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写真論好きコミュのドキュメントとは?

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こんばんは。初めてトピックを立てます、1643と申します。大阪ベースでフリーランスカメラマンをやってます。

私の敬愛する作家、開高健氏がベトナム戦争従軍中に残した文章の中に気になる箇所があったので、皆さんがこれについてどういうスタンスかと思い、トピックにしました。

「この光景に出会う度に彼は闘牛の死を観客席から見下ろしている人を感ずる。悲愁、痛惨、何を目撃しようが彼はついにこの国では第三者でしかない。帰りの航空券をポケットに入れている男に、ここに生まれ、住み、死んでいくしかない人が、どう触れられよう。<わかる>と口に出した瞬間にどれほどのものが指の間から洩れ落ちていくことか。むしろそれはここの人を侮辱することにもなりかねないのだ。助けもせず、闘いもせず、耕しもせずただ無様極まる言葉を探してタイプライターの鍵盤に指を迷わせる男にとってこの国は、いわば両手を縛ったまま川へ飛び込むのに似ている。考えるまい。感ずべきだ。いつかそう決意したことがあった。川を流れていく男は逆らわず、もだえず、ただ体重を放棄して、眼だけ瞠っておくしかない。ちょっぴり深入りした観光客の他に演じられる役は何もない。グラスの縁を舐めて酒を飲んだと思い込む男である」
(「岸辺の祭り」 開高健自選短編集 読売新聞社 1978年 第一刷)

彼は物書きでしたが、戦時中のベトナムを数回訪問し延べ一年近く、最前線の塹壕で兵士達と生活を共にしました。その結果、ベトナム戦争に関わる多くの著作をノンフィクション、フィクション問わず残しています。その彼ですら上記引用文のように思うのかと、ハッとさせられました。中段の『ただ無様極まる言葉を探してタイプライターの鍵盤に指を迷わせる男』は『言葉』を『被写体』、『タイプライターの鍵盤に指を迷わせる』を『カメラのファインダーに眼を泳がせる』に置き換えれば、文筆家と写真家の違いもなくなってしまいます。

私個人の意見としては、ドキュメンタリーの役割は「誘導」や「提案」ではなく「提出」だと思っています。いくら現場で起こったこと、「現実」を捉えたと力んでみても、あくまで写真家個人の眼というフィルターを通す以上、性別、国籍、年齢、経済力、言語力、といった被写体や視聴者との相対的な素地の全てが影響すると思うからです。完全な客観はあり得ない。最終的には「俺はこう見た」としか言えない。

開高の言いたかったことは何なのでしょう?皆さんのお考えを御聞きしたいです。

コメント(16)

>1643さん
はじめまして。

僕は開高健氏の著書を読んだ事がなく、返信として的外れですが、1643さんもおっしゃっているように写真の問題としても考えれると思うので、すこし意見したいと思います。

>「現実」を捉えたと力んでみても、あくまで写真家個人の眼というフィルターを通す以上、性別、国籍、年齢、経済力、言語力、といった被写体や視聴者との相対的な素地の全てが影響すると思うからです。

僕も、この意見に同意します。
写真家は結局、個別具体的な個人なのであって"誰でもない"なんて言うことはあり得ない。現状この了解が報道の領域でうまく機能していないように思います。メディアは、より中立的、客観的な報道がありえるということを、求め続けているとしたらすこし異論があります。 
(僕個人的には)報道は潜在的に持つ(あるいは持たざるを得ない)ある種の恣意性を正直に受け手に伝えるべきだと思います。いいかえれば、ある種の(幻想とは言わないにしても)操作を加えた情報であるということを、いっておくべきだと思います。
世界は、記録する側の作り上げるストーリーに素材を提供するだけで、それをどう使うべきなのかは教えてくれないと思います。それを"どう読ます"のか付けくわえているのが、写真家であり編集者だとおもいます。


余談ですが、

先日、ある写真の合評に参加したときのことです。イラクの現状を記録したいという写真家さんの作品でした。僕は、その写真家さんが撮った写真の具体的内容に興味を持つことより、今僕を含めた人たちが、この高層ビルの23階の会議室でその写真を見ているという状況を考えた方が、より現実が解るのではないかと思ったのです。(日本という"平和"な国の無菌的な場からの目線などのことなど)この、被写体との絶望的な距離のまえでは、いくら写真家さんが具体的に写真を撮ったときの様子を語っても、あまり感情移入が出来ませんでしたし、僕はその気持ちを抑えることが出来ませんでした。

僕個人は、この経験から、写真記録の真実性を高めことをすこし横において、"あそこ"を考えるより、むしろ"この写真"と"ここ"の関係を考えることが大切であると思っています。

すこし飛躍しすぎたかもしれません。かといって報道が、俗にいうFictionとなっては問題だと思いますが、documentaryが異常に真実性を持つということには、少し批判的に僕は考えています。
ゆうやさん

>報道は潜在的に持つ(あるいは持たざるを得ない)ある種の恣意性を正直に受け手に
 伝えるべきだと思います。いいかえれば、ある種の(幻想とは言わないにしても)操
 作を加えた情報であるということを、いっておくべきだと思います。世界は、記録す
 る側の作り上げるストーリーに素材を提供するだけで、それをどう使うべきなのかは
 教えてくれないと思います。それを"どう読ます"のか付けくわえているのが、写真家で
 あり編集者だとおもいます。

>その写真家さんが撮った写真の具体的内容に興味を持つことより、今僕を含めた人た
 ちが、この高層ビルの23階の会議室でその写真を見ているという状況を考えた方
 が、より現実が解るのではないかと思ったのです。(日本という"平和"な国の無菌的
 な場からの目線などのことなど)この、被写体との絶望的な距離のまえでは、いくら
 写真家さんが具体的に写真を撮ったときの様子を語っても、あまり感情移入が出来ま
 せんでしたし、僕はその気持ちを抑えることが出来ませんでした。

 僕個人は、この経験から、写真記録の真実性を高めことをすこし横において、"あそ
 こ"を考えるより、むしろ"この写真"と"ここ"の関係を考えることが大切である

同感です。世界中の悲喜交々を記録するのがドキュメンタリーだとしたら、例えば山に暮らす人に海の幸の美味を伝えることと同じなのでしょうね。地域性、時代性、そして宗教性や政治性も含めて、本当は知らなくても全然生きていけるのに知ってしまったばっかりに心がかき乱されてしまう。でも一方では「知らない、知ろうとしないことは罪である」とまで言い切る人達もいる。

メディアは論調や利害を同じくする企業や団体の多くをスポンサーに持ち、所謂「左派/右派、保守/革新」などとカテゴライズされますが、今やそうやって世論が作られお金が廻っているという事実は視聴者も情報提供者も分かっていて、むしろちょっとシラケたぐらいの距離感がある様に思います。
はじめまして。
お二方の話題の方向とは外れるかも知れませんが・・・・

開高の記述に関してのみ云えば、書かれた時代を考慮すべきかと思います。

「報道」が「真実」を伝え、「現実」を変えうるとの素朴な信頼が未だありつつも、
一方で「飢えた子供の前に文学は有効か」と言う言葉が命題として重かった時代。
社会主義、実存主義、70年安保etc。

>その彼ですら上記引用文のように思うのかと、ハッとさせられました。
むしろ彼が深く関わったからこそではないでしょうか。

開高はベトナム三部作以後、作風が変わっていきます。
この記述に限って云えばドキュメンタリーの客観性云々よりも諦観、断念の苦さを感じます。
moscow 91さん

レスポンスが遅くなり申し訳ありません。仰る通り、開高にはベトナム従軍経験以前、以後という見方で作風の変遷が認められるようです。去年末、たまたま大阪の古本屋で今は絶版になっている'60、'70年代のエッセイや評論、小説などの宝の山をまとめて購入し、読んでいるところですが、端々に「言葉の脆さ」を挙げて「小さな説を書く生業」に対しての痛罵と自虐が読み取れます。

しかし、と言うか、やはり、と言うか、だからこそ情報氾濫のこの時代に彼の文章は読まれるべきなのかとも思います。書けない書けないと言いながらも、やはり彼は書き続けて読者への何らかの働きかけをしたかったのではと思いたいところです。

確かに、デジタル情報時代には彼が想像し得なかった質と量そしてスピードでピンキリの情報が溢れていますが、現場に赴く写真家、文筆家、ニュース屋、煽動家、その他諸々の絶対数は確実に増えていて「量の増加は質の低下」を極めている状況で当事者/傍観者、一人称/二人称/三人称の垣根が曖昧になりがちだからこそ開高の諦観や断念をもう一度検証することも必要なのかも知れません。彼の時代だから出来たこと、彼が想像もしなかったけど、現在だから出来ることもあると思います。
話が写真というよりジャーナリズム論に傾いているようですが
そうすると話が余りに広がりすぎてしまうので
ちょっと戻って.....exclamation

言語ではない写真のような視覚要素は、どのような文脈に置かれるかで意味合いが全く変わりますよね。

ここで云うドキュメンタリーフォトとは広い意味での「報道写真」の中でもフォトルポルタージュとかフォトエッセイとか云われるものと解釈してよいでしょうか?
つまり名取とかユージン・スミスのような。

何か具体的な例が挙げられるとありがたいですあせあせ(飛び散る汗)
moscow 91さん

確かに写真はその使われる文脈の中で属性を持たされるようです。他の写真関連コミュニティーでも書き込みましたが、私個人の意見では写真にジャンルなんぞありません。一枚の写真は一枚の写真です。被写体に対して敬意を持った撮影者の意図は勿論最優先されるべきですが、その写真の使われ方によってドキュメンタリーにもなればアートにもなるならば、最初からジャンルはないと思った方が良い。数年前にベネトンが行ったキャンペーンでの写真の使われ方が良い例ですね。まあだいたいの素晴らしい写真はそれが最初に発表された媒体や撮影者の肩書きが何であれ一つの「記憶されるべきイメージ」として世に残ります。

上記を踏まえて、このトピックでいうドキュメンタリー写真とはプレスパスを首から下げた写真家やフォトジャーナリストが撮る紛争地や貧困地帯の生々しい写真をいうステレオタイプのものではなく、もっと広義の「記録=ドキュメント」というスタンスから考えるとどうだろうか、ということです。説明が足りませんでした。

カメラや写真の特性から、「ある一瞬や数秒間、数時間、或は数日間を時間の流れの中から抜き出し保存すること」を「記録」といま仮に定義するなら(デジタル合成の写真は省きます)、カメラオブスキュラやデゲレオタイプ時代から撮られてきた写真はすべて記録になります。荒木のオネエちゃんのヌードから杉本の海の写真まで。

「記録」の観点で撮影者が撮っていなくても、作業的、行動哲学的、カメラという機械の構造目的上で記録という行為になっているんじゃないだろうか?と思う訳です。

で、その記録作業を行う本人が日々迫られる取捨選択(平和な国と紛争地帯どっちに行く?どの瞬間をどんなカメラで?モノクロかカラーか?レンズの画角は?フラッシュの使用は?)から記録作業が始まっているのだから、これらの条件が設定されていく段階そのものが撮影者の主観になる様に思うのです。

このトピック、すっか忘れてました。失礼しました。

主観、客観とか公正とか正義とかの議論は置いといて・・・

発言なさる方が皆さん撮り、提示する立場の方だからかも知れません。
何か微妙にズレのようなものを感じます。

所謂インデックス性とか記録性は写真の特性ではありますが
それに依存してしまうのは如何でしょう。

全ての写真は記録(ドキュメント)となり得る
撮影者の意図と理論次第
写真にジャンルはない

それはそうなのですが・・・・・
そこで止めてはトピック自体が無意味になる気がします。
本来ジャンルはないと言いつつ、現にここで「ドキュメンタリーフォト」について語っている・・・
何故なのでしょう。
そこから先があるからではないでしょうか。

また写真がどの文脈でどのように受け取られるか、
これも「力関係」と云ってしまえばそれまでかも知れませんが・・・
そうあっさり言い切れるものでしょうか。
写真の受容のされ方と言うのは・・・・

う〜〜ん 難しいですね(^^;
久々に書き込みます。Mixi無精を御許し下さい。

11の moscow 91 さん、トピックはドキュメンタリー、ドキュメンタリーフォトという名詞ではなく、ドキュメントという動詞についてです。殆どの辞書での第一義的な意味では「記録する行為」とあります。故に動詞を行う主格の一人称の理由付け一つで、方法論、題材、使用機材、発表媒体、その記録活動から導き得る結論や提案の有無は好きにやっていいものだと思います。

私個人の意見ですが、「一つの事実の周りにいくつもの真実がある」と思うのです。
一つの事実とは、ある事象が、いつ、何処で、誰が、何を、どのように、という所謂英語で言う所の5W1H(When, Where, Who, What, Why, How)ですが、Why(何故)には主観が多分に働くので此処では外したいと思います。で、その事象に関わった、或は影響を受けた多くの人々それぞれに彼、彼女の為の真実がある。

例えば2001年9月11日にNYCのWTCで起こったことは

2001年9月11日朝にNYCのWTCに二機の飛行機が突っ込み多くの人が死傷してWTCは崩壊した。=事実

無差別に多くの市民を死傷させたテロ=アメリカ人や世界の多くの人達の真実

長年アメリカに代表される欧米社会の価値観を押し付けられてきた鬱憤を晴らす英雄的行為、聖戦=反米感情の強い人達の真実

のように。

だから、一つの事象について立場が異なる複数の主張を見聞するのはその「事実」を検証するには有用ですし、もしその事象から自分が直接的な影響を受けなかったか現在も受けていないのであれば、そのとき初めて少なからずの客観性の存在を認めることが出来るのではないでしょうか。

開高はベトナム戦時には米軍とベトナム政府軍に主に随行していましたから、いきおいそちらからの目線になるのは不可避なことです。体が一つである以上、一個の表現者が一つの事実を体験して同時に複数の真実を主張することは出来ません。

乱暴な言い方をしてしまえば、事実に忠実であろうとして、なお自らの真実を主張したいなら、実在の事象に材を得たという「Based on true story」という手法で表現者の為の真実に寄り添う事実だけを引っ張りだしてきて描くしかないと思います。映画「JFK」などはその典型ですね。あの映画には暗殺を計画し実行した側に居た人達の真実が多分に抜けています。


余談ですが、もし御覧になったことが無ければJames Nachtweyという写真家を追った「戦場のフォトグラファー」というドキュメンタリー映画をお薦めします。
いえ、こちらも言葉足らずですみません。<皆さん

写真論のコミュなので
ドキュメンタリー論、或いはジャーナリズム論ではなく
ドキュメンタリー・フォトについての話と思っていました。
ですから如何に客観性を担保するか等の問題はこの場では触れません。

例えばムービーでも文章でもなく何故「写真」なのか。
他のメディアとどこが違い、どこが同じなのか。

古臭い言い回しかも知れませんが、「写真はコードなきメッセージ」と云いますよね。
(この言い回しも色んな解釈ありますが)
仮に写真がそう云うものであるならば、それはどう作用するのか。
これまでの話の流れでは写真が「真実」を伝達する道具であると云う事が自明とされているようですが、
だとすればやはり記号論的な問題意識も(古臭いかも知れませんが)やはり大事なのではないでしょうか。
発表者、受け手の関係はもちろんですが、より広く文化、社会、時代によるコードの差異や変化も含め。




余談ですが
ジャーナリズムの世界でかぎ括弧付きの「客観性」を捨てて取材者の主観性を前面に出した「ニュージャーナリズム」とすれ違うように
写真の世界では撮影者の主観性を排除しアノニマスを志向した中平の写真論が出てきたのは面白いなぁと思ったりします。
私の云う記号論云々はまぁ専門の方から見ると噴飯モノの俗流解釈ですので(汗)
笑われるからここらでやめときますね。
(夫々の関心のあり方も違いますし)

取り合えず「真実」とか「如何にあるべきか」と云うのを離れると
(これ、きりがない気がしますし、信条の吐露合戦になる危険もあるので)
写真と記録の結びつきと云うのは、やはり写真の「インデックス性」と云われるものに由来していますよね。
ないものでも描ける絵画と違い、写真に写っているのはそれが何であれ現にあった、写っているのは何かの痕跡であると言う性質。
それ故、全ての写真は記録でありうると言う言い方は勿論アリです。


けれど実際にこのトピックで皆さんが語っているのはベトナム戦争であり広島であり911ですよね。
すでに「写真」一般の記録性ではなく、報道写真とかフォトジャーナリズムとカテゴライズされたものが話題になっているように見えます。
仮に対象が戦争などでなく、身内の介護やら農村の日常などであっても。

それらは非常に乱暴な言い方ですが、社会を指向した「メッセージとしての写真」と云えます。
目的でなく手段としての写真と云いますか。
メッセージとして有意であるためには、それは何らかの恣意的なコードの中で方向付けを前提としています。
そのために構図やらトーンやらと言った下位(写真的な)のコードに沿ったテクニックが使われる。
(ナショジオ流と云いますか)
伝統的かつ正統的なあり方だと思いますし否定するつもりもありません。

只、ある言い方をすれば「悲しい猫の図鑑」を作る作業と言いますか・・・(^^;
(別に中平マニアではないです)

それが決まり過ぎた場合、・・・・
ブレなく明解な、誤読の余地のないメッセージとして機能した場合、
それは豊かさを失うのではないかなぁ・・・・と思ったりするのです。
写真の豊かさ、不思議さとは明解でありながら曖昧と云う点にあると感じますで。

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