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アルチュウル・ランボオコミュのA・ランボオへの誤解と偏見

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今日に於いてもA・ランボオは誤解と偏見に晒され、曲解され続けられている。
如何にも分かったような自称インテリ・詩人共達によって。

むしろ、一般人の中でひっそりと息を潜めて己を殺して生きている辛酸を舐めた人物・存在達のほうが彼を理解するであろう。

ただ、彼の『詩』に触れる機会もないし、読む暇も無い。

彼以降のシュールレアリストと称する一群もランボオの精髄には触れ得なかった。上っ面の自己解釈で各自色付けしての乱脈ぶり。実存主義と称する一群も然り。それ以降は知的錯乱の様相を呈している。

むしろ、批評家である小林秀雄の眼力のみが彼の苦悩・実体を見抜いた。

彼の画家ゴッホが『芸術家の精神共同体』を呼びかけ、来たのはゴーギャンのみで、その結果は悲惨であった、というに似ている。
『これはお前の為だ、世界の為だ!』と拳銃でランボオを撃った彼の老詩人も半端な情に囚われていた。

「『いずれにせよ、人間は、憎悪し拒絶するものの為には苦しまない。本出の苦しみは愛するものからやって来る。天才もまた決して例外ではないのである。』。天才であればあるほど苦悩は深く、強く、激しい。当然である、『彼岸と此岸』のはざまに意識的に立つからだ。彼の『プロメテウス』のごとく。『肉は悲し』などという意識だけでは『象徴の森』、『虚空遍歴』から脱け出ることは出来ぬ。」(拙著小林秀雄論より)

今日我々個々人はこの『問い』に果たしてどれだけの自覚を持って挑んでいるのか。切迫感があるのか。
個人の名において一切の責任を背負うような覚悟や自覚が。

今後産まれて来る存在たちに我々は何が語れるのか。
生存は『無意味が意味である』などという戯言を繰り返すのか。
暗澹悲惨なる様相を前にただ己の死を待つのか。

怖ろしい労働者という概念を普通の仕事という一般化へと、日常化するという存在・人物はいないのか!?

コメント(14)

>本出の苦しみは愛するものからやって来る。天才もまた決して例外ではないのである。』

上記の文章にある言葉のうち間違いです。

<本当の苦しみは、、

が正しいです。
ブルーキャットさん、返信が遅くなりました。

自分でコミュを作成しておいて覗いてませんでした。

『象徴の森』とは比喩で、自分の足場を失っても自意識のみが存在するような意識状態を指します。

言葉・概念で説明し難いものですが、東洋的に謂えば『空』の意識状態とも言えます。
相対的意識とも。
さらには無知の知とも。

無論、この自覚の諸段階はあります。
小林秀雄流に言えば『無私の精神』とも。

私であって私ではない、しかし私である。
この状態に留まる限りは方向性は生じ得ません。
この意識状態に至るのも困難ではありますが。

西行や雪舟等々、時代を超えてこの象徴の森に於いてジタバタ
した存在・魂は少数であれ見出す事が出来ます。

小林秀雄もその状態を如何に一般化しようか、と生涯苦心した人物です。

A・ランボオも然り。
今日でもこの意識状態を日常化し得るような人物は稀有です。

小林秀雄は実体験を通してそれを言語化しようと批評家の立ち居地に自らを縛りました。
彼の『近代絵画』を読むと面白いと思います。
うめさん、初めまして。
私もよく「うめさん」と呼ぶゆうじんがおります、梅崎です。

>ランボーが見つけた「永遠」とは魂の輪廻だと考えています。

この物言いは多種多様な捉え方が出来ます。
『魂』というものの定義・捕え方は今日においては個人的色合いに満ちております。

>生をしゃぶり尽くした人間が到達するのが、「本当の自分」。つまり、その人物が潜在的に到達することが可能であった極地に行けるのであって、これは探すもんじゃありません。

これも結果であって、自分自身を透徹した思考を通して日々練磨せねば不可能に近いものです。
自己探求の自覚無自覚はそれこそ多種多様な出来事・事件として個人に遅いかかります。

>ランボーは「生を駆け抜けた人物」だと思っています。

これに関しては『真の生の出発点に立った』と思います。

私のこの物言いは決して批判ではありません。

小林秀雄は読まれたのでしょうか?
彼の文章はA・ランボオの核心に触れたものです。
同じ魂的・内的実体験をしたからです。
うめさん、こちらこそよろしくお願い致します。

>「真の生」はもうすでに始まっていると思います。
日々生きることがすべて「真の生」につながっている。。と

確かにそうですね。
ただその自覚の問題が問題なのですが。
各自それぞれが自分自身の体験経験による認識を最も大事にしますから。

それと、ニーチェの一切の価値転換とも関連があります。
一切の諸偏見を排して自己をも他者の如く見做せるか!?です。

小林秀雄のA・ランボオの著作は深い共感に裏打ちされた内容です。
文庫本でも売っていると思います。

若輩とか気にせずに書き込んでください。
私は中学を卒業して肉体労働しつつ、独学で画家の道を選びましたから。
>他者っていう概念自体、しっくりこないんです。

縁も他者も概念です。

『私』以外の人間存在は全て他者です。
問題はその他者との親和、融合の問題です。
これは、また元の問いへと遡行しますが。
無という概念も各自捉え方は多種多様ですね。

ニーチェは無を求めたというよりは人間存在の真の生存とは?との問いを探求して引き裂かれた意識状態に陥った、と思っています。
と、このように言い切れば、これまた、多種多様の異論反論が生じる問いでしょう。
同じではないにしても似た意識状態でジタバタと懊悩した結果です。
これは同時代でも今日でも似た魂の所有者は存在しております。
これは共感という概念でしょう。
ただ、この意識状態を言語化するのは頗る困難である、ということです。
>それを他者とくくってしまってはいけないと思います。

これは現実での人間関係、言葉上の問題です。
自己のうちに全ての他者を見出し密に繋がり連動している、という前提でのみ通用します。
そこまでの意識状態であれば以心伝心です。
自他と敢えて境界を引く必要はありません。
それぞれの地上での役割を果たせばよい事です。

>梅崎さんのおっしゃった「各自それぞれが自分自身の体験経験による認識を最も大事にしますから。」ということに収まってしまうと思います。

この問題は今日我々個々人に課せられた課題でもあります。

本来融合繋がっている人間が何故個体存在として存在するのか?です。
この問題を哲学のコミュで論戦したら果てし無く平行線の泥仕合が続きますよ。
ミクシィの中にも哲学コミュはありますから、一度ためされると直ぐに分かります。
現実の中では命の遣り取りになる場合もあります。
これはくれぐれもご注意下さい。

>人間の真の生存はもう既に、この世に生まれた段階ではじまっているし、死ぬまで続きます。死後、それらに判定が加えられます。
そしてまた、真の生存は続きます。

この物言い、問題も相手によっては反感、反発を招くだけです。

>ニーチェ、その他の哲学者たちが「真に生きる事、真の生存」と言うのなら、その事について、彼らと真っ向から議論したい気持ちです。本気です。

私は現実に様々な人物と熾烈な論戦をしてきましたから。
今は、年齢的なものもあり、若干の呼吸、さじ加減を身につけただけです。

>というのは、彼らの言うことじゃあ、生と死がぐちゃぐちゃになってしまうし、それは人を迷わせることになるからです。

そのために我々には『思考』というものが具わっているのです。

それと『概念自体』は止むことなく活動している実態ある存在です。
これも同じ概念である言葉を用いて考察する個々人の根拠、世界観の差異によって混戦混乱するのです。

でも、うめさんが考えている事を言語表現を通して一度徹底的にやってみる事はいいことだと思います。
訂正です

>それと『概念自体』は止むことなく活動している実態ある存在です。

<、、実体ある存在です。
>これを主題に、前に小説書いたことありました。上巻は紛失しましたが。

現状の段階では比喩や喩えを用いて創作表現するしか難しいと思います。
このような状況をランボオは『嫌になった』のです。
それが『地獄の季節』です。

>でももし真実を知ったら、哲学の人たちは否定するんだろうな というよりわからないだろうなあ かわいそうだと思います。

同情は不用かと思います。
やがては、自ずと悟らねばならぬ時期が来るでしょうから。

うめさんも自分の出来うる、為しうる事をバランスよく成されてください。

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