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猛虎伝説コミュの真弓明信(全11伝説)

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真弓明信 まゆみ・あきのぶ
背番号 7
在籍1979年〜1995年

愛称「ジョー」 新生西武ライオンズの目玉として田淵のトレードがあった時、交換要員に指名された。
打撃良し、守備良し、顔良し 三拍子そろったスター選手。「1番ライト真弓」のアナウンスに合わせて鳴り響くミッキーマウスマーチで甲子園球場全体がゆれた。通算292本塁打とクリーンアップも打てる史上最強の1番打者。首位打者1回 オールスター9回 晩年は代打でも活躍した。
甘いマスクで「朝日オートセンター」などCM出演も多数。

1953.7.12生
出身地   福岡県大牟田市(熊本県玉名郡南関町生まれ)
出身校   柳川商業高校
ノンプロ  電電九州
遊撃手→二塁手→外野手(ライト)  右投げ右打ち

炭鉱の町に育ち、三池工(上田卓三)の甲子園優勝パレードにあこがれて本気で野球に取り組む。
小学校3年から大牟田市
1969年〜1971年 柳川では3番を打つ、5番捕手は若菜で柳川最強と言われたチームだったが甲子園には出場できず
1972年 電電九州で都市対抗出場  ドラフト3位で太平洋に入団 獲得に際しては青木一三専務が強く推薦した

1973年〜1978年 太平洋・クラウン  1978年にレギュラー獲得
 田淵の放出という基本線で、「藤田平が腰痛でフル出場できなくなったため真弓が欲しい」という要望が出された。
 田淵・古沢−真弓・竹之内・若菜・竹田 大型交換トレードで阪神タイガースに移籍

1979年 阪神タイガース 背番号7 1番ショート 125試合 13本51打点 .275 5月20日サイクルヒット
1980年 113試合 29本74打点 .285 オールスターファン投票出場 10月12日ナゴヤでダブルヘッダー両試合先頭打者ホームランを記録
1981年 111試合 13本36打点 .273 オールスターファン投票出場
1982年 130試合 15本55打点 .293 オールスターファン投票出場
1983年 112試合 23本77打点 .353首位打者 ベストナイン セカンドにコンバートされた
1984年 117試合 27本64打点 .286 7月16日17日2試合連続先頭打者ホームランを記録
1985年 119試合 34本84打点 .322 オールスターファン投票出場 ベストナイン 9月月間MVP ライトにコンバートされた
1986年 123試合 28本60打点 .307 オールスターファン投票出場
1987年 119試合 23本53打点 .270 オールスター出場 10月3日神宮バックスクリーン場外に消える先頭打者ホームラン
1988年 130試合 17本67打点 .270 オールスター出場
1989年 95試合 16本37打点 .247
1990年 79試合 17本49打点 .304
1991年 102試合 17本61打点 .267 オールスターファン投票出場
1992年 68試合 1本12打点 .208
1993年 63試合 2本10打点 .222
1994年 65試合 2本30打点 .270
1995年 内野手登録 25試合 0本4打点 .222  9月26日戦力外通告 11月15日任意引退

1996年〜1999年 朝日放送解説者 サンテレビ解説者 日刊スポーツコメンテーター
99年 サンテレビ 初代熱血タイガース党党首(近鉄コーチ就任により惜しまれながら辞任)
2000年〜2004年 大阪近鉄打撃コーチ

2005年 朝日放送・サンテレビ解説者

<自著本>
1991年 猛虎は死なず ?ベースボールマガジン社
1996年 タイガースに捧ぐ ?ザ・マサダ

実働23年 出場2051試合 打数6624 安打1888 本塁打292 打点886 盗塁200 犠打55 犠飛40 三振953 打率.285

コメント(13)

★太平洋クラブライオンズ時代★

小学3年生のとき、福岡県に移住し、柳川商業高校から社会人野球の電電九州に進んだ。
いきなりレギュラーとして都市対抗野球に出場して注目され、社会人1年目にしてプロから指名され、1973年、ドラフト3位で太平洋(のちクラウン)に入団する。
1年目の出場2試合目で平凡なゴロをファンブルしたのがきっかけでチームがサヨナラ負けを喫し、2軍落ちになり、以後、背番号を2から42に格下げになるなど、冷遇を受ける。
同年の夏に米国の教育リーグに留学した後、1975年江藤愼一監督に打撃の才能を見出され、5年目の1977年にようやく頭角を現し、116試合に出場。1978年にはレギュラーに定着して打率.280、8本塁打、34盗塁という成績を残し、ベストナインに選出される。
★ニックネームは"ジョー"★

真弓という名前は、アメリカ人には発音が難しいという。真弓は、太平洋に入って1年目の夏、ファームのチームが参加するアメリカの教育リーグにいた。
しかし、アメリカ人は、「まゆみ」がうまく言えない。そのため、チームの監督をしていた和田博実がアメリカで人気のあった『あしたのジョー』の主人公、矢吹丈からとって「ジョー」と名づけた。真弓の風貌がジョーによく似ていたためであり、非常に呼びやすかったからでもある。
そしてその愛称は、真弓の現役時代を通じて使われることとなった。
★電撃トレード★

プロ6年目となる1978年の真弓は、シーズンを通してレギュラーに定着し、打率.280を残して規定打席にも到達が、真弓の前途がようやく開けてきた矢先、九州のクラウンライターは、所沢の西武に身売りされることが決まる。
西武は、凋落していたチーム立て直しのために、柱となるスターを必要としていた。
そしてその当時、阪神も、ミスタータイガースの名を欲しいままにしていた田淵幸一を放出しての補強を進めていた。
西武は、そんな田淵幸一の獲得に乗り出すと、阪神は、交換相手として真弓を指名してきた。阪神は、若手の遊撃手を探していたのだ。
トレードは、阪神の田淵幸一捕手・古沢憲司投手に対して、西武の真弓・竹之内雅史外野手・若菜嘉晴捕手・竹田和史投手の2対4という大掛かりなものとなった。
阪神ファンは、このとき、田淵の放出に対して猛反発をしたという。しかし、幸いなことに阪神は、後に不動の1番打者となる真弓を得ていた。
もし、このトレードがなければ、1985年の日本一はなかっただろう。なぜなら田淵は、その前年の1984年限りで引退してしまっているからである。
★真弓と若菜★

真弓と若菜は福岡県柳川商業高校野球部の同期で、真弓が三番、若菜が五番を打つという最強コンビだったが二人は甲子園には縁がなかった。

高校卒業後は、真弓が電電九州、若菜がドラフト四位で西鉄ライオンズと一旦二人は違う方向へと進むことになった。
その年、真弓は電電九州で活躍、都市対抗に出場して太平洋クラブライオンズ(元西鉄ライオンズ)にドラフトで三位指名され、再び真弓と若菜はチームメイトとなった。

そして1978年のオフに高校からの球友はまたも一緒にタイガースに移籍するという縁が続いた。
その後、真弓はタイガース史上最強の一番バッターといわれ、若菜は田淵が抜けたあとの正捕手として活躍した。
紳士的な真弓とアウトロー的な若菜というイメージが強いが若菜ら友人によれば、本当に喧嘩っ早いのは真弓の方らしい。
★ゴルフのショットから本塁打量産へ★

太平洋・クラウン時代の真弓は、本塁打を量産できる打者ではなかった。クラウン在籍最後の1978年も真弓は、規定打席に到達しながら8本塁打しか放っていない。

阪神に移籍した1979年に13本塁打を放って初めて2桁に乗せたものの、ここまでの通算本塁打数はわずか28本だった。

この頃、真弓は、オフの時間を利用してゴルフをするようになっていた。しかし、なぜかまっすぐ飛ばず、いつもスライスしてしまう。
1979年のオフ、真弓は、ついにまっすぐ遠くへ飛ばすコツをマスターする。そのコツは、ドライバーのヘッドの使い方にあったのだという。

このことは、真弓のバッティングスタイルまでも変えてしまう。バットのヘッドの使い方にも応用させて飛距離を伸ばしたのだ。バットもそれまでのツチノコ型バットから細いものに変え、体を開いてバットを遅れ気味に出す打法に変える。効果はすぐに出た。
1980年の真弓は、1番打者ながら29本塁打を放つ。これは、セリーグ本塁打ランキング5位の成績だった。
★史上最強の1番打者★

1番打者でありながら本塁打を打ちまくり、堅守・俊足で打率・打点・本塁打ともに下手なクリーンナップをはるかに凌ぐ成績を残し、1番打者の常識を根底から覆した。

1981年に29本塁打すると、1985年には自己最高の34本塁打を放っている。それまで、1番打者としてこれほど本塁打を量産した選手はおらず、真弓は世界の盗塁王福本豊とともに「史上最強の一番打者」「脅威の核弾頭」と呼ばれて恐れられた。

そんな真弓が1番打者として初回先頭打者本塁打を放ったのは実に通算41回。これは、福本豊の43回に次いで歴代2位の大記録である。

さらに真弓は、1980年と1986年の2回に渡って5試合連続本塁打を記録してもいる。真弓は、それまでの1番打者の常識を大きく覆したバッターだった。
★阪神の日本一に貢献★

1985年の阪神は、強かった。4月17日の巨人戦でランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布による奇跡のバックスクリーン3連発によって勢いづいた阪神は、打ちまくってペナントの主導権を握っていく。

真弓も、これまで以上のハイペースで本塁打を積み重ねていた。
優勝を決める9月27日の試合でも本塁打を放った真弓は、このシーズン打率.322、34本塁打、84打点という自己最高の成績を残す。

他にもバースが打率.350、54本塁打、134打点、掛布が打率.300、40本塁打、108打点、岡田が打率.342、35本塁打、101打点と、歴史に残る大打者たちが軒並み自己最高レベルの成績を残した。
これだけの猛打が爆発すれば優勝は、当然の結果だった。しかも、名門阪神タイガースにとってこれが21年ぶりのリーグ優勝である。

日本シリーズでも打ちまくった阪神は、真弓が以前在籍していた西武を4勝2敗で破って日本一に輝く。真弓は、2本塁打を放つ活躍を見せ、優秀選手賞に輝いている。
★数々のポジション ★

入団時の遊撃手から二塁手、そして右翼と真弓のポジションはチーム事情により何度もコンバートされたが、持ち前の器用さでどのポジションもそつなくこなしていた。
そして、素晴らしい事になんと全てのポジションでベストナインに選出されている。
★シーズン代打最多打点記録★

真弓は、1990年代に入ると、代打での出場が増え、1992年以降は主に代打生活が続いていた。好打者であっても、代打稼業で成功することは難しいと言われているが、真弓は当てはまらなかった。代打でも好成績を残していた。

1994年、真弓は、代打で華々しい活躍を見せる。6月1日には4−6とリードされていた広島戦で代打逆転満塁本塁打を放った。
この年、真弓は、打率.270、2本塁打、30打点を記録する。
30打点は、1941年の宮川孝雄、1985年の平田薫が記録したシーズン代打24打点という日本記録を6打点も更新する快挙だった。
★現役へのこだわり ★

1995年、阪神大震災によって神戸の自宅からの交通が麻痺し、真弓は球団の合宿所で暮らすこととなる。そこでの慣れない生活のせいか、真弓はシーズン前に右太腿を痛め、6月には左太腿を痛める。さらに8月には右ふくらはぎまで。

真弓は、この年、打率.222、本塁打0でシーズンを終える。阪神は、そんな真弓に引退試合を用意し、胴上げも行った。

しかし、真弓は、現役続行にこだわった。好きな野球をできうる限り現役でプレーし続けたい、という希望からだった。
それは、「年俸はいくらでもいいからもう1年野球をさせてくれ」と球団に頼んで実現させた川藤幸三や、「俺を必要としている球団があれば、どこでだってプレーし続ける」と最後まで自由契約のまま現役を終えていった落合博満と共通する部分がある。

しかし結局、真弓の獲得に動く球団はなかった。納得した真弓は、11月11日、42歳で阪神での現役引退を表明した。
★コンバットマーチ★

ミッキーマウスのテーマ曲に合わせたテンポの良い真弓の応援マーチは阪神史上に残る名曲であろう!

真弓〜真弓〜ホームラン♪
真弓〜真弓〜ホームラン♪
かっ飛ばせ 真弓〜♪
真弓選手の長打への開眼は、ある選手から、実際に聞いていました。大阪の「よみうりテレビ」が、毎年、オフの企画の一つとして、放送していた「ゴルフ阪神・巨人戦」のドラコン賞を獲得して、開眼したと、K選手が、仰ってました。
これも、「縁」でしょうか、平成4年に、同じく柳川高校出身の同級生、久保康生投手(S63近鉄からトレード)と立花義家選手(H4西武からトレード)の元チームメイト同士が、阪神に在籍しています。
久保選手は、現在、タイガースの投手コーチ、立花氏は、清原選手の前に、10代で、プロ野球の4番を打ったスラッガーで、台湾球界に、行ったのでしたよね。
彼らの3年の時は、甲子園に出場。優勝候補の筆頭でしたけど、全国制覇は、なりませんでしたね。

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