彼を追ってきたカエサルは、エジプトのプトレマイオス王国の女王クレオパトラ7世を自己の勢力下に置いた。しかし彼も独裁的傾向の強化が嫌われて、ブルートゥスらの共和主義者に暗殺された(前44)。
 カエサル暗殺後の混乱を、カエサルの姪(めい)の子でカエサルの遺言で養子・相続人とされたオクタウィアヌスと、カエサルの武将アントニウスとで収拾しようとしたが、アントニウスがエジプトのクレオパトラ7世と結婚して帝国の東半分を私したので、両雄の対決となった。アクティウムの海戦でのアントニウス側の敗戦(前31)、翌、前30年のアントニウスとクレオパトラの自殺によって、100年の内乱は終わり、オクタウィアヌスが帝国の唯一の権力者として残った。
帝政第一期(前27〜後68)
紀元前27年、元老院はオクタウィアヌスに「アウグストゥス」(尊厳なる者)の尊称を贈り、全帝国の属州を彼と元老院とで分掌統治することを定めたが、アウグストゥスの管轄する属州に軍隊の大部分が駐屯したことから、彼は全ローマ軍の総司令官としてほぼ全軍を掌握し、最大の富者であることも加わって、彼は事実上の皇帝となった(在位前27〜後14)。しかし彼はカエサルの轍(てつ)を踏むことを恐れて王号を避け、自らを「プリンケプス」(第一人者)とよんだので、彼が始めた政体をプリンキパトゥス(「元首政」と訳される)とよぶ。
 彼は自らを取り巻く官制を整え、ローマ市に帝国の首都としてふさわしい官制と外観を与え、一方、貴族の婚姻と出産・育児を奨励し、上流社会の風紀の立て直し、古来の国家宗教の復興に努めた。対外的にはとくに征服的ではなかったが、ドナウ川まで国境を広げて属州を設置した。しかしトイトブルクの森での3軍団の全滅(トイトブルクの戦い、後9)によってライン国境をエルベ川まで広げる望みは達せられなかった。東部ではパルティア王国と和解し、ガラテヤ、ユダヤに属州を設置した。
 アウグストゥス以後、皇帝はティベリウス(在位14〜37)、カリグラ(ガイウス、在位37〜41)、クラウディウス1世(在位41〜54)、ネロ(在位54〜68)と続いたが、アウグストゥスのユリウス家と妻リウィアのクラウディウス家の枠内で帝位が継承されたので、これをユリウス・クラウディウス朝とよぶ。ティベリウスは、元老院と仲が悪く、親衛隊長セヤヌスの専横が加わって内政は暗黒(密告)の恐怖政治となった。次のカリグラは、生前神化を要求するなど常軌を逸したふるまいが多く、暗殺された。クラウディウスは、直属の文官による官僚制の整備に努め、また、ローマ市民権付与政策を行って帝国のローマ化を進めた。この王朝の時期、カッパドキア(小アジア北東部)、マウレタニア(北アフリカ西部)、ブリタニア、リキア(小アジア南部)、トラキア(南ブルガリア)が属州として加わった。王朝最後のネロは、治世の初めは哲学者セネカらの指導に従って公正な政治に努めたが、やがて独裁的かつ狂的となり、64年ローマ市大火にあたっては多数のキリスト教徒を放火犯人にでっち上げて焼き殺すなど暴政を続けたので、各地の軍隊が新皇帝を擁立し、そのなかで自殺した。ネロの末期、ブリタニアではボウディッカ女王の反乱があり、第一次ユダヤ戦争も勃発(ぼっぱつ)した。
第二期(69〜192)
ネロの後を、4人の対立する皇帝のうち、ユダヤ戦争を指揮していたウェスパシアヌス(在位69〜79)が継承し、ライン地方とガリアの反乱を鎮圧して権力を確立し、自分と2人の息子、ティトゥス(在位79〜81)とドミティアヌス(在位81〜96)の3帝からなるフラウィウス朝を開いた。この王朝の下で皇帝はしだいに絶対主義的となり、ドミティアヌスは自分を「主にして神」とよばせた。元老院議員には属州出身者が増加したが、皇帝は側近を重用する政治を行った。国境ではライン川とドナウ川の線を長城(リメス)で固め、スコットランドにも侵入した。しかし、ドミティアヌスの専制政治は密告と反逆罪処刑の暗黒を生み、皇帝の暗殺をもってこの王朝は終わった。
 かわって元老院に推されたネルウァ(在位96〜98)が帝位につき、ついでトラヤヌス(在位98〜117)、ハドリアヌス(在位117〜138)、アントニヌス・ピウス(在位138〜161)、マルクス・アウレリウス(在位161〜180)が、それぞれ前帝の養子となって帝位を継いだので、ほぼ2世紀を覆うこの時代は「養子皇帝期時代」またはアントニヌス朝とよばれる。この時期、属州における都市化、ローマ化が進み、都市の有産大地主層の負担で都市の美化に力が注がれた。また、経済活動も最高潮に達し、属州の農業や手工業はイタリアを凌駕(りょうが)するまでになり、スカンジナビア、中国、インド洋を通って極東などとも貿易路が結ばれた。属州の軍団駐屯地近くには商人集落(カナバエ)が生まれ、やがて都市に発展した。こうした繁栄のため、この時期はエドワード・ギボンによって「人類のもっとも幸福な時代」とたたえられ、5人の皇帝も「五賢帝」とよばれることがある。しかし、マルクス・アウレリウスが暗愚な息子コンモドゥス(在位180〜192)を後継帝に据え、コンモドゥスが元老院と対立して異常な神経で政治を専断したため、彼の暗殺をもって「幸福な時代」は閉じられた。
 この時期、一般的には皇帝と元老院とは良好な関係にあったが、最重要な立法は皇帝の発する勅法となり、元老院議決もその大部分は皇帝の提案によるものであった。民会による立法は、69年を最後として記録されていない。帝国の財政は比較的豊かで、国庫から地主への貸付金を基金に、その利息で農民の子弟に教育費を与えるアリメンタ、コンギアリアなどの制度がイタリアの都市につくられた。
 領土に関しては、トラヤヌス帝がダキア(ルーマニア)、アラビア(ナバテア)のほかペルシアから奪ったアルメニア、メソポタミア、アッシリアを属州とし、国境をティグリス川の東にまで広げたが、ハドリアヌス帝は国境線をティグリス川まで下げた。帝の国境政策は守勢を主とし、ブリタニアでもスコットランドを放棄し、国境に「ハドリアヌスの長城」がつくられた。第二次ユダヤ戦争を鎮圧後、エルサレムを完全破壊し、そのあとにローマ市民植民市を建設した。北方からはゲルマン人諸種族がドナウ諸属州に侵入し、北イタリアにまで達した。マルクス帝はこの防戦に全精力を注いだが、コンモドゥスは父の反抗計画を放棄した。一方、ハドリアヌスの導入した軍団駐屯地徴募制は、軍団と駐屯地住民の結び付きを強め、軍団の属州的性格がここから生まれた。

第三期(193〜284)
コンモドゥスの殺害後、各地に競い立った皇帝たちのうち、セプティミウス・セウェルス(在位193〜211)が最終的に帝位を確保し、アレクサンデル・セウェルス(在位222〜235)の殺害まで続くセウェルス朝の開祖となった。セプティミウス・セウェルスの統治は軍事政権で、しかもパンノニア出身者が軍隊の指導部を占めるように改革された。国境の守りを固めたが、スコットランドは完全に放棄した。彼の息子カラカラ(在位211または198〜217)は212年、帝国の全自由人にローマ市民権を付与し、イタリア人と属州人との完全平等化を図った。エメサの世襲的太陽神官であったエラガバルス(在位218〜222)は、帝位につくとローマ市に二つの太陽神神殿を建て、属州化は国教の領域にまで浸透した。この王朝においては、セプティミウスの妻ユリア・ドムナ、エラガバルスの祖母ユリア・マエサ(ドムナの妹)、セウェルス・アレクサンデルの母ユリア・ママエア(マエサの娘)らの女性が、政治の実質的な支配者であった。
 アレクサンデルの殺害後、284年のディオクレティアヌスの登位までの約50年間は、いずれも兵士出身の26人の皇帝が軍隊によって擁立される混乱を極めた「軍人皇帝時代」となる。この混乱のゆえに国境はいずれも危機的となる。ペルシアではアルサケス朝(パルティア)にかわったササン朝がシリアを席捲(せっけん)し、260年皇帝ウァレリアヌス(在位253〜260)を捕虜とし、小アジアにまで攻め込んだ。隊商都市パルミラがこれを撃退したが、その女王ゼノビアはやがてローマに対して独立する。西部ではガリアに分離帝国が生まれ、これがブリタニアとスペインを支配下に入れる。このほかゲルマン系諸民族、フランク、ゴート、アラマンニなどがライン国境からバルカン半島までを荒らす。ウァレリアヌスの息子ガリエヌス(在位253〜268)は軍隊を騎兵中心の機動軍につくりかえ、この危機を切り抜けた。続いてアウレリアヌス(在位270〜275)は、一方ではダキアを放棄したが、他方ではパルミラを攻めて破壊し、ゼノビアを捕虜とし、ガリアを回復し、ローマ市に「アウレリアヌスの城壁」を築いて首都の守りを固めた。彼はまた、パルミラの戦いの勝利はシリアの太陽神の加護によると信じて、エラガバルスの死後エメサに戻されていた太陽神の神体(聖石)をふたたびローマ市に戻し、国家神とした。次のタキトゥス(在位275〜276)は小アジアでゴート人を破り、プロブス帝は北部国境の守りを固め、カルス帝はメソポタミアに再進出した。ガリエヌス以来の30年に及ぶこれら諸帝の渾身(こんしん)の努力によってかろうじて危機を乗り切り、ディオクレティアヌス帝の即位をもって軍人帝国時代は終わる。

第四期(284〜395)
ディオクレティアヌス(在位284〜305)は、統治と防衛の効率化のために、2人の正帝と2人の副帝の間で帝国を分割統治する四分統治制(テトラルキア)を開いた。彼が305年に自発的に退位すると、ふたたび皇帝間の内乱が起こったが、324年コンスタンティヌス(大帝。在位306〜310副帝、310〜337正帝)が単独皇帝として残った。彼は首都をローマからビザンティオンに移し、ここに新首都コンスタンティノープルを開いた(330)。
 すでに3世紀後半に帝権の宗教的権威づけが求められ、アウレリアヌスは太陽神にそれを求めたが、ディオクレティアヌスは古ローマの伝統に戻って「ヨウィス(ユピテルの地上の代表者)」と称し、3世紀の間に勢力を増していたキリスト教徒がこれに賛成しないのをみて、303年キリスト教徒に対する大迫害を始めた。しかし、コンスタンティヌスは一転してキリスト教に改宗し、「キリスト教徒の神」の地上における代表者をもって任じ、キリスト教会保護政策を始めた。帝権はいまや最高最強の神による聖化を得て専制化し、皇帝は以前のようにプリンケプスではなくドミヌス(専制君主)とよばれたので、この第四期はドミナトゥス(専制君主政期)とよばれる。これに応じて宮廷儀礼も跪拝(きはい)礼をはじめ皇帝の聖性を強調するもので満たされた。
 この時期には、全帝国を116の属州に分け、数属州で1管区を構成し、数管区から道(「ローマ道」とよばれる)をつくり、全帝国は3道またはときに4道に分けられるというようにきめの細かい統治が行われ、各道はおおむね1人の皇帝、または、いまや財政担当の文官たる親衛隊長によって統轄された。軍隊も国境防衛軍と、皇帝に直属し危地に急行する騎兵機動隊とに分けられ、国防の能率化が図られた。このため官僚群は肥大化し、軍隊は拡大したため、これを維持する国家財政は危機に陥った。
 すでに3世紀以来、日常生活用の銀貨の改悪と増発が甚だしく、貨幣価値を信用できない政府自身が、ディオクレティアヌスが始めた新しい農業課税、カピタティオ・ユガティオ制による納税を現物納とした。その税収を確保するために農民や小作人は農地から移動することを禁ぜられ、332年には逃亡した小作人を、自由人であるにもかかわらず、鎖で縛ることを命じた。都市の有産層すなわち地主も都市全体の納税責任者とされ、その身分は世襲とされた。次々に法律が出され、商人も職人も船主も兵士も世襲身分として国家に奉仕することを命ぜられたので、ローマは一種のカースト制的国家となった。これを嫌った大地主は、都市領域の外に大所領をつくり、納税を逃れて独立化した。いまや教会が大地主の仲間入りをした。この時期、北方国境は危機に陥り、ウァレンス帝(在位364〜378)は西ゴート人に敗れて遺体もみつからなかった。テオドシウス(在位379〜395)は西ゴート撃退をあきらめ、彼らに防衛義務と引き換えにトラキアに定住地を与えた。彼らは自らの王をいただき、自分たちの指揮官の下でローマ軍に参戦したから、事実上は帝国内のゲルマン国家であった。このことを定めた382年の条約は、ローマ、ゲルマン関係の逆転点であった。
 4世紀の末、ローマ元老院議員シンマクスとミラノ司教アンブロシウスの間に異教対キリスト教の決定的論争が行われ、392年には異教的貴族エウゲニウスの最後の武力抵抗もローマを中心に勃発したが、テオドシウスによって鎮圧され、異教的抵抗は破砕された。

西ローマ帝国とその滅亡(395〜476)
395年テオドシウス帝が死ぬと、帝国の東半分を長男アルカディウス(在位395〜408)が、西半分を次男ホノリウス(在位393〜423)が皇帝として分治した。ホノリウスの治政の前半はバンダル人スティリコが政治の実権を握り、ホノリウスの死(423)後まもなく即位したウァレンティニアヌス3世(在位425〜455)は母ガラ・プラキディア(テオドシウスの娘、ホノリウスの異母妹)の影響下にあった。このテオドシウス朝期の西の帝国は、相次ぐゲルマン人の侵入と帝国領内での建国、帝国政府の直接統治領の縮小、税収の枯渇によって、没落の一途をたどる。
 410年にはアラリック王の指揮下の西ゴート人がローマ市を占領し、3日間これを劫略(ごうりゃく)した。西ゴートはやがてガリアに移動し、その地でアタウルフ王は人質として連行していたガッラ・プラキディアと正式に結婚した。彼女は王が死去してから、ローマに送還され、将軍コンスタンティウス3世と結婚、後のウァレンティニアヌス3世を産んだ。406〜407年の冬に、バンダル、スエビ、アラマンの諸民族はライン川を渡りガリアを席捲して、スペインに入った。バンダル人はさらに北アフリカに渡り、ほぼいまのチュニジアの地にバンダル王国を建設した。この間ガリアのアルモリカでは農民の反乱(バガウダエの乱)が続き、ブルグントもガリアに侵入した。そのブルグントはフン人によって殲滅(せんめつ)させられたが、アッティラ王率いるフン人も、ローマの将軍アエティウス指揮下の他のゲルマン諸集団(ローマの同盟集団)の混成部隊にカタラウヌムの戦い(451)で敗れ、アッティラの急死(453)後、フン部隊は急速に瓦解(がかい)した。
 ウァレンティニアヌス3世の暗殺後、相次いでたった短命の数人の皇帝の時期、政治の実権はスエビ人リキメルが握り、465〜467年にかけての18か月間は皇帝なしで統治し、やがて東から送り込まれてきた皇帝アンテミウスをも殺したが、彼もその6週間後に死んだ。次に実権を握った将軍オレステスは、ふたたび東から送り込まれた皇帝ネポスを追い出し、息子ロムルス・アウグストゥルス(在位475〜476)を帝位につけた。ローマに雇われている同盟部族軍の長スキラエ人オドアケルは、給与の交渉でオレステスと決裂してこれを殺し、ロムルス・アウグストゥルスを帝位から追い(476)、帝冠を東に返し、東の皇帝の権威の下にたつことを選んだ。追われたネポスは、ダルマティアで480年に殺害されるまで、自らが皇帝であると主張していたが、476年の事件は一般に西のローマ帝国の滅亡の年とされる。この間にバンダル王ガイセリックはローマ市を占領、劫略し、サルデーニャ、コルシカも占領、北アフリカでも領土を拡大していた。476年のオドアケルの領域はイタリア、ラエティラ、ノリクムの一部、年金支払いと交換にガイセリックから譲られたシチリアに限られた。ラエティアの大部分は異民族の手にあり、ノリクムも488年には完全に放棄した。これ以外のかつての西のローマ領は、すべて異民族諸王国の領有するところとなっていた。これが西ローマ帝国の滅亡といわれたときの状態である。



ローマ史の研究史
 ローマ史の批判的・科学的研究は19世紀初めに始まるが、それ以前においても、たとえばルナン・ドゥ・ティルモンらの史料収集、マキャベッリ、ダランベールらの通史的叙述を受けて、ペリゾニウスおよびド・ボーフォールによって文献史料の批判的研究が始められた。それらを土台として、ベルリン大学のニーブールの『ローマ史』(1811、12)の批判的通史が、農制、軍事、社会、政治制度、農民共同体を中心に展開され、科学的歴史学の出発点となる。続いてローマ法学者テオドール・モムゼンの法律・制度を中心にした巨大な研究が現れ、『ローマ法大全』の刊行をはじめ、今日に至るまで研究者の依拠するものを与えている。この巨峰を受けて、イタリアのパイス、デ・サンクティスの批判的通史が現れ、ドイツでは人口史を取り込んだベロッホの叙述がなされる。モムゼンの弟子のなかから、ヒルシュフェルト、デッサウは帝政期に、ゼークは古代末期に巨峰をつくる。
 他方、個人史研究(プロソポグラフィー)の分野で、ミュンツァー、ゲルツァー、イギリスのサイムが巨大な業績をあげて社会史研究に道を開き、ローマ人の主要な概念の研究から価値意識を明らかにしたハインツェもこれに加わった。亡命ロシア人ロストフツェフの『ローマ帝国社会経済史』(1926)は、碑文、パピリ、貨幣ほかあらゆる考古学的史料をも総動員した通史として、前人未踏であると同時に、その後これに匹敵するものはない。アメリカ人フランクは、経済史史料の収集・翻訳(全6巻)によっていまなお研究を益している。
 第二次世界大戦後の顕著な傾向としては古代末期の研究があり、シュタイン、A・H・M・ジョーンズ、フォークトの三大著はその推進役といえる。ローマ宗教史の研究には、戦前からのビッソア、戦後にかけてのラッテ、アルトハイム、テーガーがそれぞれ宗教と政治・社会の関係を明らかにしている。旧ソ連を中心としたマルクス主義史学の立場にたった研究も、いまや膨大な内容をもつに至っているが、とくにそれらに刺激された奴隷制の研究は、フォークトを中心にしたマインツ・アカデミーの奴隷制研究グループを生み出した。最近ではフランスのアナール学派のなかから、ポール・ビューヌの『パンとサーカス』のごとき社会史研究が生まれ、盛んになりつつある。





ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「ローマ史」の解説

前7世紀テベレ川東岸にいくつかのラテン人,サビニ人の共同体が,通商上の理由から集住して都市国家を形成したのが起源。初期はゆるやかな王政をとり,一時エトルリア人の支配下に入って文化にも大きな影響を受けた。伝承では前 509年になって共和政が成立。土地所有,奴隷を含む財産,血統にすぐれるパトリキ (貴族) が高級政務官,元老院を占めて,プレプス (平民) も参加した兵員会を支配して国政を指導。しかし両身分間の抗争が続き,重装歩兵として実力を上昇させたプレプスが発言力を強めて,平民会,十二表法,リキニウス法の成立によって両身分は形式的に平等となった。ただ政治を左右したのはパトリキと富裕な少数の上層プレプスであり,彼らが寡頭政体制を進めた。前3世紀までにはイタリア半島の諸都市を条約の形で服属させ,海外に進出。3度のポエニ戦争でカルタゴをくだして地中海の制海権を手中にし,シチリア,ヒスパニア,アフリカ,さらにマケドニア,ギリシア,小アジアにも進出,これを属州として,奴隷,物資の供給源とした。新興騎士身分 (エクイテス ) が中心になって商業が発展,属州搾取と奴隷制を支柱とするローマの支配は帝国的な性格を示してくる。他方富を獲得した上層民の土地兼併はラチフンディウムを発展させ,一方では下層民の没落ははなはだしく,共同体の分解は顕著になった。グラックス兄弟の改革も失敗に終り,富と武力を握る有力者がその支配下に多数のクリエンテラを従えて抗争する内乱の1世紀に突入。まずユリウス・カエサルが勝利を得て帝政への一歩を踏出すが,暗殺され,その甥オクタウィアヌス (アウグスツス ) が最終的に権力を獲得,元首政 (プリンキパツス ) を開始した。エジプトをはじめ東方諸王国,さらにブリタニア,ゲルマニアも支配下に入れ,パックス・ロマーナの旗印のもと,五賢帝の時代 (96〜180) に帝国は極盛期に達した。共同体的体制は完全に払拭され,階層分化とその固定化が進んだ。しかし外征が限界に達して奴隷源の涸渇,市場の縮小という事態にいたり,しかも元首を頂点とする一部階層による搾取体制の存続は健全な経済の発展を阻害し,都市中産層を没落させていった。さらに異民族の侵入,疫病もあって,3世紀に入るや帝国の衰運は決定的となる。軍団の介入による政治的混乱はディオクレチアヌスによって克服されたが,統制経済,強制国家へと変質し,専政君主政が出現。コンスタンチヌス1世 (大帝)がこれを引継ぎ,キリスト教を支配理念とする後期帝政 (ドミナツス体制 ) が成立した。帝国の中心は東方ギリシア世界に移り,東西の分裂傾向は 395年テオドシウス1世の死後の帝国分離によって決定的となった。東ローマ (ビザンチン帝国 ) は 15世紀まで存続したが,西ローマは異民族の侵入により急速に衰えた。
「生涯を通じて奉仕する」 チャールズ新国王が国民に向け初演説
2022年09月10日 06:30 朝日新聞デジタル

 エリザベス女王の死去を受けて新たに王位を継いだチャールズ国王(73)は9日夜、国民に向けて初めてテレビ演説をした。母である女王の「揺るぎない献身」に倣い、自らも「生涯を通じて奉仕する」と国民に誓った。演説の最後では亡くなった女王を「いとしい母」と呼び、感謝の言葉を繰り返す場面もあった。
 演説はバッキンガム宮殿で録画されたもので、約9分間続いた。「今日は深い悲しみとともにみなさんに話しかける」。チャールズ新国王はそう言って演説を始めた。机の上には水色の帽子とスーツ姿でほほえむエリザベス女王の写真が飾られていた。

反対派がいると思ったがすんなりと即位!
エリザベス女王の棺、歴史的な場所に帰る 英国民「私たちの誇り」
2022年09月19日 19:54 朝日新聞デジタル

 エリザベス英女王が国民や世界から集まった元首らに見守られ、伝統ある国葬で見送られた。信じてもらうには、見てもらう――。開かれた王室をめざした女王が繰り返した言葉を、チャールズ新国王は一連の追悼行事を通して引き継ぐ姿勢を示した。
 ウェストミンスター寺院、19日午前11時。女王が1947年に自らの結婚式を挙げ、53年に戴冠(たいかん)式もした場所に、棺(ひつぎ)が運ばれた。
 聖歌が響き渡るなか、王室旗がかぶせられ、王冠を載せた女王の棺がゆっくりと教会の回廊を通った。チャールズ国王ら親族が棺の後に続いた。
 その様子を天皇、皇后両陛下や海外からの賓客、英国の政治家ら約2千人が静かに見守った。
 この日、女王が過ごしたバッキンガム宮殿近くには、葬列が通りすぎるのを見届けようと、まだ暗い早朝から市民が押し寄せた。
 ロンドン郊外ワトフォードから始発電車で来た教師のリサ・マクラフリンさん(42)は「女王が亡くなった夜は寝られなかった」。仕事があって公開安置には行けず、今回は必ず沿道でお別れを言いたかったという。
 葬列が目の前を通るのはわずかな時間だ。だが、「それまで6時間でも、7時間でも待てる。女王は私たちの誇りです。悼むと同時に、とても興奮しています」と話した。
 フィジー出身で、英東部ピーターバラに住むレバ・ルサンゴリさん(42)は午前5時半から、沿道にパイプ椅子とフィジーの国旗を持って陣取った。「私たちの元首ですから。葬列が目の前を通ったら、私の故郷に住む人たちのためにも、これまで本当にありがとうございましたと伝えたい」。

ルネサンス
中世文化がカトリック教会の権威によって強く規制され、現世に生きる苦しみや、理性・感情の
のびやかな活動をおさえてきたのに対し新しい市民生活は、人間性の自由・解放を積極的に求めた。
そして各人がその個性を発揮し、とらわれぬ目で人間と世界をながめようとした。
この精神運動をルデサンスと呼ぶ
ルネサンスにに「再生」「復活」などを意味するフランス語であり、一義的には古典古代(ギリシア、ローマ)の文化を復興しようとする文化運動。14世紀にイタリアで始まり、やがて西欧各国に広まった(文化運動としてのルネサンス)。また、これらの時代(14世紀 - 16世紀)を指すこともある(時代区分としてのルネサンス)。
日本では長らく文芸復興と訳されており、ルネサンスの時代を「復興期」と呼ぶこともあったが、文芸に限らず広義に使われるため、現在では訳語として文芸復興という言葉はあまり使われない。ルネッサンスとも表記されるが、現在の歴史学、美術史等ではルネサンスという表記が一般的である。
ルネサンスの基本精神は、ギリシャ・ローマの古典文化を深く研究することにより、自己の品性を
高め、人間らしい生き方を追求しようとした。これがヒューマニズム(人文主義あるいは人間主義)、でありこの精神にたつ知識人をヒューマニスト(人文主義者)という。
しかしヒューマニズムということばは、人間を回復するという考えから人間中心主義という意味でも使われる。ルネサンス人にとって自分たちの生きる時代は、古代の再生の時代であり、人間性の回復
の時であった。
その観点から神中心の中間の時代(中世)と見なされた。有限で不完全な人間が、無限で完全な神の前にひれ伏していたのが中世社会と見なされ、人々がモデルとして求めたものが、ギリシャ・ローマ時代の人間像だったのである。

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