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日々の祈りコミュの物事の本質発見記録

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物事の本質や真理、本当の姿に気づいた時、記録としてここに残せるように立てました。

コメント(40)

「アザラシの子供がイノセントな訳」を考えてみた。

僕の部屋の壁には真っ白な毛に包まれたアザラシの赤ちゃんが氷の大地の上で寝そべってる写真が何枚も飾ってあります。

ポストカードをカラーコピーで引き伸ばして張ってるだけですけど。

目が愛らしくて、なんでこんなに無垢なんだろな、と考えていました。
いつも癒されてます。

何年も、仕事で住む部屋が変わるたびに張り替えていましたが、最近ふと気づきました。

アザラシの赤ちゃんの下には、真っ白な氷の大地、上には広い空。
たったこれだけしかないんですよね。
その瞬間、ああ、これだ。。と思いました。

人間は、かくも多くの物と情報の中で生きています。幸せの形すら、複雑ですよね。
欲も多いし。
まるで正反対な生活。

アザラシの赤ちゃんは、体を白い産毛で覆われることでしか、命を守れない存在。
過酷な環境だけど、自然に委ねて生きるしかないんですよね。

空と大地と自分しか無い世界。
イノセント、罪の無い無垢な命以外になるほうが無理なんだって。

人間は、難しく考えすぎなんだろうなと思って、自分にも問いました。

もっとシンプルに、もっとイノセントになれるような気がしました。

無理に理屈で固める必要はないんだな、と。

単純に笑えるように、もっとなれるように思います。
気分が楽になりました。
みちさんからコメントをいただくと、僕も気分が軽くなりますよ。

僕は虫以外何でも食べれる自信あるので、暮らせそうです(笑)
そういう所で生きてる人って素朴で力強そう。

みちさんのおっしゃるとおり、裸で生まれて死ぬということを良く考えます。
そう思うと軽くなりますよね。

人に言うと、それは極論だとか、度胸あるなあとか言われますけど。

多分世間が冷たくなってるだけで、ほんとは人って素朴で暖かいんだと思います。
無理しないと生きれないのって、仕方ないけど無限にループしそうですよね。
寒い冬に温かいスープを飲めるだけで、本当は安らぐだろうし。
複雑な生活して変化の早い時代に付いていって裕福になるのが、本当は辛いと思います。
無理してない人の方がきっと少ないですよね?


そうだ!良いことを思い出しました。
ミクシーのレビューに、僕がコメントを書いた「木を植えた男」という作品があります。

一度レビューから作品を検索して見てもらえませんか?

信仰、あるいは人、素朴な美しさと暖かさに満ちた類い稀な作品です。
30分の短編アニメですが一人の人間が5年の歳月を掛け、手書きのクレヨンで構成して描きたあげたという暖かくて美しい作品です。

観た後にきっと暖かくなりますよ。

他の僕が書いたレビューは、おもしろおかしく書いてるだけなので気にしないでください(笑)
みちさん
もし観ることができたら、感想教えてくださいね。
僕の感想は、僕の人生観と信仰の形を再確認できて、良かった。更に心まで浄化されるような暖かさに包まれたって感じです。
「鳥籠の中のつがい」

動物に愛はあるか という学術書を読んでいて、随分昔のとあるエピソードを思い出した。

10年ほど前、2つほどの県を越えて温泉地に足を運んだ時の事、あるお店に入ろうとした時だった。
店の軒先にサッカーボール2つが入る程の大きさの鳥籠に仲の良い2羽の鳥が居るのが遠めに見えた。
近付いて行くうちに、片方のインコがもう片方の毛づくろいをしたりして、世話を焼き労っているのがわかった。
仲睦まじく2羽の鳥は寄り添うように宿り木に留まっていた。

目を奪われつつ更に近付いた。店に入る直前、鳥籠のすぐ近くまで来て気付いた。
世話を焼かれている鳥は、プラスチックでできた、もの言わぬ模型だった。

僕がすぐ近くまで近寄ると、模型の鳥を庇うように間に立ち、翼を広げ、僕を睨み付け、警戒の鳴き声をあげ、籠の壁面にしがみついて攻撃して来た。

まるでもう1羽の動かぬ鳥を守るように。


滑稽に見る人も居るだろうけど、僕には虚像の愛も、時に真実になりえるように映った。

可哀相で悲しくも映ったけど、全く疑わない鳥の姿を見て、末永く2羽が仲良く居られることを願った。

本当の愛とは?愛情表現が難しいときもある?
大人には事情がある?

確かにそう思う。
いろいろあるんだと思う。

定義を出せば切りがない。

それでも僕は、1羽の鳥に、与え続けるだけの愛を感じた。

もし僕たちが虚像を愛していたとしても、もし愛自体が虚像だとしても、それでも、愛が心の核であっても良いような気がする。

僕は偽善について悩まない。

僕には偽善についての定義すら、些細なこと。

愛すべきものがある時、愛するだけ。
みちさん

僕は、その当時、すでに心の傷から、愛が分からなくなってしまいました。
自分からの愛すら、虚像に思えて、ひたすら怖かった。
だからその鳥に、その時に救われたんだと思います。
まだ怖いのですが、その分、迷いますが、嘘でも本当でも、ありのままの愛情と優しさを持った人になりたいと願っています。

それでも愛されたい、愛したいと願うことは、嘘でも何でもないと思っています。

みちさんの暖かい言葉、有り難く思います。

みちさんの日々の暮らしに心の安らぎと、導きがありますように。
導きに任せることで荷が軽くなりますように。
みちさん

1000の種をまいたとして500しか芽が出ない。
確率とかいう話になれば、打率5割なわけですから凄いですよね。

10に1の確率でも、成功としては高いですよね。

でも、確率(実際の報い)のあるとかないとかじゃなく、黙々と植え続ける事。

これが生きる事なのじゃないかと僕は思います。

祈っても報われない、現実を変える為に働いたが報われない、とか、これは都合良く行かないから思いますよね?

でも、小手先ではない心や祈りは、根底から解決する事ができるのだと思います。

良かれ悪かれ感謝することが僕にとっては大切です。

例えば、もし転んで骨折してしまっても感謝します。
もし、骨がくっついても感謝します。


継続は力なりと言いますが、多面的に見て真実と思えたエピソードを記します。

真実は一つでもなく、一つの側面だと思います。
何にでも安直に答えを出したがる事は軽率であり、人の争いを生むと思います。

白か黒か?とか…
宗教間の争いとか。

ですので、なるべく僕が書くエピソードはほんの側面か、物事の一面だと思ってください。

救いがありますように。
「継続は力なり」

高校が水泳部だった。
伸び悩むタイム、過酷な練習、体の故障。
厳しいを通り越して、自分の名誉のと地位の為に部員をしごき、殴る顧問。

最低の人間だった。人道的差別を平気で口にする人。暴力も。
今なら大問題だ。

僕も随分ひどい扱いを受けた。
もう一度会いたいか?と問われると、本心から結構ですと言えるし、そう言ってきた。


前フリは長かったけど、表題の「継続は力なり」は、この顧問の先生に、水泳選手を引退する時に色紙でいただいた言葉だ。

3年間やり遂げた。今でも深刻なスポーツ障害を残すくらいに。

この言葉は、何かものごとを継続した時に、スキルや経験値として、力になるという事だと最近まで思っていた。
つまり忍耐強くなれることや成功とかの成果に結び付くのが継続だと。思ってた。

でも、この言葉の意味に、もう一つ、何気ない側面を見つけた。

僕には学生時代から下校中に通っていたラーメン屋がある。

辛い時、悲しい時、嬉しい時、そこへ通った。

15年後も、そこはお気に入りの店だった。

栄養たっぷりのその店のラーメンを食べる事は、ヨシ体力を付けて明日から頑張るぞ!という時に食べる事が多かった。

同時に、数少ない安らげる場所だった。

最近また行った時、懐かしい味と共に昔の記憶が蘇った。
何故かほっとして、懐かしく、頑張るぞ!という気分になった。

その時、気付いた。
これが継続は力なりの、もう一つの意味か…と。
何気なく続けてきた物事や、思い出や、生きてきて積み重ねた軌跡は、心の安らぐ場所だったり、心に活力を与えてくれたり、心に力を与えてくれるんだなと。

もし貴方が、昔からよく通った公園とか、習慣にしている物事があれば、もう一度、感謝してみてください。

継続して行う事がないなら、ぜひ作ってみて下さい。

きっとそこには心の支えとなる力が宿ります。

継続は力なり。

大きな事をしなくても些細な事を続ける事、何気ない優しさや、労り、笑顔を重ねる続ける事は、きっと貴方の心の力になると思います。

継続すること自体が力。
結果が伴わなくても、即席で効果が無くても答えが出なくても、継続は、力です。

笑顔と、小さな幸せと、祈りが積み重なりますように。

貴方に幸せが訪れますように。
みちさん

僕もこの話を読んで導きで採用が無かったと思います。

僕は26歳でもう一度、学生になる機会があり、なりました。
でも実は25歳で学生になれるはずでした。

お金の面とかでですが、一年ずれてしまったわけです。

その間、せっせと派遣社員としてIBMの工場に働きに行くことになりました。
24時間稼働の3交代制、作業も辛く苦労しました。

寮に住み込みをして、マンションの一つの部屋を3人でシェアして、人間的にもイザコザがあり、苦労しましたが僕が周りを明るく誘導して、みんなよく笑ってました。

でもその経験が実は胸を張れる経験となり、僕の職歴に加わりました。

今はその職歴と経験を面接で語るのでとても有利に転職活動ができています。

工場で勤務中に途中で、これで良いのか?みんなよりさらに出遅れてしまった…と悩みましたが、不思議なエピソードもあり、迷いを吹っ切り、翌年に入学しました。

入学した先では人生の恩師となる3人の先生方、そして掛け替えのない生涯の友を得ました。

その先生方も友達も、一年ズレていなければ、出会えなかったのです。

遅れるには理由があるようです。
少なくとも、僕は余分に一年間勉強と経験を積めました。

次にその時のエピソードを紹介しますね。
「一陣の風と朝顔」


IBMで働いていた時、住み慣れない町で、学費を貯める為に働いていました。

働いて数か月、夏になりました。

その頃、僕は落ち込んでいました。
学生になると決めてからお金を貯める為に5年が経ち、お金の面で一歩及ばず更に1年間働く事になりました。


年齢的に同年代より出遅れているにも関わらず、更に1年…

内心焦り自分の無能を嘆き、悩んでいたのです。
そんなある日の事、昼勤の為に14時から工場に向かいました。
その日は15時から23時までの勤務でした。

いつもの様に工場の敷地に入り、とぼとぼと下を向いて歩きました。

その頃、めっきり下を向いて歩く様になっていました。
人前では明るいものの、一人の時は心が暗かったのです。

無風の暑い夏の日でした。

これでいいのか?と悩みが頭をよぎりました。

その時、風のない日にいきなり突風が吹き、頭上の木の枝を揺らしました。
ハッとなって上を見上げました。
久し振りに空を見上げたな、と、いきなりの突風に驚きながらまた歩きました。

いつも早出の勤務の時は朝顔が綺麗に咲く垣根の横の道に出ました。100メートルほど朝顔が続く道です。

しかしふと、一輪の朝顔が目に止まりました。
朝顔が一輪、強い日差しの中に力強く咲いていたのです。

見た時は、馬鹿な間抜けな花に思えました。
ズレて昼に咲いてるなんて、と。おかしくて吹き出してしまいました。

でも、しばらく見ているうちに咲き遅れてこんな暑い時間に、みんなが萎れてても咲いてる朝顔が綺麗に見えてきました。
よく見渡してみると数百ある他の花は全て萎れている中で咲いていたのでした。

なかなか見上げた奴だ。遅れても一人でも胸を張って咲くとは。

その時、ハッと気付きました。

急な突風で上を向いた事、一輪の朝顔…

朝顔は、僕に似てる?顔を上げて歩けと?
胸を張れと…?

しばらく立ちすくみました。
励まされた様に感じたからです。

僕はその日からそれまでの迷いは消えました。

僕は遅れてなんかいない、今が僕の咲く時間なんだ。

この朝顔に僕が救われた様に、僕に救われる人も居るに違いないと。

心に明るさを取り戻したのでした。

そんな夏の日がありました。

導きの光が貴方の道を照らしますように。

迷いすら受け止めて、愛せますように。
みちさんも、継続してることで、何か特別な喜びを得る生活をされているんだと思います。

日々、なにかと救われることがあります。本当に感謝しています。

僕が子供の時は、色々とごたごたがあったものですから、小学生の頃から学歴社会に対して疑いを持ち、必要な勉強なら自分で探して勉強してました。
学校教育でも必要ないものは余り熱心ではありませんでした。
当然、低学歴な訳ですが、今は良かったと思っています。

学歴以上に、僕は人徳を積んできました。と言うことができているからです。
少々のお金や、待遇で、僕が不正を行ったり、裏切ることもありませんし、ビジネスの根底には、人徳や道徳、武士道精神のようなものが必要だと、伝えることが出来るからです。
生きてきた生き様や、軌跡を面接では、お話できます。

学歴が高い方のみを採用する方向は今でもありますが、それは確かに良い方法のように思います。学歴の高い人は、優秀な人材である確立が高いからです。

しかし、最終的には経営というのは、心があるかないか、という点に至るようです。

会社の管理職や、代表取締役といった重役の人に必要なのは「心」であるようです。
人徳というのでしょうか。。

勉強が出来て仕事が出来るだけ、という人は、立派な社会人ですが、中間管理職止まり、ということが、現実には多いそうです。

偉くなることが全てではないと思いますが、きっと、学歴や企業での出世以外の、暖かい心や、広い見識、差別の無い判断基準などは、学業と同等に吸収するべきなんでしょうね。

僕は転職活動でも、応募資格で「大卒」とあっても、躊躇なく履歴書を送ります。

大卒ではありませんが、大学というブランドよりも僕は個人ブランドがあると自負しています。と説明します。

当然、書類選考の時点で落ちる確率は高いですが、規格の年齢上限や学歴に関係なく、面接まで進み、受かる事もありましたよ。

でも、当然、大卒の方よりも給料は低い設定が多いですが^^

それも一概ではありません。

面接では堂々として、普段どおり人格の部分を伝えるようにしています。
いつも威風堂々としていたいですから。

朝顔のこと、僕の心の中の綺麗な部分が、その光景を拾ってきてくれたんだと思います。
僕も、綺麗な心以外に、憎しみや憎悪というものを抱える普通の人間です。
自分の心の中の綺麗な部分に感謝します。

あの一輪の花のような奇跡にも似た体験は、普段からすごく多く体験しています。

迷いや、心の苦しみがある時は、その時々で導きがあるように思います。

たとえば、夜、星も見えない程の分厚い雲が2つに分かれて、一本の道ができ、そこから月が覗き、光のカーテンを作ったり。。とか。

月の光が作る、光のカーテンなんて滅多に見れないですよね。

とても、綺麗でしたよ。

奇跡を見ないと人は神を信じないのか?という事を、言われますが、若干そうであっても、そうでなくても、綺麗なものを目の前にすると、これは奇跡か救いなのか?と心が洗われる気分になるのは確かです。

奇跡は案外、身の回りに溢れていますよね。
太陽が昇って暖かさを感じること、月が綺麗に見えること。
当たり前な事として見てるもの全てが、すでに奇跡なんですよね。
みちさんも、そう感じておられるように思います。
みちさん、初めまして。ひろさん今日は。日中は慌しいので、駆け足で、皆さんのトピを読ませて頂きました。

みんな、一生懸命に日々を過ごしていらしゃる・・・。
素敵ですね。

私は、自身の日記に書いてしまったのですが・・・人に愛を与えるのであれば、例えそのことで、人に嫌がられても、怒られても構わないのであれば、しなさいと厳しいアドバイスを頂きました。

確かにそうだと厳しく反省しました。

人の心、内面に関わるという事はその人の魂に触れる訳だから、中途半端では、相手を傷つけるだけです。

捨て身になってやれるかどうか?そこが、キーポイントですね。

残念ですが、私はまだまだ守りに入る事の方が多いです・・・。

人と表面的には、普通に喋っているようでも口の中がカラカラになっています。
まずいなっと自分で、気がつくのですが、体は正直なんですね。

今、ちょっとうろ覚えなのですが、確か聖書に自分が右手で人にした良い事を左手に知らせるなというような、ことが書いてあったような気がしました。

要は自分がした良い事はさっさと忘れろという例えなんですけれどね。

みんな、自分がした良いことはしっかり覚えているくせして、人からしてもらった良い事は忘れてしまって、不平不満が募る・・・。

みんな基本的には、自己中ですから、私は自分を気をつけていないといけません。
みちさん 七時雨さん
とても良いお話をありがとうございます。

魂を輝かせていられる様、日々感謝しつつ暮らして行こうと思います。

神の愛がみちさんと七時雨さんの心を照らします様に。
ひろさん今晩は。

私も、本当に最近ですが、また祈りをはじめました。

祈るといっても、本当にわずかだったりですが・・・。
熱心に祈った時もありましたが、今は何かの合間にちょっとだったり。

今、祈る内容は自分の心の中に醜い考えが出てきた時に、主に向かってごめんなさい、許してくださいと祈ります。

今年に入ってから、このままではいけないと決心して、また聖書通読を始めたのですが、最近、過去に覚えていた聖書の御言葉が、ぼんやりと浮かんでくるようになりました。

ああ、あの時は嫌々読んだ事もあったけれど、けして無駄では無かったと思える今日この頃です。

なんか、ようやっと長いトンネルの出口から抜け出せて、主の愛という感触をつかめてきているような感じがします。

ひろさんにも、沢山の主の祝福と優しい時間が流れますように・・・。

ところで、広島でのグルメは見つかりましたか?(笑)
私も、修学旅行で行った事があるんですよ〜〜。

もみじまんじゅう、名物だよね!
七時雨さん

広島は13日に初上陸なんですよ!予算の都合上、町歩きはできても食べ歩けない!あーあ。

と、それはともかく、主と語り合える時間ができて良かったですね。
嫌々読んでたのは辛かったでしょ。
あれは教え込まれるものじゃなくて、求める方が自然ですよね。

ご飯うまかった!って時に祈るのとかを、ささやかに積み重ねることも重点置いてみて下さい。
経験則からの意見ですが、より簡単な感謝の祈りの積み重ねの方が、深く熱心な祈りであると思います。

「うまかった!ありがと!」のほうが、深いテーマや長い祈り、善にまつわる祈りや、懺悔の祈りより、深いと思います。

あくまで個人的な意見だけど。

気楽に気軽に何度でも祈れるし。喜怒哀楽に直結してるほうが、ありのままでやりやすいけどねー。

普段の僕の場合は感謝の祈りが99.9%で0.1%が懺悔と救いのお願いする祈りですね。
1000回の感謝と1回の願いかな。
うん、そんな割合だわ。
祈る時間は超短いし。
大体2秒ほど。
長くて30秒ほど。

死んでしまえ!とか思える相手が居る時は、しっかりと怒って死んでしまえ!!!と心で叫んでから、そんな人でも救われます様にと祈ります(笑)

どんなにダークな気持ちが湧き出ても否定しないし、ありのままです。
もちろん自分を責めません。神様に懺悔することがすごく少ないですね。罪深いとも思ってませんし(笑)自分のことを小羊だとも思ってませんから。
こんなふてぶてしい羊は居ません。
例えるなら野良犬で充分です。
それでも、僕は愛が溢れてます。
分かち合う幸せが信念ですから。
ああ、そういえば・・野良犬で思い出した。
僕にも愛を求めて魂が彷徨ってた時期がありまして、24歳の頃、荒れた生活の中で出会ったエピソードがあります。紹介しますね。
今でも彷徨ってるのは変わらないとしてもですが(笑)

夜のバイトで学費を稼ごうと苦戦してた頃です。ホストクラブの皿洗いしてた頃です。厨房担当なのに接客とキャッチにも駆り出されまして(笑)毎日へべれけでした。

朝もやの中、始発で帰ろうとしてる時、浮浪者の男と野良犬を見つけました。その人達が立ち止まるので後ろを歩いていた僕も止まりました。

その人が一切れのパンを半分こして犬と食べたんですね。

犬がまたすごくうれしそうでね。
その時思いました。上流階級の人の飼う犬と変わらないものがあるなと。
犬にとったら飼い主が貧しいかどうか?なんて絶対に関係のないものなんだろうなと。

二人?でニコニコしながら食べるんですよね。犬も人もほんとに喜んでて、なのに20秒くらいで食べ終わっちゃって、何ごともなかったかのように、また寄り添って歩き始めたんですよ。

自然なんだなと。

僕が心から欲しいと願い続けてきた理想の食卓が、ゴミの散らかる朝の路上にあったんですね。

ああ、あれが愛だと。探し求めてたものなんだなと。

なのに僕はこんなに彷徨ってて・・と、犬との対比に愕然としましたよ。
その時、心から羨ましくて、同時にすっきりしました。

あの犬の飛び跳ねて喜ぶ姿、浮浪者の笑顔、忘れられません。

偏見も見栄も苦しみでさえ、なーーんも関係ない光景。

愛を与え合い分かち合う姿。

心に染みました。
優しさをと愛を与える時、押し付けがましくないか遠慮がちに僕は接します。
でも、常に魂のままで、相手に向き合います。
それが犬でも浮浪者でもセレブでも、自分自身であっても。

僕にとってあの路上での出来事は、魂の救いでした。

毎日胃が荒れ、血を吐いてた時、それこそ血が出るほどに求め続けた愛情に飢えた自分が見た、真実の愛でした。

僕に信仰や愛についての迷いはありません。
むしろそれまで迷いとしてきたことの大きさは今も変わらないのかも知れませんが、針の先ほどに小さく感じられる様になっただけかもしれません。迷いの大小なんてあってないものと、今では等しく大小を裁くこと無く向き合えます。

愛は一切れのパンの中にぎっしり詰まってるんですね。
ひろさん今晩は。犬と浮浪者の話し素敵ですね。その時の光景がひしひしと伝わり、目が潤みました。

私も、犬や小動物が大好きです。家には2匹いるんですよ。(小動物)
動物は裏切りません。純粋です。

ひろさんが愛に飢える気持ち、私も解ります。私も満たされない気持ちがどこかにあります。

いつも不安なんです、どこかが。信じ切れないというか・・・。

だから、神様の愛って何なんだろう?どうしてみんなそんなに喜べるんだろう、一体何がそんなにうれしいの?という気持ちが今のいままで私を神様につなぎとめているんですよ。

でも、クリスチャンになりたての頃は人に勝手に御言葉が書いてある手紙なんかを送りつけたりしてしまって、今考えるとすごく、失礼なことをしたと思っています。

だから、現実ではクリスチャンであることは伏せています。

宗教と思われるのも嫌だし、クリスチャンといってもみんな、それぞれ価値観が違います。

同じ教会で洗礼を受けた姉妹、友達もいましたが教会生活や信仰の考え方の違いで、友達じゃなくなってしまいました。

こっちも頭にきたし、言いたい事も沢山あったけれど相手はもう聞く耳ないのね・・・。

何をいっても、無駄だと思ったから最後は黙った。

後は、やっぱり今までの思い出があるからその人の顔を思い出す度に、憎たらしいと思うのも嫌だったから、いままでありがとう、感謝してることは忘れないでねと伝えたの。

私もそうなんだけれども、人って仲が良いときはいいけれど、いったんこじれると可愛さ余って、憎さ100倍っていうところがあるでしょ?

そういうのって、哀しいよね。(私もそうだから偉そうなこと言える立場では無いんだけれど。)

じゃあ今まで仲良くしていたのはなんだったんだろって・・・。

人間はどこまでも、心は綺麗でマザーのようにもなれるし、とことん汚い生き方も出来るよね。

もし、あなたはどっちを選択しますかと言われたら私は迷わず善な生き方を選びたいですね。

最後にひろさんがこれからも幸せを沢山感じる事が出来ますように。

体を大切になさってくださいね。新しい環境に早く慣れますように。沢山の素敵なことや、素晴しい出会いや多くの喜びに満たされますように・・・。

一生懸命に生きてるひろさんに主の祝福が沢山注がれますように・・・。アーメン!
七時雨さん

ありがとう。
僕も同じように苦汁を舐めてますよ。

宗教と宗派が違えば敵だと見られる事も多いですね。

同じ教会でさえ、信仰に対する違いで溝は出来ますね。

そういう悲しい事は神様も悲しんでいると思います。
ところで僕は宗派の違いに身を置いていません。
決まった教会に通い教えを受けていないと危険である、聖書の解釈に歪みが出来る。
つまり異端になると危惧される事もあります。

でも答えは出ています。
聖書は要約すると、愛だからです。

あくまで個人的な意見ですが、人同士が傷つけ合う事に正義と愛があるとは思いません。

宗教の垣根は高いですね。溝も深いです。
でも人の命に差別を付けることが悲しいです。

人には温度差もあり、違うタイプの迷いと悩みもありますね。
もちろん無宗派の人や他宗教の人にも相容れないものもありますよね。

このコミュニティでは、どんな宗教の方でも、前向きな愛について祈れる場になってもらいたいと思っています。

これからも共に祈りを行いたいですね。
よろしくお願いします。
今回は草花を育てる趣味からの発見を報告しますね〜。

「球根」

球根を自発的に植えるのは初めてだったんだけど、スノードロップという冬に咲く球根を植えました。

2月に芽が出て花が咲きました。写真を参照ください。これが一面に咲き乱れると、本当に雪が降っているように見えるんだろうなという感じです。
一輪だけでも、可憐ですよね。

丈は高さ10センチほどの小さな草花です。

夏に咲くなら他の草木に埋もれて生きていけない事を知っているようです。

こんな小さな花でも厳しい冬に咲くことで、命を輝かせているんですね。

反対に、地面に草木が生い茂る春や夏には球根になって地面の下でしたたかに生きています。
小さな花の生きる知恵に感動しました。
寒さに耐える勇気があれば、光を奪い合わなくても生きられる。
球根で増えるということもありますが、虫の居ない冬に、見る人の心を和ませる花を咲かせてくれる、この花に感謝です。
咲く必要無いんですけどね。きっと咲きたいんでしょうね。

厳しい環境だからこそ、咲く意味があるよと教えてくれる花です。存在感ありますよね。

僕達も背伸びして、厳しい競争世界で生きていますが、案外栄養分と光の多い所を奪い合ってるだけなのでは?
競い合う事も立派な生き方だけど、視点を変えると、夏の草木と同じなだけですよね。

草と僕達は何も変わりません。

生き残るためなら、蹴落とし合いをしたり、競争に強くなること以外でも生きれそうな気がしました。

プライドと物欲を優先すると、夏の方がいいとは思います。
世間の常識のような資本主義ですが、実質は、人のタイプ別の問題ですよね。

花に学べるところと言えば・・
会社に例えると、冬の時代だからこそ、チャンスだと思える経営でしょうか。
人生に例えると、厳しいときでも、肩肘張らなければ身の丈に合った幸せが、自然に受け取れるという感じかもしれません。

学びを度外視してみても、こんな風に和める存在って、やっぱり見ててホンワカしますよね。

咲いているところを見た時に気分が安らいだので、僕もこんな風に人の安らぎになれればいいな、と思いました。

光を分かち合う時、無理に分配しなくても、自分が光を受け取れる場所へ目を向けられますように。
なぜ僕がそこまで愛が絶えないと言い切れるのかについて

心の底まで行った事があるからだと思います。

僕は十年前、当時薬物中毒だった、ある仕事仲間に事故に見せかけ、何度か殺されかけました。それまで理不尽に職場でいじめにあいました。子供の頃にいじめにあい続けた過去が甦りました。それは言葉に出来ない程の恐怖でした。それでも耐えていたのですが、その人が流す事実無根の悪い噂の為に窮地に追いやられ、そんな日々が3年続きました。
ある時、辛い仕事の為40℃の熱を出しながら休まずに何日も続けて働いていました。一日でも休んだり、病院に行けばクピにすると言われていたから休まなかったのです。それは一度や二度ではありませんでした。日常だったのです。だけどある時、ついに倒れ、緊急入院しました。扁桃腺が腫れ、唾を飲み込む事もできず、口も塞がらず、涎を垂らしたままでした。食道は全て塞がり気管もほぼ塞がってしまったのです。息が出来ず窒息して白目を剥きました。舌は上顎にくっつき、話す事も出来ませんでした。
点滴だけで2週間の絶対安静。
それでも無理を言って3日で退院しました。

退院した僕はクビになっていました。

僕は我を忘れ殺意を覚えました。
僕がキレたのは後にも先にもあの時だけです。
殺そうと決めた時、体は喜びで震え、声に出して笑いました。すごく気持ち良かった。楽しくて仕方がなくて開放された気分でした。

だけど結局は暴力を振るわず殺しもしませんでしたが。
相手は僕から逃げ回ってました。走って逃げて行きましたよ。よっぽど怖かったんだと思います。
自分の心にも闇はあるのだと、知ることが出来て感慨深く思いました。
きっと誰もが持ち合わせている闇の部分なんだなと、冷静に思えたんです。
しばらく憎しみに支配されました。3年間くらいは、普通にためらわずその人を殺せたでしょう。
8年が過ぎた頃、仕事で再会しました。
なぜ殺さなかったのか?それは自分の憎しみと闇と向き合い、祈り続けたからです。僕は同時に、その人に対する愛情も否定しませんでした。
闇を克服したのです。
そして愛が勝りました。愛は全てに耐え、その人と自分を許したのです。
再会してから半年後、その人の人生相談まで受ける様になり、涙を浮かべて僕に悩みを打ち明け、心が軽くなった、本当に有り難うと話すその人の姿がありました。

僕はもう、どんな闇と向き合おうとも、闇に呑まれないと思います。

愛は全てを許し決して絶えません。
『愛とは?』

愛とはなんですか?と聞かれると、十人十色な答えが返ってくるだろう。でも、多分これ・・とか、絶対こう!とか、一つに答えを絞って答える人が殆どだと思う。

僕の場合は・・・

愛は沢山ありすぎると答える。極端に言えば、不倫の愛も愛の一つだと思う。異論ある人多々居そうですけどね。
良し悪しを、言うのではなくて、種類とか形が沢山あるね〜と思うんですね。

飢えで、倒れている人に、「はい、これはパワーストーンです。これには愛が詰まってます。どうぞ^^」
とあげても、たぶん、その人は死を待つだけですね。

でも、石の中にも、砂粒の中にも、愛は在ると僕は思います。

必要な時に、必要な物を、必要な人に。

そうでないと、時に愛は凶器にもなり得る。

悪循環と寄付依存を生む、寄付。愛はあるのに傷つけてしまう。

僕は、過去に2回、神の声を聞きました。謎掛けのような言葉。いまでも探求しています。
その一つが「真実を探し追い求めよ。理論ではなく体当たりしなさい」というもの。

不思議な事に、厚い雨雲が自分を中心に割れ、一筋の光が体に当たり、そして、自分の周りから、光が広がっていきました。

それは水泳部時代の最後の一日の出来事でした。水面はキラキラ光り、天を仰ぎました。また、他でエピソードを書くことにします。
不思議な事ってあるもんなんですね。

話は逸れましたが、愛の形、真実の形。
今、自分の中で、そうだな?と思うこと。それは、いくつもの形があるということ。

例えるなら、一つの葉っぱが、一つ真実だと思います。葉っぱが真実で、それを形成する木も真実の形、木は森を形成しています。

葉っぱは増えます。枝を張り、新しい命が増えていきます。
それが、愛のような気がしています。

森の木々は、恵みを与えると同時に光を奪い合い、木々の下には光の届かない、植物にとっては死の世界が広がっています。
あさましく奪い合うもの、それも恵みの本質。
理解しやすくて、良い一面だけが、真実ではないと理解できたとき、深い愛を感じる今の自分を形成してくれました。

これは、僕にとっての愛の形、真実の形ですが、盲目に愛にすがることもなく、ただありのままに感じることができる、大きな助けとなっています。
犬がいっぱい喜んでくれるといいですね^^

犬の世界でも、ちやほやされて甘やかされて育った子は、どうしても、わがままっ子に育つようです。

痛みの解る子は、犬でも一緒なのかもしれませんね。

命は平等じゃなくて、不公平だけど。
魂は、気高く生きれたり、優しさに溢れていたり。

やっぱし、どんな命でも生活の豊かさが大切なのじゃなくて、心が豊かかどうか?ですよね。

犬やネコを見てると、しみじみ思います。

愛情。たっぷり。

出会えた犬によろしくお伝えください。元気で居てねって。
太陽の光の速度が、一定ではないことに気づきました。

おそらく100年後かそれ以降の時代に証明されると思いますが、光は自らの速度を変えることができると感じました。
もちろん重力や要因によって屈折したり曲がったりもするけれど、それだけじゃなく。

光が自身で緩急をつけているように感じます。それは光の速度としては、ほんの小さな変化だけど。
密度も変わり、波打ちます。明滅というか、変化しています。

逆向きに同じエネルギーが存在し、一方向だけの光ではなく感じます。反射するから逆に向くという性質だけでなく、もともと逆向きの性質を備えつつ一方に流れていく。

また、可視光線以外の光として、同質のものが存在することを感じました。
エックス線とか、そういうものでなく、見えない光があり、光として存在することを感じました。

お告げとか、科学、宗教でもなく、この目が感じることですので、なにも証明できませんが。

自分の目は、最近、光のグラデーションを感じるようになりました。
それ以前で言えば、太陽が13年に一度の黒点の活動変化のある日にも、光の異変を感じましたし。
今年で言えば、香川県の渇水、異常な暑さ、日照りなど、気象に関わること。
地球の60年に一度の周期の変化なども、光を通して感知できました。

そういう意味では常人離れしている、目の感覚ですが、感度というか、それは確かなようです。

科学では証明されることは遅くなるかもしれません。
ただ、僕らが見ている可視光線や、ランプやネオンの光というものは、非常に弱い性質を持っています。
光自身に意思があるように、自ずと変化する速度と密度。一定では無い自由に遊ぶような光があふれています。
音の余韻を聴くとき

音の終わり際の余韻

人々の耳は本当は音の鳴り始めではなく、余韻を愛している

交響曲を聴くとき、一つ一つの音の余韻を聴いてみて欲しい

重なり交じり合ったその先の かすかな余韻が残すメロディーを


みんなで楽しい食事をした後の 思い出す時の余韻
あれが美味しかった あの時のおいしそうな顔
そうして 語り合う時が 一番料理を味わっている時

心に繰り返し映る景色を その喜びの余韻を語り合う「時」
その時が本当に楽しい 分かち合える幸せ 形のない 心と心が合わさる時


余韻が愛しく思えること

音楽も食事も人生も同じで

心にリフレインするかすかな余韻を 味わって 初めて息吹を感じる気がする 

あなたの声は 言葉は 人の心に美しい余韻を残しているだろうか

わたしは余韻を心に放ち 留めている時間を持ち合わせているだろうか

消え行く音を 交差する余韻を 音の全てを楽しむように

ほとんどの耳は 断片しか聞かない 

空気を震わせ 共鳴している音の終わりを愛してみよう

聴いたことの無い音の世界が拡がるはずだよ


音が音で無くなる瞬間 静寂に溶け込む旋律を

真に溶け合うために 音は踊る 



音階を持つ音たちが その音階から解き放されるとき

音は 真に美しい足跡を残す
無限の愛を求める私たちが、なぜ無限の命を持たないのか。

それは悲しみや痛みを積み重ねることから解放されるため。無限の世界の一部にしていただくため。
そして幸せというものを、次の世代へ分かつため。

幸せを、分かつために。

そう考えると、すべてに納得がいく。

永遠でないことには訳がある。

すべては分かつ為に。
害虫といわれたり、嫌われ役の昆虫さん達をみていて。



例えば....蝿さんぴかぴか(新しい)


今日、フキを茹でていて気がつきましたぴかぴか(新しい)


彼はフキには寄ってこなかったぴかぴか(新しい)


でもそれは見ていて、何となくだけど、単にフキを嫌っているからじゃなくて


近づく必要がないから、フキのトコロに来なかっただけ


自然界の動物達は、皆自分の役割をわかっていて


自分達の使命を全うしている様な気がする


そう思うと、害虫と呼ばれている虫達や嫌われ役の動物達も頑張ってるんだなって、愛しく思えたのでしたあっかんべー

いきなりハ◯の話しでゴメンなさいハート
rumiさん

わたしも同じように感じて、そう思ってますわーい(嬉しい顔)

感謝ぴかぴか(新しい)
本当の純粋さ


もしかしたら、きっと。

純粋さって、無色透明じゃなくて。

陽の光のように、一色だけど七色に広がるような。


そういうもんなんじゃないかなって。思いました。

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