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仏教・中観思想・空思想を学ぶコミュの龍樹論師「空七十論」の学びについて

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「空七十論」は、「中論頌」・「六十頌如理論」と並ぶ龍樹論師の代表論書でございます。このトピックでは、「空七十論」につきましての論考を深めていければと存じております。

コメント(48)

第9頌の「4つの倒錯はない」とする龍樹の論法は物凄いですね

「無常とは常がないことだけれども常がないんなら、その反対である無常もない。
無我とは我がないことだけれども我がないんなら、その反対である無我もない。
不浄とは浄がないことだけれども浄がないんなら、その反対である不浄もない。
苦とは楽がないことだけれども楽がないんなら、その反対である苦もない。
だから無常、無我、不浄、苦についての倒錯はない」
って!!
思わず噴出しちゃいますよね。

言葉の虚構をこして壊してしまうから、言葉による思考をも破壊してしまう
だから、論理に拠って涅槃に至る道になるんですね。

めでたいめでたい(笑)


いや、僕は噴き出しちゃうんじゃなくて厳粛な気持ちにさせられます

「ここまで相互依存性を徹底的に暴き立てるか!」って。


第13頌の「十二支縁起は実体としては成立していない」ということの論証も鬼気迫るものを感じます

「父と子の両者は存在しないのではない。また同時にあるのでもない。十二支縁起もこれと同じだ!」

素晴らしい!
そう素晴らしい。

刹那滅の生起と語る部派の主張は、一刹那においても多刹那においても認められないと、原因と結果を同時に生起することになるからと、否定します。

刹那に生起する12支が生起しないと刹那滅の思想を否定しています。

ここでもあるのは、自性の否定です。
8〜14偈までの12支縁起の否定は、十二支の一々が生起するのを実体視したら駄目ですよって言ってます。 それから15偈から22偈まで存在の生起とはどういうことなのかを検討します。

アビダルマ論者たちは一つの真理世界だけがあると考えている
だからその一つだけの真理世界で最高の真理にまで研き清めた釈迦伝来のアビダルマ哲学は絶対だと思っている

これに対して龍樹は確かにアビダルマ哲学が有効である限りの限られた真理世界、すなわち世俗をおおい尽す真理世界ではアビダルマ哲学が釈迦自身も説きたもうた最高の真理ではあるが

釈迦はこの真理世界とは別にさらなる究極の真理世界も明らかにしている…と二諦=二つの真理世界を闡明する


『空七十論』も素晴らしいディベート・論争の見本だ
アビダルマ論者が問うであろうこと、主張するであろうことを徹底的に俎上にのせ、自らに迫らせながら、それに応えてゆくことによって自らの認識をまごうことなく明らかにしてゆく

相手の主張を徹底的に言わせてこそ、自らの認識も嘘いつわりなく明らかになってゆく

力ある者こそが最もよく反対者の主張を聞く耳を持つのだ


78910さん

この『空七十論』は、ディベートや論争をしているのではなく、『中論』の第7章の24偈の諸説を展開して、それを論理的にしようとするものです。

確かに反論者を設定して、それに答えるという論の展開をしていますが、要は『中論』の解説の為の論なのです。

 アビダルマ哲学者たちのことを、実念論的な立場に立つものとして考えています。

マンジュシュリーに対して礼拝はしていますが、帰敬偈がないのは、『中論』の7章・第34偈の諸説を受けてその思想を展開したものであるとチャンドラキールティは述べています。 66偈から71偈までの偈頌は世間の事柄について仏陀は説かれていますが、相対的な視点ではなく、ことばを超えた世界では有と無の否定を行なうことで、真実が見えてくるとことを陽炎の喩えなどで、展開しています。

仏様は、世俗を悟りの立場から見られているだけで、別の世界に住まわれているわけではないんじゃないでしょうか?

「諸法実相」とはそういうこと?
石田さん


 ブッダも龍樹も、入滅する前は肉体を持ち、この世俗世間に住まわれていました。

 しかし、先日石田さん自身が上げられた「一水四見」の喩えのように、見え方は様々です。 出離と厭離、信と浄眼、精神集中と功徳の顕現などの修習の結果によって、現われが違います。

『ラトナバーリー』や『『勧誡王頌』―友への手紙』で説かれているように、日々の実習と正理の研鑽は、双入で取り組まなくてはならないと思います。

カルマ・ランジュンさん、いつも有難うございます。

ご発言の、


[自我]はない、「無我」はない、「自我かつ無我」もない。
だから名称は何もない。
なぜかというと、
名称であらわされる事物(法)はすべて涅槃と同じく実体(自性)が空であるから。

を読んで、なぜ「本質」という言葉を使うのかが判りました。

アビダルマ論者の言葉を敢えて使っていたんじゃないかって。

アビダルマ論者に対して論を張っているって前提が良く判ってなかったんですね。

どうも済みません。
石田さん


 そうですね、顕現するものは、縁起に基づいて起こる(名づく)のですから、
 偽りははい。

 仰るように「諸法実相」ということでしょうね

「顕現するものは、縁起に基づいて起こる(名づく)のですから、 偽りははい」ってお言葉、かみしめたいと思います。
ごめんなさい(笑)

「偽りは無い」ですよね(^^ゞ

 「はい」と「ない」とを誤字するなんて、浄眼ではなく老眼が進行していますよね。

わたしも、老眼で、言われるまで気が付きませんでした。
第15頌から第22頌までのナーガールジュナと実在論者=アビダルマ論者との議論はとてもわかりづらいものですね

ナーガールジュナ自身による注釈にさらに現代の読み手は自ら言葉を補いながらでなければ真意がつかみづらいものとなっていますね

存在という言葉にアビダルマ論者たちがどんな意味合いを込めていたのか、

さらに彼らアビダルマ論者たちの考えをよくよく了解していながら、ナーガールジュナがいかにその意味を解体してゆくか

この辺の議論は現代人の我々が当たり前かつ曖昧にとらえている言葉の感覚と大きく異なりますね

15偈〜22偈までは、「実体を認めると生滅が成立しなくなる」という言及です。



龍樹は、アビダルマ論師達の説は、なり立たないと言っているのですが、仏陀の仰っていることは、世俗真理として承認しているのです。

ここがポイントです。
アビダルマとブッダ、この両者の視点の違いに注目しないと、結果として、単なる虚無論者に陥ってしまうのです。

これから出るので、話はここまで(^^ゞ

第23頌と第24頌で取り上げられているアビダルマ論者のナーガールジュナに対する反論は彼らからすればもっともであり、それをそばで聞くことのできる我々にとってもとてもエキサイティングなものですね

ア論者「そもそも仏陀は生滅を見られて涅槃の道を説かれたのであって、空性を見たからなんかじゃない!
生起も消滅もない、なんて言うなら、ナーガールジュナよ、一体何が消滅して涅槃すると言うのか!?」


カルマ・ランジュンさん

>龍樹は、アビダルマ論師達の説は、なり立たないと言っているのですが、仏陀の仰っていることは、世俗真理として承認しているのです。…アビダルマとブッダ、この両者の視点の違いに注目しないと、結果として、単なる虚無論者に陥ってしまうのです。

龍樹はアビダルマ論師達の説も単になり立たないと言っているだけでなく、世俗真理として承認していますね
ただ、仏陀においては世俗真理だけでなく究極の真理もまた説いており、アビダルマ論師達はその片方(世俗真理)だけをあたかも究極の真理であるかのように謳っており、その点が龍樹によって厳しく指弾されていますね

78910さん

 「中観のコミュ」で止まっている「方便心論」のチャラカとニヤーヤ・スートラは完全にアビダルマの主張と論陣の張り方が一緒なんですが、世俗諦と勝義諦は全く別々の物と捉えると、勝義の捉え方を誤ります。 


 語る資格も無いし、知ったような事は言えませんが、世俗諦から自性を引くと勝義が残ると今のところは思っています。
 事象を完全にばらばらにすると、言葉が残ります。
言葉をばらばらにすると、その中に潜む自性が見えてきます

 我々の意識が表象に依存しているし、経験の構成が我々の欲求を司っているからです。
つまり我々は、世俗、勝義の理解に至るには、アビダルマの視点に立たなければ、理解が困難になっているのです。

チベット仏教では、仏教の学びを始める時、戒を受け、戒と律を学んで、アビダルマから入ります。
日本で言う国語、算数を学ぶように、次は般若を学び、中観に入ります。そして唯識を学び、様々な大乗仏典を学びます。 人によっては密教に入りますが、学びに順序があるのです。
カルマ・ランジュンさん

>世俗諦と勝義諦は全く別々の物と捉えると、勝義の捉え方を誤ります。…世俗諦から自性を引くと勝義が残ると今のところは思っています。

「全く別々の物」と捉えるか、「ちょっとだけ異なるもの」と捉えるかという表現で争うのは議論の実質を欠いてしまうので、「世俗諦から自性を引くと勝義が残る」とおっしゃるところから検討させていただきたいと思います

これはある意味、大変面白い表現で、二諦の区別についてあんちょこ的に理解しやすく持ってゆくものであるのは確かだと思います


>事象を完全にばらばらにすると、言葉が残ります。

「これは事象を捉えている我々の意識を分解すると」という意味でしょうか?


>言葉をばらばらにすると、その中に潜む自性が見えてきます。

事象を捉えている我々の言葉を分析すると、明らかに自性そして実在論を前提としているのが見えてくる、という意味でしょうか?


>我々の意識が表象に依存しているし、経験の構成が我々の欲求を司っているからです。つまり我々は、世俗、勝義の理解に至るには、アビダルマの視点に立たなければ、理解が困難になっているのです。

「我々はいやおうなく最初はアビダルマ的意識状態で生きている。ただそれについて我々は無自覚であるだけだ。アビダルマとはそれを徹底的に突き詰めたものだ。いわば世俗の無自覚な常識的考えをとことん自覚化し、かつ洗練したものだ。まずこれを理解しなければ、ナーガールジュナが乗り越えようとしたものも、その乗り越え方も、したがって乗り越えた先のこともよくわからないのだ」
という意味でしょうか?

おっしゃる通りだと思います
第23頌と第24頌について

生起と消滅を見ている意識は生起と消滅というお互いに依存し合ってかろうじて成り立っているものを見ている意識に過ぎない

生起は消滅に縁って成り立ち、消滅は生起に縁って成り立っている
「此れに縁ってある」という此縁性=縁起についての考えがナーガールジュナにおいては時間的前後関係に拘束されることを離れて、論理的相互依存関係までも射程に入れるに至っている


そして相互依存の関係にあるものに焦点の絞られたものの見方(=二元論)はいまだ究極の意識、究極の真実とは言えないことをナーガールジュナは訴える
生起も消滅もそれ自体で他に縁ることなく存立しうるようなものではなく、他に縁って初めて成立しうる全く自性なきものだ
そう見る時、数々の二元論の束で構成されている意識の網ははっきりと見透かされて空だけの明け開けに僕たちは立つ

そこには生起も消滅もない


それが解脱である、とナーガールジュナは言う
第27頌について

〈定義されるもの〉と〈定義するもの〉はお互いに「此れに縁ってある」という関係(縁起=此縁性=相依性)によって初めて成立し、自ら実体をもって成立しているわけではない(すなわちどちらも空だ)


第28頌について

原因と結果も、それぞれ自ら実体をもって成立しているわけではない
お互いに「此れに縁ってある」という関係によって初めて成立しているに過ぎない
〈感覚される対象〉と〈感覚するもの〉も
〈見るもの〉と〈見られる対象〉も
同じである
第29頌では、時間というものが実体としては存在しないことが丁寧に語られていてとても面白い

そうすると空とは時間がずっと続くこと(=永遠)とか、その他の何か時間的概念に関係したものではなく、超時間的なもの、あるいは非時間的なものであることがわかる


第32頌はとても難しいですね

「生成変化するもの(=有為)も生成変化しないもの(=無為)も、すなわちありとあらゆるものは、

多でもなく一でもなく

有でもなく無でもなく

有でありかつ無である、というのでもない」
>ありとあらゆるものは多でもなく一でもなく、有でもなく無でもなく、有でありかつ無である、というのでもない

では何なのか?
ありとあらゆるものはそれ自体は空である
ただ構想によって多であるとか一であるとか、有であるとか無であるとか、有でありかつ無であるとかと言われるだけであり、

諸仏がやはりそのように多であるとか一であるとか、有であるとか無であるとか、有でありかつ無であるとかといろいろ説いていらっしゃるのも、ただ構想上のものとして説いていらっしゃるのだ
それも深い意図があってそのようにいろいろに説いていらっしゃるのだ


(第33詩頌から第44詩頌まで参照)
この辺りは四句分別を多用していますね。

重々に反省判断を深めていくのだと思います。
石田さん

論争の形式としては確かに四句分別というものを見てとることができるのかもしれませんが、論争の内実においては同じような四句分別を使いながらも論じているテーマによって、本当に微妙な違いを見せており、ナーガールジュナが十把一からげに全テーマを扱っているのではないということがよくわかります

一つ一つのテーマ、問題に密着しながら決してドグマティックに空を結論づけるわけではなく、問題の性質に即した臨機応変な論争をしているところにナーガールジュナの柔軟性を色濃く感ずることができます


第58詩頌から第61詩頌

とても面白い
「すべては無常であるという言葉の中にすでに空ではない、不空だということが含意されているではないか!」
と対論者は言う

これにナーガールジュナは答える
「すべては無常であると確かに言われているが、無常なるものなんてないし、その反対に恒常なるものなんてのもない。
ものがあるとすれば無常なるものか恒常なるものかのどちらかだが、どっちもないのだ」

また、対論者が言う
「経典の中に貪り、怒り、愚かさということが広く説かれている。だからこれらはあるだろう」

ナーガールジュナは答える
「貪りは〈意にかなうこと〉に縁って(これを条件として)生じる。
怒りは〈意にかなわないこと〉に縁って(これを条件として)生じる。
愚かさは倒錯に縁って(これを条件として)生じる。
だから、縁起=此縁性=相依性によって初めて成立する実体のない無自性、空なるものだ」

さらにナーガールジュナは言う
「同じものに対して貪りを覚えたり、怒りを覚えたり、愚かに迷ったりするだろう。それは貪りや怒りや愚かさが思惟でしかないからだ。
思惟の対象は他に縁って生起するものであり実体なき空なるものだ。
また思惟は思惟の対象に縁って生起するものだから、やっぱり実体なき空なるものだ」


「すべては無常であると確かに言われているが、無常なるものなんてないし、その反対に恒常なるものなんてのもない。
ものがあるとすれば無常なるものか恒常なるものかのどちらかだが、どっちもないのだ」

これを読んでると頭がおかしくなりそうですね。
石田さん

「すべては無常である」と釈尊がおっしゃったのはある深い意図があってそう説かれたのだが、これは必ずしも究極の真実を言ったわけではない

〈無常なるもの〉なんて実体としては存在しないし、その反対の〈恒常なるもの〉なんてゆうのも実体としては存在しない
実体としてものがあるとすれば〈無常なるもの〉か〈恒常なるもの〉かのどちらかしかありえないが、どっちもありはしない

という意味だと思います

ナーガールジュナによる詩頌も、また彼自らの注解も、現代に生きる僕たちにとってはまだまだ言葉を補わなければ十分に理解できるものではありませんね
78910さんに言葉を補っていただいて、良く判りました。

実体論者を相手にしているという文脈で読まないと判らないんですね。

難しいな・・・。
第62詩頌から第66詩頌

真実を見ることによって4つの倒錯(無常を常と見ること、苦を楽と見ること、不浄を浄と見ること、無我を我と見ること)がなくなり、

4つの倒錯に縁って生起する迷い(=無明)もなくなる

迷い(=無明)がなければ行(=生成のはたらき)は生ぜず、その他の十二支も生じない

Aに縁ってBが生起するという相互依存関係にある存在と無存在も、生成変化するものと生成変化しないものも、実体としては寂静だ
そしてそれこそ涅槃ということに他ならない

「Aに縁ってBがある」というものを真実に実在するものだと妄想することこそ迷い(=無明)に他ならないと尊き師は言われた
この迷い(=無明)から十二支が生ずるのだ

真実を見て、「実体はない、空だ」としっかり知るならば迷い(=無明)は生じない
これこそ迷い(=無明)の滅であり、これによって十二支も滅する


常楽我浄についてのWikipediaの記述は面白いですよ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E6%A5%BD%E6%88%91%E6%B5%84

概要

釈迦が出家した時、衆生の多くは人間世界のこの世が、

無常であるのに常と見て、
苦に満ちているのに楽と考え、
人間本位の自我は無我であるのに我があると考え、
不浄なものを浄らかだ
と見なしていた。これを四顛倒(してんどう、さかさまな見方)という。 釈迦は成道した直後にまずこの四顛倒をただし、この世は無常・苦・無我・不浄であると説いた。これが諸行無常・一切皆苦・諸法無我などという仏教用語の基となっている。

しかし『涅槃経』に至って、如来は入滅してもこの世に常住し、涅槃こそ真の楽であり、人間我を超えた所に如来我(仏性)があり、浄らかであると説いた、とされている。

常 - 仏や涅槃の境涯は、常住で永遠に不滅不変である
楽 - 仏や涅槃の境涯は、人間の苦を離れたところに真の安楽がある
我 - 仏や涅槃の境涯は、人間本位の自我を離れ、如来我(仏性)がある
浄 - 仏や涅槃の境涯は、煩悩を離れ浄化された清浄な世界である
これが常楽我浄である。
石田さん、ありがとうございます

>常=仏や涅槃の境涯は、常住で永遠に不滅不変である
楽=仏や涅槃の境涯は、人間の苦を離れたところに真の安楽がある
我=仏や涅槃の境涯は、人間本位の自我を離れ、如来我(仏性)がある
浄=仏や涅槃の境涯は、煩悩を離れ浄化された清浄な世界である
これが常楽我浄である。

これについて石田さんはどのような感想を持っていらっしゃるのですか?
悟りの立場からすると、諸法実相、煩悩即涅槃なので、そのまま常楽我浄なのでしょうね・・・。

桜梅桃李として、そうありたいものです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E6%A2%85%E6%A1%83%E6%9D%8E

鎌倉時代の宗教家である日蓮[3]は「桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見す」と述べた[4] 。いずれも独自の美しい花を咲かせることから、桜は桜の、梅は梅の、桃は桃の、李は李の特徴を改めることなく、生かしていくとの意味であるという。
石田さん

>常=仏や涅槃の境涯は、常住で永遠に不滅不変である
楽=仏や涅槃の境涯は、人間の苦を離れたところに真の安楽がある
我=仏や涅槃の境涯は、人間本位の自我を離れ、如来我(仏性)がある
浄=仏や涅槃の境涯は、煩悩を離れ浄化された清浄な世界である
これが常楽我浄である。
こう言われてナーガールジュナならどう答えるか、を考えてみたいと思います

「仏や涅槃の境涯は常住で永遠に不滅不変である 」と説かれているのも、そう説くのが有益だと思われた深い思慮から限定的にそう説かれたに過ぎない
それは究極の真実ではない
「仏や涅槃の境涯は人間の苦を離れたところに真の安楽がある」と説かれているのも、そう説くのが有益だと思われた深い思慮から限定的にそう説かれたに過ぎない
それは究極の真実ではない
「仏や涅槃の境涯は人間本位の自我を離れ、如来我(仏性)がある」と説かれているのも、そう説くのが有益だと思われた深い思慮から限定的にそう説かれたに過ぎない
それは究極の真実ではない
「仏や涅槃の境涯は、煩悩を離れ浄化された清浄な世界である」と説かれているのも、そう説くのが有益だと思われた深い思慮から限定的にそう説かれたに過ぎない
それは究極の真実ではない

無常、苦、無我、不浄も
常、楽、我、浄も
お互いに此れに縁ってあるという関係で成立するものでしかない
究極の真実においてはどれも寂静である…


いかがでしょうか?
言語道断の辺についてはそういうことなのでしょう。

慈悲の立場から言えば、敢えて言語化して説くのだと思います。

これが「建立」(こんりゅう)ということではないでしょうか?
もちろん今日に生きる僕たちはナーガールジュナが生きていた時代と違って、アビダルマ哲学やニヤーヤ学派を打ち破ることが時代の課題となっているわけではありません

また、いったんナーガールジュナが大乗・中観の哲学的基礎を堅固に打ち立てた後の大乗の豊かな発展も知っています

したがって、今日あまりにも簡単にその一連の流れを振り返ることのできる僕たちにとって必要かつ大事なことは、

ナーガールジュナのあの徹底的な空観を今日の僕たち一人一人の瞑想実践の中で味わうこと、追体験することではないでしょうか?


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