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猛虎伝説コミュの掛布雅之(全23伝説)

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掛布雅之   かけふ・まさゆき
背番号 31
在籍1975年〜1988年

四代目ミスタータイガース

テスト生のドラフト6位で年俸84万円で入団
本塁打王3回 打点王1回 最高出塁率2回 阪神の不動の4番サードに君臨し、ここ一番での打撃に誰もが背番号31にあこがれた。

1986年、中日戦で左手に死球を受けて骨折。これが掛布の実質上の選手生命を絶つことになった。その後、現役数年は相次ぐ故障に泣き、復活を目指しながらも、満足な成績を残せぬまま33歳という若さで1988年引退。

村山VS長嶋、江夏VS王、のように掛布と巨人の江川との対決は、歴史に残る名勝負と言われている。

1955.5.9生
出身地   千葉県千葉市
出身校   習志野市立習志野高校
三塁手(一塁8試合 遊撃30試合) 右投左打

1972年 2年生で遊撃手 夏甲子園出場
1973年 篠田仁タイガーストレーナーの伝手でテストを受けてドラフト6位指名 担当河西・櫟スカウト

1974年 阪神タイガース 背番号31 83試合 3本 16打点 .204
1975年 106試合 11本 29打点 .246
1976年 122試合 27本 83打点 .325 ベストナイン オールスター出場
1977年 103試合 23本 69打点 .331 ベストナイン オールスター出場
1978年 129試合 32本 102打点 .318 ベストナイン ダイヤモンドグラブ賞 オールスター出場
     8月31日〜4打数連続本塁打
1979年 122試合 48本 95打点 .327 本塁打王 ベストナイン ダイヤモンドグラブ賞 月間MVP(4月)
     オールスターファン投票出場
1980年 70試合 11本 37打点 .229 オールスターファン投票出場
1981年 130試合 23本 86打点 .341 最高出塁率 ベストナイン ダイヤモンドグラブ賞 オールスター出場
1982年 130試合 35本 95打点 .325 本塁打王 打点王 最高出塁率 ベストナインダイヤモンドグラブ賞
    オールスター出場
1983年 130試合 33本 93打点 .296 ダイヤモンドグラブ賞 オールスター出場
1984年 130試合 37本 95打点 .269 本塁打王 オールスター出場
1985年 130試合 40本 108打点 .300 ベストナイン ダイヤモンドグラブ賞 オールスターファン投票出場
1986年 67試合 9本 34打点 .252 4月20日死球で退場 以後負傷続く
1987年 106試合 12本 45打点 .227
1988年 67試合 5本 32打点 .250 引退

実働15年 出場1625試合 打数5673 安打1656 本塁打349 打点1019 盗塁49 犠打5 犠飛48 三振897 打率.292

コメント(26)

★ドラフト6位★

掛布が習志野市立習志野高等学校三年生の1973年秋、父・泰治が千葉商業高校の野球部長兼監督だった頃の教え子でヤクルトの二軍監督だった小川善治に入団を頼み込んだが断られ、今度は千葉商の野球部監督経験者の篠田仁氏に依頼。

篠田は懇意にしていた阪神タイガースの安藤統男(同年限りで現役引退し、コーチ)に口利きを頼んだ結果、金田正泰監督へ話が伝わり入団テストを受けて合格し、ドラフト6位指名で契約金500万円年俸84万円で入団。

掛布は、ドラフト6位として入団しているが、扱いはドラフト外と同等であり、別に入団してきたドラフト外の選手と二人で入団発表を行っている。
ちなみに、この年のドラフト1位は佐野(中央大学)で高校・大学とバリバリのサードでレギュラーは確実視されたいた。
★一軍定着★

1974年の春季キャンプで徹底的に鍛えられ、1軍オープン戦の対南海戦で初出場。
2死ランナー3塁で代打で出場した掛布は同年南海ドラフト1位の野崎恒男から打点付きの初安打を放つ。

オープン戦での初スタメンは3月21日に鳴門球場での対太平洋戦。
中軸を打つショートの藤田平が結婚式で休みのため7番ショートでの代役だったが、東尾修から4打数2安打を記録した。
そして3日後、日生球場での対近鉄戦では内野の中堅であった野田征稔(後にマネージャー)も母を亡くして帰郷。
またまた代役での8番サードで出場することになったが、その試合で何と4打数4安打の大活躍を見せる。

1軍オープン戦が終わってみれば18打数8安打2二塁打の活躍でついに2軍へ戻る事がなかく、高卒1年目にして1軍に定着した。

藤田と野田のアクシデントが無ければ1軍定着までにもっと時間を要していた可能性は高い。
★終生のライバル佐野★

掛布と佐野は同期入団でポジションは同じ、ただし掛布は無名のテスト生、佐野は東都大学野球のスターから始まる二人の関係は、表面上は掛布が三塁のポジションを獲得したことで決着がついたとも見えます。

しかし掛布はポジションを奪ったとはいえ、安穏とした心境でなかったはずです、少しでも油断をすればすぐにでも佐野は三塁を奪い返しにきます。
そのため掛布は異様なまでの精進を続けることになります。
当初酷評された三塁守備もゴールデンクラブ賞を獲得するほど上達し、元来体格からして中距離打者であったものを3度の本塁打王に輝くほどの長距離打者になります。

掛布と佐野、ふたりはライバルというにはあまりにも実績、人気に差はあります。
それでもふたりの胸中には最大のライバルとして常に意識し続けていたと思います。
S.48の幻の優勝時に奇しくも同期で入団したふたりは絶える事のない競争意識を持ち続けます。
佐野は左翼から掛布のプレーをにらみ続け、掛布は佐野の眼前で目の覚めるような好プレーをすることでこたえ、打席では掛布が掃除し切れなかった走者を佐野が返すことで存在感を示し、一方で掛布は佐野まで走者を残さないために本塁打者に成長したと言えば言い過ぎでしょうか。

掛布 vs 江川のような「全力を尽くして打ち取られたのだから(打たれたのだから)悔いはないです」みたいな奇麗事の好敵手ではなく、常に相手をしのいでいないと取って代わられるサバイバル戦争のような関係です。
他人の目からはとうの昔に決着がついた三塁のレギュラー争いですが、三塁と左翼、打順の4番と6番の間に常に目に見えない火花を激しく散らしあい、「アイツにだけは絶対負けない」と思い続ける敵愾心は掛布を球界屈指の好打者に育て、佐野を恐怖の6番打者にしたと言えます。

掛布のコメントにはこんなものがあります。
「佐野さんの見てる前でまずいプレーはできない、レフトにボールは逸らすまい。」

佐野はほとんどコメントを残していない選手ですが引退の時にはこう語ったと伝えられます。

「俺は掛布がいたからこそここまでやってこれた。俺は今までずっと掛布を意識してプレーしてきた。」
★名言★

1983年6月30日、後楽園球場での巨人×阪神戦。
巨人の先発は、掛布の終生のライバルで怪物と言われる巨人のエース江川卓である。

1回表、ランナーを二人置いて打席に立った掛布は、江川から150キロを超える直球をライトスタンドへスリーランホームランを放つ。
さらに3回表に満塁で回ってきた第2打席でも150キロを超える直球をライトスタンドへ叩きこむ満塁ホームランとした。
そして江川は、この回で降板した。

試合後、掛布は、この日の江川との対決をこう振り返った。

「ボールがどうぞ打ってくださいと話しかけてきた」

この名言は、川上哲治の「ボールが止まって見えた」という名言と並んで、打撃の達人の極意として、語られることが多い。
★終生のライバル江川卓★

村山vs長嶋、江夏vs王、そして掛布vs江川は良きライバルとして数々の名勝負を繰り広げて来た。

「試合に勝とうが負けようが、掛布を討ち取ることに全力をかける。この打者さえ打ち取れば、試合に負けてもいいという気になって投げていた。そういう気になれる打者はなかなかいない。」

後に江川卓はこう語っている。

1955年5月9日千葉県千葉市に生まれた掛布は、江川とは同じ歳である。
千葉新宿中から習志野高へ進み、高校2年のとき夏の甲子園に出場するが、1回戦で東洋大姫路に3−5で敗れる。(高校時代江川の作新学院と練習試合をしたことがあるが、作新の投手は大橋だった。)

江川との初対戦は1979年7月7日後楽園球場。
1979年6月2日江川のデビュー戦は腰痛で掛布が欠場していたため、初対戦は対阪神戦江川2度目の登板だった。
第1打席右本塁打、第2打席四球、第3打席中飛、第4打席中飛、第5打席中飛の 4打数1安打1打点1四球。

1回表二死走者無しで注目の初顔合わせが実現。掛布は1-3後のカーブを右翼上段に22号アーチ。
初対決は掛布に軍配が上がった。
試合前、掛布は「最初が肝心ですからね」「コントロールがいいから的がしぼりやすい。
あのカーブならタイミングも合うはず」と言っており、言葉どおり見事実証してみせた。
試合後、江川は「あまり意識しなかった。ホームランは低めのカーブ。ボール球かもしれませんね」と相変わらずマイペースであった。

掛布は「だけど江川は2打席目からなかなかいいボールがきてましたよ。しり上がりによくなるという噂どおり・・・」と江川を褒めた。

江川との対戦成績は、江川プロ入りの1979年から江川が引退する1987年までの9年間で、167打数 48安打 打率.287 14本塁打 33打点 21三振。

 ※打率.287は対戦100打数以上の打者では5位。
 ※本塁打14本は山本浩二(広島)とならんで1位。
 ※打点33は単独1位。
 ※三振21は13位。

その他、1982年4月27日、4回2-3からボールを選び、江川の開幕以来38イニング無四死球ストップ。
1982年9月4日、8回に敬遠され、江川の対阪神戦45イニング無四死球がストップ。
1983年6月30日、初回に2ラン、3回には満塁本塁打を放ち6打点をあげる。

ご覧のようにライバルの対決は掛布に軍配が上がったと言っても過言ではない。
★四代目ミスタータイガース★

1979年、田淵幸一が移籍したあとの主砲としてチーム新記録となる48本の本塁打を放ち、本塁打王となる。
それまでのチーム記録は藤村富美男の46本。1985年にランディ・バースが54本で更新したが、現在でも日本人選手の球団記録である。

それ以降、1982年、1984年にも本塁打王、1982年は打点王にも輝くなど「ミスタータイガース」として人気を博した。

1980年代前半は不動の4番打者。
また、同学年でもある江川卓との対決は、両者が全盛期だった1980年代前半の名勝負といわれた。
★流し打ちの本塁打★

もともとどちらかといえば中距離打者だった掛布が長距離打者となったのは、田淵の移籍というチーム事情が大きかった。
体格的に決して恵まれていなかった掛布は、猛練習による強靱な体力(特に手首)で打球をスタンドまで叩き込んだのである。
しかしこの打法は体への負担も大きく、選手寿命を縮める一因となったともいわれる。

甲子園でホームランを量産するために、浜風とケンカするのではなく利用しようと研究を重ね、レフトスタンドへホームランを量産する掛布独特の芸術的な流し打ちを身につけた。
以後レフトへのホームランが飛躍的に増え、球界を代表するホームランバッターとなった。
★醜い敬遠合戦★

1984年、セ・リーグの本塁打王は、掛布雅之と中日ドラゴンズの宇野勝が争っていた。互いに37本で並び、阪神、中日ともに2試合残していた。

ところが、運命の悪戯か、この残り2試合は10月3日に行われる中日-阪神(ナゴヤ球場)と10月5日に行われる阪神-中日(甲子園)で、阪神と中日が対戦する試合だった。

宇野は8月だけで15本も本塁打を放って、一気に本塁打王争いのトップに躍り出た。
一方の掛布は、7月までで26本を記録、8月25日対大洋戦で2打席連続本塁打を放って31本とし、宇野と本塁打数が並んだが、その後9月に入って本塁打がなかなか出ず、宇野に差をつけられたまま残り10試合を切った。
しかし、掛布は9月22日から4試合連続本塁打を放って、ついに宇野に追いつき10月3日の中日-阪神戦を迎えた。

ところが、阪神投手陣は宇野との勝負を避け、中日投手陣も同様に掛布との勝負を避け、結局お互い5打席連続四球で、掛布、宇野ともに1球も打たせてもらえなかった。
最終戦の10月5日、甲子園で行われた阪神-中日戦でも敬遠合戦は続き、掛布、宇野が打席に入るたびに"弱虫コール"がスタンドから巻き起こった。
結局、この試合も互いに5打席連続四球となり、2試合で10打席連続四球という、決して喜べないプロ野球記録が生まれてしまった。

試合終了後の掛布のコメントは下記のとおり
「もう済んでしまったことですから振りかえっても仕方がない。終わったなという感じですよ。」

試合終了後の宇野のコメントは下記のとおり
「しかたがないでしょう。同数で並んで、しかも最後の2試合が同じカードなんですからね。投手には悪いことをしましたが、それより歩きつかれましたよ(笑)。」

結局このシーズンは、掛布と宇野が同じ37本で本塁打王に輝いた。
野球ファンとすれば、正々堂々と勝負してほしいという思いは強かったはず。しかし両軍とも消化試合という状態では、勝負よりも個人成績が優先されてしまうのは致し方無かったと言える。
なお、この試合は敬遠合戦が繰り広げられたこともあり、ファンのストレスが増幅。さらに試合は阪神が逆転負けをしたことで、ファンの怒りが爆発。試合終了後に大勢のファンがなだれ込み、甲子園は無法地帯と化してしまった。
★GO!GO!掛布★

掛布雅之のレコードが、ミリオンセラーになったことがあります。
現役時代の掛布の人気は、それはスゴイものでした。
問題のレコードは1977年に発売され、じわじわと売れていった挙げ句、総売上はなんと126万枚!
タイトルもずばりっ、『GO!GO!掛布』。
本人の歌声こそ聞けないが、掛布雅之の応援ソングなのだ。
その後、このヒットに気をよくしたレコード会社が、掛布本人にボーカルを吹き込ませたのが『掛布と31匹の虫』。
抑楊のない歌いっぷりに誰もがズッコケてしまい、ヒット連発という虫のいい期待は実らなかった・・・。


『GO! GO! 掛布』

歌/遠藤良春
作詞/作曲 中山大三郎
編曲/若草恵
コーラス/ウィルビーズ
奏/テイチク・オーケストラ


夢を咲かせよ 球場の空に
そして我等の この胸に
GO! GO! 掛布 GO! GO! 掛布
ペナントレースの 花と咲け
若トラ若トラ掛布 打て打て掛布
若トラ若トラ掛布 打て打て掛布

この日このとき この一球に
日夜きたえた 腕だもの
GO! GO! 掛布 GO! GO! 掛布
勝利にみちびけ タイガース
若トラ若トラ掛布 打て打て掛布
若トラ若トラ掛布 打て打て掛布

君の背中に 青春がある
そこに我等の 夢がある
GO! GO! 掛布 GO! GO! 掛布
その手でもぎとれ 優勝を
若トラ若トラ掛布 打て打て掛布
若トラ若トラ掛布 打て打て掛布



掛布の打席ではこの曲のサビの部分「若トラ若トラ掛布 打て打て掛布 若トラ若トラ掛布 打て打て掛布」の部分が掛布の打席でトランペットで吹かれるようになり、これが現在の選手別ヒッティングマーチの元祖だと記憶している。
挿入されている実況部分は1977年4月2日の開幕戦神宮球場にて1回2死でヤクルトのエース・松岡から放った開幕第1打席満塁本塁打の朝日放送の実況放送だ。

※私はこの本塁打を神宮で生で見ておりますが、この年の阪神は夢のようなラインナップでした。
  3番ラインバック
  4番田淵
  5番ブリーデン
  6番掛布
★高卒3年以内の3割★

千葉・習志野高から1974年ドラフト6位で阪神タイガースに入団。
1年目から一軍入りし、3年目の1976年には規定打席に到達。
いきなり.325でベストテン5位。
高卒3年以内の3割は当時川上・千葉・中西・張本に次ぐ当時5人目の快記録。
1978年は初の100打点、翌1979年には球団新記録の48本塁打で初タイトルとなる本塁打王に輝いた。
ここまで4年連続3割と球界を代表するバッターに成長、一躍スターダムにのし上がった。
★4打数連続本塁打★

1978年8月31日の広島戦から9月1日のヤクルト戦まで1四球を挟み日本タイ記録の4打数連続本塁打を記録している。


また、掛布は以下のような素晴らしい記録もある。

☆1981年8月5日の大洋戦から7日の中日戦まで2四球を挟み10打数連続安打。

☆1982年8月24日のヤクルト戦で1イニング2ホーマー。

☆1984年10月3日と5日の中日戦で、それぞれ1試合5四球。
 この2試合を通じ10打席連続四球のセ・リーグ記録。

☆オールスターで1978年と1981年にシリーズ3本塁打の最多タイ記録。

☆1978年第33戦では1試合3本塁打のタイ記録を史上唯一の3打席連続本塁打で達成。

☆1981年のシリーズ8打点はオールスター記録。

まさしく記録ずくめと言ったところでしょうか!
★金鳥の蚊取りマット★

金鳥の蚊取りマットのテレビCMに長期にわたり出演した。
プロ野球選手は「憧れのかっこいい人」というイメージが強かった時代に、当初から三枚目的キャラクターとして起用され、好感度を上げることになった。
しかし、1980年に放映されたバージョンでは「これで安心して眠れるなぁ。」と三塁ベース上で居眠りする場面があり、この年ケガなどで成績を落としたことから、その内容がファンから不評を買った。
★バックスクリーン3連発★

1985年4月17日、甲子園球場で巨人×阪神戦が行われた。
試合は、7回表まで巨人が3−1とリード。
巨人のマウンドには若き日の槙原寛己がいた。

7回裏、簡単に二死一二塁でまず3番バースが槙原の初球を豪快にバックスクリーンに叩きこみ、4−3と逆転に成功。
さらに4番の掛布が1−1からバックスクリーンにソロホームラン。
その興奮が冷めぬうちに5番岡田が1−0からバックスクリーンへソロホームランを放って3連発となった。

このバックスクリーン3連発は、奇跡と呼ばれ、阪神タイガースはこの3連発以降快進撃を続けて打ちまくり、この年は日本一にまで登り詰めている。
また、この年の掛布の本塁打数は40本、バースは54本、岡田が35本とクリーンアップで129本塁打という大記録を残している。
★背番号31番★

永久欠番とはならなかったものの、野球ファンの間で背番号31といえば掛布というイメージが強い。
そのイメージの強さを表すエピソードに大黒将志が初めてサッカー日本代表に選出されたときの背番号が31だった事に「掛布と同じですね。縁起えぇわ」と喜んでいる。

背番号31について、長嶋茂雄の3番と王貞治の1番を足して31番とした、と言われる事があるが、掛布本人は、球団から提示された空いている背番号の中で一番若い番号だったから、と語っている。

小学館『月刊コロコロコミック』に掲載された漫画「掛布選手物語」では掛布の父の教えとされる「人の3倍練習しろ、それで始めて1番になれる」という教訓と上記「長嶋と王の番号」説を兼ねた感動的な説明になっている。

ちなみに掛布の前に付けていたのは、入団直前の1973年のシーズン限りで退団した外国人選手ウィリー・カークランドであった。
★疑惑のサイクルヒット★

山本浩二が1983年4月30日の阪神戦で、あとは三塁打さえ出ればサイクルヒット達成という場面において第5打席にライト側に長打を放ったが、晩年の山本では三塁まで狙うのはかなり厳しい打球であった。
それでも果敢に塁を狙い、三塁で掛布雅之とのクロスプレーを制して悲願のサイクルヒット達成となったのだが、この時の掛布のタッチの動作が非常にゆっくりとした追いタッチであったため、このシーンは今でもファンの間で語り草となっている。

そもそもサイクルヒットは達成の前にチャンスを作ること自体が難業である。
山本は前の打席で中前打を放ち三塁まで進んできた時に「カケよ、次の打席で外野を抜いたらどんな打球でもココへ突っ込むから、よろしく頼むで」と言って実行した山本。
そしてタイミング的にはアウトだったろうにそれをセーフとした掛布。
その試合は阪神が大差でリードされており且つ試合も終盤であったため、山本浩二に三塁打を許しても流れは変わらないと判断した掛布が独断で「粋な配慮」を見せたと言われているが真偽は定かではない。
★長嶋茂雄★

千葉育ちもあってか、同じ千葉出身の長嶋茂雄のことを敬愛している。
デビューした年の5月21日の巨人戦でプロ入り初安打を記録したとき、掛布は三塁を狙ったが長嶋にタッチアウトされた。
しかし、「憧れの長嶋」にタッチされたことがうれしくてたまらなかったという。
ある時、スランプに陥っていた掛布は長嶋に電話でアドバイスを求めた。
するとミスター曰く「そこにバットある?あったら振ってみて」。
首をかしげながら掛布は素振りの音を電話越しにミスターに聞かせた。
音を聞いたミスターは「雑念を取り払え、無心で振れ!」と言う。
今度は無心でバットを数度振り、音を聞かせる。
すると「そうだ、いまのスイングだ。忘れるな!」と言い、電話は終わった。その後掛布はスランプを脱したという。
★21年振りの優勝★

阪神は、プロ野球創設当初からある名門球団であるが、1964年に優勝して以降は低迷を続けていた。

しかし、1985年は、4月17日のバックスクリーン3連発が象徴するように、4番掛布を軸として前後のバース・岡田そしてトップバッターの真弓らが打ちまくって、リーグ新の219本塁打を記録して21年ぶりに優勝した。

掛布もこの年は、3割・40本塁打・108打点というMVP並みの活躍を見せ、日本シリーズでも2本塁打、打率.350と活躍してチームの日本一に大きく貢献。ている。
★人生を変えたデッドボール★

1986年4月20日対中日戦(ナゴヤ球場)六回表、掛布雅之は斉藤学投手から左手首に死球を受けて転倒、そのまま退場した。この瞬間、連続試合出場記録は663でストップしてしまう。
診断の結果は左大菱形骨骨折で、掛布は約1ヶ月間戦線を離脱することになる。
後日、責任を感じた斉藤は、花束を持って掛布を見舞っている。

掛布は5月16日対中日戦で復帰するが、5月27日対巨人戦(甲子園)九回表、イレギュラーした強い打球を右肩に受けてしまう。
その後、精密検査を受けた結果、右肩関節挫傷と診断され、またしても約1ヶ月間戦線を離脱することになる。
2度の大きなリタイヤもあり、掛布はこのシーズン67試合しか出場できず、打率.252 本塁打9 打点34という寂しい成績に終わった。

翌年1987年も腰痛のため6月2日に登録抹消されて約1ヶ月間離脱した。
1988年にも7月中旬に腰痛が悪化して戦線を離脱。治療を続けながら二軍で体調の回復に専念したが、状態は芳しくなかった。
★広島風お好み焼き★

関西居住が長かったが、プロ入り後初めての広島遠征で、広島風お好み焼きを食べ「こんなウマイものがあるのか」と感動。
当時は全国的には広島風はほとんど知られていない時期だったが、広島遠征では必ず通い、広島の有名店「へんくつや」では、掛布の好きなニンニクいっぱい入りの「掛布スペシャル」というメニューがあった。

チームメイトにも薦めた影響で、今も阪神の選手は広島風お好み焼きのファンが多い。
掛布はこれが高じて大阪の豊中に「ホットコーナー」という広島風お好み焼きの店を持っていた。(箕面市に移転後閉店。現在は京阪天満橋駅近くに「参拾壱 ほっとこーなー」という地鶏の店を経営している)
★酒癖★

入団初年度時に寮でビール・ウイスキー・日本酒をミックスした大皿を一気に飲み干し「これが習志野流」とタンカを切ったり、現役晩年に山本和行と酒の席で山本が「野球は一人で勝てる」と言った事に対して「じゃあ俺達が捕球しなくても勝てるんですか?」と子供じみたケンカをしたり、酒気帯び運転時に警官に「俺は阪神の掛布だ」とすごんだり、かなり酒癖は悪いようだ。
ただし、ギャンブルとタバコは全くやらない。
1987年3月22日、飲酒運転で逮捕された(その時乗っていたのはフェラーリ)。
マスコミからの非難のみならず久万俊二郎オーナーにも「欠陥商品」と痛罵されてしまう。
公共交通機関を運営する会社の社長(当時)として、社員の重大な交通違反を許す訳にはいかなかったのであろう。
この件は掛布がタイガースに愛着を持ち続けているにもかかわらず未だ一度も現場復帰できていない一因となっている。


1987年3月22日 兵庫県西宮市の名神高速道路西宮料金所手前の上り線でミスター阪神・掛布雅之が飲酒運転しているのを検問中の兵庫県警高速道路交通警察隊員が見つけ道路交通法違反で現行犯逮捕。
約3時間後に釈放された。調べに対し同選手は「大阪市内の飲食店でウイスキーのボトルを半分あけた他に日本酒やビールを飲んで帰宅途中だった」と自供。
★悲運の引退★

優勝した翌年の1986年、中日戦で斎藤投手から受けた死球で左手を骨折して以降は、復活を目指しての闘いを続けることになったが、その度に相次ぐ故障に見舞われて完全復活は遠ざかった。

そして、1987年には永遠のライバルと言われた江川卓が引退、さらに自身もオフである1988年3月に飲酒運転で逮捕されてしまう。

そして、この逮捕により、オーナーや監督との確執が残り、気力・体力ともに限界に達した掛布は、この年限りで現役引退。何と33歳という若さであった
しかし、銀傘を揺るがした“カケフコール”は今もファンの心に残っている。

本塁打王3回(79、82、84)、打点王1回(82)、最多出塁2回(81、82)。ベストナイン7度(76〜79、81、82、85)、ゴールデングラブ6度(78、79、81〜83、85)受賞。月間MVP1回(79年4月)。
オールスター出場10度(76〜85)、78年第3戦、81年第2戦、82年第3戦でMVP受賞。
通算349本塁打は阪神のチーム記録となっている。
★掛布と岡田★

週刊誌などではよく岡田彰布との確執が取りざたされている。
しかし、岡田の頭の中には2人の掛布雅之(野球選手としての掛布と現在の評論家としての掛布)が存在しているらしく、ミスタータイガースとしての掛布は今も尊敬しているが、現在の評論家としての掛布のことはあまり気に入ってないらしい。

そもそも確執が取りざたされたのは、掛布本人も語るように岡田と2人で食事に行ったことが一度もないことが発端だったそうである。
しかし、これは周囲の先輩に気を遣う岡田本人の配慮であり、ミスタータイガースと呼ばれた先輩掛布への尊敬の念が強すぎたために野球以外のことで2人で行動することを遠慮した結果とも言える。
★掛布雅之の手記★

以下は1985年に日本一になった時の掛布選手手記です。


ありがとう−

ユニホームを脱いだ
いつもは無造作に洗濯袋へ放り込む
だけどきょうは違う
きっちりたたんだ
祝勝会で浴びたビールがにおう
背番号「31」よ!
ゆっくり語り合おうじゃないか

終わったぜ日本一だよ
良くやった
お前は最後まで輝いていたぞ
日本一の阪神タイガースの
日本一の四番打者だったぜ−

正直な気持ちをユニホームに語りかけた
宿舎に帰ってやっと実感がわいた

最後の打席が左越え本塁打
「わ!!これで日本一なんだぞ」と
自分の中で何かがはじけた
右手を天に向かって突き上げて
No.1を誇示するポーズを
いつの間にか取っていた。

どんな本塁打でも黙々と走ってきた
あんな派手な格好は初めてだ
なぜだか分からない
日本シリーズの舞台がそうさせたとしか思えない

別の世界だと思っていた
日本シリーズは僕のいない世界だった
日本一になったことは西武に4勝した結果だ
それより日本一を語れる世界に入れたことがうれしい

西武との試合は毎日が”変な感じ”だった
緊張していたのかもしれない
デーゲームの連続がそう感じさせたのだろうか

未知の世界で試合をしたのだ
負けるのは嫌いだ
勝負事は勝たねばならない
その思いと日本全国に注目されて試合する喜びが
複雑に絡み合っていた

勝った瞬間やはりマウンドに走った
吉田監督の胴上げ
隣を見たらカズさん(山本)がいた
「カズさんを上げよう!」と夢中で叫んでいた

西武の印象
試合後に広岡サン
どんなコメントをしていたのだろう
まさか「予定どおりでした」とは言ってないだろうね
突っ張ってたんだろうなあ
監督として一つのやり方だろう
嫌いじゃないよ
もっと突っ張ってほしいねこれからも−

感激ということだけで言うと
ペナント優勝の方が大きかった
キャンプからの毎日は
130試合をどう戦うかだけだった
まさか136試合もやるとは思いもしなかった
シリーズのことを考えたのは
セ・リーグ優勝の決まった日が初めてだった

終わった−
いまはその実感の方が強い
ユニホームにしばらくのサヨナラを告げて
ゆっくり休みたい
それからはもう86年のスタートだ

86年の始まりもやはり85年と同じだ
日本一という”土台”ができただけ
周囲の目が日本一を見る目に変わっても
やるのは僕ら選手だ

すべてを出し尽くした
悔いはない
ファンの皆さんもしばらくゆっくり休みましょう
【掛布雅之 野球殿堂入り!】野球ファンの温かい声援があったから今ここに立っていられると思う【2025年野球殿堂入り通知式】 - YouTube
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