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猛虎伝説コミュの遠井吾郎(全7伝説)

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遠井吾郎    とおい・ごろう
背番号 24
在籍1958年〜1977年
愛称:仏のゴロー 

仏のゴローと呼ばれ誰からも愛された虎戦士でした。 
実動20年にわたり阪神の中心打者として活躍し、うち11年はクリーンアップを打つ。20年間でわずか22個の盗塁、右中間を抜くシングルヒット、66年オールスターでの奇跡のランニングホームランなど鈍足逸話が多い。大のビール党で田淵・川藤らを連れて飲み歩くタイガースNo1の酒豪だ。

1939.12.4生
出身地  山口県熊毛郡平生町大野
出身校  柳井高校
一塁手 左投左打

1957年 控え投手兼一塁手 4番打者で選抜甲子園出場 王貞治(早実)に本塁打を浴びた。
    八幡製鉄に内定も河西スカウトの勧めで入団を決意  11月8日入団発表

1958年 大阪タイガース 背番号8 9試合 .400
1959年  75試合 .248
1960年  91試合 .272
1961年  83試合 .237
1962年 背番号24に変更 73試合 .264
1963年 118試合 .284 4番で藤本から1塁スタメン奪取
1964年 117試合 .272 4番1塁
1965年 122試合 .256 4番1塁
1966年 123試合 .326 ベストテン2位 4番1塁 オールスター出場
1967年 135試合 .309 3番1塁 オールスター出場
1968年 133試合 .262 3番1塁
1969年  88試合 .211 3番1塁
1970年 123試合 .284 6番1塁 オールスター出場
1971年 112試合 .224 4番1塁
1972年 102試合 .262 5番1塁
1973年 113試合 .296 5番1塁
1974年 119試合 .260 5番1塁
1975年  80試合 .248
1976年 打撃コーチ補佐兼任 42試合 .209
1977年 出場なし 現役引退

1978年 一軍打撃コーチ就任   10月辞任退団

ラジオ短波解説者
大阪キタ新地でスナック ゴロー経営 20年以上営業した後、故郷 柳井でスナックゴロー経営

2005年 6月27日 肺がんで逝去

実動20年 出場1919試合 打数5281 安打1436 本塁打137 打点688 盗塁22 打率.272

コメント(11)

★柳井高校★

山口県の柳井高で1957年に選抜高校野球大会に出場。
同年、阪神タイガース(当時は大阪タイガース)に入団。
二代目ミスタータイガースの村山実選手より入団は1年先輩である。
★4番バッター★

1977年に引退したが、現役生活20年は阪神の選手の中で歴代最長記録である。

1963年にレギュラーを獲得して、1964年からは4番打者を務めカークランドが入団するまで4番の座を守り通した。
1966年には打率.326でリーグ2位(ちなみにこの年の首位打者は長嶋茂雄)を記録、藤村富美男が引退してから田淵が入団するまでの「貧打」阪神を支えた中心選手だった。
4番で先発した試合数は 524試合を数え阪神の歴代で4位にあたる。

≪阪神先発4番打者・試合数5傑(2003年現在)≫
1位 藤村富美男 1936〜56年 1,069試合
2位 田淵幸一  1970〜78年  812試合
3位 掛布雅之  1977〜88年   800試合
4位 遠井吾郎  1958〜66年  524試合
★奇跡のランニングホームラン★

20年の現役生活でわずか22回の盗塁に代表される鈍足ぶりが有名だった。
その一例を挙げると、平凡なショートゴロがセカンドを中継して、遠井の守備位置であるファーストに送球されるということもあった。
当時遊撃を守っていた吉田義男のあまりの送球の早さについていけなかったからである。
また、バックトスで名を馳せた鎌田実(二塁手)が遠井に代わってファーストの守備範囲をフォローすることも珍しくはなかった。

そんな事から1970年オールスターゲーム(広島市民球場)でのランニングホームランは「奇跡のランニングホームラン」と呼ばれた。
★仏のゴロー★

川藤幸三をはじめ多くの選手・ファンから愛された選手であった。
そのチームメイトへの気配りから、「仏のゴロー」という愛称がつけられるようになったが、本人はその愛称を快くは思っていなかったことが伝えられている。

カウント2-2のボールでフォアボールを宣告され、何食わぬ顔で出塁したことがある。
誰も気がつかなかっため、スリーボールにも関わらずフォアボールは認められてしまった。
★阪神部屋★

体格が体格だけに当時の主力選手の田淵幸一、江夏豊と合わせて「阪神相撲部屋」と呼ばれた。

入団したばかりの掛布は「あんなに腹が出てるのになぜ上手に内角球が打てるのか」とその技術に度肝を抜かれたという。

失策をしないことでも有名だったが、それは単に鈍足のために守備範囲が極端に狭く、無理にボールを捕りに行かないからだったという説もある。
ファールフライを危なっかしくキヤッチするだけでスタンドが湧いたという。

実働20年の割に打数や安打数が少ないのは、試合終盤になると自ら申し出て守備固めのために退くことが多かったからである。

4番を田淵に譲ってからは引退する1977年まで代打の切り札として活躍した。
正確にミートする技術は衰えず、代打出場だけで打率3割をこえた年もあった。

 
★すなっくゴロー★

酒が大好きで、「呑むために野球やってる」と豪語してました。
名うての酒豪としても知られ、田淵や掛布らを夜な夜な、繁華街に連れて回り、大目玉をもらったという逸話もある。

退団後は曾根崎新地で趣味と実益を兼ねたスナックを20年間経営、この後は帰郷し、山口・柳井市で『すなっくゴロー』を経営していた。
もしかしたら店の酒をほとんど自分で飲んでしまっていたのではないだろうか。
★"仏の吾郎さん"しのぶ会★

2005年6月27日、肺がんのため逝去。享年65。
輝かしい記録は残さなくても、阪神ファンの記憶にはしっかりと残ってる選手である。
彼もまた、多くの熱狂的な阪神ファンに愛されるタイガースの歴史と伝統を築いた選手の中の一人であったことは間違いない。
阪神一筋に在籍20年は藤村富美男の23年に次ぐ長さである。

"仏の吾郎さん"しのぶ会には多くの球団関係者が出席して、その別れを惜しんだ。

中村勝広(当時オリックス監督)は「今でもこの業界に身を置けるのも、ふがいない時期に“カツがんばれ”と叱咤(しった)激励していただいたおかげ。遠井さんの思い出を語るには時間が少ないほどです」と目頭を押さえた。

田淵幸一氏は「フライを捕るのは名人だったけど1メートル横のゴロは捕れないんじゃなくて捕らなかった」と懐かしんだ。

学生時代から親交があったという岡田監督は2軍監督時代、広島遠征の際に遠井さんの経営していたスナックに何度も足を運んだことを振り返り「僕も酒が好きで、遠井さんのように寝ずに試合に出たこともありました。考えてみれば似たような道を歩んできたと思います」と話し、しんみりしていた。

愛すべき我らが"吾郎ちゃん"に 合掌
見つけちゃいました・・・
吾郎ちゃんのお宝画像!
吾郎ちゃんが愛用したストッキングです!

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