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仏教・中観思想・空思想を学ぶコミュのツォンカパ論師の中観思想の学びについて

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ツォンカパ論師の中観思想の学びについては、こちらのトピックにて宜しくお願い申し上げます。

コメント(125)


ジェ・ツォンカパ著『道の三要訣』


至尊なるすべての導師の方々に頭を垂れて礼拝いたします

勝者(=ブッダ)のすべての言葉の心髄の意味であり、
正しきブッダの弟子たち(=菩薩たち)が賛嘆する道であり、
解脱を欲する有縁の者たちが船出する波止場に喩えられるそれ(=道の三要訣)を、私ができる限り説き明かそう
84番で、「境地」のことを「境智」と書いてしまったことに、今気づきました。
>至尊なるすべての導師の方々に頭を垂れて礼拝いたします

一人一人の導師たちがどんなに有り難いことか、彼らによる教えの相承がいかに希有なことであり尊いことか、僕たちは今一度しっかりと振り返ってみるべきですね


>勝者(=ブッダ)のすべての言葉の心髄の意味

それをこそ僕たちは本当に聞きたいと思っていますね


>正しきブッダの弟子たち(=菩薩たち)が賛嘆する道

僕たちも賛嘆するほどの感激をもって是非ともその道を受けとめたいと思います


>解脱を欲する有縁の者たちが船出する波止場に喩えられるそれ(=道の三要訣)

是非ともそれをしっかりと心にとどめたい
(続き)

「輪廻の幸福に執着せず有暇具足を無駄にしないように精進することによって、勝者のお喜びになる道を信奉する有縁の者たちよ。
清らかな心で聞きなさい。」
>輪廻の幸福に執着せず…

僕たちはついつい輪廻で味わえる幸福を追い求め、握りしめ、それを手放したくないと思ってしまいますね。
>輪廻の幸福に執着せず有暇具足を無駄にしないように精進する……

輪廻の中の幸福を大事にするという世間の習いにどっぷりと浸かって来た僕は、せっかく精進のチャンスが厳しく突き付けられて来ても
輪廻の幸福と、精進が求める喜捨とを秤にかけ、しばしば葛藤に苦しみます。
そのチャンスをしっかりと精進に組み込んでゆくということが学べるように、自分の中に深い視点を定着させてゆきたいと思います。
ついつい日々の日常がいつまでも続いて行くように錯覚している私たちは、この貴重な今生を惰性で過ごすという愚かな時間の過ごし方をしてしまいます。

去年、脳梗塞と脳内動脈瘤の手術をして有暇具足の幸運に恵まれた事を感謝しましたが、今はまた休みの無い仕事人間に陥ってしまっています。

懲りないですよね(笑)


カルマ・ランジュンさん、大変なご病気をされたのに、大丈夫ですか?

ちと心配。

あっ、トピックと関係なくて済みません!
石田さん


ご心配ありがとうございます。
ただ何となくの生涯にしたくないんでしょうね。
その意味では渇愛にまみれたいんでしょう。

師事している活仏も何度も脳梗塞になってますが、生き方は変わらないんでしょうね。

正しい生き方よりも楽しい感覚を求める動機は持ち続けたいと思っています。
実はその確信は禅定により養われたと思っているのです。



世俗的日常と出離の葛藤の問題は仏教に向き合う時、誰もが悩み苦しむ難問ですね。
滅諦と道諦への確信をいかにしっかりしたものへと育てていくかが出離の基礎となるのでしょうか?
深く瞑想を重ねて心が育つことを期したいと思います。
78910さん

道諦と滅諦の確信というのは、確信に繋がる帰依から始まると僕は思います。

先日デチャンナムドルさんが勘違いしたと言っていた帰依があれば、総ての土台になりえます。 清浄であることも、五道の階梯も、禅定の八解脱のプロセスも何らかの形で、自我意識を放棄することが必要だと思うんです。

社会生活を送る上で、自我や所有意識が有用であるのは、誰もが解っていますが、役に立つハズの理性は、私たちの根本的な混乱の基であることは自覚するのは少しばかり難しいです。


その辺が理性を尊重する姿勢と行と教学を尊重する姿勢の分岐点なんでしょうね。


「役に立つハズの理性は、私たちの根本的な混乱の基であることは自覚するのは少しばかり難しいです。」ってのは根本の無明ですね。
頭の中で言語化できていないことをカルマ・ランジュンさんが言語化してくださるので、助かります。
石田さん


それはまさしく未分化から分化の認識が起こり物事をより細かく正確に認識するプロセスが起こってくるものですね。

有る意味では概念化が進行する側面がありながらも、観照智を得るのに有用ですね。



カルマ・ランジュンさん、いつも、ありがとうございます。

無分別智を言語化した途端に分別智になってしまうところがやっかいで理解しがたいところですね。
石田さん


言語が指し示す物事には実相はないと云われるジレンマはその辺にあるんでしょうね。

とはいえ、諸法実相なりと。

このあたりは、理解しがたいですね。

考えちゃうと。
石田さん


「諸法実相」とは縁起による生起に依って物事は消滅をしていく事を現していますが、空性論者は、物事の生起・消滅に実体を見ません。

その視点混同すると断見や常見に陥りやすくなるから、柔軟で謙虚な姿勢が求められるんでしょうね。


一色一香無非中道。
「摩訶止観(まかしかん)」
ジェ・ツォンカパ著『道における三つの秘訣』

この上なく尊いもろもろのラマたちに最敬礼いたします。
仏陀のすべてのお言葉の心髄の意味であり、正しい菩薩たちが誉め讃える道であり、解脱を欲する有縁の者たちがまさに船出する波止場とも言える『道における三つの秘訣』を、私が精一杯明らかにしようと思います。
輪廻の幸福に執着しないで、有暇具足を無駄にしないように精進することで仏陀のお喜びになる道を信奉する有縁の者たちは、清らかな心でお聴きなさい。

清浄なる出離がなければ、輪廻の苦海に幸福の果実を追い掛けるばかりでそれを鎮める方法はありません。
輪廻に愛着する煩悩によってすべての生き物はことごとく束縛されているのだから、まず初めに出離をこそ求めるべきです。


瞑想するにあたり、眼を瞑って考え事をするのが瞑想だと思っている人が多いのですが、

それは正しくありません。
瞑想の種類はたくさんあって、目的によってやり方も違うのです。


基本は仏教もヨーガも同じ取り組みですが、その中にも種類があります。
しかし悟りを目指すやり方は限定されています。


座禅というのは、「禅」から来ていて禅は「ディアーナ」という境地を表す言葉です。

禅の状態には階悌があって意識の深化の状態によって境地も違ってきます。

どの段階であっても共通の取り組みがあるので、チベット仏教の偉大なツォンカパという人物が『ラムリムチェンモ』に記したものを紹介します。

この書物は「止の章」と「観の章」に別れていて「止」から取り組まなくては「観」は出来ないとなっています。

止の章は
?沈み込み
?昂ぶり
の障害を対処する方法として「念」と「正知」を挙げています。


「観」に先立って心が静寂の状態になっていないと、観照することは出来ないのは分かりますよね。

心が対象に集中し、分別が消滅した<安住>状態になり且つ<明瞭さ>の側面を備えてなくてはなりません。

瞑想中に眠くなったり、興奮した状態では、瞑想に成らないのです。

明瞭さを妨害するのが沈み込みで、精神集中した無分別を阻害するのが昂ぶりなのです。

この二つの障害は「止」と「観」を阻害するだけでは無く、日常生活の意識状態も困難な状態を作り出す障害になるのです。

ちなみに「観の章」では、空性の理解が求められます。
論法のプラーサンギカを学ぶ必要が出てきます。
密教の教えは『ガクリムチェンモ(密教次第)』に説かれています。



瑜伽行に関してツォンカパは三編の著作があります。



?『クンシカンテル』―『摂大乗論』のアーラヤ識を精緻に解説しています。
?『タンゲ・レクシェニンポ(未了義了義善説心髄)』―アーラヤ識とマナ識の研究―「三性説」の解説
?『ラムリムチェンモ(止の章)』―瑜伽行の視点から解説しています。


『ラムリムチェンモ(止の章)』は、『瑜伽師地論』の「声聞地」から多くの引用されているのですが、「菩薩地」あるいは『解深密経』『三昧王経』『荘厳経論』『中辺分別論』『阿毘達磨集論』『入菩提行論』、『修習次第』『般若派羅蜜多優波提舎』。『菩提道灯論』などと、実に実践において重要な典籍から引用されていて、仏教におけるヨーガ(瞑想)における要になる教えが、この『ラムリムチェンモ(止の章)』にあると思います。




この文章は『たましいの寺子屋』に書いたものを転用しています。

ここへの書き込みは非常に久し振りですが、ツォンカパの独自性のことを少しだけ触れていきたいと思います

チベット仏教内で最大の宗派ゲルク派を創始した人物で、彼の思想で特徴的なのは、中観帰謬論証派の見解を顕教・密教全体を通じての根本的な見解と考、その基盤の上に全仏教を体系化した点にツォンカパの思想的独創性があるんです。
 中観思想はナーガールジュナ(龍樹)から始まり伝承されてきましたが中観思想の中でも最も深い意義である論理的な存在論の論証をしていることでもツォンカパの思想的な立場である「中観派の不共(フグウ)の勝法(ショウホウ)」が特徴なのですが、僕はカギュ派とニンマ派の師匠に師事しているからゲルク派とは縁は濃くはないのですが、この「不共の勝法」のお蔭で理解しやすかったと言えるでしょう。

まあ考え方の基盤になるのですが、縁起や輪廻、涅槃、自性、無自性、空性、実体、我。 といった概念においては帰謬論証派と自立論証派の思想対立は起こらず、細かい詳細の規定において自立論証派の視点は実在論と同じとして退けるのです。 この二段構えが空性を理解するのに役にたつのです。

こういったツォンカパの中観思想は彼の初期の著作『ラムリム』や『善説心髄』『正理の大海』を読むと伝わってきますが、実在論と縁起を重大なテーマとして、それを打ち立てる配慮が伝わってくるようです。

最近書き込みがないので、何となくの投稿です。
>>[109]

あげて下さったツォンカパの著作はどれも興味深いものばかりですね。
>>[110]の刺激的なコメントによって学びの道を活性化していただけたら嬉しいです。
78910さん
これは#109のコメントに対するレスポンスだったのですね。

そですね、ツォンカパの著作は難解ですが、表現の癖に慣れれば、問題はないですね。
チベット仏教は、インドで研鑽された中観思想、唯識思想を受け継ぎ、宗派の系譜で言えば、四大宗派はいずれも、帰謬論証派に属していると言えるでしょう。

チベット仏教を立ちあげたのは、パドマダンヴァバと思っている人が多いのですが、実際はナーランダー大寺院の大学匠であったシャーンタラクシタ(寂護)がチベットに呼ばれ、ボン教の守護者達が仏教の布教を邪魔したのでグル・リンポチェ(パドマサンヴァバ)を呼んだのです。

シャーンタラクシタは高齢だったので中国禅(如来禅)のマハーヤーナ和尚との対決(論戦)のためのヒマラヤを渡れないので、弟子の蓮華戒(カマラシーラ)が代わりに論戦に立って、見事勝利してインド仏教がチベットに導入されることになったのです。

そこで寂護は、更にナーランダーから説一切有部の僧侶を呼び寄せ、チベット人に小乗の戒律を与えて最初の仏教僧院を誕生させたのです。
そのお寺をサムエー寺と言って、最初の僧院として生まれたのです。

マハーヤーナ和尚と論戦をして勝利したカマラシーラは、禅定の秘訣を著して残したのです。それをツォンカパ達がそれを土台に『ラムリム』を作ったのです。

上記の様にインド仏教の同じ内容がチベットにもたらされたのですが、それに加え、アーユルヴェーダの身体観とギューシ(四部医典)が加わって、仏教医学と密教の身体論が出来たのです。

それがチベット仏教です。

インド仏教と何の遜色もないんです。

ナーローチュードック

これはチベット仏教のカギュ派で、重んじられる修道法の名前で、またの名前を「ナーローの六法」と言います。 僕は省略した「ナローパの六ヨーガ」ということが多いのですが、同じものです。

 ツォンカパもこの修道を重んじて、自身の修行体系の中に取り入れたのですが、初代パンチェンラマがゲルク派の中にこの六法のシステムを導入したのです。

?「チャンダリーの火」
?「ギュル(幻身)」
?「ミラム(夢)」
?「ウッセル(光明)」
?「バルドゥ(中有)」
?「ポワ・トンジュク」

この6つの項目がそれぞれのシッディ(境地)があって、最初のチャンダリーの火というのは、クンダリニーのことです。 以下の項目はクンダリニーが完全に覚醒状態に成らないと進めない状態でもあります。
クンダリニーというのは、クンダリーニとかのアクセントの違う表記がありますが、これは名詞を男性形容するか女性形容するかの違いです。 クンダリニーはサンスクリットの女性名詞です。
チャンダリーはチベット語なだけで、同じものを指しています。

クンダリニーは真実を知るためのツールです。 六番目のスンジュク以外はクンダリニーが本覚醒状態になると、本人の特性によってそれぞれの進化が進み、特殊な意識状態になっていきますが、これはあくまで「超えている」状態として発現しますので、その能力は出てきたけど、他の部分は日常生活が出来ない等といった極端に片寄った状態ではないのです。
チョギャム・トゥルンパ・リンポチェのエゴに纏わる鋭い洞察の著書を読まれたことのある人は、其ほど多くはいらっしゃらないのかも知れませんが、あの切れ味は独特ですよね。

トゥルンパはトゥルクであって、もう何代目か忘れましたが、彼もカルマパのリネージを支える転生霊童の活仏なのです。
クリシュナムリティと双璧と唱われた知性の代表的存在ですが、トゥルンパの鋭利な刃物の様な知性は、伝統の中で培われたものなんです。

トゥルンパはカルマパのリネージを支える活仏であるのだから、カルマ・カギュ派の人の指導者の一人です。 チベット仏教の四大宗派の思想はどれもそうなのですが、全部「帰謬論証派」の流れにあるのです。
 中観派は、「帰謬論証派
」と「自立論証派」の二つがあるのですが、ナーガールジュナからチャンドラキールティの系譜の伝承を重んじる帰謬論証派が現代では正統だと認識されています。

で、チョギャム・トゥルンパにはこの帰謬論証派の流れがあるのが特徴的なのです。

帰謬論証派は、自立論証派と違って「空」が「ある」とは主張せず、実体(存在の根拠)が成立しないと、否定という形で空を説くのです。

ただそれだけだと、虚無主義に陥りやすく危険なのです。 トゥルンパはカギュ派の修道法である「マハームドラ(大印)」の方法は、内に如来蔵を含んでいるので、存在の根元に計り知れない程の豊かさを体得しているので、虚無主義にはなり得ないのですが、読者は、如来蔵や仏性論も知らない人は、自己収縮して自己の存在を否定してしまう傾向を持ってしまう危険が大きいのです。

それはクリシュナムリティの思想もよく似ていて、虚無感に支配される人が多いのです。

肥大したエゴ(自我)は、慢心になりやすく、人に嫌われる傾向を持ちますが、自分の存在は、如来の性質を内に含んでいて、将来のいつかは、如来になるのです。 
 存在そのものが初めから持っている仏の性質をも否定したらダメなのです。 ブッダに唾を吐くような行為は自分を否定することです。


 自分の自尊心は、それと同じです。 存在は始めから高貴であって構築された文化や立場とは何の関係のも無いのです。 存在は理由も無くただ、尊いのです。


それを踏まえた上で、チョギャム・トゥルンパを読むとまた意味が違って来るのです。

調べたら、トゥルンパは、カルマパ五世の時に、シッダラインのトゥルクとして誕生して、写真のチョギャム・トゥルンパは11世ですね。
>>[73]

2011.01.24[73]にカルマ・ランジュンさんの投稿に次の文章があります。

>ダライラマは、自らが如来蔵思想を認めていますし、自らをゾクチェン
 (大究竟)の修行者とされています。

 私の読んだチベット仏教の本には、「 仏性は最初、白紙である。」と
ありました。また、仏に成る可能性であれば、あるだろうと思います。

 一方、日本の仏教の仏性は、心浄本性説で、最初から「仏」があると
されると思います。

 疑問は、仏性に関して、チベットと日本では考え方が違うのではないか
ということです。

 この点について、ご教示戴ければ幸いです。

大雑把に国と国を比べて比較文化論をやるのも一定の意味はあるけれども、自分が求める仏教というものの姿を探究してゆくほうがずっと意味のあることではないかなあと思います。
>>[120]


そうですね、78910さんに同意します。
僕も興味の対象外ですね。

友人に分化人類学者もいますが、比較して仏道を歩むのは面白くない。
一つの国の中にも有力な異なる立場、見解がいくつかあり、結局は国というひとくくりで見るというよりも、
見解と見解を比べるということしかできないと思います。
「この国の仏教にはおおむねこういう傾向があるなあ。あの国の仏教にはおおむねああいう傾向があるなあ」という話は文化論とか雑談のレベルで可能だとは思いますが。
>>[119]


>  一方、日本の仏教の仏性は、心浄本性説で、最初から「仏」があると
> されると思います。
>
>  疑問は、仏性に関して、チベットと日本では考え方が違うのではないか
> ということです。
>



興味無いと表現したのに変な奴と、思われるでしょうが、結構肝の部分なので少しだけ咬んじゃいます。

禅文化の対立と融合を経験しているチベット仏教と、中国天台の流れしか知らなかった日本仏教では包含している知覚と認識に違いが出てしまったのでしょう。


サイエンスミロクさんの疑問の中心は、噸悟と斬悟の違いだと思います。
 インド仏教の特徴は斬悟(段階的に悟りを深めるアプローチ)なんですが、それに対して禅の噸悟は、最初から悟っているというもので、相反するものなんです。
 所がチベットに古くから伝承されていたポン教(土着の宗教)と、禅の教えは融合しやすくチベットの心の基盤に相性が良かったのかも知れません。

 なので、正統なインド仏教の伝承者とされるチベット仏教は噸悟と斬悟の両方の特性を持つ教義体系を生み出したのです。

 先にサイエンスミロクさんは、陽炎と普通の知覚が全く違うものだから、水掛け論になる、と書かれていましたが、知覚認識の話しは、空思想をどの様に表現するのが妥当なのか? という思想の限界を帰謬論証法と自立論証法の二つに二分されたのですが、より真理の探求を求める人達は仏教の認識論・論理学を追求するようになったのです。
 論理学の探求は、このコミュニティにもあるディクナーガとダルマキールティの二人が立てた認識論と論証法は、当時のインド精神世界でも最大の壁となって思想界に不動の碑を建てたのです。

 話しは、大きく脱線しましたが、陽炎をどう見るか? 目の前の日常をどう捉えるのか? というのは、固定観念で見ていると何も見えなくなると言う話なんですよ。


 
「自性を排除するのみのものによってその対象をどうして否定する必要があろうか。
そのように理解することは、二我において相に執着することの対治なのであって、
それには相に執着することの匂いすらもないからである。
このような理解さえも過失であると見て、善い分別と悪い分別のいずれをも否定するならば、
中国の戒師和尚の説を樹立したいと願っていることは明白である。」
(ツォンカパ『道次第大論』より)


ある対象の自性を排除するのみの空性によって、その対象まで否定する必要はない。
自性はないと理解することは、人我と法我において相に執着するのを対治するためであり、そこには相に執着する匂いすらない。
自性はないと理解することまで過失と見るなら、それはこのような善い分別までも悪い分別と一緒に否定してしまうことであって、
中国の禅師、摩訶衍の説を支持することに他ならない。
「私たちの感覚器官による知(知覚、現量)には色声などはまったく自相によって成立しているものだというふうに顕現する。
しかし、その顕現どおりの自相は、実は言説においてさえ無い。それでこの師(チャンドラキールティ)は、言説においても感覚器官による知は迷乱であるとおっしゃるのである。
そうではあるが、諸々の感覚器官による知は、こと言説において色声などの諸境を設定するに関しては量として決して不適切ではないのである。」

(ツォンカパ『道次第大論』)

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