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海と芸術の街ハウステンボスコミュのデリーフデ号と徳川家康の海外政策

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デリーフデ号は苦難の航海の中、共に出向した友船を全て失い、自らもボロボロになって日本にたどり着きました。出向時110名いた乗組員は最後には24名になっていました。その生き残りの中に、外交顧問として徳川家康に仕えてその後の日本に大きな影響を与えたウイリアムアダムスとヤンヨーステンが居ました。
幕府成立直後には膨大な御朱印船貿易を東南アジア中に推し進め、自ら大型帆船を作らせてメキシコに向かわせ、その当時最新の金の採掘精錬技術を修得させた徳川家康。その金の新技術を使って佐渡金山をはじめ多くの金山を開発し膨大な幕府財政の基礎を固めました。
その徳川家康が踵を返す様になぜ急激な鎖国政策に走らざるを得なかったのか。家康ほどの人物、ネズミのような慎重さで海外情勢の的確な把握に余念が無かった事でしょう。
虐殺によって滅ぼされた古代アステカ文明やマヤ文明の事も当然知ったでしょう。カトリック系のスペインやポルトガル(南蛮人)。当時新興勢力のイギリスとオランダ(紅毛人)。カトリックは豊臣に、イギリスやオランダは徳川につきました。関が原の合戦はこの大きな世界情勢の中で行われたのです。
関が原の合戦後大坂冬の陣夏の陣で勝利し豊臣家を根絶した徳川家康は豊臣方に味方したカトリック系をまず貿易から締め出しました。しかし貿易から締め出しても戦国末期に次々に出来た多くの海外日本人町から帰国する人々がキリシタンになって帰ってくることを止めることが出来ない。それを止める必死の努力が鎖国政策の始まりでした。したがってあれほどの鎖国であるにもかかわらず鎖国令という法律は無いのです。ただずるずるとキリスト教の侵入を防いでいる間にあれほど強烈な鎖国政策が出来上がってしまったのです。
またスペインとの大海戦に勝利したイギリスは国家的な野望を持って先発のスペインポルトガルから植民地を奪ってきている。
信用できるのは純粋に商行為だけを目的とした商人達が自らの手で作った世界で始めての「商人の共和国」オランダしか無かったのでしょう。こうして徳川幕府の鎖国政策とオランダに限定した貿易の継続が始まったのです。もしこの時、徳川家康の卓越した判断が無かったならば、日本は植民地化され今の日本は無かったような気がします。

コメント(6)

日本での戦国末期、
イスパニアとポルトガルはその強大な海軍をもって世界中を征服してまわり、ローマ法王に世界をキリスト教化して2分割するお墨付きを得ていました。こうしてイスパニアとポルトガルによる世界の制覇が終盤を迎えた頃、関が原の戦の12年前の1588年7月、新興国イギリスと大海洋帝国イスパニアの間の大決戦「アルマダの海戦」が行われイギリスが勝利します。後に家康の外交顧問になるウイリアムアダムスはアルマダの海戦の時は補給艦の船長として参戦していました。ここから大英帝国の世界制覇が始まります。
徳川家康はその世界情勢を的確に読み取り、危険なイギリスではなく純粋に貿易利益だけに直結するオランダを選びました。
この頃年齢的に戦国の覇者に乗り遅れた東北の王者伊達正宗は、隙あらば徳川家を倒して全国制覇をと虎視眈々と狙っていました。正宗は正室愛(めご)姫の長女五郎八(いろは)姫を家康の6男松平忠輝(越後福島城主70万石)に嫁がせます。その忠輝と五郎八姫はキリシタンに改宗し、そのころ60万人居たとされるキリシタンの頭目として力を伸ばしてゆきます。
伊達政宗はは家康の思惑とは逆にカトリックのサテロ神父を保護し領内でのキリシタンの布教を許します。そして巧妙に根回しをして家康の許可を得、巨大帆船(長さ18間幅5間半)を建造します。
最初の思惑はこの船に家康の息子で自分の娘婿でもあるキリシタン大名松平忠輝を長とする正式な使節としてローマ法王に謁見をもくろんでいましたが、
どうしても家康の許可を得る事が出来ませんでした。
しかたなく家臣支倉常長を長としサテロを水先案内人とする総勢180名の大遣欧使節を派遣しました。
その時正宗は支倉常長に口頭で重大な伝言を委ねるのです。
その内容は、
「今日本はイギリスとオランダに征服されようとしている。イスパニアが無敵艦隊を派遣してくれるならば東北の王者伊達政宗が大阪湾にて迎え入れ西国のキリシタン大名と呼応して徳川幕府を倒し、日本の王としてキリシタンの布教の自由を与えよう」というものでした。
時勢に乗り遅れた稀代の英雄の最後の賭けだったのです。
そこにはイスパニアの海軍力を利用して日本だけでなくアジアを治めるという伊達政宗の壮大な野心が潜んでいました。
この時すでに関が原から12年がたっておりイスパニアがアルマダの大海戦に敗れてから24年が経っていました。
しかしサテロらカトリック神父からの情報を鵜呑みにしていた伊達政宗は正確な情勢判断が出来ていなかったのです。
やはり徳川家康の方が正宗より一枚も二枚も上手でした。
家康は正宗に大型帆船の建造と家臣団の派遣という大事業をやらせておいて、
遣欧使節団が出航したまさにその直後に、全国にキリシタン禁教令を発布するのです。そして全てのキリシタンの改宗を強制し、従わないものはすべて拷問貼り付けにしました。
伊達政宗は家康の手の中で踊らされたのです。
正宗も伊達家安泰の為キリシタン弾圧をせざるを得なくなります。
この時正宗は伊達領キリシタンの頭目に言った言葉が伝えられています。
それは心の中でキリシタンを信じる事を咎めはしない。ただし布教及びキリシタンとしての振る舞いをすれば火あぶりにせざるを得ない。また自分が許すと言った事を絶対にもらしてはならないというものでした。
さて支倉常長は大航海の末ローマ法王に謁見しイスパニア王フェリペ3世に伊達政宗の伝言を伝える事に成功しました。
彼はイスパニアでもローマでも未曾有の大歓迎を受け、イスパニアの貴族にまで列せられるのです。
主君正宗のアジアでの覇権の約束を取り付けた支倉常長は、意気揚々とルソンまで帰ってきました。しかしすでに母国は鎖国状態にあり、支倉常長からイスパニア大艦隊要請の件がばれる事を恐れた伊達政宗は急遽ルソンまで使いを出して常長の大航海の間に日本で起こった出来事を詳しく伝え、サテロ神父をルソンに残す事、死んでもキリシタンに関する話をしない事など細心の注意を払って常長の帰国への道を開きました。正宗の必死の根回しにより常長は晴れて仙台に戻る事が出来ましたが、イスパニアやバチカンを見てきた常長は心底キリシタンに改宗しており、仙台城において公の場で発言するに及んで、さすがの正宗も常長を擁護する事が出来なくなります。外様に難癖をつけて虎視眈々と伊達家断絶をもくろんでいる徳川幕府の手前、正宗は断腸の思いで支倉常長に謹慎を申し付けざるを得なくなります。常長の大遣欧使節団は遠くローマやイスパニアの繁栄をその目で見ながらその事を誰にも告げることを許されず、常長は謹慎したまま病死しました。
伝説では、
この時に伊達家がひそかに石巻の近く鮎川で常長の大遣欧使節団生き残りの上陸を許し、彼らを迎え入れて領内で隠密裏に生活させたといいます。 その為今でも鮎川あたりでは金髪の子供が生まれる事があるのだそうです。

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