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自由を考えるコミュの規律訓練型権力による従順な主体の形成(規格化、服従化)

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浅田彰「構造と力」から
監督が一体いまそこにいるのかさえはっきりわからないのだが、その不在の視線はやがて確実に子どもたちのうちに内面化されていき、ひとりひとりが自分自身の監督の役割を引き受けることになるだろう。徹底した相対評価システムがそれに輪をかけるように作用して、教室をたえざる自主的相互競争の場に変えていく。事態をいっそう救いのないものにするのは、この場が空間的にも時間的にも均質にひろがっているということだ。実際、第一の教室と違って、この教室には周縁部がない。監督の視線の位置が確定されないということは、それがあらゆる位置に偏在しているのと同じことである。また、決まった休み時間があるわけでもない。ふだんから放任して自由にやらせているのだから、とりたてて休み時間などつくる必要はないというわけだ。ここでは、子どもたちは、遊戯の自由を与えられているにもかかわらず、いや、まさにそうであるがゆえに、その自由を思うままに行使できないという仕組みになっているのである。


岡本裕一郎「ポストモダンの思想的根拠」から
「自然状態ではなく機械装置の入念に配属された歯車、原初的な契約ではなく果てしない強制権、基本的人権ではなく無限に発展的な調教、一般意志ではなく自動的な従順さ」。つまり、近代社会において現実に進展していたのは、人々を規律化し・調教し・矯正することなのである。こうした働きを、フーコーは「規律訓練」と呼んでいる。
人々を調教し、服従させる「規律訓練」は「理性」ではなく、何よりも「身体」への働きかけなのだ。「規律訓練は、服従させられ訓練させられる身体を造り出し、<従順な>身体を造り出す」。
さらに、「主体」についても確認しておこう。もともと二義性のある「sujet(臣民、主体)」という言葉を利用して、フーコーが「主体」概念の意味を転換したことは有名である。たとえば、この違いは次のように述べられている。「社会契約上の法的主体(sujet)を再構成するか―それとも、何らかの権力の一般的であると同時に細部まで配慮された形式に屈従する服従主体(sujet)を形成するから」。つまり、「自由な主体」という啓蒙主義的考えのうちに、フーコーは「服従する主体」を見出すわけである。それゆえ、フーコーにとって、「主体化」は、実際には「服従化」なのである。
こうして、啓蒙主義の「自由で理性的な主体」という近代的な人間像に対して、フーコーが突きつけたのは、「身体に対する規律訓練によって従順に服従する臣民」だった。近代社会において現実に進展していたのは、個々人への絶え間ない規律訓練だったのである。
近代社会において、「服従化(主体化)の技術」は具体的にはどのように働くのだろうか。強制的な権力といっても、近代社会の「規律訓練」はまったく新たな技術をあみ出したのだ。それを理解するために、次の箇所から出発しよう。
 規律訓練の主要な操作の第一は、雑然とした、無益な、もしくは危険な群集(マルチチュード)を、秩序づけられた多様性へと変える…ことである。
危険な「マルチチュード」を従順な「秩序づけられた多様性」へ変えるには、どうすればいいのだろうか。「規律訓練」の技法を確認しておこう。
第一に、一定の場所に人々を集中させなければならない。「規律権力」は、学校・寄宿舎・病院・工場そして監獄などのような、閉鎖された環境において形成される。だからこそ、フーコーは次のように述べるのだ。「監獄が工場や学校や兵営や病院に似かよい、こうしたすべてが監獄に似かよっているとしても、何ら不思議ではない」。規律権力にとって、閉鎖環境が本質的である点にぜひとも注意しておきたい。
第二に、集められた人々を差異化しつつ、空間内に配置する必要がある。個人個人に分けながら序列をつくり、各個人に特定の場所を指定する。もちろん、各個人の配置は、それぞれの評価・賞罰によって「置き換えが可能」である。「それぞれの身体を定着させるのではなく配分して、ある諸関係の網目のなかにその身体を順次めぐらせる」。こうした位置関係によって、規律訓練はそれぞれの身体を個別化するのである。
第三に、空間内に配置された人々を、時間のうちに秩序づけるべきである。時間を有効に利用して、より多くの利益を上げるには、どうしたらよいのか。「空間を分析し、人々の活動を分解し再編する規律訓練は、さらにまた時間を加算し資本化するための装置としても理解されなければならない」。そして、この規律訓練によって、啓蒙主義的な「線形の時間」、つまり「<進化発展>の時間」が生まれる、とフーコーは言う。
第四に、「連続的で機能的な、階層秩序化された監視」である。監視されるものは絶えず視線が向けられ、微細なものまで綿密に観察・記録される。ところが、監視するものは不可視であって、匿名化されている。「規律訓練の装置が完璧であれば、唯一の視線だけで何もかもを、いつでも見ることを可能にするだろう」。このもっとも名高い装置が、ベンサムが考案した「パノプティコン(一望監視施設)」である。
こうした規律訓練の技術によって、人々は「危険なマルチチュード」から「秩序づけられた多様性」へと変えられていく。このとき、二つの側面に注意しておきたい。一つは、マルチチュードが一人一人バラバラな「個人」となることだ。「規律訓練こそが、個々人を<造り出す>のである」。もう一つは、マルチチュードが全体として「規格化・正常化・規範化」されることだ。「規格化・規範化を行う権力は等質性を強制」し、そこから外れた「逸脱者」を排除するのである。このように、一方で個別化を行ないながら、他方で規格化を行なう権力、これが近代社会の規律権力なのである。

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