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牟呂用水コミュの服部長七と人造石工法

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明治26年(1893)、神野金之助の招きにより牟呂用水復旧工事に携わった服部長七と彼があみ出した人造石工法についてのトピック。

※写真は神野新田資料館の人造石サンプルと服部長七翁像


【人造石工法】
石灰と真砂土に砂や石粉を混ぜた材料で石を貼り合わせる工法。服部長七が発明し「長七たたき」あるいは「三州たたき」ともいわれる。
コンクリートが新しい材料として登場するまでの有力な材料として港湾工事などに使われた。
現在でもカンボジアの世界遺産・アンコール 遺跡の修復に用いられている。

http://www.mikawa.pa.cbr.mlit.go.jp/lib/38/img/jinbutuden/chohichi_map.swf
国土交通省 中部地方整備局 三河港湾事務所

コメント(20)

【服部長七年表】

天保11年(1840) 0才
愛知県碧海郡棚尾村西山に左官職人の三男として生まれる

安政2年(1855) 16才
父幸助亡くなり、一家の大黒柱となる

安政3年(1856) 17才
新川で流行豆腐を開業する

安政4年(1857) 18才
桑名の左官職弥兵衛の弟子となる

安政5年(1858) 19才
郷里新川に帰り左官業を始める

元治元年(1864) 25才
桑名で知人と醸造業を共同経営する

明治4年(1871) 32才
桑名本町で「虎屋饅頭店」を開業する

明治5年(1872) 33才
郷里新川へ戻り、製酢業を営む

明治6年(1873) 34才
上京し、日本橋区南伝馬町に「虎屋饅頭店」を開業する

明治7年(1874) 35才
敲き屋(たたきや)となる

明治8年(1875) 36才
宮内省や大久保利通・木戸考允の邸宅の工事を行い、信用を得る

明治9年(1876) 37才
水で固まる人造石「長七たたき」の発明をする

明治10年(1877) 38才
内国勧業博覧会に出品、鳳紋賞碑を受賞する

明治11年(1878) 39才
岡崎の夫婦橋を人造石で築造する
千葉県富津村陸軍台場基礎工事

明治12年(1879) 40才
東京冨士見町御厩谷の水道工事を行う

明治14年(1881) 42才
第2回内国勧業博覧会に出品、有功賞牌を受賞する
高浜の服部新田人造石堤防着工

明治15年(1882) 43才
服部新田人造石堤防その他竣工
備前岡山の吉備開墾社の築堤に人造石工事を行う

明治16年(1883) 44才
広島県宇品築港の見積書を作成する
佐賀県開墾社の新田開墾に人造石築堤を指導する
熊本県・大分県の土木視察を農商務省の依頼で行う

明治17年(1884) 45才
宇品港築港工事を請け負う
宇品港築港工事起工式

明治18年(1885) 46才
宇品港築港の仮澪止めを行う
愛媛県三津浜の波止場新田の築堤工事を行う
フランスのパリ万国発明博覧会に、人造石及び原料と解説を出品、銅牌を受賞する

明治19年(1886) 47才
宇品港築港の澪止めを行う

明治20年(1887) 48才
広島県佐伯郡の新田工事等を行う

明治21年(1888) 49才
広島県下の海岸護岸諸工事を行う

明治22年(1889) 50才
宇品築港竣工
第3回内国勧業博覧会場土間敲き工事
広島県佐伯郡末広新田の工事を行う

明治23年(1890) 51才
御料局佐渡支庁相川町倉敷地護岸工事を行う

明治24年(1891) 52才
御料局名古屋熱田白鳥貯木場樋門工事を行う

明治25年(1892) 53才
生野銀山の貯水池を人造石工事で行う

明治26年(1893) 54才
上野動物園石塀を人造石工事で行う
豊橋の神野新田築堤に着工

明治27年(1894) 55才
神野新田築堤、人造石樋門工事を行う
播但鉄道線路第2・7工区土木工事を行う

明治28年(1895) 56才
台湾総督府民政局の嘱託となり渡台、其隆・淡水両港改築工事設計及び淡水水道工事設計をする

明治29年(1896) 57才
豊橋神野新田竣工式
神奈川県横須賀の若松海岸埋立工事を行う

明治30年(1897) 58才
神奈川県浦賀の館浦防波堤築造工事を行う
四日市築港工事を行う 緑綬褒章を拝受する

明治31年(1898) 59才
名古屋港築港工事起工

明治33年(1900) 61才
岩津天満宮再興のため崇敬人代表になる

明治35年(1902) 63才
名古屋港築港竣工する

明治37年(1904) 65才
一切の工事から手を引く

明治44年(1911) 72才
不二工業株式会社の依頼で朝鮮の土木事業の視察を行う

明治45年(1912) 73才
岩津天神山に隠居する

大正4年(1915) 76才
御大礼記念章を受ける

大正6年(1917) 78才
岩津天満宮境内に遐寿碑が建てられる

大正8年(1918) 79才
岩津天神山で大往生を遂げる



※国土交通省中部地方整備局三河港湾事務所データライブラリより
http://www.mikawa.pa.cbr.mlit.go.jp/lib/38/02.html
【服部長七・出生から青年期】

●一家を支える小さな大黒柱
 服部長七は天保11年(1840)碧南郡北大浜村(現在の碧南市西山)で左官職人の三男として生まれた。二人の兄は長七が生まれる前に亡くなっており、やがて父をも失ったため、長七は16才にして母と二人の妹を抱え、一家四人の大黒柱となる。
 生活のために豆腐屋を始めるも、父の仕事・左官屋になる夢を捨てきれず、桑名の職人に弟子入りする。一心不乱に修行し、年季数年と言われる左官の技術を親方も驚くほどの速さで身につけ、左官職人となった。しかし数年後、同業のねたみを受け左官を廃業、醸造・製菓業などに身を置くこととなる。
※国土交通省中部地方整備局三河港湾事務所データライブラリより
http://www.mikawa.pa.cbr.mlit.go.jp/lib/38/02.html


●服部長七とはどんな人物でしょうか。彼は天保11(1840)年、三河国碧海郡北大浜村(現、愛知県碧南市)に生また。16才の時、左官の父が死に桑名(三重県)で数年修業し、郷里で左官を開業したが、田舎の左官に満足せず職を転々とし、34才で東京で饅頭屋を開業した。当時の東京では市民が池水をそのまま飲用していることを知り、チャレンジ精神旺盛な彼は濾水器(濾過池)が作ろうとした。しかし、水密構造に使うよい材料がないので、彼が修業した“たたき”の手法を試みた。しかし東京周辺にはマサ種土がないので、郷里の三河からこれを取り寄せ、店の土間で試みたら、堅牢なこと石のようで、しかも費用も安いので、彼はたたき屋になることに決めた。
※日本石灰協会日本石灰工業組合 石灰の残した文化遺産005 服部長七と人造石 明治用水緑道と水利用協議会事務局長 田中覚 より
http://www.jplime.com/bunkaisan/005/index.html
【服部長七・出生から青年期2】

出生地は現在の愛知県碧南市西山町。名鉄三河線北新川駅駅前付近。
http://maps.google.co.jp/maps?f=q&source=s_q&hl=ja&geocode=&q=%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C%E7%A2%A7%E5%8D%97%E5%B8%82%E8%A5%BF%E5%B1%B1%E7%94%BA%EF%BC%94%E4%B8%81%E7%9B%AE&sll=36.5626,136.362305&sspn=45.177616,83.935547&ie=UTF8&ll=34.905528,136.995703&spn=0.005702,0.010246&z=17

碧南市役所(最寄り・名鉄三河線碧南中央駅)の周辺には長七たたきの小径。

碧南市住吉町 精界寺に人造石発明者服部長七翁之碑。
http://maps.google.co.jp/maps?f=q&source=s_q&hl=ja&geocode=&q=%E7%A2%A7%E5%8D%97%E5%B8%82%E4%BD%8F%E5%90%89%E7%94%BA%E3%80%80%E7%B2%BE%E7%95%8C%E5%AF%BA&sll=36.5626,136.362305&sspn=45.177616,83.935547&ie=UTF8&z=16&iwloc=A
【服部長七・出生から青年期3(34才、上京し、日本橋区南伝馬町に「虎屋饅頭店」を開業)】

南伝馬町とは現在の京橋1〜2丁目あたり。
【服部長七・出生から青年期4】

明治6年に上京し、日本橋でまんじゅう屋を開業し、繁盛しました。しかし、雨の日になると水道の水がひどく汚れるので、水道の改良工事を考えるようになったのです。

※碧南市民図書館へきなんのページ碧南の偉人 その15 服部長七(はっとりちょうしち)
http://www.city.hekinan.aichi.jp/TOSHOKAN/hekinan/izin/hkizin15.htm
【資料・明治初期の東京の水道】

明治維新を経て、東京は近代国家日本の首都として新たに歩み始めました。
文明開化のかけ声とともに、欧米の諸都市を目標とした街づくりが行われました。新橋・横浜間に鉄道が開通し(明治5(1872)年)、銀座には煉瓦街が誕生して(明治6(1873)年)ガス灯が輝く(明治7(1874)年)など、東京の風景は急激に変化していきます。

 しかし、地下を流れる水道は依然として江戸時代の神田・玉川上水のままでした。当時は浄水処理がほどこされていない河川水そのものが地下に埋設された石樋(せきひ)・木樋(もくひ)によって市内の上水井戸に配水されていたのです。
 しかも、維新後の混乱で水道を所管する組織が変転し、上水の管理が一時おろそかになってしまいました。
 玉川上水路に通船を許可したり(明治3(1870)年〜5(1872)年)、水道料金の徴収も行われないという時期(明治7(1874)年まで)もありました。
 十分な補修も行われない木樋は腐朽し、水質は悪化しました。また、上水は自然流下で圧力がないため、火災の消火に威力を発揮することはできませんでした。
 このため、上水の改良、特に鉄管による有圧水道の創設が求められるようになりました。
 明治7(1874)年、政府は上水の改良の検討を始め、内務省土木寮雇ファン・ドールンに改良意見書や改良設計書を提出させます。
 一方、東京府も明治9(1876)年、東京府水道改正委員を設置して、上水改良の方法や費用を調査し、明治10(1877)年に「府下水道開設之概略」としてまとめ、明治13(1880)年には「東京府水道改正設計書」も作成しました。
 ファン・ドールンや東京府水道改正委員の設計は、いずれも原水を沈殿、ろ過して鉄管で圧送するというもので、東京近代水道の原形がここにようやく示されたことになります。
 しかし、近代水道の創設には巨額の費用を必要とし、また道路整備など都市計画全体との調整を図ることが必要なため、さらに検討を加えていくこととなりました。
 東京府は、近代水道創設の検討を進める一方、既存の木樋、上水路の補修を行い、水源汚染の取締りを強化するなどして、飲料水の安全確保に腐心していました。
 こうしたなかで明治19(1886)年、コレラの猛威が東京を襲いました。それまでにもしばしばコレラの流行はありましたが、この年は死者が1万人近くにも及ぶという事態で、加えて水源である多摩川沿岸でコレラの汚物流出騒ぎも起こり、上水の信頼は大きく揺らぎます。このことが近代水道創設促進に拍車をかけることとなりました。

※東京都水道局
http://www.waterworks.metro.tokyo.jp/water/pp/rekisi/s_history_04.html
【ファン・ドールン】
コルネリス・ヨハネス・ファン・ドールン(Cornelis Johannes van Doorn、1837年2月9日 - 1906年2月24日)はオランダの土木技術者で、明治時代のお雇い外国人。日本ではファン・ドールンと呼ばれることが多い。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

1865年アムステルダムとデンヘルダー間の運河開削に関わった。この際、アムステルダムでヨハニス・デ・レーケと共に閘門建設を行ない、後に彼を日本に招聘している。


服部長七が工事を行った四日市潮吹き防波堤はヨハニス・デ・レーケの提案
【四日市潮吹き防波堤】
※港湾遺産
http://www.umeshunkyo.or.jp/104/08yokkaiti/page.html
※株式会社ワイ・ビー・ケイ工業
http://www.ybk-jp.com/culture/6.html
【五角形の穴、巧みな働き  四日市港の潮吹き防波堤】
役目終えたが全国でも貴重

明治期に築造された「潮吹き堤防」。水抜き穴が見える
 各国のコンテナ船が行き交う四日市港。「旧港」と呼ばれる地区に、約200メートルにわたって五角形の穴が開いた石積みの護岸が残る。1894年(明治27年)に完成した防波堤の一部だ。1952年、埋め立てによってその役割は終えたが、現在も当時の姿をとどめている。
 明治になり、近代化を急ぐ政府は欧米諸国から多くの外国人技師を招いた。御雇(おやとい)外国人と呼ばれた彼らは、日本に多くの技術をもたらした。この防波堤はその一つで、淀川河川改修や木曽三川分流工事で知られるオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケ(1842〜1913)の設計と言われている。

 防波堤は二重構造になっていた。高さ3・7メートルの小堤が波の力を弱め、乗り越えた海水を、その後ろにある4・7メートルの大堤が受け止める。大堤には49個の五角形の水抜き穴があり、両堤の間の溝にたまった水を港内に流し出した。穴から海水が吹き出る様子から、「潮吹き堤防」と呼ばれた。

 堤防を少しでも長持ちさせようというデ・レーケの設計を基に、三河の技師・服部長七が施工した。長七が考案した人造石「長七たたき」が、積み上げられた自然石をがっちりと固めている。

 四日市港管理組合管理課主幹の北川正さん(57)は「特殊な造りで、全国でも珍しい防波堤。文化財として貴重なものなので、崩れたら補修しますが、それにしても丈夫なもんです」と、先人の技術に舌を巻く。

 完成によって港内への砂の流入が食い止められ、深さを保てるようになった。大型船の寄港も可能となった。1899年には外国貿易の出来る「開港場」に指定された。全国で7番目だった。

 「伊勢湾において、四日市港は一頭地を抜き、凡(すべ)ての点において、名古屋港の競争し能わざるがごとき――」。1923年、東京市議会議員が四日市と名古屋港を視察した際の報告書には、こう記されている。

 昭和初期には、羊毛や綿花などの輸入港として繊維産業を支え、戦後は高度経済成長とともに原油や液化天然ガス(LNG)の輸入港となった。

 海や船が好きな市民でつくる「四日市みなとサポーター」副代表の大仏正巳さん(45)は、旧港近くで生まれ育った。チャーター船で港内の史跡を巡る「四日市みなと探検隊」などのボランティア活動に取り組む。

 「コンビナートと公害ばかりクローズアップされるが、古くから世界とつながっていたことを、もっと多くの人に知ってほしい」。大仏さんは力を込めた。(南条哲治)

【あしあと】 四日市港の基礎は、回船問屋の稲葉三右衛門が築いた。1873年(明治6年)、私財を投じて改修工事に着手した。「三右衛門の築港は84年に完成したが、その後、台風で大きな被害を受けたため、93年から県が改修工事を実施した。潮吹き防波堤はこの改修工事でつくられた。

※YOMIURI ONLINE
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/mie/kikaku/026/5.htm
【四日市潮吹き防波堤】
潮吹き穴をもつ二重構造を誰が考案したのか。稲葉が建設した防波堤には潮吹き穴のないことが図面などで確認できるので、台風被害後の明治26年(1893)から始まった修復の際につくられたものであるのは確か。ところが残念なことに記録は失われ、いまのところ推測にならざるをえない。
 地元ではデ・レーケの設計と伝えられてきた。だが、台風前に作成されたデ・レーケの計画図には潮吹き穴を見ることができない。それでも明治36年(1903)まで日本に滞在していたことから、台風被害後に指導して潮吹き穴を設けた可能性はあるが、明言できるだけの資料はない。
 工事を請負った服部長七による発案であることも考えられる。服部はこの防波堤を、自らの発明による「たたき工法」という人造石を使った技術で完成させた。こうした独創的な発想をもっていただけに十分に考えられることである。

※港湾遺産
http://www.umeshunkyo.or.jp/104/08yokkaiti/page.html
【鳥取港(旧賀露港)の人造石遺構−付記・鳥取県東部の産業遺産−天野武弘】
http://www.tcp-ip.or.jp/~amano-ta/ih/jinzouseki/totori_karo/karo-jinzouseki(totori-sangyouisan)2000.9.17.htm

1887)年頃、再度鳥取県知事はオランダ人工師のデレーケを招き視察させ、この時デレーケの意見に従って知事は築港を決意し、実測調査を行った。そして、明治23(1890)年に県直轄で工事がはじめられた。

工事で陣頭指示をとったのが服部長七であった。服部長七による人造石工法による工事で、明治23年春に着工された。服部長七は、この時までに広島の宇品築港工事を人造石で完成(明治22年)させ、人造石工法の評判を高めていたときで、鳥取県の招聘による工事であった。
【ヨハニス・デ・レーケ】
ヨハニス・デ・レーケ(Johannis de Rijke、1842年12月5日 - 1913年1月20日)は、オランダ人で、日本の砂防や治山の工事を体系づけ、「砂防の父」とも言われるお雇い外国人である。彼の名前は、日本語では、ヨハネ(ニ)ス・デ・レイ(ー)ケなどと表記されることもある。日本の土木事業(河川改修や砂防)における功績を評価すると、「お雇い外国人」ではなく「内務省技術顧問」や「河川技術者」などといった呼び名の方が相応しいとも言える。

1873年に明治政府による海外の学問や技術の国内導入制度において、内務省土木局に招かれ、G.A.エッセル(エッセルは大学でもエリート)らと共に来日

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中根仙吉著『服部長七伝』1955年刊 1996年復刻 岩津天満宮刊
中興の祖 服部長七翁
http://www.iwazutenjin.or.jp/message/guji_vol.115~117.html
※岩津天満宮 宮司からのメッセージ

 当社の中興の祖である服部長七翁は大正八年七月十八日、終の棲家として晩年を過ごし奉仕怠らなかった岩津天満宮の一隅で、数え八十才の波瀾万丈の生涯の幕を閉じました。今年はそれから数えて八十九年の星霜を送り迎えることとなりました。

 明治三十七年、長七翁は六十五才にして一切の事業から手を引き、経済的に勢いのあったこれまでの生活とは打って変わって困窮を極めても、淡々として知人宅に身を寄せ余生を送っていました。愛知県知事を始め県当局や全国の旧知は、大工事の請負を計画して晩年を飾りたいと申し出ましたが、長七翁は国家社会の事業を念頭にし、いやしくも請負人の利益を考える工事は行わないと固辞しました。
 そして明治四十五年に、かねてより事ある度に参籠などをして崇敬の篤き心を寄せていた、岩津天満宮の奉仕に専念しようと天神山に隠棲(いんせい)し、崇敬者に働きかけて社殿の増築や整備などに勤め、今日の岩津天満宮の基礎を作ったのでした。
 隠棲したとはいえ、時には国家の将来を憂え、政治の神様と言われた尾崎萼堂(がくどう)翁に私行上の忠告をしたり、旧知の安田善治郎翁には東京大阪間快速の東海電車の敷設計画や、大東京港の築港工事などを実現するよう話していたそうです。
 私の祖父(長七の婿養子・服部廉平)から聞いた話ですが、地元岩津の人々が夜岡崎まで提灯なしで歩いて行けるように、境内東の梅苑山頂に、灯台として目から光を放つ大きな観音様の頭を作ろうとしていたそうです。その絵図面は今でも残っています。
 大正六年八月に門弟旧知の方々が相議して、今の境内東、梅苑入り口に遐壽碑を建立しました。

篆額(てんがく)は渡辺渡工学博士、撰文並びに書は旧知の漢文学者織田完之氏により長七翁の業績の数々が格調高く謳われています。その一説に
 天授工夫敏測量
 人工造石令名揚
 利用報国渾異常
 台閣諸侯咸賛襄
 その才能は天が授けたものであり、人造石によって名を挙げ、常に国のために力を尽くした翁を、錚々たる人々が称えている、と。除幕式には松井茂愛知県知事も臨席され、数百名の参列者があり極めて盛大であったといいます。長七翁の喜びは大変なものであったでしょう。
我が国産業革命前期をになった職人技術家の一人として、資本主義発達途上に大きな足跡を残したのです。

 過日東京農大の近藤三雄教授からお電話を頂き、服部長七翁が東京京橋銀座一丁目七番地の人造石を使った自家(服部組本店)の屋上に立派な屋上庭園を造ったという記事が明治二十九年(一八九六)八月二十一日の読売新聞朝刊に載っているが、その写真はありませんか、とお尋ねがありました。またその後明治二十九年七月二十五日の日本園芸会雑誌第七十四号に「服部氏の屋上の庭を観る」と言う記事が掲載されていることが判明。残念ながら日本初と思われる屋上庭園の写真は存在しませんでしたが、今の時代に注目されている屋上庭園を、長七翁が百年以上前に実際に作り上げていたということに大いに驚きを覚えました。

 毎年「長七忌・道具供養祭」を奉仕して、起業家であり国士であった服部長七翁の気概、時代を見据えた先見性と心情(おもい)を、正しく顕彰せねばならないと痛感いたします。
※Lococom 近代化産業遺産群 海運業隆盛の基礎となった港湾土木技術の自立・発展の歩みを物語る近代化産業遺産群
http://www.lococom.jp/features/h2s/0/14/
服部はこの人造石工法により請負師としての地位を確立していき、服部組という建設請負業の組織を立ち上げて全国数十ヶ所に支店を持つまでに成長したが、彼の国士的性格から採算を度外視した大工事を請け負うことも多かったため経営的には厳しい状況が続き、1904年に彼が突然一切の事業から手を引いて隠棲してしまうと、服部組も解散を余儀なくされた。

※Lococom 近代化産業遺産群 海運業隆盛の基礎となった港湾土木技術の自立・発展の歩みを物語る近代化産業遺産群
http://www.lococom.jp/features/h2s/0/14/
明治用水旧頭首工(めいじようすいきゅうとうしゅこう)

投稿者: sysadmin 投稿日時: 木, 2008-09-25 19:25
名称:明治用水旧頭首工(めいじようすいきゅうとうしゅこう)
所在地:愛知県 豊田市
竣工年:明治42年
選奨年:2007年
選奨理由:農業用水史上初期の横断堰堤で、服部長七考案の人造石による大規模な堰堤の現存する唯一の例と云われている。

※土木学会 選奨土木遺産
http://committees.jsce.or.jp/heritage/node/34


頭首工とは、川をせき止め、水を用水路に引き込むための施設です。
昭和33年(1958)に完成した現在の頭首工から約200m上流のところに、明治用水の旧頭首工の遺構があります。
現存している遺構は、川を横切る横断堰堤の約1/3と、船通しの閘門(こうもん)、導水路の一部です。
船通しは、矢作川を上下する船運の便を図るために作られた施設で、旧頭首工の建設当時は矢作川の船運が盛んであったことがわかります。
この船通しを船が通過するために要した時間は、約15分だったといわれています。

※産業観光http://itours.jp/monodukuri/heritage/kyodo/meiji.html

※水土の礎http://suido-ishizue.jp/daichi/part2/03/10.html

※明治用水http://geo.nonsan7.com/meijiyousui.html

※Hisao KOTOGUCHI's Home Pagehttp://www.daido-it.ac.jp/~doboku/koto/dobokusi/hist15.html

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