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邪馬台国コミュの簡単な私見

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まったく頭をさらにしてグーグルアースで倭人伝をなぞったら、有明海沿岸の筑紫平野、佐賀平野に行きつきました。水行の下り以外はきれいに国々がおさまったつもりです。ぼくは水行陸行の下りは帰り道の記述だと考えています。邪馬台国についた。そして、そこから帯方郡へ船で10日、陸路30日かかった。奴国の南にあった投馬国へも使者は行った。邪馬台国と同規模の同盟国だからバランス考えて訪問。そして投馬国に至る。そしてそこから20日船で帯方郡に帰った。
行きは博多湾に上陸して福岡筑紫平野を威厳を振りまきながら歩き伊都国経由で邪馬台国へ到着。そして邪馬台国についたら目の前に有明海。この海から直接帯方郡に帰れるか・ということで帰りは有明海から直接帯方郡へ。半島は大きいから帰りは大丈夫。でも半島から有明海は地図でみればわかるけど入り組んでてて地元民でないと公開は難しい。
邪馬台国からはいったん半島でおりて陸路で帰った、もしかして遭難したかもですね・そんな風に考えてます。

コメント(43)

はじめして。

私は日田に住んでいるのですが、日田が不弥国と私も以前考えた事もありますが、今は、鬼国かなって思ってもいます。笑

私見、日田は台与の国ではと思っています。



伊都と奴国をどこなのか?これが、結局重要で通説では面白くないので、私は、


最近、伊都は今の伊都から佐賀平野を含んだもの?

奴国は福岡市から大宰府から夜須まで含んだ??

まったく意味はないですが・・笑


魏の使いは、伊万里から佐賀へと動いたんじゃないと思うーー通説では面白くない



やっぱり邪馬台国は筑後川の南岸の「みのう連山〜八女」でしょう!!!



『魏志』の道のりは、7年前に、あきらめましたが・・・。結局わからないです。はい。



日田は九州の河川ネットワークの中心で、景行天皇も遠征の時に築後から日田へ行き、そのまま宇佐方面に抜けていますね。日田を抑えると、中津宇佐平野に山国川にそっていけて、直方平野、大分平野にも抜ける。逆に、日田を敵にとられると、筑紫平野の勢力は背後に敵軍が常在するようになり、致命的です。軍事的な要の地。交通の要の地。しかも木材を筑紫平野に、筑後川をつかって簡単に運べる、日田はとてつもなく重要な地ですね。だからこそ1000家しかないのに、わざわざ記述される不弥国なのだと。また朝倉平野の東の端から山をへだてて真東に百里のところに日田盆地はありますね。

写真は赤線が川の僕の比定する邪馬台国と周辺の国々です。日田に河川が集中しています。
倭人伝に立ち返ってみると、昔から倭人伝の資料性や科学性を著しく低めているといえるのが、曖昧な里数の表示です。

当時の標準的な里はおよそ400mとされていますが、帯方郡がソウル付近だったとして、そこから狗邪韓国(プサン付近)まで7000里(2800km)というのは明らかに多すぎます。
海路だったために正確な測定が不可能だったとしても、この数字がどこから出たかというのは大きな謎ですし、そのために「短里」などというものが考古学者によって「考案」されたこともあり、今日まで多くの議論を呼んでいます。
さらに、狗邪韓国から対岸のマツラ国までを3000里(1200km)としており、これも実際の距離(九州北岸まで最短で210kmほど)に比べて著しく長くなっています。
恐らくですが、「二日順風で進んだら1,000里」程度の、大まかな計測法を用いていたのだと思われます。

九州上陸後も、マツラ国からイト国までは東南方向へ陸路で500里(200km)とのことですが、これだと日田を通って別府湾あたりまでつき抜けてしまうことになります。当時は一日ゆっくり歩いた距離をおよそ30里(12km)と数えていたようなのですが、イト国までは二週間以上かけて歩いていたのでしょうか?
一ついえるのは、イト国からナ国、ナ国から?フミ国までの距離を100里(40km)としており、少なくともマツラ国からイト国までの1/5程度の距離だったと考えていたということです。

さらに、帯方郡から邪馬台国までの距離を12,000余里としていることから、マツラ国を経由していたとして、マツラ国からは,000里程度、つまりマツラ国からイト国までの4倍程度の位置にあったと考えていたことが分かります。
数字が抜けてました。マツラ国から2000里程度、ですね。勿論これをそのまま800kmとするわけにはいきませんが。
ありがとうございます。問題の奥深さに気づかされます。
里程のおかしさをおいておいて、倭人伝の帯方郡から半島までの7000里というのと、半島から対馬1000里、というのは地図上でみると同じ縮尺のような。そうするとその縮尺で博多湾から大宰府まで東南い500里なのですが。その縮尺だと一里が何キロか次の休日に。
伊都国に必ず半島からの使節が立ち寄るというのは上陸地点から歩いて半日だからいったんそこで宿泊するということかなと。
一般の邪馬台国議論は、人間の行動としてそんなことをするだろうかというのが多すぎるような気がするのです。
>>[009]

大体四分の一から五分の一にすると計算が合うようです。ここから西晋時代に、もしくは三韓では「短里」という単位が使われていたのではという仮説を唱えた学者もいますが確証はなく、学界で認められるものではありません。水増し報告に基づく数字と考えた方が無難でしょう。

この他、女王国から東へ千里海を渡った所に倭人の地があり、倭は周旋五千余里という記載もあります。
これを狗邪韓国から女王国までの距離とする説も有るようですが、周旋の意味をそのままとるなら、マツラ国→女王国→東の倭地→マツラ国で約五千里と考えられます。
この場合、対馬や壱岐は倭地とは別物だと考えることになります。女王国の南にある狗奴国も含まれないかも知れません。

女王国が九州だとするなら東の倭地は四国の西海岸となり、畿内説ではうまく説明できません。包囲を90度ずらせば隠岐島あたりでしょう。
九州説をとるとして、本州島に関する記述が見られないのは、その方面の情報が欠落していたからでしょうか。
東の倭地は日向神話ではワタツミ国がこれに当たると考えられます。
なるほど、里程問題とはそういうことなのですね。
ぼくは宇佐中津に住んでいましたが、あそこから目の前に広がる豊後水道の海をみるとですね。実感として、この海の向こう、まっすぐ東方にいくと周防あたり、というのがありました。海の向こうは四国という実感はありませんでした。海の向こうは四国という感覚はふるさと大分湾、臼杵湾で感じました。国東半島の北と南で海の向こうの感覚ががらりとかわりました。
宇佐あたりが女王国の勢力の東の端だとすると、その海を1000里で想定される東の陸地は、生活感覚のなかでは四国ではなくて、周防あたりです。
そう比定するとその南の島が四国ということになるかな、などとかんがえてます。
 魏誌倭人伝を解釈する際に留意すべきは、そこに記載されている数値はどこまで信用できるのか?だとおもいます。

 中国の1里は500m、魏の1里は430mだとしても、対馬や壱岐の距離は出鱈目になります。
 但し1里を100mとすると九州から朝鮮までの距離を高度な測量技術で測ったことになります。残念ながらそのような距離単位は、今のところ確認されていません。

 距離は出鱈目なのに、日数、戸数は信用できるとはならんでしょう。
 戸数についていえば、明かに多すぎます。この時代の日本の人口は100万人程度かと思います。7万戸というだけで、邪馬台国は日本には無かったという結論になります。
 1戸を1人と考えるか、複数の国が集まった連合国家を総称して邪馬台国といってたと考えるしかありません。

 卑弥呼の時代背景を考慮してはいかがでしょうか?中国(魏)によって、交易のあった朝鮮の国が占領されたのです。次は日本(倭国)かという元寇の役レベルの国家存亡の窮地だったはずです。
 魏の皇帝(曹叡)に倭国の占領を諦めさせるために、使者を送ったり、あたかも辺境の地にある巨大国家と思わせるために出鱈目な距離、日数、戸数を魏に伝える必要があったと思います。

 倭人伝を読む限り那国までの記述と、それ以降の記述の曖昧さは、現地で確認したのではなく倭人からの伝聞による記載ではないでしょうか。
>>[12]

はじめまして。(だったと思います)

1里を500mとするのは清朝でも大体近い距離でしたが、中華民国以降の単位ですね。おっしゃるとおり100m=1里とする単位は発見されていません。「短里」「短日」「倍年法」などは全て学者の妄想の産物です。

従って、日数や戸数も水増しされていると考えて差し支えないと思います。倭人の使者からの報告に基づいたとすれば、熊猫さんのおっしゃるように、自国をできるだけ大きく見せたいという倭人の使者の心理が反映されていたとしても不思議ではないからです。ただ、全体が平均して水増しされているならば、大まかな距離を知る際の参考にはなるかも知れません。

なお、『隋書』倭国伝には「夷人は里数を知らず。但、日をもって計る」という記述がありますが、倭国の領域の広さを「東西五月行・南北三月行」ともあらわしており、これもかなり水増しされていると考えられます。
記述された時代は違いますが、仮に九州を北から南まで歩いて三ヶ月と考えていたなら、邪馬台国の位置はその三分の一の地点にあったとも考えることも可能です。

なお、「中国(魏)によって、交易のあった朝鮮の国が占領されたのです。」というのは楽浪郡、帯方郡のことを指しているのだと思いますが、これを倭人が脅威とみなしていたかどうかは分かりません。

初期の倭国は三韓とは交易と敵対の関係にありましたが、帯方郡に対しては交易と朝貢を求めていましたし、楽浪・帯方は常に周辺の異民族の攻撃に晒されており脆弱な支配基盤しか持ちませんでした。
中国側は韓・高句麗を牽制するために倭を手なずけたいと考えていたからこそ、後の倭の五王の時代に安東将軍の地位を与えたのでしょう。後世東アジアの国際関係とは同列に論じられないのではないでしょうか。
確か公孫氏(?)は呉の同盟国だったと思います。そして邪馬台国は魏の同盟国。公孫氏が魏に滅ぼされたのは単に敵国で、魏からすれば国境を接する背後に呉の同盟国がいるのは脅威だったからではないでしょうか。むしろ公孫氏が滅びたので、洛陽への道が開いたのだと考えたりしますが。
Googleアースで同じ縮尺で類推すると、一里は50メートル前後になっているように思います。
そしたら博多湾から大宰府=伊都国説をとるので、そこまで50キロくらいです。大宰府から朝倉平野=奴国まで五キロです。朝倉平野の端から山の向こうの日田まで5キロです。
うーん、結局自分の思ったとこに持っていくように、都合のいい解釈をすることになるのですね
>>[14] 邪馬台国が魏に難升米を派遣した時期と、公孫淵が殺された時期から考えてそれ難しいともいます。
>>[15]

以前に投馬国を佐賀平野とおっしゃっていたと思うのですが、そのあたりの類似する地名で言えば三潴(みづま)郡がありますね。投の上古音は濁音の*deuのような音なので、「ミ」を接頭辞と考えれば妥当なところだと思います。
遺跡の規模などからすれば、恐らく日向神話の発生の地であり、都万(妻)神社のある日向国の西都原も捨てがたいのですが。
畿内説を取る場合は投馬=出雲である可能性が高いと思っていたのですが、邪馬台国を「やまと」と読む以上は、投馬も「つま、づま、とま、どま」などの読みであると考えた方が良さそうです。

日田の地名の由来は風土記によれば景行天皇の時代にこの地の土蜘蛛の女王だった、ヒサツヒメの名前に由来するようです。
これが卑弥呼の時代より前か後かは諸説分かれますし、不彌の読み方は便宜上フミと読まれていますが、上古音はおおよそ*piuat-mieのような音で、「ヒメ国、ヒミ国」であった可能性があります。

朝倉が奴国だったかどうかは立証が難しく、安本美典氏などはここを邪馬台国とする説を発表されていて、現地ではかなり定着もしているのですが、この地にあった夜須郡の祭神は大己貴(おほなむち)だそうです。
オホナムチはオオクニヌシの別名として知られていますが、オホは美称、ムチは貴人をあらわす呼び名であったとされるので、「ナ」という名の王がいたのかも知れません。

そうすると有名な「漢委奴国王」の金印をどう解釈するかという話も出てきます。これを「委奴=ヰト」と読んでイト国であるとする説がありますが、奴をドと読むのは中古音の一時期の特徴的な字音であり、上古音の時代からあったとは考えにくいため、私はやはりこれは奴国の王の印であると思います。
僻地である志賀島ではるか後世の江戸時代に見つかったことから偽造説もありますが、ここでは「金印を志賀島の神社に奉納し、やがて社と共に忘れさられた」という水野氏の説を取ることにします。
>>[16]

年譜を見てみたのですが、遼東で公孫氏が自立したのが204年で後漢の滅亡が220年、238年に魏によって公孫氏が滅ぼされるまで、楽浪と帯方は公孫氏による独立国状態であり、魏への対抗のために呉との関係を強化するなど、バランス外交を取っていたことが仇となって滅亡したようです。
卑弥呼は238年から魏の直轄地となった帯方に使節を送ったのだということになっています(239年という説もあるようです)。
卑弥呼の邪馬台国は自国の権威付けに熱心だっただけではなく、当時の東アジア情勢をかなりの程度把握していたことがうかがわれます。

107年に倭王帥升が漢に生口を献じて以来、倭についての記録は途切れているのですが、洛陽に報告が行かなかっただけで、公孫氏の遼東四郡(のちに二郡)が独自に倭や周辺国から朝貢を受けていたのではないか、とする説もあるようです。
以下、やや勇み足ですが「私見を述べるトピ」ですのであえて開陳してみます。

邪馬台国を筑後平野から佐賀平野にかけての筑後川下流の広い地域、狗奴国をその南の熊本平野とするならば、投馬国は宮崎平野であると考えることができます。「水行二十日」は九州島の東周りとも西周りとも考えることができます。

この説の唯一といっていいネックは、例の「水行十日、陸行一月」ですが、「魏志の邪馬台国」を日本神話の高天原と考えた場合、そこからニニギが分家して日向の高千穂に「降臨」して平野に新たにクニを開いたと考えることができます。
それから日向のツマ国が北上し、戦乱で弱体化した邪馬台国を併合して、徐々に勢力を東に拡大しながら東征を完成させた、と考えることは不可能ではないはずです。

たとえば東征の途中で宇佐からわざわざ日本海側の岡田宮(遠賀郡)に移動し、古事記によれば一年滞在したのは無駄な動きに見えますが、北九州の故地の勢力を統合して東征に備えたとすれば合理的です。
また、これは北九州と大和盆地に地名の類似が多く見られることの説明にもなります。

では、東征をはじめた理由はなんでしょうか。おそらく、熊襲の強大化によって本拠地を追われたため、やむなく最初は北へ、次に東へ領地を広げていったというのが真相ではないでしょうか。
大和盆地へ入るために紀伊山地を越えるなど涙ぐましい努力を見せていますが、多くの人口を養うために広大な平野を確保しようと必死だったのかも知れないし、古代人の健脚をもってすれば山越えで敵の背後を狙うことはそれほど困難なことではなかったのかも知れません。

そしてその後の例えば景行天皇やヤマトタケルらによる度重なる熊襲征伐は、祖先の土地の回復という目的があったのかも知れません。
なお、サツマという地名の由来は分かっていませんが、日向の地にあったツマ(投馬)の国にならって、「小ツマ」とこの地が呼ばれたことに由来するのではないでしょうか。日向(ヒムカ)は単に「東方」を意味する普通名詞で、それ自体は地名としては意味を成しません。
神武=イワレビコ一行が北へ東へと「領地を広げていった」と書きましたが、実際のところは旧約聖書にあらわれる「海の民」のように、もしくは後世のバイキングのように各地に入植しては土着勢力と衝突を繰り返して、東へ東へと追われ落ち延びていったと考えた方が自然ですね。
そして最終的に大和盆地のナガスネヒコ、ニギハヤヒを打ち破って安住し、徐々に勢力を拡大しながら倭国統一を成し遂げたのではないかと思います。

記紀の記述の順序が正しければ、スサノヲ(倭王帥升?)とオホクニヌシが建てたという出雲国にタケミカヅチが「国譲り」をさせたのは、ニニギの日向降臨よりも前のことですので、「邪馬台国」の勢力はすでに本州に入っていたと考えることもできます。
出雲でタケミカヅチ国譲りをさせてから、ニニギが日向に降臨するのは全く無関係に見えますが、これは投馬(ツマ)国の独立がその直後であったことを、両者が関係あったかのように書いているだけで、実際は邪馬台国の勢力拡張が別々に行われていたことを指しているのではないでしょうか。

邪馬台国の話からはかなり脱線しましたが、ご容赦ください。
>>[13] 初めましてというか、以前からロムしておりましたのでお初という気がしませんが(笑)
 短里説がないと倭人伝の解釈が先に進まないから学者さんも必死なんでしょう。

 縄文尺があるのだから、倭国独自の距離の単位があってもよいのでは?と思ったこともあったのですが、隋書と矛盾するんですよね。

 倭人伝は距離と日数で表しているのが不自然なんです。作為的に邪馬台国の所在を解らなくしたとか。魏と戦う意思がないことと、邪馬台国の所在を誤魔化して伝えるのが難升米の任務だったのかも知れません。

 只今入院中なので手元に資料となる書籍とPCがありません。その代わり時間は充分ありますので、しっかりとロムさせていただきます。(笑)
>>[021]

ご入院中とのことですがどうぞお大事になさってください。
「短里がないと学者も研究が進まないのでしょう」という部分、心底同意です。
里数と日数が同居しているのはバラバラな資料から陳寿が集めていることの証左だと思います。不彌国までの部分と投馬国以降は文体も若干異なる気がします。

日数は倭人の報告によるものでしょうし、里数については郡使が水増しして報告したものを採用してしまったのかも知れません。
より遠方へ行ってきたと報告した方が手当も厚く出たのではないでしょうか…これは現代のカラ出張の手口ですが。
熊本平野をクナ国と書きましたが、実際は邪馬台国が佐賀平野、筑後平野に熊本平野まで含めた広大な地域を手中にしていたのではないかとも思います。
そうでないと、邪馬台国からニニギが別れて日向に国を開く場合、敵地に挟まれた飛び地のような場所に国を開く形になってしまうからです。

そうするとクナ国は山間部の僅かな平地を本拠地とする弱小勢力に見えますが、歴史上山の民が平地人を脅かしてきた例は少なくありません。討伐するのも困難を極めたのでしょう。
山のまつろわぬ民を糾合して平地の邪馬台国を苦しめてきたとすれば、これは後世のクマソや土蜘蛛などのイメージにもぴったりです。戸数が全く書かれていないのも、実数を把握するのが不可能だったからかも知れません。
古事記の記述で、天孫降臨したときに、この日向は、韓を望むという内容がありますが、それをもって日向は福岡あたりという説もありますがどうお考えになりますか。
出雲や日向に天降ると表現されると同時にそこから天上るとも書かれていて、どうも現代の鉄道の上り下りと同じ概念のような気がしてます。日本海周辺のどこかから天ふって、そこに帰る時が天のぼると。天=海と言われてますし。
また、突拍子もない私見ですが、古代有明海文明圏は、阿蘇山大噴火で疲弊したために、一部の集団が新たな平野を求めて河内に行ったと。阿蘇が一定の規模で噴火すると有明海の生態系はこわれるし、熊本平野、筑紫佐賀平野もみな少なくともその年は全く収穫がありません。一部の人たちは新たな平野をさがして瀬戸内海を東に向かったのではと思っています。神武東征の記事を見る限り、正規軍の進軍には見えませんし。それどころかほとんどゲリラ戦。
邪馬台国、狗奴国、それに5万戸といわれる投馬国も忽然と歴史から姿をけした所以かと。また有明海全域がみな邪馬台国だった場合も同様のことになるかと。

ちなみに志賀島は後の世では半島大陸への発進基地でした。邪馬台国の時代にもそうであったとすると、末ろ国の港は志賀島そのもの。なので金印も志賀島からみつかって当然。港としてのまつろ国=志賀島の機能と、伊都国=大宰府の機能はあまりにも似ていると思います。
>>[24]

「高千穂峰」の位置については諸説ありますが、北九州の英彦山などとする説もあるようですね。
志賀島が日本の海の出入り口の場所にあったことにも同意です。

火山の噴火については地質学者の研究の蓄積があります。
阿蘇山の大噴火は5、6万年前にあり九州全域を焼け野原にするほどのものだったようですが、九州にはほかにも雲仙岳、韓国岳など近年大きな被害を出している火山がたくさんあります。
江戸時代には雲仙岳の大噴火で壊滅的な被害があり、「島原大変肥後迷惑」と、対岸の熊本にも甚大な被害を及ぼしたようです。

ちょっと調べたところでは、三世紀頃に、日田や朝倉から程近い九重山の大規模な噴火があったようで、これが「神武東征」すなわち天孫族の移動をうながした可能性があります。
天岩戸伝説で天が暗くなったというのは日食と結びつけて考えられることが多いのですが、噴煙で空が暗くなり、やがて煙が晴れていった様を表しているとも考えられます。手力男が「岩戸を開いた」というのも、噴火を表す暗喩かも知れません。

天のことをアメというのは満州語のabka(空)を思い出させますが、海人のこともアマといいますね。
もっともこれは海女のこともアマというので、女を意味するアマから転じた可能性もあります。
朝鮮語では母のことをオモニ、エミ(卑語)というのでそれと関係があるのでしょう。
海はオホミ(大水)から転じた言葉だろうと思います。
uさん、素晴らしい考え方ですね。
*****三世紀頃に、日田や朝倉から程近い九重山の大規模な噴火があったようで、これが「神武東征」すなわち天孫族の移動をうながした可能性があります。
天岩戸伝説で天が暗くなったというのは日食と結びつけて考えられることが多いのですが、噴煙で空が暗くなり、やがて煙が晴れていった様を表しているとも考えられます。手力男が「岩戸を開いた」というのも、噴火を表す暗喩かも知れません。 *****
なるほど、面白いですね。それにしても知識の広さ、深さ、ほんとに敬服します。いろんなインスピレーションをもらっています。ありがとうございます。

古代九州は火山と密接に関係ありそうですね。
渤海滅亡も火山の大噴火が原因という説がありますね。
クレタ島も海底火山の噴火による津波で壊滅的打撃を受けましたね。
その噴火した火山島にあった聖地のような都市はそのままふっとび、その出来事のエジプトに残る記述がプラトンのアトランティスとそっくろだとか。神話的なものと史実をどう関連付けるか、古代史の重要な要素ですね。

ちなみにアメの問題ですが
海とだけ書いて アメとはよめないのでしょうか。
アマテルの高天原ですが
高天原は高海原がオリジナルなどというのはありえないでしょうか。
そうすると姉は高海原 弟は海原 と支配地の名前に関連性がそのままありますが。
神格化していく過程で海が天と表記されるようになったと、漠然と考えていました。
原はバルで村や集落の意味だと読んだことがありますが
そうすると「聖なる海のクニ」というのが高天原の意になのではないかと、想像しておりました。
>>[026]

いえいえ、しばらくこの手の本ばかり読んでいたもので…火山の噴火と結びつけるのはエーベルさんのアイディアをお借りしました。

あまという言葉は本来男女問わず用いられるようなので「おんな」を意味する訳では無さそうですが、魏志に出てくるような「素潜り漁師」という意味はあっても、海そのものを意味する用例が思い付きません。氏族名として海部(あまべ)はあったようですが、これも海士+部が省略されたのだと思います。

高天原は後の畿内人によってタカマガハラとよびならわされていますが、本来は西都原などのように「はる」と読まれていたかも知れません。また、今の熊本市は律令時代には託麻郡(たくまのこほり)があり、これがタカマガハラの名残かも知れません。
ハルは古代朝鮮語の村落を意味する言葉フレから来ているとされています。

エーベルさんは高天原を対馬だとお考えだったと思います。
私はアマテラスとスサノヲが天の安川(筑後の夜須川?)で誓約(うけい)をしたという記述から、北九州から熊本にかけてのどこかだと思います。

スサノヲがこの時に宗像三女神を生んだというのは、宗像の海人族が自ら半島へ渡ろうとして壱岐航路を独占する天孫族と争い、より危険な宗像航路を使うという条件で和解したことを示すように思います。

日本書紀の記述によればスサノヲの来訪によって天地が鳴動し、高天原の稲田を壊して暴れまわったためアマテラスは岩戸にこもってしまいます。この記述は噴火を表す可能性があります。

その後スサノヲはイザナギらによって追放されて韓のソシモリ(韓語で牛の頭=弁韓の牛頭山?)という土地へ渡り、そこから九州ではなく出雲へ渡ってヤマタノオロチを退治して王となります。オロチは出雲の土豪だったのかも知れません。
ソは牛とともに鉄を表す言葉でもあるため、製銅、製鉄技術の伝来とも関係が有りそうです。
>>[28]  ヤマタノオロチは類似の表現の類推よって、出雲を占領していた越国の8つ軍団のことだという話しがありました。梅原猛さんの本でまさに今読んでいます。翡翠の最大の産出クニ越は日本海の最大勢力で出雲を支配していて、半島から来たスサノオが彼らに酒を飲ませて酔ってるあいだに殺したと。そしてやがて越そのものを出雲が逆に支配して、その勢いでヤマトも吉備もアワも出雲が勢力圏に納めたと。ということはほぼ日本ですね。神在月といわれる所以かと。越から四国近畿瀬戸内海、日本海沿岸となればこれは。国譲りはまさに、日本の統治権の禅譲ですね。いやあ、古代史は奥が深い。
でもそうなるとそんな巨大な出雲がつくった国と邪馬台国はどんな関係か?また国を譲らせた高天原とは何者か?
ぼくの知る限りは国譲り後に、獲った高天原勢力が出雲や出雲を起点に何をしたかが書かれてないと思うのですが。出雲に首都を定めそこから遠征しましたとかですね。せっかくとった豊葦原の中津国で、目立ったことをしていないのでは。国譲り後の出雲で高天原の神がしたことって何かあるのでしょうか?
邪馬台国が高天原なら、そんなスーパー出雲を取ったら、二つ合わせてまさに当時の日本全部ですね。対馬海峡両岸と日本海沿岸の越まで。瀬戸内海、河内へいや、四国のあわ、淡路島。多分諏訪まで。

>>[029]

梅原先生には直接間接に僕も影響を受けていますが、出雲がそこまでの勢力だったのか…という疑問があります。

確かに出雲のオホクニヌシは国つ神の中では最高の神格で、神話の中でも越のヌナカワヒメに会いに行ったり大和三輪山の祭神になったりとほぼ全国に足跡を残していますが、強大な王国を築いたというより、一種の通商国家のようなものだったのではないか…と思います。

別名はナムチ(ナの貴人)ですが、奴国との関係も考えられます。本来は北九州から出雲にかけてを本拠地とし、半島まで船を送るほどの通商国家だったのが、南の邪馬台国に抑え込まれたのかも知れません。

ヤマタノオロチは他に、斐伊川の治水に成功した、金属精錬技術を伝えて川の水が赤く濁った、などの事象を表したともされています。私は良民に娘を要求する逸話から、悪辣な支配者のイメージを描いています。

おっしゃる通り国譲りの後に遠い日向に下ってそこから三代にわたって出ようともしない流れは不自然ですよね。

考えられるのは、出雲を討伐したタケミカヅチと日向に国を建てたニニギが実は無関係だったということです。天孫族の勢力拡張が日本海沿いのライバルである通商国家出雲を武力で従えることと、九州南部の異族を従えることの二方向で行われていたのではないでしょうか。

私はタケミカヅチの一族が離反して大和に上り、土地の豪族と結んで国を開いた可能性があると思っています。ニギハヤヒはその子孫かも知れません。
そうだとすれば神武の東征には離反した同族への懲罰的な意味があったのかも知れません。

なお、出雲はイヅモタケルがヤマトタケルに謀殺される挿話などから、大和朝廷が成立してからも完全に大和には服従していなかった事がうかがわれます。
なるほどですね。やはり国譲りの後でめだったうごきはないのですね。子供の頃毎年村に神楽がやってきて国譲りやヤマタノオロチを舞っていました。ぼくの中では幼児体験として出雲神話があります(笑)
おそろしい形相の面をつけた地元出雲の人に、神主さんのような格好をした天孫族が冷静に意地悪そうに接する姿です。
さて、国譲りにあたっては古事記を読んだ記憶では、高天原が最初に派遣したヒトは寝返って音沙汰なし。それで次の人を送るとまた寝返って音沙汰なし。三人目が行って、それでもなかなかなにもせずに、弓矢か何かで脅してやっと動いたような。要は、高天原にとっては、苦労して奪った出雲。
獲ったあとは、そこでますます繁栄したとか、そこから若狭湾へ勢力をのばして琵琶湖もおさめて、河内へいやに裏側から勢力を伸ばしていったとか、いかにもありそうなことが書かれていない。
こだわると、出雲国譲りというのは明治政府の大政奉還的な(両者の立場やさまざな背景は別として)ダイナミックな権力交代だと思うのですが。
その後の空白はもしかしてヤマト朝廷の建国秘話に属するのだろうかなどと考えています。

なお、ヤマト朝廷の統一戦争はなにかこうですね。正規軍同志の合戦で快勝したことがないのではないかと。大規模な○○の戦いとかいうのは伝説でもないような。
国譲り。神武東征。熊襲征伐、東国での日本武尊の戦い。
みな、正規軍のパワーではなくて、ゲリラ戦やだましうちや暗殺みたいな感じです。
相手の正規軍のほうがいつも強かった。のではないか?
そういうことではないかと思ってしまいますし、そこもまたヤマト朝廷の出自や建国秘話があるのではないかと思えてきます。
>>[031]

出雲神楽は北部九州でも公演されていたんですね。私は浜田に縁が有って現地で見たのですが「五神」「塵輪」など古代史のロマンを掻き立てられる演目がたくさんあります。今の形の出雲神楽になったのは割りと最近のことらしいですが。

出雲がその影響力の大きさのわりにあっさりと高天原に下ったように見えるのは、軍事よりも通商に重きを置いた人々だったからで、天孫族の庇護のもと商売に勤しめるならばそのほうが得と踏んだからではないでしょうか。

大量の銅剣が発掘されていることから、彼らも戦いへの備えはしたものの、実戦を戦いぬくだけの強い兵はなく、また歴戦を戦い抜いてきた天孫族の猛将タケミカヅチに恐れをなしたのかも知れません。

こんなことを書くと色々角が立ちそうですが、騙し討ち即ち謀略によって最小の兵で強い敵を倒すことを良しとする風潮は、日本の歴史上常に有ったように思います。源平の合戦しかり、鉄砲隊しかり。

勿論、最小の労力で最大の成果を得ることは戦争では重要ですが、そのような考え方が教育によってあらゆる日本人に深く刷り込まれ、盧溝橋、真珠湾などに繋がったと考えるのは考えすぎでしょうか…。
つい出雲神楽と書いてしまいましたが石見神楽でした。訂正します。
石見は出雲と筑紫の海路の中間にあたる土地ですが、この地域の古代史は資料が極端に少なく、石見各地にいくつか残る韓国(からくに)神社や、五十猛(いそたける)の伝承が辛うじて往時の面影を伝えてくれます。
踊っていたのは宮崎から来ていた神楽の人たちでした。物心ついたころから引っ越すまで小学卒業までだから10回以上みてますね。毎年まったく同じストーリーを。舞台をくみたてて、村の広場で3日くらいやります。まつりでした。で、最終日は夜、スポットライトを浴びながらのやまたのおろちでおおいに盛り上がってました。
日本中でやってるとおもってましたが、大人になってそんな経験した人に会ったことがありません(笑)
ちなみに「海辺」というぼくの故郷は、大分県の臼杵市ですが神無月に、ある儀式が村でおこなわれていました。
それはたき火の中に竹を入れて パッカーンと 大音響を何度もたてるというもの。村じゅうでもりあがって大人子供集まってやってました。一時間くらい。
で、なんのためにやるかというと、出雲にいった自分とこの神様にそろそろ帰ってきてほしいので、大きな音を何度も鳴らして、呼び戻すのだと。だから子供のころは出雲って川向うかとか思ってました。(笑)
ただ臼杵にもぼくの村以外でそんなことやってるとこはないようで。その村は河口と山のハザマにできた小さな平野です。平家の落人伝説や外から10人くらいの人が来てできた村だとかいろいろ口承の伝説が多かったです。そうですね。あの村の口承伝説の伝わり具合をみると、文字記録でなくても十分、いろいろ後世に残っていきそうです。

>>[034]

色々教えて下さりありがとうございます。出雲と神楽でつい石見神楽だと思ってしまいました。

日向神楽で調べたら福井に伝わったという長畝(のうね)神楽が真っ先に出てきましたが、宮崎には高鍋神楽、米良の銀鏡(しろみ)神楽などいくつかあるんですね。機会が有れば見てみたいです。

地元埼玉の神社でも見られる場所はいくつかあるはずなので、色々見て回りたいです。もしかしたらヤマトタケルことワカタケル大王の東征に関する面白い伝承があるかも知れません。

ヤマトタケルとその父のクマソ征伐や東国征伐は軍事的な統一戦争だったとは思いますが、恭順を示した者は次々と国造に任命するなど、ある程度現地の族長にも利益を保証するものだったようです。

それより更に昔のオホクニヌシがヌナカワヒメに会いに行くくだりなどは、私には商人が翡翠の買い付けに行く姿に見えます。トップセールスという意味では某宮崎元知事のようですが、日本海から畿内瀬戸内を股にかけ、各地に利益をもたらして人々に感謝されて神格化された、伝説の大商人だったのかも知れません。

スサノヲの奴国が出雲のルーツだとすれば、奴国は邪馬台国の傘下に入るまでは、出雲通商株式会社の九州支店国際営業部として機能していたと考えられ、倭の極南界という後漢書の記述も嘘ではないことになります。勿論これは魏志の誤読の可能性も高いのですが。

倭はヰではなくワと読まれ、「わたし」を意味する言葉からきたのではないかとされています。現代中国ではwo1と読まれ、我wo3とは声調違いです。奴もナと読むならば韓語で「わたし」の意味です。倭国とは本来奴国を指していたのかも知れません。
なるほど。な国ですね。奴国は2万戸。伊都国の隣ですね。わずか100里。
越と出雲の距離からいって通商ですね。日本海の地形は弓なりに列島沿岸が広がり、航海するとき、必ず前方に陸地が広がる。こんな航路は世界にもどこにもありません。日本海沿岸は船での移動には最適ですね。ナンパしても弓なりだから陸地にたどり着く。
わたしはこういう地理的な要素を考えるのが好きなんです。
奴国。また考えるのが楽しいテーマです。
以下、別な角度からの私見を述べさせていただきます。

中国の歴史書にあらわれる倭国関連記事が、全て記紀の中の記事と対応するということはないのでしょう。

例えば、後漢書の記述から卑弥呼の女王としての在位は183年頃(倭国大乱の終焉)から247年頃と考えられ、64年もの長きにわたります。
これがどれほど長いかは、昭和天皇の在位期間を思えばよく分かりますが、当時の倭国でも長命な人はいたでしょうし、童女のときに即位したと考えれば不可能ではありません。
それより以前の記事としては、57年に奴国が後漢から印綬を賜る記事と、107年に倭国王師(帥)升が生口160人を献じたという記事のみです。

師升をスサノヲと考えることができないかと考えてみましたが、卑弥呼をアマテラスと考える限り、183年に童女であった卑弥呼の弟が107年に漢に奴隷を献上することは出来ません。
卑弥呼がアマテラスではないか、師升がスサノヲではないか、もしくはどちらも間違いか、となります。

師升がスサノヲであるならば、卑弥呼はそれ以降の何らかの女性神となりますが、アマテラス以外に適当な神名は思いつきません。
卑弥呼をアマテラスとするならば、師升はそれ以前の何らかの神ということになりますが、アマテラス以上に事跡のはっきりとしない、実在のあやふやな神ということになります。
アマテラスの親であるイザナギ・イザナミであるとしても、仮に卑弥呼の即位が10歳だったとして、彼女が生まれるよりも66年も前の出来事です。ちょっと不可能でしょう。
イザナギ・イザナミ以前の神の系譜は日本書紀によれば次の通りです。

1. クニノトコタチ
2. クニノサツチ
3. トヨグモヌ
4. ウイジニ・スイジニ
5. オオトノジ、オオトマベ
6. オモダル、カシコネ

この中で「師升」に似た名前の神は、イザナギ・イザナミの曽祖母にあたるというスイジニ女神くらいですが、事績も素性も全く明らかにされていません。
やはり残念ながら、57年と107年の倭王についての記事は記紀には現れないと考えるべきなのでしょう。
こんにちは。初めて書き込みます。よろしくお願いします。

>>[37] uさん

> 57年と107年の倭王についての記事は記紀には現れないと考えるべき
 とのご意見には私も賛成です。古事記と史実が符合するのは、アマテラスの時代から
 ではないかと思います。それ以前の神は系譜なので、中国の史書には表れないのでしょう。

私は、以下のように比定して考えています。

卑弥呼 = アマテラス
卑弥呼の男弟 = スサノオ
難升米 = タカミムスビ
張政 = オモイカネ
台与 = 岩戸後のアマテラス

スサノオ(男弟)はアマテラス(卑弥呼)に代わって政治を補佐していたので、軍を統率していた。
狗奴国との紛争が起きると、スサノオは軍を召集し首都(邪馬台国)に集結しようとした。
アマテラスは、
「本当に狗奴国戦のために上って来るのだろうか? 軍を率いて王位を奪おうとしているのではないか]
と疑うが、スサノオは否定しつつも首都に進撃し、宮殿を襲ったので、アマテラスは死ぬ。

岩戸からアマテラスを出す=> (卑弥呼の後継に台与を擁立する) ために、

まずオモイカネが海外から来た長鳴鳥を集めて鳴かせた。
=> 帯方郡から連れてきた部下を集めて正規軍を召集した。

 ※ オモイカネは別名、常世の神と言われますが、後世、8世紀にその常世の神を祀った、
   常世連(とこよのむらじ)は、「常世連。燕の国王、公孫淵の後なり」と称しています。
   公孫淵が治めていたのが帯方郡、張政が住んでいたのも帯方郡。
   また、オモイカネは知恵の神として高天原の知恵袋と呼ばれましたが、魏の武将だった
   張政も、倭国では先進国である魏の教育を受けた知恵者として、尊敬されたでしょう。

正規軍がスサノオ軍を撃破し、追放。スサノオは敗残兵を連れてもう一つの大国、出雲へ逃亡。
難升米(タカミムスビ)は台与(岩戸後のアマテラス)を新女王に擁立する。
難升米(タカミムスビ)は銀印と黄幢を持っているので、魏の後ろ盾を背景に、
台与(岩戸後のアマテラス)の後見人となって、政治をつかさどる。

 ※ 古事記では、岩戸後のアマテラスはタカミムスビと一緒にでないと発言しなくなります。
   これは後見人であるタカミムスビの許可がないと王権が振るえないという状況を表して
   いるのではないかと思うのですが。

以上、あくまで私見ですが…。
突然現れて失礼いたしました。
>>[038]

ありがとうございます。私も「常世国」は半島や大陸を指す場合があると思います。
張政のくだりは「洛陽から帯方に派遣された」とも「帯方から倭に派遣された」とも読めるのですが、後者の方が楽しいですよね。18年ほど倭にとどまって顧問として活躍し、洛陽に帰ったという説があります。

タカミムスビはカミムスビや天皇家の先祖であるアメノミナカヌシとともに造化三神として天地開闢から存在するとされる最高神ですが、アマテラスを持ち上げる都合上故意に低められている印象を受けます。

オモイカネは彼の息子で、娘の「トヨ」アキツシヒメはアマテラスとスサノヲの息子であるオシホミミと婚姻を結び、ニニギを生んでいることから、相当に地位の高いことがうかがわれます。

オシホミミやニニギが蘆原中国にくだるように仕向けるなど、アマテラスの死後の実権を握っていたのでしょう。
魏のお墨付きを元に倭の統一をけしかけていた、と考えられるかも知れません。
私見の続きです。

スサノヲが卑弥呼の政敵、ヒミクコ(もしくはヒミクコソ)だったと考えることができないか、検証してみます。

全くの推論ですが、アマテラスは内陸側の筑後平野を治めていた邪馬台国の女王で、スサノヲはその南、八代海寄りにあった海人族の王だったのではないでしょうか。
スサノヲが海を、アマテラスが天を治めたというのはこのことを指すのではないかと思います。

そして、スサノヲが「母の国に行きたいから姉上に挨拶をしたい」と言って高天原に上がってきたのは、自ら半島との通商を求めたと解釈でき、これを武装したアマテラスが「天の安川(=夜須川?)」で迎え撃ち、お互いに「神産みの誓約」をします。これを婚姻関係を結んだと考える説がありますが、とりあえずこの部分については留保します。
その後、スサノヲが高天原の稲田を破壊し、アマテラスが岩戸に引きこもったために諸神たちがアマテラスを引き戻し、スサノヲは追放されます。

広く流布している解釈ではこれが卑弥呼の死と、トヨの擁立の両方を指していると考えます。
恐らく、倭人伝に書かれたのはこのあたりの時期ではないでしょうか。
ここではトヨは、卑弥呼の息子であるオシホミミと結婚したトヨアキツシヒメであると考えられます。
この後記紀ではアマテラスはほとんど登場せず、トヨアキツシヒメの父であるタカミムスビが実権を握っているかのように見えます。
「女王に夫、子なし」という記述とは矛盾しますが、ここでは魏志の記述の粗さによるものと考えます。

では、投馬国とはなんだったのでしょうか。私は出雲、日向の二つの説が立てられると思います。

日本書紀ではスサノヲはこのあと韓のソシモリを訪れますが、古事記では直接出雲へ向かい、土地の豪族と考えられる八岐大蛇を退治し、国を建てます。その後、大国主に禅譲し、大国主は越、近畿、瀬戸内まで勢力を広めますが、恐らく一種の通商国家のようなものであり、強大な兵を持たなかったため、後に高天原の軍勢に屈して保護国となります。

これを投馬国とした場合、方位が異なり、また卑弥呼の死後に成立したことになるので魏志の記述とは矛盾しますが、陳寿が邪馬台国に関する資料とは別に、大国である投馬国に関する知見を得て、魏志に書き込んだ可能性があります。

もう一つの可能性である日向について述べてみます。
高天原は南方の熊襲と和を結び、アマテラスの孫であるニニギは、熊襲の姫君であるコノハナサクヤビメとともに日向に国を建てます。これによって全九州が一時的にでも統一され、南方の憂いがなくなりました。この歴史的な婚姻を「天孫降臨」と呼んだのではないでしょうか?

日向の中心である西都原の古名は都万(つま)であり、音韻的にもこれが投馬国である可能性は高いと言えます。邪馬台をヤマトと読むならば、投馬もツマと読むべきであり、イ(ヅ)モと読むのは矛盾しています。
この国は邪馬台国に匹敵する人口を持つほどに栄えたため、陳寿もわざわざ一項を設けて記したのではないでしょうか。この場合、少なくとも方位は矛盾しません。
官名であるミミ、ミミナリは、ニニギの名前と類似しています。mとnの音は古語では容易に交代します(ミラ→韮など)し、「ギ」は朝鮮語の耳(gwi)を意味するかも知れません。

後に、何らかの理由で日向王朝は北上を開始し、北九州の高天原系勢力を糾合して、東へ東へ、現地勢力との和合と衝突を繰り返しながら、はるか大和の地に安住するまで旅を続けることになります。
この理由として考えられるのは、熊襲の強大化による圧迫や、火山噴火などの天変地異でしょう。
地質学者の研究によれば、3世紀頃には九重山の大規模な噴火があったとされています。

日向の王であるイワレビコ(神武)は大和の地で同じく天孫族であるニギハヤヒに出会います。
このニギハヤヒの正体について古事記では書かれておらず、日本書紀ではいくつかの説が提示されていますが、恐らくは旧出雲系の勢力か、もしくは出雲を征服したタケミカヅチの一族ではないかと考えられます。
ニギハヤヒは自分を庇護してくれていた豪族のナガスネヒコを見限って日向方につき、その子孫は物部氏として大王の一族を長く支え続けることになります。
追記です。

私は元々スサノヲを宗像三女神の父、すなわち北九州沿岸(奴国?)に由来する神だと考えていましたが、スサノヲの闖入によるアマテラスの岩戸隠れを、ヒミクコ(ソ)との戦乱によるヒミコの死だと考えるためには、スサノヲの本拠地を南に置かざるを得ません。そして狗奴国を熊襲と考える以上は、スサノヲもまた熊襲の王ということになります。
実は八岐大蛇の説話は出雲国風土記には記載がなく、スサノヲが出雲の始祖であるという話自体が大和朝廷による創作である可能性があります。大国主が出雲の始祖であるならば、九州とは無関係に成立した国であるということができます。倭人伝でヒミコの邪馬台国と投馬国が併記されていても、方位以外は矛盾が生じなくなります。

そして、熊襲というより薩摩隼人の姫君であるコノハナサクヤビメとニニギの婚姻は、全九州の統一というよりは、宿敵である狗奴国よりもさらに南の隼人と同盟を結ぶことによって挟み撃ちにしようという、政略結婚だったのかも知れません。
ただ、そうだとすると「高千穂」を通って降臨したという語句の意味が分からなくなります。
熊襲の本拠地を抜けて隼人の地に至ったという、道筋の困難さを意味するのでしょうか?当然ながら、安全な海路ではなく陸路を通っていった理由はなにか、という疑問が起こりますが、八代海は完全に熊襲の海人たちが掌握していて、船を出せるような状態ではなかったのかも知れません。
もしくは、それこそ現在の高千穂町あたりを抜けて、東海岸回りで苦労して隼人の地を目指したのではないでしょうか。

霧島には天降(あもり)川という川があり、天孫降臨と何らかの関係があるだろうと思います。
斯馬国以下20か国については別トピでしつこく考察してみたのですが、九州説を取る場合は郡名と、畿内説を取る場合は旧国名と結びつけることが多いと言えます。
三韓の中の小国名を見る限りは郡程度の小さなクニを想定すべきように見えますが、三韓では土城の一つ一つを国(忽)と呼んだと考えられ、日本とは事情が異なるようです。
日本では国造の置かれた範囲より狭い範囲が国と呼ばれたことはなく、倭人伝の国も各地の土豪の統治範囲を指していたと見るべきではないでしょうか。

私は魏志のこの部分は先代旧事本紀の国造本紀と親和性が高いと思います。傍国二十国は女王国に服属している諸国ではなく、女王国と敵対しないまでも完全に服属もしていない遠方の国、具体的には本州、四国各地のクニを指していると考えています。
奴国は女王国の北の境界で、その外にある烏奴国(穴門国=関門海峡)は女王国の境界外だったのでしょう。

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