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邪馬台国コミュの邪馬台国=高天原説

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昔、手塚治虫の『火の鳥』で卑弥呼の弟をスサノオとしていたのを観て、これは凄い!と思いました。
ロマンあふれる魅力的な説で、まだまだ捨てたものではありません。
また、安本美典氏が有名ですが、他にも戦前からいろいろあるようですね。
この説は卑弥呼と天照大神を同一視する説と、天照大神をより古い時代とする説に分かれるようです。
安本氏の『高天の原の謎』(徳間文庫)に詳しく載ってます。

自説、こんな説があるよ。
その他、気軽に書き込んでください。


コメント(28)

>1

ヒデ@cub90様

興味深い資料を発掘して下さり、ありがとうございます。
邪馬台国=高天原だとおもいます。

剣山のあたりが高天原ではないかと🐤

ぼくは高天原は対馬だと思います。古事記に、高天原から出雲に天降るという表現もあるのですが、出雲から高天原に天上るとも言ってます。海上交通で対馬からどこかに行くときに降るといい、対馬に来るとき上るといってるような。今の電車の下り、上りとおなじじゃないか 。
そこで、筑紫の日向に天降ってますから、九州の北岸に上陸したということかと。出雲には九州北岸にも上陸しようという動機をもつのは対馬だと思います。つまり米作のための平野獲得です。
九州北岸に上陸した一派が邪馬台国を作ることになった。そう思ってます。
>>[8] 、そうでうよね。古事記にあれだけ明瞭にこの地は韓に向かって  と記述されているのになぜ宮崎なのかとか思ってしまします。知識がないのもあるのですが。
古事記前半部分を原文の書き下し文で読みましたが、あれを読むと高天原というのは実在の場所としか思えないし、出雲や日向とか宗像とかいろいろでてくるのに、高天原はどこかと自然に思いますね。日本人が読むと天皇家のバイアスが無意識にかかるような。欧米の学者に古事記の神話部分を読ませて、高天原をどう思うか聴くといいと思うのです。間違いなく対馬海峡近辺のどこかと言うと思うのです。
>>[008]

倭人伝の官名についてのご考察、以前のブログの写真とあわせて大変興味深く拝見しました。筑後の遺跡はずいぶん失われたものが多いのですね。
伊都尾羽張はイツノオハバリと読みならわされていますが、糸島と関係が深いのですね。本来はイトと読まれていたのかも知れません。

高千穂が対馬から糸島のどこかならタカマガハラは韓のどこか(例えば高霊郡など)ということになるでしょうか。私はその可能性を排除していません。

一方で高千穂が高山を意味することから、高天原と高千穂はどちらも九州島内ではないかとも思っています。韓を望む、というのはその方角に開けた地形を表したのではないかと思いますし、実際に見える位置にあった訳ではないのでしょう。
天孫降臨の場所は、ニニギの開いた日向王国がどこだったかという問題とも関わりがあります。

諸説ありますがニニギが薩摩西岸の笠沙の浜でコノハナサクヤヒメと出会ったとされることから直接日向に向かった訳ではなく、隼人の領内を遠回りして日向に入ったことがうかがえます。

笠沙の浜を「韓に通じるよい土地」と称えたことは海路が開けていることを指しているのでしょうし、北九州に限定して考えなくてもよいと思います。
その後、神武の船が日向国中部の美々津から出航したことも、日向国南部、都万(つま)の地の辺りであったことを示唆するのではないでしょうか。

となると霧島山の辺りをクシフルタケと考えたくなります。

疑問なのは、邪馬台国の敵である狗奴国をクマソとした場合、笠沙の浜はそのど真中というより超えた場所にあることです。
一時的にクマソとは友好関係になり、南へ進出することができたのでしょうか?
連投ですみません。
そうだとすれば北の女王国とクマソとの間に一時的な和解があって、女王の孫が入り婿として婚姻を結び、西の日向平野に定着したのかも知れません。

その後、クマソ=狗奴国と関係が再び悪化して日向=投馬国が敵の中に孤立した状態が倭人伝の時代かも知れませんが、その時の女王がアマテラス=卑弥呼だとすれば相当高齢だったのでしょう。「女王には夫も子もいない」という記述と矛盾するのが気になりますが、これは魏志の記述の粗さによるもので、大した問題ではないかも知れません。

その後クマソに本拠地を駆逐された日向が北へ東へとエクソダスとして流れていった過程が東征かも知れません。

疑問点としては、南九州の統一が「天孫降臨」などと大層な名前で記憶されるだろうかということです。
皆さんのおっしゃるように、半島ないし対馬壱岐から九州本土を征服したことの方が大事件であり、天孫降臨として語り継がれそうな気がします。

その場合、笠沙の浜や日向の国がどこに当たるかを考えなおす必要が有りそうです。
>>[013]

王朝交替説ですね。
武の上奏文では「東、毛人を征すること55国、西、衆夷を服すること66国、渡りて海北を平げること95国」とあります。
西を服属させてからその海北を平げたと読めばよく、またこの記事からは畿内説が妥当です。北九州から西にそんなに国はなく、海に落ちてしまうので。
なお、律令国の数よりははるかに多いですが、国造本紀の国造の数とはほぼ一致します。律令国以前の、より細かいクニを記したと考えられます。

勿論、邪馬台国とは時代が違うし東征の後だと考えられるのでこの時代には畿内に倭の中心があって統一も進んでいたと見るべきだと思います。
実は魏志にも畿内説に有利な記述があるのですが別に紹介します。
追記:海北95国は随分と多いようですが、馬韓52国、弁韓12国、辰韓12国に高句麗領内の19国を加えたものだと考えられます。もちろん全てを占領下に置いたわけではなく一時的に攻略した程度の話でしょうが、半島侵略に精を出していた時代があったことは確かなようで、結局高句麗を倒すことはできず中国と直接陸路で交流することはできなかったのでしょう。
その後の遣隋使、遣唐使船は最初は百済から山東半島へ向かうルートで、新羅の建国後は東シナ海をつっきるルートとなり、危険極まりない航路を取らざるを得なくなりましたが、その分航海技術が向上したということはあったのかも知れません。

畿内説に有利な記述とは何かというと、添付の画像を見ていただければ分かると思うのですが、斯馬国以下20カ国は国造本紀の旧国名に結びつけることが可能です。赤は女王国、青は服属していると見られる国、緑は敵対する国です。
そしてその20カ国の中には「出雲」や「大和」に該当すると見られる国名が見られないため、必然的に「投馬国」「邪馬台国」がそれに当たると考えることになります。

九州説では20カ国を旧郡名と比較し(現存の地名には新しいものがあるので無意味です)、九州、それも北九州の範囲内に納め、邪馬台国の人口である7万戸の中に含めるものが多いのですが、「戸数、道里は遠絶にして詳らかにするあたわず」という記述と矛盾します。
ここで畿内説を取るのは、別トピで「九州説」に依拠した論考を書いていたのと真っ向から矛盾しますが、この矛盾を解消するにはどうすればいいか考えて見ます。「卑弥呼は記紀に存在しない、熊襲の一女王に過ぎない」という説は畿内説とは相容れないので除外します。


仮説1:卑弥呼はアマテラスではない。畿内大和王朝が成立してからの女王である。

古来、日本書紀にあるような神功皇后説や、ヤマトモモソヒメ説などの説が唱えられてきました。
神功皇后説は一見すると有力なのですが、日本書紀にある不自然に長い歴代天皇の在位年数が事実であったと認めない限り、立証が不可能な仮説です。たとえば仁徳天皇の在位87年というのが実際であったとは、到底考えられません。
ヤマトモモソヒメ説は箸墓古墳によって有名になりましたが、倭人伝にあらわれるような強大な権力を持つ女王のイメージからは遠いように思われます。卑弥呼に該当する女王は、やはりアマテラスが最もふさわしいのではないでしょうか。


仮説2:高天原は畿内大和である。

この説を取れば魏の使者が訪れたのは畿内大和ということになりますが、卑弥呼が仮にアマテラスだった場合、大和は遠く離れた九州の狗奴国と争っていたことになります。
狗奴国を毛奴や熊野と考える説もありますが、ここでは熊襲と考えることにします。
初期の大和王朝は何度もこの地に出兵していますし、半島への道を確保する必要上、どうしても征服する必要があったと考えることができるからです。

卑弥呼の死は熊襲との戦いによるのではなく老衰によるものだったとして、記紀の記述が正しければ高天原はその後、「国譲り」によって出雲を手中に収め、「天孫降臨」によってニニギが日向に天下ったということになります。

これはニギハヤヒが畿内王朝の後継者となり、本来末子として後を次ぐはずだった弟のニニギが遠く筑紫日向の地に流されたことを意味するのではないでしょうか?
「国譲り」の一件も、有力な将であるタケミカヅチを出雲に左遷することが目的だったのかも知れません。

イワレビコ(神武)が戦ったナガスネヒコが奉じる神ニギハヤヒは、日本書紀によればニニギの兄、アメノホアカリの別名とされています。
恐らく、畿内大和(高天原)ではアマテラスの死後に後継者争いが起こったのでしょう。倭人伝の記述がそれを裏付けています。

結局、アマテラスの息子の妻であるトヨアキツシヒメが後継者となりますが、実権はその父であるタカミムスビが握ったと考えられます。
タカミムスビが婿であるオシホミミをはじめ、高天原の有力者たちに次々と葦原中国(出雲)へ向かうように進言しているのは、このあたりの事情を示していると思われます。

ここから、オシホミミの末子であり正統な後継者であるニニギは日向に左遷され、その兄であるニギハヤヒが傀儡の王としてすえられたことが推測できます。

しかしながら、ニニギの一族は日向で薩摩隼人と婚姻を結んで実力を蓄え、孫であるイワレビコはアマテラスの正統な子孫を主張し、東へと軍を進め苦心の末に、ニギハヤヒの将であるナガスネヒコらを打ち破ったのだろうと思います。
これは大和側にタカクラジなどの内通者がいたと見られることとも、よく合致しますし、山越えをしてまで大和を目指した涙ぐましいまでの努力も、このような背景があれば理解できます。
少し訂正します。
イワレビコはニニギの孫ではなくひ孫でした。

ニニギ―ホヲリ―ウガヤフキアエズ―イワレビコ の順でした。

この系譜が正しいとして、ひ孫の代になってようやく大和への反撃に出たのだとすれば、ニニギの兄であると見られるニギハヤヒは東征当時に生きていれば相当の高齢であったことになりますが、早婚の時代であったことを考えれば、50〜60歳程度だったのかも知れません。いずれにせよ、若いイワレビコの軍勢に抗うことはかなわないと悟って降伏したのでしょう。

このように遠国へ流されていた大王の子孫が反乱を起こして、もしくは擁立されて大和の大王となる例は、その後いくつも見ることができますが、イワレビコ=神武の代においてすでにそうだったのでしょう。

イワレビコは日向ですでにアヒラツヒメと結婚しており長子のタギシミミを日向から連れてきていますが、出雲の血を引くともされる土地の豪族の娘、イスズヒメを妻に迎えます。
後の天皇家はこのイワレビコの血筋であるとして、後に初代大王(天皇)とみなされるようになったのではないでしょうか。
九州説の有力な論拠の一つは北九州各地で大量に出土しているのに近畿ではわずかの出土しかない「銅鏡」の存在です。
畿内説の立場でこれを説明するならば、銅鏡は大和政権が各地の豪族、土蜘蛛たちを懐柔するための宝物として使っていたのではないでしょうか。大和地方では政権が磐石だったために(内紛はあったようですが)銅鏡を配って回る必要はなかったのかも知れません。
もしくは、単に魏から下賜された銅鏡を敵に奪われてしまったのかも知れませんが。

方位のズレについては、陳寿か魏の漢人、韓人のいずれかによる「倭は南方にあるという思い込み」によるものだとしか考えようがありません。特に「有無する所、但耳・朱崖(海南島)と同じ」という一文に引きずられてしまったのでしょう。
産物が似ていたとしても位置、緯度が同じだという証拠にはなりませんし、「会稽東冶の東」というのも、陳寿が報告された里数に従って機械的に導いたものであり、証拠になりません。

他にも一大率の置かれた伊都国からの距離の遠さが挙げられます。駅伝制度など勿論ない古代に、伊都国と女王国が迅速に情報をやり取りすることができたのでしょうか?
可能性としては、伊都国は元々北九州に大きな勢力を持っていた奴国などを監督するために中央から送られた防人の駐屯地で、そのために人口が千戸程度と他に比べて少ないのではないか、ということです。
周りの国がいくら人口が多くても、軍事力で劣っていれば従わざるを得ません。
とはいえ、後には磐井の乱のように、筑紫へ派遣された官による反乱も起きています。
もう一つ失礼します。

いわゆる邪馬台国東遷説は北九州の地名と畿内の地名の類似を根拠にしています。
しかしながら、これが畿内の地名を北九州に移したのではない、という証明は困難だろうと思います。従ってこれは証拠にはなりません。

確かに北九州では多くの鏃が発掘されるなど激戦地であったことは確かですが、これはここが邪馬台国であった証拠ではなく、邪馬台国と敵対勢力の係争地だったことの証明に思えます。

別トピでスサノヲ=ヒミクコ(ソ)説を考察してみたのですが、畿内説の立場では実際にアマテラスの弟で、住吉あたりの海人族を治めていたということになるでしょうか。

高天原を荒らしたために追放されたことになりますが、出雲の始祖になったというのは後世の創作かも知れません。

倭人伝の載斯烏越とする説もありますが、兄弟のツクヨミと比べ不自然な程の神格の高さは、その後海人たちに神として信仰されていたことによるのではないでしょうか。

難升米の名は、升を朝鮮語の訓を借りてトと読み(現代語ではdoe)、中臣氏の系図に現れる梨迹臣(なしとのおみ)とする説がありますが、状況証拠がないため否定も肯定もできません。
ただ中臣氏自体が渡来系という説もあり、韓の事情に明るく文字を知る者が使者となったということはあるのでしょう。
一人で暴走してしまい申し訳ないのですが、ニニギは日向に流されたというよりは、隼人との政略結婚のために行ったのではないかと思いました。
隼人はクマソと近縁ではありますが、早くから大和朝廷と密接な関係を築いており、大和朝廷がクマソを挟み撃ちにするために重用してきたことがうかがわれます。
その点ではニニギの婚姻は大変重要であり、隼人側からも歓迎されたのではないでしょうか。
その場合、クシフルタケは霧島山が妥当ではないかと思います。

日向国が既に大和の勢力圏だったならば今の宮崎道のルート、えびのから霧島市の辺りへ出て、笠沙の浜で今で言う婚礼の儀を行なったのではないか。
イワナガヒメや産屋に火をつけたエピソードから見る限りはニニギに流浪の王子の悲哀はなく、強者として隼人に接しているように見えます。

たまたま昨日熊本から鹿児島まで車で走ったのですが、八代を過ぎると急に折り重なる山々が現れ、ここをクマソが本拠地としたなら攻めあぐねるだろうなと思いました。
そしてえびのでは急に視界が開け宮崎の方へ広々とした谷が続いていました。
このあたりは古代は狭野(さの)といい、倭人伝のサナ国とする説もあります。いずれにせよクマソ攻略の重要な拠点だったのでしょう。
対馬のこのアマてる 神社はみなさんどう考えますか?天照大神とは本居宣長が「あまてらすおおみかみ」と読み始めて、たしか更科日記かなにかでは「あまてるおんおおかみ」と読んでいたと記憶しています。もとはあまてるおおかみ、あまてる神でしょう。そうするとこの対馬の神様はまさに天照大神のオリジナルではと思ってしまいます。また、この神社の伝承として古田武彦さんが紹介しているのが、このあまてるは、出雲の神在の時に、一番最後に出雲に行って一番最初に帰ってきたと、出雲との関係性があります。
ちなみに今週は福岡県の糸島で仕事をしているぼくは糸島に神在町という地名を発見して感動しました。
>>[22]

まさに天孫降臨の道、という感じがしますね。

私の考えだと、スサノヲは宗像三女神を生んでいるので宗像航路で半島とつながっており、アマテラス(アマテル)が壱岐対馬航路を押さえていた部族なのではないかと思うのですが、そもそも天孫降臨のクシフルタケが、弁韓の開祖の誕生神話とも類似しているので、半島に由来していると考えることができるのだと思います。

朝鮮の史書である『三国遺事』は1,200年代に僧侶の一然が各地の伝承を集めたものなので資料的な価値は低いとされていますが、それによれば弁韓の六つの伽耶国の開祖は亀旨峰(朝鮮音でクジ峰)の六つの金の卵から漢の光武帝のときに(AD42年)にそれぞれ生まれたのだということになっています。
ちなみに倭奴国王が印綬を得たのも光武帝のときでAD57年です。
伽耶国の一つ、大伽耶の王の名は伊珍阿鼓(朝鮮音でイジナゴ)で、これがイザナギと関係があるとも言われています。
もしこれらが何らかの事実を反映しているのであれば、大伽耶の王が倭の地に渡って妻を娶り、王国を開いた(国産み)ということになるのでしょうし、朝鮮半島ではこの説はかなり信じられています。
大伽耶の別名は高霊で、高霊はタカタマ、タカミムスヒなどと解釈できますし、国や都を意味する伐(ボル)を後置して高霊伐とすれば、これがタカマガハラだとすることもできそうです。
さらにこの伊珍阿鼓の息子である阿修は「毗可」(ヒカ?)という女を娶っており、後に大伽耶の女王となっており、その後も数代にわたって大伽耶は女王が統治したようです。

恐らく、どちらかがどちらかの起源説を真似たというよりも、半島の両岸に同じような神話がもともと存在しており、それぞれが違うバリエーションで今日に伝わっているのでしょう。
ヒルメといえば、八幡信仰における現れ方がとても興味深いです。
例えば、鎌倉時代後期に成立したとされる『八幡愚童訓』という書物にあらわれる、鹿児島神社の成立の説話は次の通りです。以下、ウィキペディアからの引用ですが…

「震旦国(インドから見た中国)の大王の娘の大比留女は七歳の時に朝日の光が胸を突き、懐妊して王子を生んだ。王臣達はこれを怪しんで空船に乗せて、船のついた所を所領としたまうようにと大海に浮かべた。船はやがて日本国鎮西大隅の磯に着き、その太子を八幡と名付けたと言う。継体天皇の代のことであると言う。」との記載がある。 八幡神は大隅国に現れ、次に宇佐に遷り、ついに石清水に跡を垂れたと『今昔物語集』にも記載されている。

(以上、引用終わり)

継体天皇の時代であれば時代は合わないのですが、宇佐を経由して畿内に至るルートが神武東征と一致しているのも興味深いです。これが仮に時代を間違えて伝えられた伝承であるとするならば、邪馬台国の成立に何らかのヒントを与えてくれるのかも知れません。
なお、鹿児島神宮は今の鹿児島市ではなく霧島山麓にあり、「神武天皇の時に天津日高彦穗穗出見尊の宮殿であった高千穂宮を神社としたもの」とされているそうで、さらに神功皇后と応神天皇(八幡神)、倭人の祖とされる「呉の太伯」を祀っているそうですが、これは後世に付け加えられたのかも知れません。

八幡神(やはたがみ)というのは新羅に出兵したという応神天皇を神格化したもので、さらにその母である神功皇后と「比売神」を三神として崇拝するものですが、蒙古襲来のころに外敵追放を願う武士たちの間で盛んに崇拝されるようになったようです。
この「比売神」というのが謎の存在で、通常は海人たちの神である「宗像三女神」を指すとされていますが、ずばり卑弥呼のことを指すのではないかという説もあるそうです。
いずれにせよ、日本書紀では神功皇后のことを魏志にあらわれる卑弥呼である、と断定しており、当時から神功皇后と卑弥呼が混同されはじめていたのだろうと思います。
>>[26]

ありがとうございます。一年もとまっていたのですね、このトピ。
「系譜と傳記」なんていう雑誌があったんですねぇ。当時の同人誌的なものだったのでしょうか。
先人たちの膨大な蓄積の末に、今の論争があるのだなぁと思います。
神道系の会合で発表された、というのも面白いです。
戦前は恐らく「神功皇后=卑弥呼」という説が絶対的な権威を持っていたのだと思いますが、そのあたりをどう理論的に処理していたのか、が気になります。
神功皇后のいた北九州こそが邪馬台国であり、畿内大和とは別の存在であり、畿内大和の源流である高天原でもある、という理解の仕方でよいのでしょうか。
破天荒の史的発見・古事記対照詳解・高天原は筑後倭

筑紫やまとという言葉が新鮮に感じます。本当に長い歳月にわたっての多くの人々の思考の上にたって、物を考えられるわたしたちは幸せ者ですね。

ところで邪馬台国=高天原というのは九州説を根幹とした考えですね。近畿だと難しいと思う。
天照を更級日記の中で伊勢にいる神  アマテル オンオオカミ
表現してる個所があります。

これでいくと高天原も読みが違う。たかまがはら  ではなくて
たか あめ ばる
ではないかと思っている次第です。

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