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猛虎伝説コミュの古沢憲司(全10伝説)

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古沢憲司  ふるさわ・けんじ
背番号 51
在籍1964年〜1978年

高校を中退して16歳で入団。虎風荘で飼っていた犬に似ていたので、その犬の名前から「バーディ」と呼ばれた。
一軍での活躍は2桁勝利4回。 しかし1・2軍の上下も激しく、72年に開幕投手をつとめたのにウエスタンリーグで防御率1位を取った事もある。

1948.3.31生
出身地  愛媛県新居浜市
出身校  新浜東高校中退
投手 右横投右打

1963年 高校中退しテスト生として阪神タイガースに入団する。
1964年 阪神タイガース 背番号70 8試合0勝0敗 0.53
1965年 背番号43に変更 31試合 1勝1敗 3.63
1966年 背番号25に変更 11試合 0勝0敗 5.25
1967年 21試合 2勝1敗 4.80 ウエスタン勝率1位(1.000)
1968年 7試合 0勝0敗 4.91
1969年 登板なし
1970年 登板なし
1971年 背番号51に変更 36試合 12勝9敗 2.05 投手成績リーグ3位
1972年 開幕投手 16試合1勝6敗 5.20  ウエスタン防御率1位(1.50)
1973年 43試合 9勝9敗 3.41
1974年 37試合 15勝10敗1S 3.23  オールスター出場
1975年 36試合 9勝10敗2S 3.60 
1976年 開幕投手 9月月間MVP 41試合10勝8敗1S 3.35 
1977年 36試合 11勝17敗1S 4.00  オールスター出場
1978年 34試合 4勝16敗2S 4.98
 
1978年 12月9日 田淵・古沢 対 真弓・竹之内・若菜・竹田 「田淵に投手をつけろ」と西武のリクエストでトレード

1979年〜1981年 西武ライオンズ 95試合 8勝24敗16S
1982年〜1985年 広島東洋カープ 91試合 5勝4敗2S

1986年〜1992年 テレビ東京・テレビ大阪解説者
1993年〜2000年 広島二軍投手コーチ 兼 三軍育成担当

2001年 広島カープ臨時コーチとして ドミニカ野球アカデミーへ(3〜7月)
2002年 カープ臨時投手コーチとして日南キャンプに参加 (ドミニカ:バレラ、マテオ、ラミーレスの三人が参加)
2003年 ドミニカ2選手を連れてカープキャンプに参加。
2004年 中国野球リーグ広東レオパーズ へ 臨時コーチとして派遣(ミナージャ投手・フランコ内野手を連れて)

実働19年 登板543試合 勝利87 敗戦115 S25 SP35 完投54 完封17 投球回1896.1 奪三振1181 防御率3.72

コメント(18)

★最年少入団記録★

2004年にドラフト指名された辻本賢人投手(米マタデー高中退)が、阪神に入団した最年少記録と思われがちだが、最年少入団記録は964年に愛媛・新居浜東高を中退して入団した古沢憲司選手である。

但し、古沢憲司選手はドラフト指名ではなくテスト生としての入団でしたので、ドラフト指名された史上最年少の選手は辻本賢人投手という事になる。


≪入団当時の事や辻本選手の事を以下のように語ってる≫
――昭和38年のオフ、阪神は高校1年の古沢さんをどうして入団させたのですか?

「わからんな。新居浜東高に入って、夏の愛媛県予選に投げたのは1回だけ。強豪の西条高校に0―1で負けたときや。阪神の関係者がその投球を見てたのとちゃうんかな。その後ワシは、わけあって大阪に家出してたからな(笑い)。阪神から誘いがあるという連絡が実家からあったが、当時、プロいうたら遠い夢の世界や。うそみたいな話や。旅館の庭でキャッチボールしたらそれで入団決定や。親も間違った道に進まれては困ると、すぐに阪神入りとなったわけや(笑い)」

――15歳でいきなりプロの練習についていけたのですか?

「キャンプはきつかったな。レフトとライトのポール間を毎日走らされたが、よく(食べたものを)戻しそうになったわ。当時は杉下さん(茂=現解説者)がコーチで、ほんまよう走らされた。筋力アップの器具なんてない時代やろ。ランニングとウサギ跳びやジャンプで脚の筋肉はパンパンで階段も下りられない。それでもあの走り込みでプロの体になったんやろな」

――15歳でも、別メニューは一切なしですか?

「そんなものあるかい。誰も新人に気をつかわん時代や。ましてやテスト入団やったしな。故障したら、“ほな帰りなさい”で終わりや」

――先輩選手たちと体力差は感じましたか?

「今思えば体力はなかったと思うわ。でも、その頃の子供の遊びいうたら、山に登ったり、海で泳いだりや。今の子と食生活も育った環境も違うし、比較できんわな」

――今の時代、15歳の辻本がプロ入りしたのは失敗ですか?

「どうせプロになる気やったら早いほうがいい。辻本の投球はテレビで見たことあるが、腕は長いし、ひじの使いかたもいい。素材はええと思うよ。ワシよりよほどいい投げ方しとる」

――辻本が故障しては大変と、今はトレーナーたちもピリピリしてます。

「科学的かつ計画的に指導しているんやろ。でも、気をつかいすぎてつぶれる選手もいるからな。辻本はこのまま1年やっていれば練習についていけるようになるか。1年じゃ無理かもな……」

――どうやって育てるのがベストですか?

「それは難しい質問やな。ひとつ言えることは、自分の足で走ってヒーヒーハーハー言うことや。そして毎日ボールになじめということ。ウエートトレーニングは否定せんけど、あれはワシがやっても簡単に筋肉がつきよる。パワーがついたと錯覚するんや」

――マスコミは早く辻本に実戦で投げてほしいみたいです。

「サッカーやゴルフなど、各スポーツ界で10代の選手が出てきとるしな。ファンも期待しとるやろ。でも、ワシはキャンプでのピッチングさえまだ早いと思うけどな」

――なぜですか?

「まあ1、2年もすれば、どんな練習すればいいか考えるようになるはずや。最後は自分で考えて、努力して練習せんとうまくならんよ。そしてあるレベルまで来たら、例えばピッチングでも限界超えるまで投げてみるもんや。そうしないとプロのレベルに達しない。一軍いうてもお客さんに見せるレベルに達していない選手はたくさんいるやろ」

――15歳でプロ入りした先輩として辻本にアドバイスはありませんか?

「昔の選手と寿命が違う。焦らんでもいい。27歳でデビューしても10年できるんやから。それにしても、何の実績もない選手をマスコミは大きく取り上げるやろ。ワシらの頃は15歳いうても、ハナも引っかけてもらえんかったわ(笑い)。ホンマに日本のマスコミいうのはわからんな」
★最年少初勝利記録★

入団した1964年7月25日、16歳117日で国鉄戦に早くも初登板を果たすが、これが阪神の最年少初登板記録です。

そして翌年の1965年6月30日の大洋戦で、17歳92日で挙げた初勝利初完封も阪神の最年少初勝利記録となっている。

1989年1月6日生まれの辻本が仮に来季開幕戦(3月31日ヤクルト戦)に登板すれば、17歳85日での1軍デビューとなり、最年少初勝利の記録更新も狙えるという事になる。
★バーディー★

現役時代は「バーディー」というニックネームで呼ばれていたが、その由来には様々な説がある。

【説?】
ゴルフの「バーディー」から来ている。
「バーディー」は「パー」よりも一つ上であるので、≪ポジティブ≫的な意味あいでつけられた。

【説?】
同じく語源はゴルフから来ているが意味合いは全く逆であると言う説もある。
「バーディー」は「パー」よりも一つ足りないともとれるので≪ネガティブ≫的な意味あいでつけられた。

【説?】
当時、虎風荘にくろぶちの犬が飼われていたが、その犬の名前が「バーディー」で、古沢の顔がその犬と似ていたところから由来したと言う説である。
★タフネス★

古沢投手=“タフネス”というイメージが残る。

1974年、1976年、1977年には投球イニングが200イニングを超えています。
特に1974年は220イニングを投げているのには驚きます。
その年は37試合に投げて15勝10敗1S防御率が3.23、それで投球イニングが220.1イニング投げてます。
その記録をみたら並みの投手じゃないということが、よ〜く分かりますよね

ちなみに、1972年と1976年は開幕投手も務めています。
江夏や江本の時代にローテーションをキッチリと守り通した投手でした。

実働19年 登板543試合 勝利87 敗戦115 S25 SP35 完投54 完封17 投球回1896.1 奪三振1181 防御率3.72
★驚きの珍記録★

古沢は1972年の開幕投手であったが・・・
なんと、その年はウエスタンリーグの最優秀防御率(1位 1.50)を受賞しているのだから驚きである。

球史に残る珍記録であろう。

ちなみにこの年の一軍での記録は、わずかに16試合のみの登板で1勝6敗 防御率は5.20と散々なものであった。
★ローテーション★

江夏、江本、谷村らと共に1970年代の阪神のローテーションをキッチリと守り通した投手でした。
下記の年度別の先発回数上位一覧が、それを証明しております。


≪年度別先発回数上位4名一覧≫
※( )内は先発回数

1970年 江夏豊(37) 若生智男(25) 村山実(19) 上田二郎(19)
1971年 江夏豊(30) 若生智男(26) 古沢憲司(19) 鈴木皖武(12)
1972年 江夏豊(31) 谷村智啓(22) 村山実(13) 山本和行(12)
1973年 江夏豊(39) 上田二朗(35) 谷村智啓(24) 古沢憲司(9)
1974年 古沢憲司(28) 上田二朗(26) 江夏豊(23) 谷村智啓(22)
1975年 古沢憲司(27) 上田二朗(27) 江夏豊(27) 谷村智啓(23)
1976年 江本孟紀(36) 古沢憲司(31) 谷村智啓(26) 上田二朗(25)
1977年 江本孟紀(33) 古沢憲司(33) 上田次郎(27) 谷村智啓(24)
1978年 山本和行(29) 古沢憲司(22) 上田次郎(16) 益山性旭(16)

※1978年オフに田淵と共に西武へ世紀のトレード
★背番号★

阪神での現役時代に4回も背番号が変わっています。

1964年 背番号70 0勝 
1965年 背番号43 1勝
1966年〜1970年 背番号25 2勝
1971年〜1978年 背番号51 71勝

阪神時代の74勝のうち71勝を背番号51番で稼いでいるので、やはり古沢と言えば"51番"が馴染みますね!
★世紀のトレード★

1978年10月11日、阪神は球団社長に小津正次郎氏の就任を発表。
社長に就任すると小津は世間を驚かすための手を考える。
そして、最初に思いついたのが外国人監督の起用。
11月4日、ドン・ブレイザーの監督就任を発表すると、さらに次の手を考えるのだった。

同年10月12日、パ・リーグのクラウンライター・ライオンズが消滅して新球団として西武ライオンズが誕生した。
新球団を大きくアピールするためには、目玉選手が必要と当時の堤義明オーナーは、そう考えたと思われる。

デッドボールの後遺症が残る田淵、新社長として張り切る小津、合理主義者の外国人監督ブレイザー、新球団のアピール策を模索する堤、これら点と点が線になり、田淵のトレード話が持ちあがる。

そして1978年11月15日深夜、小津社長は酔っ払っていた田淵を呼び出すとトレードを通告。
「とにかく西武へ行って、根本陸夫監督から野球を勉強して、また阪神へ戻ってこい。」
これに対して田淵は「じゃあ、来年タイガースへやってくるブレイザーは、いい監督じゃあないんだ」と応戦したという。
結局、11月23日夜、田淵、小津社長、西武・根本監督の三者会談が行われ、田淵はトレードを承諾。

12月6日、阪神は田淵幸一、古沢憲司の2選手を放出、西武から竹田和史、若菜嘉晴、真弓明信、竹之内雅史の4選手をトレードで獲得することを発表した。

この世紀のトレードのポイントは明らかに田淵放出であり、古沢はその煽りを食ったと言っても過言ではないだろう。
★佐川スカウト★

古沢が阪神に入団出来たのは、やはり当時のスカウトであった佐川の眼力のおかげであろう。

愛媛県の新居浜東高校一年の夏、甲子園を目指す県大会でもいいところを見せた訳でもなく、地元の強豪西条高校にあっさり負けている。
自信があるのは早いストレートだけで変化球もまともに投げられないうえ、ノーコンでもあった。
しかも、県大会に負けてふてくされ、大阪に家出同然で遊び歩いていたらしい。

そこに、古沢の球を受けてみたいと言うスカウトが現れ、自宅に戻されたらしい。
このスカウトが佐川である。
佐川は古沢とキャッチボールをしただけで、まだ高校一年のひょろっとした長身の投手と契約をすると言い出した。
まさしく佐川の「眼力」一つでの決断であった。

契約金は100万円で年棒は一ヶ月あたり三万円だったと言うが学校にまったく未練の無かった古沢は入団を決意し、体一つで虎風荘に入る事になった。
★一軍滞在最短記録★

まだ十代のある晩、合宿で煙草を吸ってると先輩の選手がやって来て屋上に来いと言う。
そこで先輩にいきなり殴られ、かけていた眼鏡がその一発ですっ飛んだ。
その場で殴るのではなく、また、まず言葉で言い聞かせるのでもなく、屋上に呼んでからいきなり殴るのが阪神の流儀であると知らされる。

甲子園の野次を飛ばす観客よフェンス越しに怒鳴り合う事もしばしばだった。
「しばいとろか?待っとれや!」とブルペンからスタンドの向かって大声を出す。

酒を飲めるようになったのはだいぶ経ってからだったが、夜遊びはすぐに覚え、門限破りは日常茶飯事…
自分ではそんなつもりは無くても、若いくせに口答えはするし態度は横暴と思われていた。
しかし、駄目ならユニフォームを脱げば良いと開き直る事もあった。

二軍と一軍を往復していた頃、突然に一軍に呼ばれ試合前のウォーミングアップをしていると練習態度が悪いと言われ、「みんなと同じ事をやって何がいかんのか?」腹を立てた古沢は、そのままロッカールームに戻り、着替えをすませると球場を出ていってしまった。
おそらく、一軍滞在最短記録だろう?

ファームで何度か喧嘩をしたコーチが古沢よりも先に一軍のピッチングコーチになり、どうあがいても上に上がれない時期も経験している。
それでも頭を下げるのが嫌だった。
格好よく言えば、力だけで這い上がれるのがプロの世界で、人の良さや性格・素行で判断されてはたまらないと若い頃は思っていた。
昔、小学生の頃
学校帰りに古沢のマンションに行って
サインを貰った記憶がよみがえりましたよ!
いきなり数人で家に押しかけたのに
嫌な顔をせずにサインしてくれました。

貴重なデータを有り難うございます。
> あんどれさん

いきなり押し掛けて、嫌な顔もせずにサインしてくれるなんて・・・ゴツイ顔をしてましたが人は良いんですね?
確かに派手さは無かったけど、なんとなく男気を感じる選手でしたね!
>ガクさん

江夏と田淵・・・あの王と長嶋が全盛の巨人に勇猛果敢に挑んだ、史上最強のバッテリーですよ!
オールスターの9連続三振・・・人間技ではないですよ!

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