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生活保護者の集いコミュの「生活保護なんて絶対に使えないので、自己防衛するしかない」日本人がそんな「自己責任」に囚われる根本原因

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https://news.yahoo.co.jp/articles/c0445cdf226fe320d73fd43ed7f7bac79beee7b6

国民皆保険や生活保護制度など日本の社会保障は世界最高レベルにある。しかし、そうした実感をもっているだろうか。中央大学法学部の宮本太郎教授は「日本は払った税金に対して、十分な還元を受けられるという実感が乏しい。国民は政府を信頼しておらず、『自己責任でやるしかない』と感じている。そんな『自助社会』には大きな問題がある」という――。

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 ※本稿は、宮本太郎編著『自助社会を終わらせる』(岩波書店)の一部を再編集したものです。

■人間は誰かの支えなくして生きられない

 自助社会の成り立ちを考えたいと思います。

 社会は多様なリスクに満ち、私たちはいとも簡単に誰かの支えなくしては生きていけない状況に陥ります。にもかかわらず、私たちはこれまた簡単にそのことを忘れ、「自助幻想」に囚われがちです。

 「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足、この生き物は何だ?」というなぞなぞはお馴染みでしょう。ハイハイをしていた赤ちゃんがやがて「自立」し、最後は老いて杖をつくという人の一生を問うたものです。

 このなぞなぞは、もともとは古典的悲劇の題材となった「オイディプス神話」のなかで、スフィンクスが道行く旅人たちに投げかけたものです。男性が主と思われる旅人たちは、ケアを受けていた子どもの頃のことは思い出したくもなく、ケアがまた必要になる先のことは考えたくもない。「成育と老いのリスク」を忘れ、人間は自助でやっていくと思っている。だからこのなぞなぞに答えられず、スフィンクスに食べられてしまうのです。

 このエピソードは、「ケアレスマン・モデル」という言葉を想起させます。ケアレスマン・モデルとは、多くの男性が育児や介護に自ら携わらないゆえに、人間にとってのケアの価値が分からず、自助幻想に囚われることを指します(注)。ケアに関わらないケアレスマンは、ケアの価値にケアレス(無関心)となってしまうがゆえに、スフィンクスの餌食になってしまう、ともいえるでしょう。

 注:杉浦浩美「『労働する身体』とは何か 『ケアレス・マン』モデルからの脱却」『人間文化研究所紀要』四、東京家政大学人間文化研究所

 さて、このなぞなぞを解いてスフィンクスを退治し、都市国家テーバイの王になることができたのがオイディプスでした。彼は、人生につきものの「成育と老いのリスク」は見通していた、ということができます。

■「家族関係」はリスクの固まり

 しかし、王になり栄華を極めたかにみえたオイディプスを待ち受けていたのは、「家族のリスク」でした。オイディプスが旅の途中で実父である先代の王をそれと知らず殺してしまい、その后であった実の母と結婚してしまっていたというのが、この悲劇の中心です〔ソポクレス(藤沢令夫訳)『オイディプス王』岩波文庫〕。

 オイディプスの家族関係はたしかに突飛なものです。けれども、もともと家族というものは人々の心のあり方、経済状況や社会的威信などに関するリスクの固まりなのです。社会がこうした問題に対処しなければ、人生はまさに「親ガチャ」となります。

 この「家族のリスク」を契機に、オイディプスは王位を失い、自身の眼を潰して喜捨を求めて生きるべく荒野にさまよい出ます。社会階層の階梯を一挙に滑り落ちたことになります。誰にでもありうる「困窮のリスク」に極端なかたちで遭遇し、老いを待たずして杖をつく「三本足」となるとはオイディプス自身まったく予想できないことでした。

 ギリシア神話の専門家からすれば偏った読み方でしょうが、「オイディプス神話」の悲劇は、「成育と老い」「家族」「困窮」という人生の三つのリスクが交差するなかで生きることと深く関わっていると思います。

■「ヤングケアラー」という言葉への違和感

 ちなみに、息子たちに見放されたオイディプスが放浪の旅に出るにあたり、父のケアを担って旅に同行したのは、(ここでもジェンダーバイアスがあって)娘のアンティゴネーでした。

 アンティゴネーは、今日でいえば自らを犠牲にしてケアに携わる若者、つまり「ヤングケアラー」でした。その後、オイディプスの死でケアを終えた彼女は、オイディプスに代わって王位についた叔父クレオーンが独裁的になるなか、兄が受けた仕打ちに抗議して命をかけて闘います。アンティゴネーは、家族をめぐる深い葛藤を乗り越えていったようにみえます〔ソポクレース(中務哲朗訳)『アンティゴネー』岩波文庫〕。

 このことと関連して、今日問題になっている「ヤングケアラー」という言葉については、ある福祉団体の若いリーダーが、この言葉にもケアへの低評価が隠れているのではないかと述べていたことが印象的です。「若いのにケアなどさせられて可哀想」といったトーンで語られているのではないかというのです。

 子どもや若者であれ誰であれ、人生を犠牲にケアを強いられたらそれは大問題ですが、ケアに携わること自体は、アンティゴネーにみられたように人を成長させうる。ケアの価値を見直し、ケアを担う条件を確保することこそ重要です。

■社会保険・生活保護を利用できない「新しい生活困難層」

 さて、自助社会を論じるのにギリシア神話から説き起こしたのでは、社会保障も福祉もない時代の話ではないか、と怒られてしまうかもしれません。自助社会といっても今は福祉国家で、共助や公助の制度があります。「成育と老い」「家族」「困窮」のリスクも対応がされているのではないか、と考える人も少なくないでしょう。

 そのとおりです。実は日本にはなかなか立派な共助や公助の仕組みがあるのです。ここで共助とは、厚生労働省の用語法にしたがって、主には社会保険を指すことにします。地域での支え合いなどを共助ということもありますが、こちらには互助という言葉も使われます。そして公助というと生活保護などの公的扶助がまず挙げられます。

 社会保険については、日本は国民誰もが医療保険と老齢年金に加入できるかたちをいち早くつくった国です。皆保険・皆年金と呼ばれる体制です。生活保護の制度も、無差別平等・必要即応といって、緊急性が高ければ誰にでも開かれた制度として設計されていました。これらの点では決して諸外国に劣ってはいないのです。

 にもかかわらず、なぜここまで支え合いの実感が乏しいのか。まず、こうした諸制度が本来のかたちで機能せず、共助としての社会保険でも、公助としての生活保護でも、支え合いの制度であるのに自助原理が強調される傾向があるからです。

 次に、社会保険に加入できず、生活保護のような福祉の制度も利用できない、「新しい生活困難層」ともいうべき人たちが急増しているからです。医療や介護、さらには障害者福祉のサービスの一部までが社会保険に紐付けされており、教育費も家計負担が大きいために、多くの人が生活を支えるサービスの利用に困難を感じています。

■男性稼ぎ主が囚われてきた「自助幻想」

 まず社会保険について考えましょう。医療保険や老齢年金などの社会保険は、安定して働けていて社会保険料をきちんと納めている人たちが、主には「成育と老いのリスク」および「困窮のリスク」に備える仕組みとされてきました。妻子を養う男性稼ぎ主の貯金箱のようなイメージです。

 しかし、そもそも男性稼ぎ主が安定雇用に就けたのは、企業を潰さないためのさまざまな仕掛け(行政指導や企業集団内の株式の相互持合等)に支えられていたからです。また、保険料で運用されるのが社会保険の原則ですが、基礎年金や国民健康保険の財源にはたいへんな額の税金が投入されているのです。日本の社会保障予算の大半は、社会保険の財源を補填することに使われているといって過言ではありません。社会保険制度間で支援金や負担金を出しあう財政調整もおこなわれています。

 ところがこうした行財政による支援や支え合いの実態は表には出ないために、多くの男性稼ぎ主が「自助幻想」に囚われてきました。そして彼らの年功賃金で扶養される家族は、大量消費の舞台となる標準世帯として理想化され、「家族のリスク」は覆い隠されていきました。

■「生活保護は恥ずかしいこと」というレッテル貼り

 次に、公助としての生活保護や福祉について考えます。こちらは「困窮のリスク」に対処できたのでしょうか。税の大半が社会保険財源の補填に充てられていることもあり、公助には十分な財源が確保されずにきました。したがって給付対象は絞り込まれ、現実には受給世帯のほとんどが高齢、障害、疾病などを抱えた世帯となっています。

 ところが生活保護法では第一条で「自立を助長すること」が目的であるとされていて、一部の政治家やSNS上の生活保護バッシングもあって、経済的に自立するべき(自立できる)人たちが依存しているのが生活保護であるかの外観がつくりだされてしまっています。この外観がよけいに生活保護に「恥ずかしいこと」というレッテルを貼ることになるという悪循環がすすみます。

 さらに支え合いの実感を乏しくしているのは、いろいろな困難を抱えているのに、こうした共助や公助の制度を利用できない人たちが増大していることです。私はこうした人たちを「新しい生活困難層」と呼んでいます。

 非正規雇用やフリーランスで不安定な就労に就いている人たちの多くが、社会保険には加入できないままです。子どもが発達障害でケアが必要で、自らもメンタルヘルスなどの困難を抱えていても、障害者福祉の制度の基準を満たさず、サービスを利用できないことがしばしばです。なんとか就労できていて、たとえば年収が200万円台後半くらいならば、なかなか生活保護の受給には至らないでしょう。

 日本が社会保障の制度を備えているにもかかわらず、自助社会となってしまう背景がまずここに見いだせます。

■市民間の「ヨコの不信」と政府へ抱く「タテの不信」

 自助社会としての日本社会を考える場合、もう一つ大事なことは、この社会にはびこる不信という問題です。頼れるのは自分および自分と深い関係にある仲間しかいないと考えさせてしまう、そのような不信です。ここでは、市民間の「ヨコの不信」と市民が政府の制度に抱く「タテの不信」が相互に密接に関連しています。

 前の項で、今日の日本社会は、相対的に安定した仕事に就いて社会保険に加入できる層、生活保護など福祉の受給層、「新しい生活困難層」に分断されていることを説明しました。この分断関係から、まず「ヨコの不信」が強まっています。

 とくに「新しい生活困難層」は、生活保護を受給している人たちが自助でやれるはずという誤解もあり、自分たちも苦しいのになぜ彼ら彼女らだけが扶助を受けられるのかと疑念をもちます。また、この層は多くが非正規雇用であることからも、正規雇用で安定就労できている人たちに対しては、なぜこれだけ処遇が違うのかと不公平感を強めます。

 こうした「ヨコの不信」は、税の使われ方や制度のあり方をめぐる不信でもあり、政治や行政に対する「タテの不信」と一体です。安定就労層は、社会保険財源への税補填などを受けているにもかかわらず、それが見えにくいこともあり、税はとられるだけだと考えがちです。

 「新しい生活困難層」は、税の恩恵に与ることがいちばん少なく、制度への不信は強くなりますし、その不信が一部の政治家などから煽られることもあります。さらに生活保護や福祉を受給している人たちも、支援なき経済的自立の圧力や差別的なレッテル貼りに苦しんでいます。

■日本の「痛税感」はスウェーデンよりも強い

 ではきちんと税金を集めて、とくに「新しい生活困難層」に届くような給付をおこなえば、分断は解消に向かうのではないか。日本の税負担率は先進国(OECD諸国)のなかでも下から5番目と低いのだから、税金をしっかり集めていく余地は大きいのではないか。

 ところがそれが困難なのです。日本はこれまで、税をしっかり集めて還元することをしてこなかったがゆえに、税金はとられるだけだという「痛税感」が強いのです(注)。中間層の痛税感は、スウェーデンより強いという調査結果もあります。

 注:佐藤滋・古市将人『租税抵抗の財政学 信頼と合意に基づく社会へ』岩波書店

 日本政府の債務残高は先進国で最大ですので、税金は集めたそばから借金返済に充てられてしまい、直接に生活を支える使い方がされません。2019年10月から社会保障に使うという約束で消費税が10%になりました。消費税が5%であった時と比べて、2021年度の増収分は14.3兆円でした。でもそのうち5.8兆円が借金返済に、3.5兆円が基礎年金の財源となり、本来の趣旨で社会保障の機能強化に使われたとされるのは約4兆円に留まります。

 しかも、前述のとおり社会保険財源に税が補填される関係で、これまた先進国1位の高齢化率に引っ張られて社会保障の税支出は自動的に増大するのですが、このような税の使われ方は還元感が得にくく、そもそも社会保険に加入できないことなどからその恩恵に与れない人が多いのです。

 このような事情から、税への信頼は低下するばかりです。ゆえに増税は、消費税であろうと所得税であろうときわめて難しくなります。

 このように社会の分断からくる「ヨコの不信」と、政治や行政そして税に対する「タテの不信」が、いわば相乗的に強まって、結局は自助しかないと誰もが考えることになってしまうのが、現在の日本なのです。

■マフィア社会に通ずる日本の自助社会

 社会保障制度の支援が届かず、「ヨコの不信」と「タテの不信」が絡まり合いながら広がることで、「自己責任でやるしかない」と多くの人が追い詰められる自助社会。このような社会は、一見、バラバラの個人から成り立っているように思えます。

 しかしその実態は、かなり異なります。自助だけで人生を生きていくことなど誰にもできないがゆえに、家族、企業、地域、市場に、ケアやリスクに対処する機能が埋め込まれていかざるをえない。しかし、それは相互信頼に基づく対等な関係ではなく、男性優位のジェンダー秩序や金銭的な関係、あるいは親分・子分関係などによる依存関係です。

 スウェーデンの政治学者ボー・ロトシュタインは、市民間の「ヨコの不信」が政府への「タテの不信」に連動し、自助頼みになることが、結局は親分・子分的あるいはマフィア的関係を増殖させることを、映画『ゴッドファーザー』のエピソードから説明しています(注)。

 注:Rothstein Bo “Social Capital and Institutional Legitimacy”, A paper presented at the 2000 Annual Meeting of the American Political Science Association, Marriott Wardman Park, Washington, DC, August 31–September 3, 2000.

 この映画の冒頭、マフィアのボスであるドン・コルレオーネをイタリア系移民の葬儀屋が訪ねてきます。彼の娘が2人のアメリカ青年に暴行され、警察に行って裁判になるも青年たちはWASP(アングロサクソン系の白人プロテスタント)ゆえに無罪放免になったという。彼らに制裁を加えることを懇願する男に対して、ドンはアメリカ的価値を信じた「愚かさ」をなじり、その依頼に応えることを約束した上で、この借りはいつか返すようにと申し渡します。

 日本社会がマフィアの社会と同じだと言いたいのではありません(けっこう似たところもありますが)。ここで強調されているのは、自助社会は、いろいろなリスクを私的に解消していくための、さまざまな権力的な相互依存関係を不断に生み出していくのだということなのです。

■自助社会は歪んだ依存関係を生み出す

 社会心理学者の山岸俊男は、日本社会における相互信頼関係について国際比較の視点から分析し、日本社会が「信頼社会」になりえていないことを実証的に明らかにしました。同時に山岸は、日本には信頼の代わりに裏切ることが難しいような「コミットメント関係」を形成することで、社会の不確実性を減少させ、安心を得ようとする傾向が強いことを指摘しています(注)。このような指摘もまた、ロトシュタインの議論とも重なるでしょう。

 注:山岸俊男『安心社会から信頼社会へ 日本型システムの行方』中公新書

 自助社会とは、ここかしこに、こうした歪んだ依存関係を生み出し、ジェンダー、人種、階層などをめぐる権力関係を増幅させていく社会なのです。



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宮本 太郎(みやもと・たろう)
中央大学法学部 教授
1958年生まれ。専門は政治学、福祉政策論。著書に『貧困・介護・育児の政治 ベーシックアセットの福祉国家へ』(朝日選書)、『共生保障 〈支え合い〉の戦略』(岩波新書)などがある。

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