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日々の祈りコミュのそれぞれの宗教について

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ここでは、より分かり易く、できるだけ理解しやすいように、世界のそれぞれの主要な宗教について紹介してみたいと思います。

みなさんにとって、このトピックの知識が、互いを理解しあえる助けとなることを願っています。

コメント(18)

【古代エジプトの神々】

多数の神々が信仰の対象とされた。
太陽神はすべての上に立ち、あらゆる創造物に責任を負うものであり。さまざまな形を持った。
エジプト人はすべての出来事は神によって支配されると信じ、多くのささげものをした。
イアルの野と呼ばれる死後の天の王国は、エジプトの地とそっくりであると考えられており、
死後の審判により真実の羽根と天秤にかけられた死者の心臓が、生前に犯した罪より軽ければ来世に転生できると考えられていた。


【ギリシアの神々】

自然は神聖で生命の力を宿していると考えられていた。
山は天の神の玉座であり、木々は1本1本が霊魂を持ち、木々が集まって茂る場所は特に神聖な場所とされた。
それぞれの泉には固有の妖精がおり、それぞれの川には固有の神がおり、海は多数の神と精霊が住まう場所だった。
人々は自分にとって最も役に立つと思う神を自己の意思で選ぶことができた。


【ヒンドゥー教】

インドの民族宗教で、創始者や特定の教義もなく、3000年以上の長い歴史の中で出来上がってきたものである。
多様な人種、民族、文化における信仰と慣習が混ざりあっている。
多数の神々がおり、その後ろにはブラフマンという宇宙の非人格的最高原理が存在すると考えられている。
創造神ブラフマー、保持神ヴィシュヌ、破壊神シヴァは三神一体である。
シヴァは破壊神であると同時には別の肉体を得てこの世に再び生まれてくる、という輪廻(りんね)を信じる。

生命は誕生から死、そして再生へと輪廻しつづけ、道徳(ダルマ)的に良い人生を送った人はその報いとして、次の生でよいところへ生まれ変わることができる。

業(カルマ:日常生活によって積もった罪)を軽くすることが、解脱(輪廻からの解放、離脱)につながり、それをだれもが望む。

カースト(バラモン、クシャトリヤ、バイシャ、シュードラ、不可触賎民)という特有の宗教的、社会的制度があり、輪廻による生まれつきのものであるという。
誕生から死までこの制度の枠を出ることはできない。

【仏教】

紀元前5世紀東北インド(ネパール)に生まれた実在の人物ゴーダマ・シッダルタ(釈迦)が開祖。
王子として生まれた彼はその後、6年間の苦行の末に菩提樹の下で瞑想を始め、そこで大悟(だいご)を得てブッダ(仏)となった。
ブッダとは悟りを得たものを意味する。

唯一神ではなく、多数の霊的存在があり、死後は輪廻(涅槃:ねはん)にいたるまで、新しい肉体の中で無限に再生を続ける。

輪廻の輪には6道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道)があるとされる。
人は、業(カルマ:前世の行い) により報われるか、あるいは罰せられ、この六道のうちのいずれかに生まれ変わるとされる。

大乗仏教と小乗仏教に大別される。

この2つの仏教には、輪廻を超えるために、根本的な考え方の違いがある。

大乗仏教は、チベット、アジア、中国、ベトナム、韓国、日本に伝わり、「人々は自立しておらず、互いに助け合わなければ涅槃には至らない」とした。

小乗仏教は、主として東南アジアに定着した。これは僧侶の瞑想の生活を重視し、その教えは「人間は根本的に自立した存在であって、自らの努力によってのみ、涅槃(ねはん)に達することができる」とされる。

仏教徒は、輪廻転生という言葉よりも、生まれ変わりという言葉を好む。
【チベット仏教】

仏教が8世紀になってからインドからチベットへ伝わる間、多分にヒンドゥー教化し、そして悟りを得るために、密教的な儀式や複雑な秘法を用いるようになった。
曼荼羅(マンダラ)と呼ばれる図がその例である。信者はマントラという聖句を繰り返し唱える。
大乗仏教とそれらが入り混じり、ラマ(僧侶)という支配的な力を持った精神的指導者によっていくつもの宗派が支えられ、成り立っている。

観世音菩薩(愛と慈悲の仏)は意識をもつ全てのものを救うと近いながら、その仕事に圧倒され、頭が1000個に割れてしまったが、そのかけらが再びつなぎ合わされ、大小11個のあらゆる方向を向いた頭部が作られた。
日本や中国で観音とも呼ばれるこの仏は11個の頭と1000本の腕で、、慈悲の届かないところは無いといわれている。

現代に、この観音が人間として生まれ変わったのが、ダライ・ラマと呼ばれる存在で、14代目のダライ・ラマは今もラマ頂点に立ち、チベットのもっとも重要な指導者である。
【儒教】

創始者は孔子(紀元前551〜479)であり、中国の最初の大哲学者である。彼の議論や言葉は「論語」としてまとめられている。

宗教というよりも生き方や倫理(りんり)の教えである。
儒教の信奉者は孔子の教えに従いながら、ほかの神を信仰する者も居たり、まったく神を信仰しない者も居る。

礼の重要性を説いており、礼とは正しい行い、あるいは秩序の維持を意味する。
そして弟子たちに君子であれと説いた。
君子とは、人に親切で目上の人に敬意を忘れないことをいう。
そして考(こう)を実践することを薦めた。考とは、親に対する尊敬と心配りを意味した。
孔子はこうして考を実践した。それにより、先祖崇拝を重視した。
彼は、すべての人々がこの義務を果たし、社会に秩序と調和をもたらすことを望んだ。

また、他人に尽くすことから始めなければ、自分の先祖を崇拝したり神や霊を崇拝しても何の価値もないとも教えた。
孔子は新たな宗教を創始しようとしたわけでなく、良い行いという原則に基づく生き方を説いたのだった。
中国では彼の死後、儒教が国教的な存在となった。
中国では、道教、儒教、仏教が互いに融合し、中国古来の家と家族を中心とする伝承宗教と融合していった。

これを三教という。
道教は世界の謎に対する理解を与え、儒教は秩序と尊敬を重視し、仏教は慈悲と信心によって解脱を与えるといわれている。
これらは、2000年近く中国人の生活と思想に大きな影響をあたえた。
そして、日本、韓国にも儒教をはじめとする三教は大きな影響をあたえた。
【道教】

陰と陽の思想に代表される道教は中国土着の宗教である。
陰と陽のシンボルは、「道」(タオともドウともいう)の2つの性質をあらわす。
道教では自然はこの2つの要素からできていると考えられており、陰は暗く女性的で受動的であり、柔らかく、陽は明るく男性的で積極的であり硬いとされている。
マイナスで暗いイメージのある陰という要素については、本当の意味ではマイナスでない。
陽は明るいから良い、プラスというものでもなく。
互いはプラスであり、同時にマイナスであり、お互い2つの要素が補い合い、補完し表裏一体となって初めて一つなのである。
つまり明るさしか持たないものは、破壊であり、暗さしか持たない状態も同じく破壊である。
男だけが存在し、女が居ないなら、子孫は残らず、破滅する。同時に逆も然りである。
太陽が照るだけでは日照りになり破滅し、夜しかなければまた同じく破滅する。

このように陰と陽はどちらかだけが優れている要素ではなく、互いに一体となって自然界を成り立たせている。

道教では、自然界全体をつらぬき、支配している一つの原理(力)が存在すると信じ、それを「道」と呼ぶ。
道(タオ)に従うということは、自然の道に従うことである。

道(タオ)は川の流れに例えられ、信者は水を道(タオ)の働きをあらわすものとみる。

水は柔らかく形を変え、何の力みもなく、従順で、どこへでも流れていくが、同時にあらゆる物質の中でもっとも力強く、あらゆる生命を養う。

中国武術をはじめ、そこから派生した日本の武道、空手道、書道、柔道、華道、剣道など、「道(タオもしくはドウ)」を冠するものは、道教の「道」という原理に多大に影響を受けている。
それらは共通して、その根底にある最も重要な真髄において、この道教的な色合いを持つ。

民間伝承的な道教の面と、哲学的な面を持ち、哲学的道教の信者は、神秘主義者であり、厭世的(えいせいてき:人生や世の中をはかなむ傾向にあるさま。⇔楽天的)な人々であることが多い。

彼らは内面の欲望や自己、感覚を鎮めることにより、「道」の理解を得、一体となり、調和して生きようとする。
これらの思想は孔子や老子や荘子という哲学的書物にも影響を与え、書物の文中にもその影響が色濃く反映されている。これは後世になり、この特色に影響を受けた弟子たちにより長い年月をかけて改編を重ねてきた結果ということでもあり、歴史的な古い書物ならではの傾向が見られる。
それゆえに、一つの書物の中で多数の異なった考え方が交じり合っていることも多々あり、統一が取れていないことが多く見られる。著者が多重人格者であるかのような記述になっていることもあるが、どの部分が原文で、どの部分が後世の創作であるか、不確かな点について現代の古典学者においても意見の分かれるところである。

道教は一方で、民間伝承的な道教の信者によって、本質的にまったく異なった信仰、信者を持つことが多い。

彼ら民間伝承的道教の信者は、現世利益が関心の中心であり、多数の神々、霊的な存在や悪鬼がいると信じており、信者はそれにたいして、秘術や儀礼を行い、神々に救いを求める。
道士(どうし)と呼ばれる人々は、呪術や儀礼によって、主として招福と病気の治療にあたる。

民間伝承的な道教信者は、徳や高潔さや、あるいは富や力を得て、それによって不老不死となることを願う。

道教最大の著作物である「道徳経」を書いた老子は孔子と同時代に中国中部に生きていたとされており、孔子は若いころ、老子をたずねたことがあるとされている。

八仙(はっせん)という、「道」の原理を実践して不死身となった伝説上の人物たち(仙人)たちが有名である。

彼らは地上に生きた時代や身分もそれぞれ異なる。
一般に、八仙の像は「貧困、裕福、貴族、下層民、老齢、若さ、男らしさ、女らしさ」など、人生のそれぞれの状態を表している。
【神道】

神道は民族宗教であり、日本古来の宗教である。

神道の中心は、超自然的な精霊、すなわち神である。
海、山、鳥や、あらゆる動物、植物、ときに祖先たちもが神とみなされる。
日本には八百万(やおよろず)の神がいるとされており、全国津々浦々の神社で礼拝されている。

畏(おそ)れや驚きを感じさせる自然と密接な関係を持っており、それゆえ、山、海のそば、森の中に重要な神社が建てられていることが多い。

一般に、神道では、神を神像の形で表すことはなかった。
しかし、仏教の影響で神像もまれに造られた。
神道は教義よりも儀礼の宗教であり、そのため、6世紀に仏教が日本に入ってくると簡単にそれと混じりあった。これを神仏習合(しんぶつしゅうごう)という。

かつての日本では、仏や菩薩が神の姿として現れたものと考えられていたため、仏教寺院が神社に隣接していたり、神社の境内に仏教寺院が立てられていることがあったりする。
道教の祭礼に仏教僧が参加することも普通にみられる。

また、七福人は中国から伝わった神々だが、今では神道でも崇拝されており、神仏習合を示す例となっている。

七福人の中でとりわけ人気なのが、富の神である大黒、農民や商人の守護神である恵比寿であり、日本では多くの人々の信仰の対象となっている。

神道の最高神は天照大神(あまてらすおおかみ)で、太陽の女神である。
その神殿は伊勢神宮であり、日本を代表する神社である。

古代から山は神々の住む特別なところと考えられてきた。
それゆえ、山の中腹などに神社が建てられていることが多い。

【ジャイナ教】

ジャイナ教は古いインドの宗教である。
もっとも特徴的な特色は「不殺生」にある。
生きとし生きるすべてのものに対する非暴力であり、それは攻撃的な行為だけでなく、心の持ち方、すなわち危険な思考も戒めている。

この教えはジャイナ教徒以外にも多大な影響を与えた。
マハトマ・ガンジーもその一人であるといわれる。

ジャイナ教では、宇宙には始まりも終わりもなく、創造の神も居ないとされている。
しかし、宇宙は終わることの無いサイクルを巡るので、文明はそれに伴って勃興期と没落期が訪れるという。

ジャイナ教は、仏教やヒンドゥー教にみられる輪廻と同じ考えを持ち、信者はこの輪廻の川を渡り、解脱することを求める。

神を崇拝することはせず、開祖マハーヴィーラと、それ以前の救済者23人(ジーナ:克服者の意 ジャイナ教の言葉の由来)に思いをはせる。

しかしながら、実際には一般のジャイナ教徒はヒンドゥー教の神々に祈りをささげる。

知恵と芸術の女神サラスヴァーディーはジャイナ教信者に人気が高い。
【シク教】

世界中に寺院が点在し、アフリカ、マレーシア、イギリス、アメリカ、カナダにもみられる。

シク教はイスラム教とヒンドゥー教を融合したものである。

創始者のグル・ナーナクは1469年にパンジャブ地方で生まれた。
彼は解脱に至る新しい教えとして、唯一神の信仰と、神像礼拝の禁止、そしてカースト制度の否定を説いた。

人々は頑固で迷いある盲目な存在であり、そのため神の啓示に対して目を開こうとしない。したがってグル(教主)が彼らを教え解脱(輪廻、生まれ変わりから開放されるまで)導かなければならない。とした。

シク教の中枢をなす教えである。

シクとは弟子を意味する古い言葉であり、シク教の言葉の由来である。

シク教徒はグル(教主)によって目を覚まされ、神の言葉を聞くことによって最終的に神と合一することができると考えられている。
【ジャイナ教】【シク教】という宗教の名を初めて知りました。

いろいろ教えていただき 有難うございます。
【ゾロアスター教】

イラン西部の砂漠の果ての地域や、インドのボンベイ周辺、東アフリカ、世界中の大都市に小さな共同体を作り点在している。

信者は全世界で13万程度に過ぎないといわれており、古代ペルシア人の預言者、ゾロアスターの信奉者である。

ゾロアスターは信者に火シンボルとする最高神、または知の神アフラ・マズダーに従いなさい、と説いた。

ゾロアスターはこの世は悪によって汚されているが、本質的には善なるものだと信じた。
人生の善はアフラ・マズダーによるものであり、悲惨や苦しみは別の邪悪な力であるアングラ・マインユ(アーリマン)の仕業であると考えた。

この2つの力が常に戦いせめぎ合っているのがこの世の中であるとした。

善を支援するのが全ての人々の務めであり、善を選んだ人は報いとして幸せが与えられ、悪を選んだ人は悲しみに終わることになるだろう。最後には善があくに打ち勝つのだから。と説いた。

ゾロアスター教は、世界最大の帝国ペルシア(現在のイラン)の国教であった。

絶えず聖なる火の世話をし、火の光に向かって祈る。

聖なる酒ハオマを聖なる火に注ぎ、神にささげて、ハオマを飲むことは、信者に不死をもたらすとされている。
【ユダヤ教】

唯一神信仰であるが、キリスト教と違い死後の世界は存在するとするが、ユダヤ教徒は死後の世界よりも、主な関心は現世にある。

創始者は旧約聖書の中の登場人物である、全てのユダヤの民の父アブラハムと十戒のモーセである。

聖典はユダヤ聖書とよばれる旧約聖書である。その中でもモーセ五書と呼ばれる部分がもっとも重要な部分をなす。


ユダヤ人の祖先は古代イスラエル時代の3人の指導者であった、アブラハム、その子イサク、孫のヤコブにまでさかのぼるとされており、ユダヤ人たちは今でも自分たちのことを「アブラハムの子」と呼んでいる。

自分たちの国をイスラエル(ヤコブの名を神が改めた) と呼ぶ。
約束の地 カナン と呼ばれる場所(現在のイスラエル)に住み着いたことから時から始まる。

アブラハムの孫ヤコブは飢饉を逃れてエジプトに移り住んだが、エジプト人に迫害され奴隷となった。
その後、預言者モーセが現れ、彼らを導いてエジプトを脱出した。
有名な、紅海が二つに裂けた逸話である。

ユダヤ人は、今でも過ぎ越しの祭りという年に一度の祭りによって、この逸話の記憶を思い起こし、神に対する畏敬の念、崇敬の念を心に刻むのである。
神が最初に追撃してくるエジプト人に対して、紅海を閉じ、おぼれさせで厄災を与えたとき、イスラエル人(ユダヤ人)を「見過ごした」ことに名前の由来がある。
この祭りは1週間続く。

そのとき、シナイ山で族長の神(キリスト教の旧約聖書では神と記述)が、現れ、イスラエル人との間で契約を交わした。それが十戒(じっかい)と呼ばれるモーセ五書となった。

それ以来、神から与えられた宗教的掟は、ユダヤ人民族としての存在意義の中心にある。

ユダヤ人の神(キリスト教における神、キリスト教一派のエホバの証人におけるヤハウェ、またはヤーウェ、もしくは、ヤハと呼ばれる)  は、 万物の創造者にして、支配者であり、歴史を支配し、万能で博愛である。

余談だが、ヤハとは「私は成る」という意味といわれており、全てを成すことができる万能の者、という意味である。

神が創造の手を休めた日を安息日としてユダヤ人は一切働かず、天地創造の神の御業(みわざ)を思い起こし、祈りをささげる。
サバス(安息日)と呼ばれ、金曜の夜と日曜の朝、礼拝所にあつまり祈りをささげる。
(キリスト教では7日目にあたる日曜日が安息日にあたる)

神が手を休めているのに、人が働くことは、神に対する冒涜であり、熱心なキリスト教信者はこれに徹底する。
ただし、唯一、例外がある。現在では人を救護する仕事(医者や看護師がこれにあたる)はこの限りではない。
また、現在では生活の多様性、社会の複雑さによって資本主義が発達しており、安息日(日曜)に働くことも厳罰的な戒めの対象から外れている傾向がある。

ちなみに、土日が休みになったのは、日曜が礼拝する日、土曜が家族サービスや自分の休暇のため、というキリスト教の影響にある。


ユダヤ人にだけ、神が十戒を示したことから、ユダヤ人は特別な役割を持つと考えられてきた。
そして彼らは、地上に神の法、神の王国が最終的に築かれることを信じ、神の救世主(選ばれたもの)が送られてくることを待ち望んでいる。

この宗教はユダヤ人特有のアイデンティティとなっており、民族の結束を強め維持するのに大いに役立っている。
ユダヤ人の結束の強さはユダヤ教にあると言っても過言ではない。

また、ユダヤ教では割礼(儀式)があることも特徴的だ。
これは生後8日目の男子の性器の皮をちょん切ることである。そのことで、神に選ばれたイスラエルの民の証であるとした。
現在の包茎手術にあたるが、このとき不衛生な状況から命を落とす子供も居て、世界的には現在ではこの慣習について倫理を問われている。
【キリスト教】

ユダヤ人だったイエス・キリストに名前の由来がある。

神は唯一神(もともとはユダヤ教の神と同一)だが、神を父とし、子をイエス(天界に帰り神となった)、そして聖霊の三つの位格をもつ。これを三位一体という。

死後の世界は、天国か地獄とされ、輪廻の概念、生まれ変わりはなく、死後はそのような特別な場所で生きることになり、不死となる。
ちなみに、キリスト教一派のエホバの証人の間では、永遠の楽園は地上で再現され、そのとき(最後の審判)の後、善人はこの楽園で不死の命を得て現実世界として生きるとされる。

聖典はユダヤ教の聖典(旧約聖書)とイエスの時代に神の力によって書かれた新約聖書からなる。
合わせてこれを聖書と呼ぶ。
信者はその旧約、新約の聖書から教えを請い、祈りをささげる。

イエスは現在のイスラエルに住んでいた実在の人物とされており、キリスト教徒たちはイエスこそが、ユダヤ人が待ち望んでいた救世主(キリスト)であると考えた。
教徒にとって、イエスはただの人間ではなく、神がこの世にイエスとして姿を現したと信じている。

母親のマリアと父ヨセフは貧しくはあったが、イスラエルの最も有名な王ダビデの子孫だった。
救世主はダビデの家系から生まれるとされていた。
カトリックでは聖母信仰があり、マリアは神の母としてマリア崇拝が行われている。
カトリックと並ぶ二大宗派の一つ、プロテスタントではマリア崇拝は無く、聖なる存在として認めてはいるが主だったマリア崇拝の慣習は無い。
カトリックでは絵画や神像(キリストやマリア)が存在し、礼拝のシンボルとされているが、プロテスタントでは偶像礼拝はしてはいけない、という聖書の解釈を重く受け取り、シンボルは簡素な十字架のみとしている。
この違いにより、同じキリスト教の教会であってもすぐにカトリック教会であるか、プロテスタント教会であるか見分けることができる。

各宗派の共通の考えとして、人間は善ではなく、神と人間との間には障壁、隔たりがあるとし、キリスト教徒はイエスのことを人間を神の元に連れていく救済者だと考えている。

また、イエスは処女マリアがイエスを授けるという神の啓示の後、出産したことから、イエスは人間ではない、としている。

人として生まれたのは、現世の人間と同じ苦悩と罪を背負うためであり、その罪はイエスが十字架に貼り付けになり、罪を背負い死んだ後、3日後によみがえり、復活し天に帰ったことにより、人々を罪から「救済」する目的だったと考えられている。

このことから、十字架はキリスト教のシンボルとなった。
【キリスト教(続き)】

聖母マリアは慈悲、慈愛、特に女性と妊婦の守護者であると考えられていることから、女性に人気がある。信者による安産の祈願を行う対象であることでも知られる。

キリスト教ではクリスマスはイエスの生誕を祝う祭りとされているが、実際のところ、聖書の中にはイエスの生まれた日は記されていない。
学者の間では民間信仰であった太陽神の祭りの日と融合したと考えられているが、一般的にクリスマスを祝うことは、イエスの誕生を祝うことであるという共通の認識がある。

また、キリスト教は、婚姻の守護者(一夫一婦制)であるとされることから、日本でも仏教、無宗教に問わず、結婚式に取り入れている人々が多い。
キリスト教国家の人々から見ると、きわめて異端であり、不快に映り、不思議な現象と思われているようだが、日本の民族性、古来からの民俗信仰(神道:八百万の神)を考慮して理解をしようと考えられているようだ。

日本におけるキリスト教徒は、ほとんどが神社の鳥居をくぐることを拒み、神社、寺院へ訪れることを拒む。
これは、邪教(キリスト教以外のことを指す)と交わるものは地獄へ落ち、業火で焼かれると書かれてある聖書の記述によるものであり、父なる神と、神の子イエスへの裏切り、冒涜にあたるからであり、天の王国で暮らすことを信じる信者にとっては致命的な汚れにあたるからである。

洗礼が有名で、信者として新しく生まれ変わるための儀式であり、そのためにイエスに水による洗礼を行った預言者ヨハネにならい、水によって洗礼を受けたイエスにならって洗礼の儀式が執り行われる。
この儀式ののち、過去の人格を捨て、新しい神の人格を得るとされている。

キリスト教初期、エルサレムからローマ帝国全域に急速に広がったキリスト教徒は今日では20億人に達するといわれている。

キリスト教徒は教会と信仰によって結ばれ、世界で彼の業(わざ)をなすことを求められた「キリストの体」であると考えている。
彼らはイエスがしたように、神と隣人を愛し、イエスの教えを広め、イエスが生きたように生きたいと考えている。

ちなみに、カトリックではトップの指導者として教皇が存在する。
カトリックに異端として弾圧されたプロテスタントは教皇の権威を嫌い、16世紀になって教皇の権威から離脱した。

11世紀、ローマ教皇を指導者とする西ヨーロッパのローマ・カトリック教会と東ヨーロッパを中心とする東方正教会(のちのプロテスタント)があり、これが現在のもととなっている。

プロテスタントはルターやカルバンという人物に代表される宗教革命によって、端を発した。
聖書を重視し、信仰による義認・万人祭司説などを主張し、現在では主に全ヨーロッパと北米に浸透、定着している。
ちなみに韓国では人口の3割の市民がキリスト教徒と言われており、アジアではフィリピンに次ぐ第二位のキリスト教国家である。
韓国は、儒教の影響は強いが仏教徒2割程度と意外と少ない。残りの5割は無宗教か先祖崇拝のような古来の土着宗教を信じている。


ユダヤ教との大きな違いを言い表すとするならば、キリスト教では、旧約聖書(モーセの十戒)を古い立法と呼び、新約聖書(キリストの新しい教え)を新しい律法と呼ぶことにある。
イエスは新しい律法により、人々を導こうとしたとされる。

例をあげると、古い律法とは現在でも日本のあいだでも有名な言葉である「目には目を 歯に歯を」であろう。これは実は聖書の言葉である。
ちなみに余談だが、豚に真珠 も聖書の言葉だ。

これは、犯罪者もしくは加害者から目に被害を受けてくり貫かれたならば、加害者の目をくり貫き、歯を損傷されたなら、相手の歯を折り、命を奪われたなら、相手の命を奪う。という律法による。
これは強烈だが、砂漠の民の激しい気性がそのまま律法になっており、現在のアラブ諸国では、この激しさをそのまま律法として残す民族も存在する。

新しい律法とは、目には目を 歯には歯を という代償による法ではなく、相手の罪を何度でも無限に近く赦しなさい。というものである。

左の頬を打たれたら右の頬を差し出しなさい。という言葉が有名である。
ただ、この言葉の解釈として、無条件に右の頬を差し出すというのではなく、つまりバカになれ、と言う理由ではなく、赦しの精神により、相手を戒め、罪のある状態や思考に留まらぬように、という深い意味がある。

心のこもっていない、無条件降伏的な行為でなんとかしろ、というわけではないようだ。

また、新しい律法とは、イエスの教え全てを指すことでもある。
限度のない赦し、隣人愛による平和を実践するよう、信者は日々、彼にならうように生活している。
【キリスト教(続き)】

聖書の中でイエスは神の羊飼いといわれている。
そこでキリスト教の指導者たちは羊飼いになぞられ、良い羊飼いが羊の世話をするように、教会の人々に熱心に心を配ることが求められた。
ゆえに、その指導者たちは「牧師」と呼ばれるのである。
信者が神(イエス)に祈るとき、哀れな子羊をどうかお守りください、導いてください。と祈るのはこの為である。

また、祈りを行う際は、直接に(父なる)神に祈っても良いが、一般的にイエスを通して祈りをささげる。
これは、新約聖書にある記述からきており、イエスを通して祈ることで導かれる、という図式が成立しているからである。

それゆえ、祈りの最後の締めの言葉として「主イエスキリストの御名を通して」などの言葉が使われる。

ちなみに、最後にアーメンと言うのはヘブライ語(イスラエル旧約聖書の原文の言語)で、「本当に」「まことにそうです」「然り」の意味。原意は「安定」であることによる。


キリスト教で有名な逸話としては、イエスが山上の中腹で行った演説とされる、「山上の垂訓(すいくん)」だろう。
これはイエスがさまざまな例え話をもって、弟子や民衆にわかりやすく神の律法について教訓などを説法したのである。

マハトマ・ガンジーはこの山上の垂訓を読み、宗教を超えてこの垂訓に賛同し理解を示したという。
世界がこのようになれば平和になる。と言ったという。

また、キリスト教では、神の天の王国に入る者の模範として、イエスが道の通りを走る子供たちを指差して、この子供たちのように無垢でもっとも身分の低いものが天の王国では最も尊いのです。
この子供たちのような者が天の王国に入る。というようなことを話した。かいつまんで書くとこういう感じである。

こういった特色から、人種差別に対する救いをキリスト教に求めるものは多い。

キリスト教徒で差別と戦った人物としては、キング牧師が有名だろう。


「I have a dream」で知られる有名なスピーチをおこなった人物。1964年ノーベル平和賞受賞者

有名ではあるが一般には知られていないのだが、特に胸を打つ言葉がスピーチの間に出てくる。
それを一部抜粋して紹介したい。
参照サイト→ http://longtailworld.blogspot.com/2006/02/i-have-dream-speech.html

「私には夢がある。 「万人は生まれながらにして平等である。これが自明の理であることをここに保証する」、この国家の基本理念を真の意味によって実現する日が来るという夢が。

私には夢がある。いつか、ジョージアの赤土の丘に元奴隷の息子たちと元奴隷所有者の息子たちが一緒に座り、友愛のテーブルを囲む日が来るという夢が。

私には夢がある。いつか、あの差別の熱にうだるミシシッピー州さえもが自由と正義のオアシスに変わる日が来るという夢が。

私には夢がある。いつか、私の子どもたち4人が肌の色でなく中身で判断される、そんな国に住む日が必ずくる。

私には夢がある。・・(中略)・・いつかきっと、幼い黒人の少年少女が幼い白人の少年少女と手と手を取り合って兄弟のように仲睦まじく暮らしていける日が来るという夢が。」


このスピーチの数年後、凶弾に倒れ帰らぬ人となる。享年39歳だった。
【イスラム教】

イスラムは服従の宗教といわれる。自らアッラー(神をあらわすアラビア語)の意思に服従したものという意味を持つ。あるいは帰依という意味もある。
アッラーは慈愛に満ちた神とされる。
開祖である預言者モハメット(ムハンマド、あるいはモハメド)はアラビアの都市メッカに571年ごろ生まれた。

メッカはイスラム最大の聖地であり、カーバ(神殿)の壁には「黒い石」がはめ込まれており、これは人間と神との最初の契約のしるしとして天から落ちてきたものだとされている。
信者は一日五回、メッカに向かって祈りをささげる。

神は唯一神である。
死後の世界はキリスト教と同じ概念で、最後の審判のあとに天国が地獄に行く。

聖典はコーランと呼ばれる。
キリスト教と違って、原則として聖職者は居ない。

コーランは絶対に誤りのない神の言葉であり、その存在自体が完璧なので、アラビア語以外に翻訳されるされることは不可能と考えられている。

その言葉は、モハメットが夢うつつの時、天使ガブリエルが現れモハメットに示しされたという。

コーランには神の唯一性や神の裁き(最後の審判について)や、日常生活の行いについて多くのことが記されている。
610年ごろから632年に没するまで、神の啓示を受け続けた。これを信者たちによって、コーランとしてまとめられた。

モハメットは唯一神アッラーの存在を説き、他神論を非難するようになった。

イスラム教徒にとっては、イスラム教は国と個人の生活のすべてを支配するものでなくてはならない。
イスラム寺院(モスク)は社会生活の中心であり、教育や社会事業の中心ともなっている。

スンニ派(多数派9割)シーア派(少数派1割)がいる。
スンニ派は、法を重要なものと捉え、宗教的指導者たちを正当な後継者と信じる。
シーア派は、モハメットの娘ファティマと、その夫アリの子孫のみが後継者であるべきだと考える。

イスラム教では、唯一神アッラー以外をたとえ武力であろうと排除しようとする過激派が居るが、テロなどで暴挙の行動を起こしているのはこの一派である。

ただ、ほとんどのイスラム教徒は熱心な信者ではあるが、慈愛の精神を持ち争いを好まない。
この点が世界に誤解されている大きな点であり、差別を生んでおり、そのことによって偏見から不当雇用や私刑(リンチ)や殺人までを引き起こしている。

由々しき問題である。

岩のドームと呼ばれる金色のドームと八角形の基部を持つ岩の建物が「エルサレム」にある。
ここはメッカの大モスク、モハメットの墓に次ぐ、第三の聖地となっており、イスラムの言い伝えによると、預言者モハメットが奇跡によって天を訪れた、その地点をあらわすという。

ここはまた、ユダヤ教、キリスト教、ソロモンやヘロデ(旧約聖書時代)の寺院が建っていた場所でもある。

イスラエルが首都と主張している都市でもあり、古代イスラエル・ユダ王国の首都で、エルサレム神殿があった場所である。

またイエス・キリストが処刑された地でもあり、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教共通の聖地となっている

このことによって、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の聖地が一箇所に存在することになっており、それら宗教間で、この聖地を奪還し、保有し、守ろうとするために、血で血を洗う争いが繰り広げられた。

現在も戦いと侵略、奪い合いは続いている。世界各国の(主にアメリカの)政治的な思惑も絡んでいる。
【エルサレム争奪戦 イスラム教とユダヤ教の争い】(パレスチナ問題)

宗教の背景としては、イスラム教(パレスチナ:アラブ人)とユダヤ教(ユダヤ人:イスラエル)との領土をめぐる戦いに、キリスト教国家であるアメリカがイスラエルに肩入れする形で軍事介入してることで起こってる。


宗教の争いというよりも、民族同士の領土の奪い合いの紛争に近い。


現在は長い大規模な血なまぐさい殺し合いと戦争が続いた後、膠着状態、休戦状態となっているが、いまだに武装グループ同士の小競り合いや殺人は頻繁に起こっている。

ちなみに現在のイスラエルは80%程度がユダヤ人である。
パレスチナ人(ユダヤ人が居なくなったあと、長く住む。アラブ系イスラム教徒もともと住んでた)
ユダヤ人(2000年前に住んでて、戦争とかアメリカ、イギリスなど政治の混乱のなか戻ってきたユダヤ教徒。約束の地 カナン という宗教的な民族的意識に基づく。故郷?みたいな概念)

現地住民としては、キリスト教はほとんど居なくて、過去にローマ正教による十字軍の遠征での虐殺はあったけれど、現在はユダヤ(イスラエル)とイスラムの領地の主張による戦いである。

キリスト教の介入という点で言えば、国内に政治的な支えとしてユダヤ人が居るアメリカの介入だろうか。

イスラエルに軍事的支援を多額の出費で行っている。
アメリカでの選挙で、当選とか政権維持のために、ユダヤ人の後ろ盾を失くすことができないため、イスラエルに肩入れしているということらしい。

宗教が背景に根強いけれど、結局は各国の政治に利用されている状態。

ちなみに、上記したけども、イスラム教は基本的にユダヤ教やキリスト教に敬意を表していることが多い。

テロはイスラムという図式の解釈やニュースが多いけど、ねえ。
アメリカ寄りのニュースばかりだもんね。仕方ないけど。

少なくともパレスチナ問題では、イスラエル(ユダヤ国家)が一方的にアメリカの支援をもとに、アラブ人領土に侵攻、大型ブルドーザーや爆撃による民家の破壊、追い出したパレスチナ人の住居の再建設を10年以上にわたり拒否している。

現在も、双方の住居へのロケット弾による無差別攻撃による無差別殺人が続いている。
有利なのは、イスラエルかな。アメリカとイスラエルの近代的軍事力が背景にある。

今はどっちかいうと。
イスラム教徒が迫害されて追い出されようとしているということかな。
イスラム教徒(アラブ人)からしたら、おいユダヤ人!2000年前に住んでいたんだ、という理由だけで何で戻ってきたのよ!!

俺たちの家や土地を返せ!

で、なんでアメリカの軍事力も使って奪おうとしてるんよ!
ってことかな。

知られてないかもしれないけど。ユダヤ人によるイスラム教徒へのテロとか虐殺が横行してるんですけどねー。

2000年前かあ。。約束の地に帰ることを民族全体が結束してる。
民族ってすごいよね。

アラブ人が悪だったら映画みたいで簡潔なんだけど。

本来普通の人たちなんだよねー。

そうじゃないからなー。土地を奪い合ってる。お互いが故郷だと言ってる。
イギリスとアメリカとか、実はこの民族紛争を起こした張本人なんだってね。

宗教は根源にあるけれど。こんな争いにならずにすんだんだ。
他国の介入がある前は、現地エルサレムでは何度かの奪い合いのあとにね。
本当は、もっと互いが理解しあって、アブラハムの宗教は、互いに譲り合って暮らして行こうとしていたんだよ。

ニュースがゆがめられて、何が正しいことだったのか、真実なのかかわからなくなってる。
宗教を理解しなくちゃ、紛争は理解できないけれど。
テレビでは問題視されにくい隠された原因をね、もっと分からないと。
国同士の外交が生んだひずみを理解しなくちゃ、なんでも人種差別や宗教差別につながりそうで怖い。

世界中で宗教戦争とか。宗教が怖いと思われてるかもしれんけど。とくに今はイスラム教かな。
実際のほとんどは、一部の限られた過激派が悪いだけなんだけどね。
しかも過激派は、イスラムだけじゃなく、ユダヤ教にも居るし。

現にキリスト教国家であるアメリカも、建国以来230年弱の短い歴史の中で、大小200程の戦争や抗争に介入して、新たに争いを勃発させて争わせてる。

ここまできたら、ありえないな。もはやアメリカの場合、キリスト教という宗教が問題じゃないとしか思えんし。
個人個人の信仰は、優しく穏やかなはずなんだ。どの宗教も。
それが政治に利用されて、紛争を拡大させられてる。


基本的に資本主義国家の利益と、ニュースに操られた国民の偏った世論、政治家とかの欲が生んでる争いなんだ。



宗教や平和を求める祈り、家族を愛して神にすがる気持ち。
そうやって心から生まれた、愛を求める信仰を。

親が子を思い、家族を守りたいと思う気持ちを逆手に取るなんて。
軍需産業、なんとかならんかなあ。。


そういう純粋な思いが、民族ごと、逆手にとられて利用されているだけなんだよな。

ほんと寂しいね。
※ヒンドゥー教の記述にが文章消えてて意味が分からないところがあるので訂正します。
多少の誤字は文章の所々にありますが、訂正が大変なのでそのままでいきます。

×→シヴァは破壊神であると同時に 『訂正追加部分』 は別の肉体を得てこの世に再び生まれてくる、という輪廻(りんね)を信じる。

○→シヴァは破壊神であると同時に再創造神でもある。
ヒンドゥー教徒は別の肉体を得てこの世に再び生まれてくる、という輪廻(りんね)を信じる。

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