ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

猛虎伝説コミュの戦前の猛虎伝説(全13戦士)

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
戦前の猛虎伝説 1935年〜1944年

☆1935年12月10日『大阪タイガース』発足☆

1934年12月26日に大日本東京野球倶楽部(のちの巨人)をスタートさせた読売新聞社長・正力松太郎は、1920年に発足した日本最初の職業野球チーム・日本運動協会の失敗に鑑み、複数のチームでリーグ戦を行う事が成功の絶対条件であると考えた。
そして、正力から誘われた東洋一のマンモス球場・甲子園を持つ阪神電鉄が1935年12月10日に『大阪タイガース』を正式に発足させた。

六大学のスターを集めた巨人に対抗して、法大のエースだった若林忠志や明大の闘将だった松木謙治郎を入団させた。
さらに、立大生だった影浦将を中退させて獲得。
中等球界からは、夏の甲子園を制覇した呉港中のエース・藤村富美男も加わり「甲子園」という器にふさわしい人材があつまった。

≪1936春夏 9勝6敗0分.600 監督:森 茂雄≫
 ※開幕オーダーと春夏成績

1番 中堅 平桝敏男   右 15試合 .261 本塁打0 打点7
2番 左翼 藤井勇    左  15試合 .365 本塁打1 打点5
3番 右翼 御園生崇男 右 11試合 .240 本塁打0 打点0
4番 一塁 松木謙治郎 左 15試合 .254 本塁打0 打点12
5番 三塁 景浦将    右 15試合 .328 本塁打1 打点17
6番 投手 藤村富美男 右 13試合 .297 本塁打0 打点5
7番 捕手 小川年安   右 11試合 .477 本塁打0 打点9
8番 二塁 伊賀上良平 右 15試合 .218 本塁打0 打点5
9番 遊撃 岡田宗芳   右 15試合 .294 本塁打0 打点7

控え 若林忠志 右   9試合 .286 本塁打0 打点6
控え 山口政信 右 13試合 .333 本塁打2 打点6

投手 若林忠志   右 9試合 68回 5勝2敗 3.97 
投手 藤村富美男 右 8試合 40回 3勝3敗 2.60 
投手 御園生崇男 右 4試合 15回 1勝1敗 3.60 
投手 景浦将     右 1試合   2回 0勝0敗 6.00 

初代監督は早大OBの森茂雄だったが、ペナントレースがスタートした1936年の7月にあっさりと解任されてしまう(お家芸の?トラ騒動のスタート)。
後任の石本秀一は広島商の監督として全国制覇し、真剣の刃渡りをさせる独特の指導で鶴岡一人らを育てた男で、個性派集団をよくまとめて1937年は最強チームを作り上げた。

1936年度優勝決定戦で巨人に1勝2敗で敗れたタイガースだったが、1937年秋のシーズンは対巨人戦7勝無敗と沢村栄治やスタルヒンを打ちのめした。
そして同年の優勝決定戦で再び巨人と対決して4勝2敗でついに日本一となった。
この決定戦では"酒仙投手"西村幸生が沢村に2度、スタルヒンに1度投げ勝って3勝をあげた。

沢村の豪速球を打つために投手をプレートより1m前から投げさせる打撃練習を行った事はあまりにも有名だが、これは松木とハワイ出身の二世選手"カイザー"田中義雄のアイディアだったと言われている。

翌1938年の決定戦は巨人に4タテを食らわせてV2を成し遂げた。
巨人の第4戦の先発はあの"打撃の神様"川上哲治で負け投手になっているが、この試合でセンターを守っていたのが"猛牛"千葉茂だった。
二人のルーキーは「野球を見る目が変わってしまった。タイガースを倒すことが唯一の目標になった。」と口を揃えていたようだ。

1939年から、それまでの春秋2シーズン制から1シーズン制に変わったが、タイガースはこの長期ペナントレースを戦い抜くスタミナが欠けていた。
若林が28勝して防御率トップと力投し、巨人には勝ち越したが下位チームに取りこぼして巨人に3.5ゲーム差及ばなかった。

1940年は巨人に10.5差の2位。
この年の夏は満州でリーグ戦を挙行したが、8月3日の大連での巨人戦で三輪八郎がノーヒット・ノーランを達成させて、それまでに沢村に2度喫した屈辱を晴らした。
同9月25日にタイガースは阪神とチーム名を改めたが、カタカナが追放された時代だった。

1941年になると戦時色が濃くなり、出征の選手が多くなり、順位も5位と大きく沈んだ。

1942年は松木も影浦も藤村もいないシーズンで、巨人に21ゲームも離された3位に終わった。

1943年は影浦と藤村が戻ったが衰勢は覆いがたく3位で巨人に5連覇を許してしまう。

1944年になると戦争はますます激しくなり、プロ野球は8球団から6球団に縮小された。
この年のシーズンは1942年からプレーイング・マネージャーになった若林の大車輪の活躍、8月30日に夏季戦が終わった時点で阪神は27勝6敗2分けでトップだったが、27勝のうち実に22勝が若林がマークした。
そして戦争の影響で9月26日にペナントレースを打ち切りしたため、阪神の優勝が決定した。
最高殊勲選手にはもちろん若林が阪神では初めての受賞をした。

同年11月13日、日本野球報国会は一時休止の声明を出した。

コメント(21)

景浦将 かげうら・まさる
背番号 6
在籍1936年〜1939年 1943年

初代ミスタータイガースと呼ぶ人もいる創世記の最大のスター選手。
人呼んで「闘将」、投打にわたり打倒沢村に燃えた。
首位打者1回 打点王2回 最高勝率1回 最優秀防御率1回
給料の面で球団と揉めたり、2度の出征のため、野球人生は短かった。

★影浦将(全7伝説)
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=14698513&comm_id=1721075

1915.7.20生
出身地  愛媛県
出身校  松山商業 立教大学中退
外野248 投手56 三塁30 一塁28 右投右打
173cm 75kg

1931年 春夏甲子園出場 7番サード
1932年 投手兼三塁手で甲子園出場 春優勝 夏は決勝で3塁打二本放つが投手強襲の打球を脚に受け降板 準優勝
1936年 2月28日 阪神側の熱意によって立教大を中退し、大阪タイガース創立時に入団

1936年 背番号6 46試合 2本 38打点 .275  投手 9試合 6勝0敗 1.05 最高勝率(秋) 
1937年春 55試合 2本 47打点(打点王).289 投手 22試合 11勝5敗 防御率0.93で2位  開幕投手
1937年秋 38試合 3本 31打点 首位打者 .333 投手8試合 東西対抗出場 外野を守る事が多くなった
1938年春 31試合 5本 31打点(打点王) .283 投手6試合 2勝0敗
1938年秋 27試合 1本 13打点 .263 投手5試合 2勝1敗
1939年 74試合 9本 38打点 .258 投手6試合 2勝2敗 東西対抗出場

1940年〜1942年 応召する 出兵

1943年 除隊 阪神復帰 主将 52試合 3本 24打点 .216  一塁28試合 三塁24試合 東西対抗出場

1944年 家業の材木店を継ぐため帰郷 その後応召する
1945年 フィリピン・カラングラン島で戦死(餓死したとも言われる 5月20日)

1965年 殿堂入り

投手4年 登板56試合 勝利27 敗戦9 完投10 完封2 奪三振134 投球回274.1 奪三振134 防御率1.58
打者5年 出場323試合 打数1134 安打307 本塁打25 打点222 盗塁28 打率.271
藤村 富美男   ふじむら ふみお
背番号 10
在籍1936年〜1958年

初代ミスタータイガース

37インチもある長い「物干し竿バット」で豪快に本塁打を放ち、常に闘志あふれるプレーを見せて、「闘将」と呼ばれた。
栄光の背番号『10』は永久欠番である。
首位打者1回 本塁打王3回 打点王5回

★藤村富美男(全20伝説)
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=14067979&comm_id=1721075

1916.8.14生
出身地  広島県呉市下山手町
出身校  呉港中学(大正中学から改名)
(1年目投手) 二塁 三塁 一塁 右投げ右打ち

1932年 大正中では中学2年でエース 甲子園出場
1933年 甲子園出場
1934年 春夏甲子園 夏は優勝投手  捕手は原一朗 外野に塚本
1935年 夏甲子園出場

1936年春 大阪タイガースに投手として入団 背番号10 開幕投手で完封勝利 6番打者 13試合 5打点 .297
1936年秋 25試合 .346 本塁打王2本 13打点
1937年春 肩を痛めて二塁手転向 40試合 15打点 .238
1937年秋 40試合 16打点 .317
1938年春 35試合 20打点 .301
1938年秋 40試合 1本 34打点 .262 東西対抗出場

1939年 1月 応召
1939年〜1942年 中国で従軍 乙幹まで昇進 バンダ海で潜水艦に撃沈されるも半日泳いで助かる

1943年 期間満了で除隊 タイガース復帰 34試合 11打点 .202 東西対抗出場
1944年 打点王49 35試合 .315 東西対抗出場
1945年 正月大会に4番3塁で参加してから応召される 内地 広島で穴掘り 九州で軍用犬の世話 終戦後は呉に帰ってからチーム合流 東西対抗に参加

1946年 主将兼監督代理 96試合 5本 191打点 .323 東西対抗出場
1947年 119試合 2本 .271 打点王71 東西対抗出場
1948年 140試合 13本 .290 物干し竿 打点王108 ベストナイン サイクル安打を記録 東西対抗出場
1949年 137試合 .332 MVP 本塁打王46 打点王142 ベストナイン 東西対抗出場
1950年 140試合 39本 146打点 .362 兼任コーチ 首位打者 ベストナイン サイクル安打(二度目)  東西対抗出場
1951年 113試合 23本 97打点 .320 兼任コーチ ベストナイン オールスターファン選出
1952年 120試合 20本 95打点 .314 兼任コーチ ベストナイン オールスターファン選出
1953年 130試合 .294 兼任コーチ 本塁打王27 打点王98 オールスター出場
1954年 114試合 21本 78打点 .273 助監督兼務 オールスター出場
1955年 112試合 21本 63打点 .269 助監督兼務 岸監督退陣後監督兼務 オールスタ−出場兼コーチ
1956年 51試合 4本 19打点 .219 監督兼務 オールスターコーチ
1957年 監督就任 オールスターコーチ
1958年 24試合 1打点 .115 現役復帰 同年末引退 
1959年 3月2日引退試合

1963年 国鉄コーチ
1964年〜1965年 東映コーチ
1967年〜1968年 東映二軍監督
1969年 評論家に転身

1974年 殿堂入り

実働17年 出場1558試合 打数5648 安打1694 本塁打224 打点1126 盗塁103 打率.300
投手 実働10年 登板76試合 勝利34 敗戦11 完投14 完封4 投球回345.1 奪三振183 防御率2.34
監督通算4年 采配462試合 勝利266 敗戦190 引分6 勝率.583
若林忠志 わかばやし・ただし
背番号 18
在籍1936年〜1949年

"七色の変化球"で大車輪の活躍

中学・高校とハワイで過ごし、法大を経てコロムビア、そして創立されたばかりのタイガースに、当時としては破格の1万円という契約金で入団した。
六大学の剛球投手だったが、肩を故障してからは"七色の変化球"を駆使し抜群の勝負勘と制球力で1939年には28勝をマークした。
また速球はズシリと重く、何よりもタフだった。
1942年からエース兼任監督として大車輪の活躍で、特に戦時下の1943年には52試合に登板して39完投、24勝、415回2/3を投げるという人間機関車ぶりで本塁打はたった1本しか打たれていない、また、なんと41歳の時に15勝している。
監督になってからは禁酒・禁煙を守り、ファンクラブを球団に働きかけて作ったりして、とてもファンを大切にしていた。
別当薫をかわいがり、その反動で藤村富美男が造反。
嫌気もさして2リーグ分裂の1949年オフに別当・土井垣らと毎日に移籍した。
MVP2回 最高勝率2回 最優秀防御率2回 最多勝1回 愛称はBOZO

1908.3.1生
出身地  ハアイオワフ島 日系人(両親は広島県出身)
出身校  マッキンレー高校 本牧中学(半年だけ) 法政大学
ノンプロ  川崎コロンビア
投手 右投右打

マッキンレー高校で1年先輩の田中義雄の指導で投手になり、ハイスクールに在籍しながらハワイ朝日軍で活躍
1928年 カリフォルニア州の日系人チーム大和軍のメンバーとして来日 法政大学から川崎コロンビア
1935年 都市対抗出場 1回戦完封 2回戦2失点 準決勝完封 決勝は7回3失点も準優勝 

1936年 大阪タイガース 背番号18 春9試合5勝2敗 3.97  秋 開幕投手 12試合5勝4敗2.25
1937年春 21試合8勝2敗 1.76
1937年秋 19試合9勝4敗 2.49 開幕投手 東西対抗出場
1938年春 肩を痛めて登板なし
1938年秋 7試合4勝2敗 3.00 東西対抗出場
1939年 主将 48試合28勝7敗 1.09 開幕投手 防御率1位 勝率1位 東西対抗出場
1940年 助監督 56試合22勝17敗 1.81 東西対抗出場 日本国籍習得
1941年 助監督 42試合18勝17敗 1.45 開幕投手 東西対抗出場
1942年 兼任監督 58試合26勝12敗 1.60 開幕投手 東西対抗出場
1943年 兼任監督 52試合24勝15敗 1.06 10完封 東西対抗に監督として出場
1944年 兼任監督 31試合22勝4敗 1.56 MVP 防御率1位 最多勝 勝率1位 東西対抗に監督として出場
1945年 兼任監督として正月大会先発出場 退団、妻の実家の石巻に疎開 会社経営

戦後日和クラブで活動していたが、球界復帰を望まなかった婦人に黙って9月に球界復帰(38歳)
1946年 背番号18 12試合4勝4敗 3.04 東西対抗出場
1947年 兼任監督 背番号30 43試合26勝12敗 2.09 10完封 開幕投手 MVP 東西対抗監督で出場
1948年 兼任監督 48試合17勝20敗 2.48 東西対抗出場
1949年 兼任監督 43試合15勝14敗 3.29 開幕投手
    毎日オリオンズに別当・呉らをつれて移籍(毎日事件)

1950年〜1953年 毎日オリオンズ  3年 27試合 4勝8敗  50年日本シリーズで好投し毎日の日本一に貢献した
1954年 毎日オリオンズ 営業担当取締役

1955年〜1956年 トンボ・高橋ユニオンズ コーチ 顧問(ヤンキース日本常駐スカウト)
米国 MCA・TV日本代表
1961年 大洋二軍投手コーチ  週二日の非常勤で登録なし

1963年〜1964年 西鉄ヘッドコーチ  ウィルソン・ロイ・バーマを連れてきた

1964年 野球殿堂入り

主な参考資料:
七色の魔球〜回想の若林忠志 著者:山本茂 ベースボールマガジン社
プロ野球を変えた男達  著者:鈴木明 新潮社

実働16年 
打撃 出場589試合 打数1472 安打319 本塁打7 打点147 盗塁17 犠打57 打率.217
投手 登板528試合 勝利237 敗戦144 完投263 投球回3557.1 奪三振1000 防御率1.99
監督通算7年 采配740試合 勝利390 敗戦324 引分26 勝率.546
森茂雄 もり・しげお
背番号 25
在籍1936年

大阪タイガースの初代監督
9勝6敗 勝率.600

母校・松山商を甲子園で優勝させた"勝運"を買って、タイガースは初代監督に森を招へいした。
影浦将、伊賀上良平など後輩も集まったが、ライバル・阪急の後塵を拝したために、早くも7月に突然に更迭される。
迫力がないのが気に入らなかったらしく、石本秀一と交代させたのだが、阪神のお家騒動の始まりだった。

翌、1937年イーグルスの監督となり、戦後は早大の監督として10年で9回優勝。
1959年に大洋の監督を務め、翌1960年に球団社長に就任すると三原脩監督の引き抜きに成功して優勝した。
松木謙治郎 まつき・けんじろう
背番号 9
在籍1936年〜1941年 1950年〜1951年

大阪タイガースの初代主将

悠然と打席に向かう姿から、歌舞伎の悪役「仁本弾正」と呼ばれた。
明大から名古屋鉄道局を経て満州・大連実業で名を馳せ、巨人の沢村栄治との初対決で3打席3三振の屈辱から"打倒沢村"に執念を燃やした。
それがタイガースに入りを決意させ創立とともに入団して、初代の主将に選ばれチームのけん引車となった。

1936年の初の巨人との優勝決定戦は負傷のため欠場したが、1937年春には沢村攻略に向け投手を1m前から投げさせるなどの特訓を試みた結果、打率.338で首位打者、本塁打王となる空前の1番打者で、チームも沢村を打ち崩して優勝している。

影浦将、藤村富美男、西村幸生などの野武士軍団も松木には一目置いていたのは、腕っ節が強く1kgのバットをブンブン振り回して腕相撲はチームで1番強かったからだ。
酒豪で知られ、三代目(兼任)及び五代目の監督も務めた。

1909.1.22生
出身地   福井県敦賀市
出身校   敦賀商業 明治大学
ノンプロ  名古屋鉄道 大連実業団
一塁手  左投左打

敦賀商業では英語科 校内野球大会の投手として優勝し野球部入り 1年からレギュラー
1925年 甲子園初出場のメンバー
1926年 甲子園出場
1927年 明大進学 1年からレギュラ
1933年 名古屋市で都市対抗出場
1934年 満州に渡って大連実業団

1935年 11月6日 大阪タイガースと契約
1936年 大阪タイガース 背番号9  初代主将 41試合 1本 27打点 .224
      優勝決定戦には右膝負傷で欠場
1937年春 主将 56試合 本塁打王4本 28打点 首位打者.338
1937年秋 主将 44試合 3本 34打点 .250 東西対抗に出場
1938年春 主将 34試合 3本 27打点 .262 
1938年秋 主将 37試合 4本 22打点 .274 東西対抗に出場
1939年 助監督兼務 93試合 1本 41打点 .286 東西対抗に出場
1940年 兼任監督 背番号30 98試合 2本 32打点 .236 東西対抗に出場
1941年 兼任監督 65試合 13打点 .219    軍需工場に勤務し、オフ退団

1945年 応召 二等兵  沖縄戦で負傷 石川収容所に入れられる

戦後大同製鋼勤務 のちに実家の鉄工所(松木工業)の社長となる。

1949年 12月 毎日事件で監督不在のタイガースに兼任監督で復帰
1950年 背番号9 10試合 1打点 .273
1951年 背番号30に変更 1試合 .000  現役引退

1952年 監督
1953年 監督
1954年 監督  松木自身と藤村が退場になった大阪球場事件の責任を感じ、退団

1955年 大映スターズ コーチ  
1956年〜1957年 大映スターズ 監督
1958年〜1960年 東映フライヤーズ コーチ 

1961年〜1968年 NHK解説者

1969年〜1971年 東映フライヤーズ 監督

1978年 殿堂入り
   タイガースOB会長就任

1986年 2月21日逝去

実働8年 出場479試合 打数1706 安打448 本塁打18 打点224 盗塁94 犠打12 犠飛7 三振128 打率.263
監督通算11年 試合1263 勝利628 敗戦602 引分25 勝率.511
御園生崇男 みそのお・たかお
背番号 15
在籍1936年〜1939年 1941年〜1951年

"冷静沈着"あだ名は「銀行員」

巨人ナインが「あいつらは何をしでかすか分からん。」とボヤいたほどの野性味軍団のタイガースにあって、「銀行員」と呼ばれた紳士である。
1936年に関大から入団して黙々とプレーをしていて、関大の後輩で熱血漢の村山実が「先輩が怒鳴っているのを聞いた事がない。」と言っていたほどである。
戦前は巨人キラーでならし、いち早くゴルフを趣味にしたモダンボーイで名前も「御園生」だし、写真を見ての通りにその風貌から「先祖は公家さんらしい・・・」と噂された。

投手としては粘り強く、すばらしいコントロールで、内角シュートと外角低めへの速球を武器にして18連勝を記録しているし、最高勝率のタイトルを1937年秋・1938年春・1947年と3度獲得しているが、特に1937年秋は15試合で5完投、11勝0敗の勝率10割だった。

マウンドでは沈着冷静そのものだが、打撃には迫力があり登板がない日は一塁・外野を守り3割近い数字を残した年もある。
俊足ぶりも際立っていて、実働14年で87盗塁で、本盗も6回も成功させている。

人柄もよく、ナインからは親しみをこめて「みーさん」と呼ばれ、愛妻家でも有名で夫人が先立つとすっかり元気がなくなり、1965年、50歳の若さで夫人の後を追った。

1916.1.16生
出身地  山口県防府市
出身校  山口中学 関西大学中退
投手・一塁手・外野手 右投右打

1933年 選抜甲子園にエースで出場  同じチームの補欠に渡辺一夫
1934年 関西大学野球部入部  投手に北井・西村幸らが揃っていたこともあり主に外野手として出場
1936年 関西大を中退して2月1日大阪タイガースに入団

1936年 背番号15 32試合 .246  17試合登板 7勝2敗
1937年春 36試合 .213 18試合登板 8勝3敗
1937年秋 24試合 .261 15試合登板 勝率1位 11勝0敗
1938年春 18試合 .189 16試合登板 勝率1位 10勝1敗(前年から18連勝)
1938年秋 30試合 .288 開幕投手 19試合登板 11勝5敗
1939年  41試合 .220 21試合登板 14勝3敗

1940年 応召し入営 登録なし

1941年 阪神復帰 39試合 .231 4試合登板 0勝2敗
1942年 95試合 .241 43試合登板 13勝16敗 投手で東西対抗出場
1943年 61試合 .204 9試合登板 2勝6敗 野手で東西対抗出場
1944年 26試合 .298 3試合登板 1勝2敗 野手で東西対抗出場 応召

1946年 大阪タイガース 主将 85試合 .290 27試合登板 11勝9敗
1947年 54試合 .237 30試合登板 勝率1位 18勝6敗 東西対抗出場
1948年 94試合 .266 開幕投手 27試合登板 11勝9敗
1949年 54試合 .239 11試合登板 2勝2敗  前半戦は妻の胸部疾患による過労で体調崩す
1950年 主将 内野手登録 70試合 .190 22試合登板 7勝5敗 背番号11に変更
1951年 主将 72試合 .238 3試合登板 0勝0敗 背番号15に戻す 引退

1952年 コーチ (肺結核をわずらう)
1953年 二軍監督(まだ療養中のため 河西助監督)
1954年 二軍監督
1955年〜1956年 一軍コーチ
1957年 二軍監督
1958年 コーチ   体調面から退団

西宮市新甲陽町に住み 1965年7月10日逝去

投手 実働14年 登板285試合 勝利127 敗戦70 完投108 投球回1708 奪三振477 防御率2.39
打者 実働14年 出場831試合 打数2062 安打506 本塁打5 打点247 盗塁87 犠打39 犠飛2 三振147 打率.245
藤井 勇 ふじい・いさむ(後に藤井秀郎)
背番号 11
在籍1936年〜1938年 1942年 1970年〜1973年

プロ野球界初の本塁打を放った男

鳥取一中時代に京都商業の沢村栄治と対戦し、タイムリー二塁打を放った事もあったが中学卒らしからぬ巧打の選手で、草創期のいぶし銀の打撃職人であった。
1936年5月4日、甲子園の対セネタース戦の5回裏に野口明から右中間を破り打球が転々とする間に一気にホームイン、記念すべき史上初本塁打はランニングホーマーで記録された。
その風貌は素朴で荒削りに見えたが人格は繊細で温厚そのものだったので、プロの世界ではあまり目立つ存在とはならなかった。
戦後は1946年からパシフィック⇒太陽⇒大陽に在籍し、2リーグ分裂後の1950年からは大洋で活躍して、この年は打率.327、34本塁打をマークした。
1955年には兼任で大洋の監督を務めたが99敗と苦労をしている。
1970年、村山実監督は苦労人の経験を買い阪神のヘッドコーチに招へいした。
3代目ミスタータイガースの田淵幸一の打撃の師匠として基本から教育し、独自の理論で田淵を"史上最も美しいホームランを打つ打者"に育て上げた事でも知られる。

1916.10.20生
出身地  鳥取県鳥取市
出身校  鳥取一中 (現 鳥取西高校)
外野手 左投左打

1933年 春夏甲子園出場 一塁手で4番
1934年 夏甲子園出場  中河美芳(イーグルス)が1級下
1935年 地方予選決勝敗退 4番だった

1935年 11月16日 大阪タイガースと契約締結 入団する

1936年 背番号11 45試合 1本 19打点 .335 リーグ最多安打 プロ野球界初の本塁打を記録
1937年春 56試合 31打点 .256
1937年秋 49試合 1本 39打点 .299
1938年春 32試合 11打点 .291
1938年秋 29試合 6打点 .200

1939年 1月に 22歳で応召
1939年〜1941年 従軍  モンゴルへ
1942年 除隊され阪神に復帰

1942年 69試合 2本 25打点 .293 東西対抗出場

1943年 3月に再召集 千葉の歩兵校→中国

1945年 12月に帰国
藤本定義の誘いでパシフィックに入団、試合に出場したところ不当登録として出場停止とされる

1946年〜1949年 パシフィック、太陽ロビンス、大陽ロビンス   安具院栄次氏の誘いで太洋移籍
1950年〜1958年 大洋、洋松ロビンズ、大洋ホエールズ
    1954年助監督 55年は監督兼務で監督成績31勝99敗

1959年〜1961年 大洋コーチ
1962年〜1963年 大毎コーチ

1968年〜1969年 大洋二軍監督

1970年 阪神ヘッドコーチ 背番号71 田渕幸一を育てた
1971年 阪神ヘッドコーチ
1972年 阪神打撃コーチ
1973年 阪神ヘッドコーチ  シーズン中に病魔のため惜しまれながら退団

コーチ退役後、運動用品メーカー勤務

実働17年 試合出場1487 打数5387 安打1482 本塁打146 打点764 盗塁70 犠打14 犠飛7 三振466 打率.275
伊賀上良平 いがうえ・りょうへい
背番号 1
在籍1936年〜1940年 1949年〜1954年

真面目で堅実な"いぶし銀"

初代監督の森茂雄の後輩だったため、立大の影浦将とともにタイガースに、当時の旧制中学の選手としては破格の待遇で1936年に入団する。
同年の10月23日に対東京戦でボンナ投手からチーム初の満塁本塁打を放っている。
最初は森監督の家に下宿させられ、温厚でクソ真面目な森監督の下、まさに勤厳実直なプロ野球生活を送っが、当時は大学出と旧制中学出で"派閥"ができていたため、森監督はすぐに退団してしまったので伊賀上は苦労を重ねる事に。
しかし、ぞの真面目さと情熱とおとなしい性格から、中学出の選手の人望を集める。
そういう人物だからこそ、入団2年目からは寮長となり、のちには阪神のコーチも務められたようだ。
景浦が外野に転向した時にサードの守備位置を獲得し、守備は堅実で1番打者としてチャンスにも強く攻走守三拍子そろった名選手で、まさに"いぶし銀"という表現がピッタリで1940年には.257で打撃10位にも入り、東西対抗にも4度出場した。

1917.4.29生
出身地  愛媛県伊予郡松前町
出身校  松山商業
内野手(三塁・一塁) 右投右打

1935年 春夏甲子園に3番サードで出場 優勝  12月12日大阪タイガースと入団契約締結

1936年 背番号1 39試合 1本12打点 .183   10月23日大東京戦、球団史上第1号満塁本塁打
1937年春 52試合 29打点 .229
1937年秋 47試合 26打点 .225 東西対抗出場
1938年春 34試合 16打点 .256
1938年秋 37試合 1本24打点 .261 東西対抗出場
1939年 95試合 1本39打点 .240 東西対抗出場
1940年 94試合 3本37打点 .257 打撃ベストテン10位 東西対抗出場  応召

1943年 除隊したが腰の神経病でプレーできず阪神を退団

戦後 生活のために松山に戻り、松山実業団

1949年〜1954年 大映スターズ  プロ野球復帰 335試合出場
    1952年 潤伍に改名 

1955年〜1957年 大映スターズ、大映ユニオンズでコーチ

1958年〜1959年 四国電電 監督

1960年 阪神 打撃コーチ 背番号1
1961年 阪神 打撃コーチ

故郷に帰る
松山建装社参与

実働11年 出場733試合 打数2735 安打691 本塁打33 打点330 盗塁54 犠打27 犠飛2 三振224 打率.253
田中義雄 たなか・よしお
背番号 12
在籍1937年〜1944年

"カイザー田中"

ハワイ出身で、ドイツ皇帝「カイゼル」にあこがれてミドルネームは「カイザー」だったので"カイザー田中"と呼ばれるようになる。
「メガネをかけている捕手は大成しない」として、古田敦也(現ヤクルト)をドラフトで見送った阪神だったが、1937年の巨人は同じ理由で、当時ハワイのNo1といわれた好捕手だった田中の獲得に難色を示してタイガースに入団する事になる。
その冷静沈着なプレーは捕手が知力で戦う事を証明し、のちに土井垣武が闘志溢れるプレーでマスクをかぶったのとは対照的であった。
なにしろ、相手打者が打って走ったあとに、その投げ捨てたバットをきちんと拾って片付けたほどの紳士だった。

正捕手として1937年・1938年優勝の原動力となり、球団史上初の無安打無得点(1940年8月3日、対巨人戦)となった三輪八郎の91球のピッチングを好リードで支え、自ら決勝打を打つ勝負強さもあった。
中学時代は陸上短距離の選手だったため俊足で、また座ったままで盗塁を刺すほどの強肩でもあった。
東西対抗に5度出場、ベストナイン1回
ハワイ出身日系二世で戦時中は常に憲兵にマークされていたそうだ。

1907.4.2生
出身地  ハワイ オワフ島
出身校  マッキンレー高校 ハワイ大学
捕手 右投右打

マッキンレー高校では若林忠志の一学年上で仲良し。
    卒業後、高校教師をしていた 
1937年 若林に誘われて30歳で来日し入団

1937年 秋季 大阪タイガース 背番号12  43試合 3本 27打点 .291 東西対抗出場
1938年 春 24試合 1本 8打点 .333
    秋 33試合 19打点 .235  東西対抗出場
1939年 15試合 2打点 .313  病気で出場できず
1940年 101試合 42打点 .293  ベストナイン 東西対抗出場
1941年 84試合 19打点 .229  リーグ最多の21犠打 1試合登板 東西対抗出場
1942年 主将 104試合 31打点 .201 東西対抗出場
1943年 主将 70試合 1本 14打点 .229  景浦復帰後、主将退任
1944年 3試合 .000   徴用されてカラフト北部国境へ

戦後は北海道で米軍相手に仕事した

1950年 パ・リーグハワイ遠征に顧問として帯同した
1954年〜1957年 頃 臨時でコーチとしてタイガース選手を指導

1958年 監督(57年11月25日就任) 背番号30
1959年 監督  11月25日辞任

1961年〜1964年 大毎・東京コーチ  1963年〜1964年 二軍監督

実働8年 出場477試合 打数1619 安打400 本塁打5 打点162 盗塁45 犠打67 犠飛2 三振82 打率.247
投手 登板1試合 投球回1 0.00
監督通算2年 采配260試合 勝利134 敗戦117 引分9 勝率.534
西村幸生 にしむら・ゆきお
背番号 19
在籍1937年〜1939年

"剛速球の酒仙投手"

戦前に"酒仙投手"と呼ばれた本家本元。
関大の頃は剛速球で東京六大学を圧倒して1937年にタイガースへ入団。
酒好きだったが、いわゆるウワバミではなく少量でも陽気で楽しい酒で、例えば東京から大阪に移動する列車の食堂でずっと飲み続けて、一見すると酔いつぶれてしまってる。
これを見た巨人ナインが「これで明日の先発はないだろう?」と喜んだが、平気な顔で先発して完投するという離れ業を演じた。
また、東京遠征で門限のために好きな酒を途中で我慢して宿舎に戻ると、石本監督が麻雀をやってるのを見つけカッとして監督と取っ組み合いをするが、翌日には何事もなかったように後楽園で先発して完投勝利した剛の者だった。
初代巨人キラーとも呼ばれ1937年秋、1938年春の優勝にエースとして活躍して、巨人戦に勝って受け取る報奨金でのみに行く事を、こよなく喜びとしたという。
最優秀防御率2回 最多勝1回 東西対抗3回出場 在籍3年で55勝は立派、1945年フィリピン・マタンガス島で戦死した。
故郷の伊勢・倉田山公園野球場に同郷の沢村栄治と向かい合うように銅像が建っている。

1910.11.10生
出身地  三重県宇治山田市世古町  (現 伊勢市大世古町)
出身校  宇治山田中学 
ノンプロ  鳴海倶楽部(2年間 愛知電鉄に勤務)
出身大学 関西大学予科
投手 右投右打

関西六大学リーグで2回優勝 当時関西のエースとして東京六大学をなで斬りにした。
1932年 ハワイ遠征

1937年春 大阪タイガース 背番号19 19試合 9勝3敗 2.23
1937年秋 25試合 15勝3敗で最多勝 防御率1.48で1位 (しかしMVPにはなれなかった) 東西対抗出場
1938年春 19試合 11勝4敗 防御率1.52で1位 11勝4敗
1938年秋 20試合 9勝2敗 2.48 東西対抗出場
1939年 29試合 11勝9敗 2.41 東西対抗出場 契約切れで退団

1940年 満州・新京電電入社
1944年 応召する
1945年 4月フィリピン・マタンガス島で戦死

1948年 開幕前 読売とのオープン戦で 西村・沢村追悼試合が行われる。

1977年 殿堂入り
現在 伊勢市営倉田山球場前に、同郷の巨人沢村と共に銅像が建っている

実働3年 登板112試合 勝利55 敗戦21 完投51 投球回733.1 奪三振394 防御率2.01
山口政信 やまぐち・まさのぶ
背番号 8
在籍1936年〜1938年 1942年〜1943年 1946年〜1947年


"美男子の俊足外野手"
 
日新商からタイガースの創立に参加した俊足好打の外野手であった。
少し影のあるニヒルな二枚目で、当時では際立って都会的な匂いを撒き散らして「和製ディマジオ」とも呼ばれたが、小鶴誠が同じ愛称で呼ばれたので広くは定着してはいない。
人気は抜群で女性ファンが群がるという時代ではなかったので『追っかけ』こそいなかったが、とにかく女性にモテた阪神の選手は藤村富美男でも若林忠志でも松木謙治郎でもなく、この山口政信であった。
野球をやってなかったら間違い無くテレビや銀幕が放っておかなかったであろう。

記録としては1937年に29盗塁で盗塁王のタイトルを取り、2シーズン制でシーズン60四死球を記録するなど選球眼もよかった。
出征するまでは安定した打撃でレギュラー、特に変化球(カーブ)打ちには定評があった。
戦後に復帰したものの、深酒が災いして選手寿命を縮めたと松木謙治郎は言っていた。

1916.5.5生
出身地  大阪府
出身校  日新商業(現 東大阪市立日新高校)
外野手 右投右打

1934年 選抜甲子園にセンターで出場
1935年 春夏甲子園出場 一塁手本堂・投手田中(名古屋)のチーム  藤村冨美男の呉港中に乱戦の末敗退
    11月5日 大阪タイガースと契約

1936年 大阪タイガース 背番号8 44試合 2本16打点 .260
    9月25日巨人・沢村にノーヒットノーランされたが、その日山口は遊撃失策で出塁
1937年春 54試合 1本 44打点 .262 盗塁王29個  7月14日阪急戦でサヨナラ二塁打
1937年秋 48試合 2本 25打点 .274
1938年春 33試合 8打点 .299
1938年秋 37試合 22打点 .260  22歳で応召する

1939年〜1941年 従軍

1942年 除隊復帰 40試合 1本 11打点 .228
1943年 56試合 1本 16打点 .176   応召

1946年 9月に背番号18で復帰、若林復帰で背番号8に変更  28試合 9打点 .159
1947年 一塁手  43試合 1本 12打点 .168
     7月4日「読売多田1球で敗戦投手」投手交替後の1球目をサヨナラタイムリーした

1948年〜1950年 北海道土屋建設 (兼任監督)  会社野球部解散により50年シーズン中に広島へ

1950年〜1951年 広島カープ  129試合出場
    1951年阪神戦で駒田桂二からサヨナラホームランを打つ

1976年 3月22日 永眠

実働9年 出場512試合 打数1660 安打402 本塁打11 打点206 盗塁101 犠打16 四死球330 三振228 打率.242
三輪八郎 みわ・はちろう
背番号 38
在籍1939年〜1943年

"チーム初の無安打無得点"

阪神には戦前の三輪八郎、戦後の江夏豊と球史の残る左腕がいた。
江夏は野性味たっぷりだが、三輪はなで肩で色白の色男で物腰もソフトだった。
風呂に入っている時、その後姿を見た松木謙治郎が「一瞬ギクっとした、その色の白さとソフトさが女性じゃないかと間違えたぐらい」と言ったくらいだ。

しかし、ひとたびマウンドに立つとガラリと一変して、長身からのパワフルな速球とドロップが武器の左腕だった。
1940年8月3日には巨人相手にチーム初となる無安打無得点を記録しているが、当時の巨人のメンバーが凄いかった、白石、水原、千葉、川上、中島、平山、呉、吉原に投手はスタルヒン。
しかし、この強打線をわずか91球で見事1−0で快記録を達成させた、強い打球は川上の2塁ゴロしかなかったという。

群馬県の高崎中からタイガース入りして、わずか5年の在籍で32勝を上げて戦死したが巨人には滅法強かった。

1921.11.13生
出身地  群馬県群馬郡片岡村
出身校  高崎中学
投手 左投左打

1938年 桐生の稲川東一郎の紹介で早川二郎が獲得にあたり、大阪タイガースに入団

1939年 大阪タイガース 背番号38 12試合 2勝5敗 41.2回 2.14 24奪三振
1940年 47試合 16勝5敗 226.2回 1.51 7完封 112奪三振 8月3日巨人戦(大連)でノーヒット・ノーラン達成
1941年 27試合 2勝7敗 115.2回 2.25 55奪三振
1942年 18試合 1勝3敗 63回 2.29 35奪三振
1943年 30試合 11勝11敗 181.1回 2.42 108奪三振 開幕投手 東西対抗出場   応召

1944年 中国で戦死

実働5年 登板134試合 勝利32 敗戦31敗 完投22 完封10 投球回628.1 奪三振334 防御率2.03
石本 秀一 いしもと・しゅういち
背番号 30
在籍1936年秋〜1939年

大阪タイガースの二代目監督
223勝78敗6分 勝率.741

就任当時は、選手から「森監督いびり出し」の張本人のように見られたが、そんな事は意に介さず持ち前の頑固さとスパルタでチームをグイグイと引っ張り、巨人に対抗する強豪チームに作り上げた。
初代森監督の温厚型から正反対のカミナリ型の石本監督にタイガース本社は強引にスイッチした事になる。

なにしろ、当時のタイガースは「梁山泊」と言われたほど野武士が揃っていて、藤村富美男、松木謙治郎、西村幸生、影浦将などの腹の据わった者ばかり。
酒仙投手と言われた西村などは飲みたい酒を我慢し、門限を守って宿舎に戻ったのだが、石本監督が麻雀をしているのが気にいらんとつかみかかり取っ組み合いを演じたり、影浦は"アンチ石本"で、気にいらぬ打球は追わない・・・という無茶苦茶ぶりだった。
そのため石本はチャンスには身銭を切って賞金を出し、影浦の快打を演出するなど硬軟を使い分けて猛虎連中を平然と使いこなしただけでも凄かった。

タイガースでは1936年7月から1939年まで監督を務め、この間に2度優勝であとは2位。
『伝統の一戦』と言われる阪神vs巨人戦を確立させた功績は多きい。
その後、大洋、西鉄のコーチを歴任し、1950年から広島の初代監督としてカープの基盤づくりに苦労した。
資金力の乏しい市民球団がカンパを集める姿勢は、戦後のプロ野球復興に多大な影響を与えた。
1972年、野球殿堂入りをする。

1896.11.1生
出身地  広島県
出身校  広島商業 関西学院高等部商科中退
ノンプロ  大連実業団 広島商業監督
投手・内野手

1916年 全国中等学校優勝野球大会出場
大連で肩を痛めて一塁手に転向する
1923年〜1936年 大阪毎日新聞広島支局に勤務  広島商業監督として1929年30年甲子園二連覇

1936年 7月29日 大阪タイガース 監督
1937年 監督
1937年秋 監督 優勝
1938年春 監督 優勝
1938年秋 監督
1939年 監督 12月辞任

1940年 名古屋金鯱監督
1942年〜1943年 翼と球団合併し大洋・西鉄監督
1948年 国民リーグ グリーンパーク 結城ブレーブス監督
1949年 大陽ロビンス監督就任
1950年〜1953年 広島カープ初代監督 カープの貧乏さに募金活動に奔走した
1954年〜1955年 西鉄ライオンズ 投手コーチ

テレビ解説者

1977年 殿堂入り

監督通算12年 采配1115試合 勝利525 敗戦553 引分34 勝率.487
きっどさん から

考えられない御時世ですよね。プロ野球選手の主力や民間人が戦場で亡くなるなんて・・・。しかも海外で。。。能力が有るのに野球が出来ないのは辛かったでしょうね・・・。億なんかの金なんかで揉めるプロ野球選手には、今の幸せさを噛み締めてプレーして欲しいです。
>きっどさん

本当に・・・こんな時代があったんですね?
才能がありながら、好きな野球が出来ないなんて・・・

戦死された全ての猛虎戦士達に 合掌
石本監督は、広島商時代の鶴岡監督(現在、プロ野球の監督の勝利数1位)が、この世で、鬼になれる人は、この人だけと思ったことで、有名ですよね。素足で、日本刀の刃の上を歩かせたり・・・
今度、私のコレクションの1部をある出版社に投稿して本になることが決まりました。
阪神球団にも、協力していただいてますので、コレクションの1部は、球団に寄贈することになるかもしれません。

ログインすると、残り5件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

猛虎伝説 更新情報

猛虎伝説のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング