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超流派・ヨーガコミュのグル・バクティヨーガ

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「グル・バクティヨーガ」

スワーミー・シヴァーナンダ




◎グル・バクティヨーガの枝

 それでは、グル・バクティヨーガの解説をしよう

 グル・バクティヨーガとは、グルへの完全なる明け渡しである。

 グル・バクティの重要な八つの枝――

1.グル・バクティヨーガを実践することへの真の消えることなき渇仰
2.グルの身口意への絶対の信
3.謙虚にサシュターンガ・ナマスカーラ(身体の八つの部分を地につけて礼拝すること)を行い、グルの御名を唱えること
4.グルの命令の遂行への完全服従
5.果報を求めぬグルへの個人的な奉仕
6.日々、バーヴァと信仰をもってグルの御足に礼拝すること
7.グルの神聖なる使命のために、自己の身口意を明け渡すこと
8.グルの恵み深い恩寵にあずかるために、彼の聖なる御足を瞑想し、彼の聖なる教えを聞き、それを誠実に実践すること

 グル・バクティヨーガは、それだけで十分なヨーガである。

 求道者は、グル・バクティヨーガを実践しない限り、神との合一へと導く霊性の道に入ることは不可能である。

 グル・バクティヨーガ哲学のシステムを理解する者は、グルに自己を無条件に明け渡すことができる。

 人生の最高の目的、すなわり真我の悟りは、グル・バクティヨーガの実践を通じて達成される。

 グル・バクティのヨーガは、何の恐れもなく実践することのできる真に安全なヨーガである。

 グル・バクティヨーガのエッセンスは、グルの命令の遂行と、グルの教えの体現に完全に服従することにある。

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◎グル――世界に恩恵をもたらす御方


 真のグルは、弟子の運命を変えることができる。

 サットグルは、預言者であり、神のメッセンジャーであり、宇宙的な友であり、世界に恩恵をもたらす御方である。彼は苦しむ人間にとっての案内星である。

 真のグルにお仕えすることで、時の輪は破壊され、グルの智慧の聖なる言葉が弟子の心に入る。グルの恩寵なしでは解放はない。

 グル・バクティヨーガの道から顔をそむける者は、死から死へと、暗闇から暗闇へと、迷妄から迷妄へと進む。

 世界の幻影という闇を通じて、人々がその生まれつきの性質によって従おうとする人間の道を、照りつける日光のように照らし出すものは、偉大なる師の言葉だけである。

 グルの恩寵は、それそのものが、人に人生の真の目的を理解させ、真我を悟りたいという燃えるような欲求を持たせるだろう。

 グル・クリパー(グルの恩寵)は、弟子の心の中にある悪徳というバクテリアに対して最も効果的的な内服消毒薬、万能の抗生物質である。

 もしグルとの不断の連続した接触を確立するならば、ある壺から別の壺へと水が流れるように円滑に、グルの恩寵は流れるだろう。

 グル・クリパー(グルの恩寵)あるいはグル・カタクシャ(グルの一瞥)は、グルにただ機械的な礼拝をするだけでは得られない。グルの教えによって自分の人生を書き換えたときのみ、それは得られるのだ。

 弟子は、床につく前に、どれくらいグルの命令の遂行を順守できたのかを内省すべきである。

 弟子は毎日、グルへの奉仕を始める前に、前日よりもさらなる献身、従順さをもってグルにお仕えするように決意すべきである。

 実に、グルと聖典への小さな信は、悪しき交際によって一瞬にして消滅してしまう。


◎完全な道徳の必要性


 師の聖なる御足への真の信仰を培いたいと思う者たちは、あらゆる種類の悪しき習慣、つまり、喫煙、飲酒、賭博、映画を見に行くこと、小説や新聞を読むこと、ファッション、おしゃべり、盗み、昼間に眠ること、時間を無駄にすること、汚い言葉、陰口、人を批判すること、などを克服すべきである。

 グル・バクティヨーガを実践したいと思う者たちは、あらゆる神聖なる功徳、つまり、誠実さ、公明正大さ、非暴力、意志力、忍耐、協調性、自立、自信、自制、克己、自己分析、根気強さ、我慢強さ、慈悲、慈愛、寛大さ、許す心、辛抱、耐久力、落ち着き、決断力、識別、平静さ、放棄、勇気、陽気さ、すべてにおいて中庸であること、などを開発すべきである。

 なぜ無駄に外的な喜びを探し求めるのか? サットグルの御足のもとへと行き、その永遠の至福を楽しみなさい。

 サットグルの御足への信と献身は、完成という頂上へと弟子を運ぶ二つの翼である。

第十章「グル・バクティの体系」



◎正しい行為の要点


 グルの行為に関して、思慮のない発言をしてはいけない。

 グルに対して思慮のない助言をしてはならない。常に静かであれ。

 意識的に、あるいは無意識的に、グルの感情を害してはならない。

 サットグルの蓮華の御足の塵は、不死を授けてくださる。

 グルの聖なる御足の神聖なる塵は、弟子にとって真の恩寵である。

 師の聖なる御足を額にいただくことは、最も素晴らしい幸運である。

 人生における最も素晴らしく稀な特典は、師の蓮華の御足に触れることである。

 グルの恩寵と異性の顔(異性への欲望)は、対極に属している。一方を求めるならば、もう一方を放棄しなさい。

 グルの聖なる御足の非常に神聖なる塵は、弟子に繁栄をもたらす。

 サットグルの救済の御足から生じる神聖なる塵は、礼拝されるに相応しい。

 弟子の最高の富は、サットグルの蓮華の御足の神聖なる塵である。

 師の蓮華の御足の聖なる塵を額にいただく者は、ただちに心の純粋性を得る。

 グルの蓮華の御足の塵の栄光は、言葉に表すことはできない。

 この地球における人生は、われわれがサットグルに奉仕することができ、全力を尽くして、心の底から絶え間なく増大し続ける信仰を持って彼に従うことができる良い機会である。

 グル・バクティヨーガの土台は、グルへの絶対の信に基づいている。

 弟子は、ヒマーラヤの独房の洞窟で瞑想するときよりも、グルに直接的に奉仕しているときのほうが、グルとより一層一体化しているということを見出すだろう。

 グルへの完璧な無条件の自己の明け渡しは、グル・バクティを獲得するための確実な道である。

◎人生の混乱の超越


 困難や苦難の中にあるときは、グルの恩寵を乞い求めなさい。心の底から熱烈に祈りなさい。そうすれば、すべては容易になるだろう。

 朝起きたらすぐに、そして寝る直前に、グルのことを思いなさい。自己を完全に彼に明け渡しなさい。

 床に就く直前に、一日の流れの中で、グルにお仕えしている間に犯してしまった過ち、つまり、不服従、不誠実などに思いを馳せなさい。

 欲しいものを減らしなさい。お金を節約しなさい。そしてそれをグルの蓮華の御足に捧げなさい。志があるところに、道がある。これはあなたのグル・バクティのテストなのだ。

 芸術も、科学も、博学も、ブラフマンの悟りを得たグルの蓮華の御足に近づくためには不必要である。求めるべきものは、グルへの十分な愛と信仰を持った純粋な心、「彼」のためだけに、「彼」だけに没頭すると堅く決心し、何の期待ももたずに「彼」だけを愛する心である。

 心の平穏と歓喜は、グルへの自己の明け渡しの果報である。

 グルへの真の信仰を試すものは、内面的な穏やかさと、グルの命令に従おうという意欲である。

 グルへの奉仕を通じて、智慧を育て、自由を得なさい。

 祝福されているのは、グルの恩寵によって識別と放棄を授けられた者たちである。彼らは至高なる平穏と終わることなき至福を楽しむだろう。

 グルに授けられた叡智は、弟子がグルに適切なグル・ダクシナ(グルへの捧げもの)を捧げない限り、実を結ぶことはない。

 グル・バクティヨーガとは、グルへの奉仕によって、心を制御し、心を改造することである。

◎弟子の階級


 最高の弟子は、ガソリンのようなものである。遠く離れた場所からも、彼はグルの教えという火花に瞬時に反応するだろう。

 第二の弟子は、樟脳のようなものである。グルの一触れが彼の内なる精神を覚醒させ、彼の中に霊性の炎を燃え立たせる。

 第三の階級の弟子は、石炭のようなものである。グルは彼の中に霊性を呼び覚ますために、大いなる苦痛を与えなければならない。

 第四の階級の弟子は、バナナの葉のようなものである。どんな努力も、彼には何の効果もない。グルが何をしようとも、彼は冷たく、愚鈍なままである。

 聞け! おお、弟子よ、バナナの葉の弟子のようにはなるな。ガソリンのような弟子であれるようににしなさい、あるいは最低限、樟脳のような弟子であれ。

 あなたがグルの神聖なる御足にすべてを明け渡すならば、グルに現世的に必要なものは何も乞うてはならない。あなたが彼への真の信仰と永遠の帰依を得られますようにという恩寵のみを乞い願いなさい。

 グルは、道であり、人生であり、究極のゴールである。誰もグルなしでは、最上の至福を得ることは絶対にできない。

 グルは、モークシャ・ドワーラ(解脱の門)である。グルは恩寵の権化である。

 生きるために死ね。再び真の神の人生を生きることができるように、グルの蓮華の御足の下で死になさい、エゴを放棄して死になさい。グルの変革をもたらす恩寵によって神性が活性化され、形作られないならば、生きていても生きていない。

 グルと召使いの真の関係は、言葉で述べたり、書いたり、理解させたりすることはできない。真の真理の求道者は、慈悲の権化であるブラフマニシュタ・グル(ブラフマンの叡智を得たグル)に帰依と献身をもって近づき、長い間彼にお仕えし、彼と共に生活しなければならない。

 グル・バクティヨーガは、それだけで十分なヨーガである。

 弟子は、グルがテストをしてきたときに、それに耐えなければならない。

 弟子は、困難や苦しみ直面したときに、グルへの奉仕を放棄してはならない。

 グルへの奉仕のために自己を明け渡すことは、グルの神聖なる御足への献身を成長させる最高の媒体である。

 心の安らぎは、祈り、ジャパ、キールタン、瞑想、グルへの奉仕、崇高な思いと理解からやってくる。
◎グルに近づくこと


 崇拝すべきサットグルの御足に近づきなさい。
 サットグルの蓮華の御足の下に避難しなさい。
 サットグルの神聖なる御足を礼拝しなさい。
 サットグルの聖なる御足を恭しく瞑想しなさい。
 罪を浄化するサットグルの御足に高価な贈り物を捧げなさい。
 サットグルの栄光なる御足への奉仕に生涯を捧げなさい。
 これが、グル・バクティヨーガの秘密である。

 弟子は、グルに奉仕している間は、時間に非常に几帳面でなければならない。

 弟子は、グルの神聖なる使命のために、身口意において非常に純粋でなければならない。

 誠実さ、素朴さ、平静さ、思いやり、自制、自己犠牲の花々をあなたの心の庭園で育て、それらをサットグルに捧げなさい。

 弟子は、グルの財産や必要物が十分であるか気を配らなくてはならない。彼は常にそれらから眼を離してはならない。

 ブラフマンの叡智を得たグルの恩寵によって得られないものは、この三界にない。

 グル・バクティヨーガを実践しない限り、求道者が、神との合一へと至るための霊性の道に入ることは不可能である。

 グル・バクティヨーガは、この上ない至福の世界の扉を開くマスターキーである。

 最高の平穏への道は、グル・バクティヨーガの実践から始まる。

 サットグルの聖なる御足への自己の明け渡しは、グル・バクティヨーガのまさに土台である。

 サットグルの救済の御足に確固たる信と献身を持つならば、あなたはグル・バクティヨーガの実践において必ずや成功するだろう。

 たかだか人間の努力だけでは、ヨーガを実践するのには不十分である。グルの恩寵が絶対に必要である。

 野生の虎、ライオン、象を調御するのは非常に容易い。火や水の上を歩くのは非常に容易い。しかし、グル・バクティヨーガを実践したいという真の熱望を持たない限り、グルの蓮華の御足に自己を明け渡すのは非常に難しいのである。


 グル・バクティヨーガの実践は、弟子に最高の平穏、歓喜、不死を授ける。

 人生の目的は、グル・バクティヨーガの実践によって、サットグルの恵み深い恩寵を得ることである。

 グル・バクティヨーガの実践は、生と死の輪からの解脱を授ける。

 グル・バクティヨーガは、不死、永遠なる至福、自由、完成、永遠に続く歓喜、永遠に終わらない平穏を授ける。

 それでは、グル・バクティヨーガについてさらに解説をしよう。

 心は、輪廻の根である。心は、束縛と自由、喜びと苦しみの因である。この心は、グル・バクティヨーガの実践によってのみ、制御され得る。

 グル・バクティヨーガの九つの条件――
(1)グル・バクティヨーガを実践するための真の永久的な求道心
(2)サットグルの思考、言葉、行為への絶対なる信
(3)グルの命令の遂行への完全服従
(4)謙虚に礼拝を行い、グルの御名を唱えること
(5)果報を期待せずに、サットグルに直接的な奉仕を捧げること
(6)日々、バーヴァと信仰をもってサットグルの蓮華の御足に礼拝すること
(7)サットグルの神聖なる使命のために、自己を明け渡し、身口意を捧げること
(8)サットグルの恵み深き恩寵と慈悲を得るために、彼の蓮華の聖なる御足を瞑想すること
(9)サットグルの聖なる教えを聞き、それを誠実に実践すること

 弟子は、グルの栄光を賛美するために存在しなくてはならない。

 フクロウが太陽の光の存在を信じようが信じまいが、太陽は常に光り輝いている。同様に、無智で気移りしやすい弟子が信じようが信じまいが、グルの恵み深き恩寵は驚くべき効果をもたらす。

 サットグルは、束縛から解放されている御方である。彼は彼自身の叡智で光り輝いている。彼は永遠に至福で満たされている。彼は歓喜と平穏をすべての人々に降り注いでいる。

 サットグルの崇拝すべき御足に近づきなさい。ひねくれることなく彼にお仕えしなさい。果報を期待することなく彼を愛しなさい。イニシエーションを受けなさい。これはサーダナーの秘密、すべての修行の精髄である。

 グルを神として信頼しなさい。彼の下に避難しなさい。グルの叡智の中に引きいれていただきなさい。

 グルは、純粋な信仰、そう、信仰だけを喜ばれるのだ。グル・バクティヨーガの実践は、心の平穏と安定をもたらす。

 死は、サットグルの神聖なる御足に帰依した弟子から飛び去っていく。

 グル・バクティヨーガの実践は、世俗的な対象への無執着と平静さを誘発し、不死を授ける。

 サットグルの救済の御足への信仰は、最悪の罪人さえをも救う。

 サットグルの神聖なる御足に帰依した気高き心を持った弟子にとって、達成できないものなどない。

 苦行、放棄、他のヨーガ、慈善、そして吉兆な行為などによって得られるものはすべて、グル・バクティヨーガを実践することによって、スピーディに得られる。

 グル・バクティヨーガは、低次の自然を乗り越え、最高の至福を得るためのメソッドを説く的確な科学である。

 恵み深いグルの恩寵を得るために、心の底からグルに祈りなさい。そのような祈りは奇跡を起こす。

 悪しき交際は、グル・バクティヨーガを実践することを望む弟子にとっての敵である。

 グルにお仕えしなさい。グルに献身し、グルに従い、グルの教えに絶対の信を持ちなさい。そうすればあなたは、霊性において成長するだろう。あなたは今生において真我の悟りを得るだろう。

 戒律の順守、グルへの献身などを行うことなくグル・バクティヨーガを修行しようとしても、グルの恩寵を得ることはできない。

◎グル・バクティの恩恵


 グルへの揺るぎない信は、あらゆる困難を乗り越えさせる神秘的な力を弟子に与える。

 グルへの断固とした信は、求道者を無限者と合一させる。

 グルへの信を持つ弟子は、主張せず、考えず、推論せず、案じない。彼はただただ、従い、従い、従うのだ。

 弟子の人生は、グルへの信を失うにとき、味気ない廃棄物となる。求道者がグルへの信を失うとき、人生はその輝きを失う。

 命の水は、師への確固たる信である。

 すべてのものは、聖師の言葉への信を失うときに、失われるのだと知りなさい。グルへの完璧な信を持ちなさい。

 師の蓮華の御足への祈りは、弟子の心を明るくし、その意識を強さ、平穏、純粋さで満たす。

 師の聖なる御足をバーヴァ状態で洗い、その水をあなたの頭に振りかけなさい。これは素晴らしい浄化機である。

 聖なる師の神聖なる御足の塵となることは、人生における稀な特典である。

 師の神聖なる御足への祈りは、夜明けをもたらす鍵であり、闇夜を止める錠前である。

 サットグルへの信と献身のない人生など、砂漠の中の干からびた樹の如くである。

 師の神聖なる御足への祈りは、弟子の心の底から生じるべきである。口先だけの敬意であってはならない。

 弟子の誠実で純粋な心から生じる熱烈な祈りは、すぐにブラフマニシュタ・グル(ブラフマンの叡智を得たグル)が聞いてくださる。

 心の底から、誠実に、熱心に、心を込めて、師に祈りを捧げなさい。そうしてのみ、師はあなたの祈りを聞いてくださるだろう。

 苦しみからの解放ではなく、それに耐えるための強さ、忍耐力を、聖なる師に祈りなさい。

 すべての欠点を乗り越えるための強さを、サットグルの蓮華の御足に祈りなさい。

 誰もが自分のやり方でグルにお仕えしたいと思っているが、グルが求めるようにグルにお仕えしたいと思う者は誰もいない。

 弟子はグルにお仕えしたいと思っているが、そのためにあらゆる困難の中に突っ込みたいとは思わない。

◎真の幸福の源


 真の幸福は、サットグルのために奉仕することにある。

 弟子は、グルへの奉仕を通じて肉体意識を超えることができる。

 グル、グルの恩寵、そしてグルの御名の力への、真の、完全な、生き生きとした、揺るぎない信を持ちなさい。

 グルへの自己の完全なる明け渡しは、グル・バクティにおいて絶対不可欠なものである。

 グルへの絶対の帰依を持たない限り、グルの恩寵があなたに降りることを期待することはできない。

 弟子は、解脱者であるグルがおとりになる相対的な行為を、重視しすぎてはならない。

 神、人間、そして宇宙についての真の叡智は、グルから得られるだろう。

 グルは、サーダナーの船の船体であるが、求道者は自分でその船を漕がなければならない。

 グル・バクティはすべての霊性・精神性の基礎である。

 グルへの信仰は、神へ至る滑らかな喜びの道である。

 グル・バクティは、宗教のエッセンスである。

 師の蓮華の御足への信仰は、人生に真の意味を与える。

 グル・バクティは、始まりも、中間も、終わりも甘美である。それは弟子に最高の朽ちることなき至福を与える。

 グル・バクティヨーガの実践は、すべての人に開かれている。

 グルへの愛は、世俗への愛と共存することはできない。

 グルと富は、同時に仕えることができるものではない。

 グルへの不誠実は、神への不誠実を意味する。

◎献身の意味


 グルへの献身は、霊性の聖堂の土台である。

 感情的な興奮は、グルへの献身ではない。

 サットグルの御足への献身のみが、あなたに神の恩寵を得させることができる。

 肉体の愛は、グルへの愛を打ち消してしまう。

 グルへの真の誠実なる明け渡しは、グル・バクティヨーガのエッセンスである。

 グルのご意思に、完璧に自己を明け渡しなさい。

 グルに完全に明け渡しなさい。彼は人生というフィールドの御者となるであろう。彼はあなたの馬車を上手く走らせるだろう。そうしてあなたは、目的地――恐怖のない永遠の至福の浄土に達するであろう。

 グルの恩寵に達成不可能なものはない。

 求道者の悪しき性質を治すための唯一の治療薬は、グルへの奉仕である。

 グル・バクティの第一のステップは、エゴの崩壊である。

 グルへの自己の明け渡しは、グル・バクティヨーガの階梯におけるまさに最高の段階である。

 グル・バクティヨーガの道において、自己の明け渡しはまさに絶対不可欠なものである。

 グルは、 物惜しみのない無条件の完全なる自己の明け渡しを要求する。自己の明け渡しとは、現代、弟子が一般にするような、口先だけの宣言であってはならない。

 師に明け渡せば明け渡すほど、師の恩寵はより多く降る。

 グルの恩寵の質の度合いは、明け渡しの度合いによる。

 弟子の義務は、グルを愛し、グルに奉仕することである。

 グルは、人生という嵐の航海者である。

 グルの恩寵は、グル・バクティヨーガの終わり、あるいはゴールである。

 グル・バクティヨーガの実践は、人生の最高級の悟りを得るための明確で確実な道を提供する。

 グルの恩寵があるところには、正道さがある。正道があるところには、繁栄と不死がある。

 あなたの父、母、学校の先生、客人、そしてグルを、人間とみなさずに正真正銘の神として礼拝しなさい。しかるべき敬意を払って、彼らに祈りを捧げなさい。素晴らしい尊敬と献身をもって、彼らに奉仕しなさい。
 
 グルの御名は、世俗という蛇に噛まれた者たちにとっての、強力で確実な解毒剤である。

 純粋性、信仰、光明、叡智をグルに祈りなさい。

 グルセーヴァ(グルへの奉仕)の精神は、あなたの骨、細胞、組織、神経の中に、深く入っていかなければならない。グルセーヴァの精神に燃えなさい。その恩恵は計り知れない。


 どんな利己的な動機ももたずに、グルにお仕えしなさい。そしてその効果――純粋性、内なる強さを感じなさい。何という広大な心が、あなたがグルにお仕えすることによって得られるだろうか! それは言葉で表せない。実践せよ! 実践せよ! 実践せよ! あなたは最高にして永遠に続く至福を楽しむだろう。

 グル・バクティヨーガは、二つとない最高のヨーガである。

 グルとその教えに対する、非常に強い信を培いなさい。

 グルへの信は、神への門である。

 グルの行動に信を持たないということは、グルや神への献身がないということである。

 ある弟子は、グルの偉大なるチェラ(召使い)のような態度を見せるが、グルの言葉や行為への信がないという者もいる。

 二のない一なる御方である全能のグルに、完全に明け渡しなさい。

 グル・バクティヨーガは、まさに今生で、着実に、真っ直ぐに、しっかりと、確実に、神のもとへとあなたを連れていく。

 グル・バクティヨーガは、エゴの崩壊と至福の不死の達成の始まりであり、終わりである。

 グル・バクティヨーガは、人生におけるすべての苦しみと悲しみを払拭する方法を教える。

 グル・バクティヨーガの実践によって、あなたは恐怖、迷妄、悲観、心の混乱、病、絶望、不安などを取り除けるようになるだろう。

 グル・バクティヨーガは、人生の苦難の二つとない確実な治療薬である。

 グル・バクティヨーガの道は、資格のある弟子だけに、速やかに成果をもたらす。

 まずグル・バクティヨーガの教えを理解し、それから実践に移しなさい。そうすれば、あなたは成功するだろう。

 グル・バクティヨーガの実践を通じて、内に不死なる最高の至福の真我を探究しなさい。

 グル・バクティヨーガを実践し、二元性と罪の原因となるすべてを超えてゆきなさい。

 グル・バクティヨーガにすがり、あなたの失われた神性を取り戻しなさい。

 盲目の人は盲目の人を導くことはできない。囚人は囚人を解放することはできない。そのように、世俗の沼地に沈む者には、世俗の沼地に沈む者を解放することなどできないのだ。ゆえにグルは、グル・バクティヨーガの実践において絶対不可欠である。

 グル・バクティヨーガを、人生における唯一の目的、目標、心からの関心事とせよ。そうすればあなたは、最高の幸福に至るであろう。

 グルへの献身なくして、聖なる精神性・霊性はあり得ない。

 途切れることなくグル・バクティヨーガの実践を続けなさい。

 グル・バクティヨーガの実践のみが、人を無恐怖にし、あらゆる面において人を常に幸福にすることができる。

 もしグル・バクティヨーガを実践したいと思うのならば、愛欲的な生活を放棄しなさい。

 もし本当に神を求めているのならば、世俗の楽しみに目を背け、グル・バクティヨーガの実践にすがりなさい。

 祝福された師にお仕えするために生きなさい。そうすればあなたは祝福されるだろう。
 
 平静さと識別智は、グルの恩寵によって弟子の心に開花する。
 
 弟子は、サットグルの蓮華の御足への揺るぎない帰依と、絶えず増大し続ける真の献身をお与えくださるよう、瞑想中にサットグルに祈るべきである。

 グルの御名を復唱する者は、解脱のみならず、世俗的な繁栄、健康、長寿、そして神々の富さえをも得る。

 グルの生誕日に、弟子はサットグルの蓮華の御足への真の献身をお与えくださるよう、断食をして彼の蓮華の御足を瞑想すべきである。

 弟子は、グルの生誕日を盛大にお祝いすべきである。

補遺




「グル・プールニマ(グルの満月)のメッセージ」




1956年

「汝の真我を知って、自由になれ!」


 『人々は、模倣するためのモデルをもたないと、ほとんど向上することはない。』と、オリヴァー・ゴールドスミスは言った。
 『耳を持つ者に聞かせよ。眼を持つ者に見させよ』と、イエス・キリストは言った。

 古から、真理の灯、神聖なる美と不死の灯、人生の不朽の真義の灯、霊性の光明の秘密の灯は、偉大なる卓越した魂たち、人類の師たち、命をかけるに値するものの保管者たちを通じて伝えられてきた。

 誘惑してくる無数の存在と経験で覆われた人生という、広大で無秩序に広がった学校で、本性そのものであり、驚くほどずば抜けて優秀な教師は、厄介な問題、不可思議なこと、例外的なこと、それらすべてを解決するための手段を提供する。

 『眼を持つ者に見させよ』というメッセージは常にそこにあり、それを聞く者もそこにいる。しかし、故意に眼と耳を閉じる者たちは、自分で作り上げた迷妄という暗闇の中で、無駄に眠っている。なぜなら、起きようという意欲との相互作用がそこにない限り、覚醒は真の効果を発揮できないからだ。

 ゆえに、誠実さ、真面目さ、信、学ぼうという意欲は、すべての求道者が持たねばならない第一の絶対不可欠な必需品である。それから彼は、虚偽から本物を、好ましくないものから好ましいものを、不適合なものから助けになるものをより分ける冷静な識別智という恩恵を得るべきである。そうしてその後に、無条件の信と、貫き通すという精神をもって、選んだものを決して掴んで離さないという確固たる決心をし、妥協なき忍耐をもって理想を追求しなければならない。

 グルと弟子の関係は、相対的理解、現世的な反復運動の感覚を軸に回っているときは、ほとんど長続きしない。人はどのように師にお仕えできたら一番いいのか? 一番最高な方法は、明快で先入観のない理解によって拍車を掛けられた絶対の服従を通じて、彼をこの上もなく喜ばすことだ。師に捧げられた最も実りある奉仕は、彼の教えの非常に明晰な実例となるだろう。

 真理の探究者たちよ! グル・プールニマの聖なる時に、改めて人類の師たちへの奉仕、彼らが生きた理想、彼らに授けられた教えに献身しなさい。平和と慈愛、すべての衆生への無私の愛、苦しむ者たち、寄る辺のない者たちへの熱心な奉仕、あなたの性質の浄化と改良、あらゆる有益なもの、価値のあるものの育成と、粗野、がさつ、卑劣、不純なものすべての滅却という彼らのメッセージに耳を傾けなさい。

 目的を忘れてはいけない。
 真理はリアルであり、非真理は放棄すべきである。
 成功はリアルであり、失敗は推進力である。
 美徳はリアルであり、それをただ口にするだけならば悪である。
 愛はリアルであり、嫌悪は見当違いの衝動である。
 幸福はリアルであり、苦しみは自己欺瞞である。
 生はリアルであり、死は生そのものの変化した相にすぎない。
 これらを忘れてはいけない。
 常に、より良きものに向かいなさい。

 瞑想し、平穏と内なる光明の暁を迎え入れなさい。内省し、世俗の欲望の垢を清めなさい。熟考し、非真実から真実をより分けなさい。
 色彩と劇、素直さと欺瞞、情熱と軽蔑、称賛と中傷というこの地上のパノラマの真っただ中で、初めから終わりまで、満ちては欠け、欠けては満ちてゆく人生を通じて、神の愛と平衡、美と幸福を、あなたの静まり返った心の中に、あなたの本質的な精神の本性の聖所の中に見出しなさい。
 目撃者であれ! 自分自身を知りなさい、そして自由でありなさい!


 過去と現在のブラフマヴィディヤー・グル方の祝福が、あなた方皆に常にあらんことを!

1957年


「神的人生の輪」


 至高なるグル、不死の魂、すべてに遍在しておられる御方に礼拝し奉ります。
 神の叡智の聖火をもたらしてくださる御方に礼拝し奉ります。
 最高の聖なる大望のために神性なる礼拝の人生を送るすべての真理の求道者に礼拝し奉ります。
 すべての気高き努力が達成されんことを。

 人間の精神の永遠の不可思議、常に休むことなく不満を抱いている人間の感情的な性質、一時的な生存の不完全さ、 満足のいくように人生の問題を解決するための知性の不全。
 その人の心を神に向けるために管理しなければならない粗雑な現実から、偉大な理想を切り離す不可解な湾。
 神的人生とは、人が神の悟りへと向かって進歩するプロセスであり、相続されるすべての病の治療法を、その人生が提供する。

 グルは、道において求道者を導くガイドであり、求道者は神的人生を昇ることにあくせくする巡礼者なのだ。

 人間の精神的、道義的な性質の進歩的な精錬は、神的人生の第一の目的である。それは、正直、純潔、そして非暴力のような基礎的な法則、自発的な自制の実践が無意識的に伴うようにする実践、そしてその結果として起こる浄化のプロセスにひたむきになることから始まる。

 個々の日々の生活で、これらの三つの基礎的な法則を非の打ちどころのないように実行することは、それ自体が神的人生に必要不可欠な構成要素となる。

 人間の性質には二つの側面がある。――肯定的側面と否定的側面である。一方はもう一方より優勢であろうとする。必ずやすべての人の中に、ジキル博士とハイド氏の要素がある。ハイドの要素が優勢になると、人は自分自身と他者に、果てしない欲望と破壊的サディズムのあらゆる悪しき果報を与え、社会的に見捨てられた者となる。しかし人々の中にはジキルの要素が優勢な者たちもいて、彼らは社会に素晴らしい恩恵を与える者であり、自分も他者も皆が平和に暮らすことができる最高のポジションにいる者と見なされる。

 肯定的側面が、最終的には否定的側面に打ち勝つのだが、一般には、否定的側面は多くの人々の人生で頻繁に起こる局面において、抑え切れないような影響力を持つ。しかし、理知、分別、思慮、神的人生の道を歩み始めた者たちにとってはそうではない。彼らにおいては、識別的な心が彼らの本能的な部分を征服しようとする。ヴィヴェーカ(識別智)が彼らの行動を導き、ヴァイラーギャ(放棄)が彼らの動機を神聖化し、ムムクシュトヴァ(解脱への熱意)が彼らの努力を鼓舞する。――この三つのそれぞれが、彼らの霊性の部分から強さと光を引き出すのだ。

 誠実、純潔、非暴力の道を歩むということは、自制の最高のフォームを暗示しており、低次の自然から生じるすべての否定的な性向を除去するということである。

 サティヤ(真実、誠実、正直)とは、言葉の純潔、価値あるものに対する正しい分別、勇気、そして真実であると思った行動を実行に移すことを必然的に示しているが、それは人の物質的な幸福に対して良い結果をもたらすことは全くなく、弊害をもたらすことさえあるだろう。誠実はまた、あらゆる肯定的な道理に従う意志の強さ、正義の分別、平等心、そしてあらゆる生命の中にその微細なエッセンスが遍満していることを認識するということを意味している。

 純潔は、すべての否定的なものを肯定的なものに変革する力を必要とする神的人生を測る基準となる。純潔の実践は、自制という言葉によって暗示されているすべてのものと、感情の修練の全範囲を網羅している。それは、シャト・サンパト(六つの功徳)、すなわち心、感覚の制御、平静、忍耐、信、集中の実践を意味する。純潔とは、肉体的そして精神的に純潔ということである。なぜならば、これら二つには相互関係があるからだ。思考の純潔は自然に行為の純潔、そして六つの衝動の昇華につながる。動機、人生すべてにおける純潔は、真理の実践への序章である。

 非暴力とは、対抗的な分別という意味における愛である。ここで、禁戒(ヤマ)は再び義務としてかかってくる。非暴力の真意は、それが心の底から――身口意において実践されたときにのみ、完全となる。慈愛、慈悲、友情、友好の原則はすべて、「非暴力」という言葉の中に織り込まれている。これらの原則が完全に実践されない限り、非暴力という善徳はうわべだけのままである。

 愛が非暴力の直接の表現である一方、その論理的帰結は奉仕にある。厳しい非難を浴びてきた言葉「愛」――それは、淫らなくだらないことや、利己的な執着、状況的な感傷、感情的な固執、そして多重の自己憐憫へと過度に誤用されている。愛とは、まさに神的人生という庭園にのみ育ち、継続的に面倒を見なければならない稀有な植物であり、それは最高の盛りの中で花を咲かせなければならない。愛と奉仕は分けることができない。ゆえに、他者の気持ちへの理解と、その尊重を持たねばならない。人への愛を持ちながら、他者の苦しみに対して利己的で無慈悲であるというのはあり得ない。無私の奉仕は、行為における神聖なる愛である。

 真に実践的修行のありとあらゆるものを網羅している、これら神聖なる生活の三つの基礎的な教義を培い、実践することができるならば、あなたは人間の大望である究極のゴール――真我の悟りへと歩んでいるのである。この道においては、初歩的な成功でさえ、大いに、平安や幸福、存在意義、人間らしい性質の改善、社会的な幸福、そして広大な世界をもたらしてくれる。神的人生の中で非常に重要である「すべては一つである」という正しい智慧は、その実践的な価値と共に、大いに世界平和、団結、友情の促進をもたらすのは間違いないだろう。

 ブラフマヴィディヤー(ブラフマンの叡智)は、言い換えれば、神的人生の叡智であり、あらゆる霊性の求道者の中心的な理想である。この中にのみ人類の救済はある。
 神聖なるグルの祝福が皆に降り注がれんことを。

「グルとディクシャ(イニシエーション)」


 ヨーガはグルから学ばなくてはならない。タントラ・ヨーガの場合においてはなおさらである。求道者がどのレベルにいるかを認識し、それに適したサーダナーを指示するのはグルである。
 現代の求道者は、サーダナーを始めたばかりの頃から、自分はヨーガの最高の形式を選択する資格が大いにあると思い違えるという、危険な誤った考えを持っている。これが求道者の大多数が早期に堕落する理由である。このような思いを持つことそのものが、彼がヨーガを行う準備がまだできていないことを示している。真の資格のある求道者は、十分に謙虚であり、自己をグルに明け渡し、グルに奉仕し、グルからヨーガを学ぶのである。

 グルは至高なる母なる神に他ならず、求道者を引き上げるために世界に降りてきてくださった。グルを神として奉りなさい。飽くことなく彼にお仕えしなさい。そうすれば、彼はご自身の意思で、あなたにディクシャの最上なる祝福を与えてくださるだろう。

 ディクシャは、グルからマントラを授かることである。イニシエーションは、霊性の叡智を与え、罪を滅ぼす。一つの灯がまた別の炎に灯されるように、マントラに宿る神聖なるシャクティは、グルからその弟子へと伝えられる。弟子は断食し、ブラフマチャーリヤ(禁欲)を順守し、グルからマントラを授かるのだ。

 イニシエーションは、神秘のベールを裂き、弟子が霊性の真理の背後に隠されたものを掴めるようにする。これらは普通、神秘の言葉に包まれている。あなたは独学でそれらを理解することはできない。独学は、あなたをより大きな迷妄へと導くだけである。グルだけが、ディクシャによって、あなたに聖典を学ぶための正しい見解を授けてくださるのだ。彼は真理の上に悟りという光を輝かせ、あなたはただちにその真理を掴むであろう。




「グル・バクティの枝」


 グル・バクティとは、グルへの奉仕、またはグルへの愛である。それには四つの種類――アープタム、アンガム、ダーナム、サッドバーヴァムがある。

 アープタムとは、グルの言葉への強い信と、彼の命令への愛のこもった服従である。

 アンガムとは、素晴らしい直接的な奉仕、例えばグルのお体をお守りすること、グルの衣服を洗うこと、グルを沐浴させることなどを意味する。

 ダーナムとは、すべての所有物――家、他の資産、富など――を明け渡し、グルに庇護所を求めることである。

 サッドバーヴァムとは、グルを神と見、決して人間と見ないことである。

 もしグルは神であるというバーヴァに入って、グルにお仕えするならば、弟子はドリシュタムとアドリシュタムで祝福される。

 ドリシュタムとは、弟子がグルの恩寵によって得る完全なる叡智、至福を意味する。

 アドリシュタムとは、死後に他の世界で楽しまれる至福を意味する。

 このように、相応しいバーヴァでグルにお仕えすることによって、人は二つの果実(ドリシュタムとアドリシュタム)を得るが、神にお仕えすることによってはアドリシュタムしか得られないというのは明らかである。

 ゆえに、最高のものは、正しいバーヴァ(グルは神であると見るバーヴァ)でグルにお仕えすることである。




「グルの詩」



グルは船

 グルは、この輪廻の大海を渡るための船。
 グルは、永遠の至福の王国へのパスポート。
 グルは、完成の頂へとあなたを至らせる階梯。
 バクティをもって、グルによくお仕えしなさい。
 あなたは彼の恩寵を得、人生のゴールに達する。

祝福されたグルの御足

 チャータク鳥がスワティ月の雨の滴を探し求めるように、
 チャコーリ鳥が月を求めるように、
 チャクラヴァカが太陽を求めるように、
 ハンサが蓮華の茎を求めるように――
 求道者はサットグルの御足を追い求める。

 溺れかけた者が岸辺を求めるように、
 夜の森で迷う者が光を求めるように、
 雨に打たれた者が避難所を求めるように、
 求道者はサットグルの御足を追い求める。

 貞淑な妻がその夫を追い求めるように、
 鉄くずが磁石に吸い付けられるように、
 流れゆく河が海へと向かうように、
 求道者はサットグルの御足を追い求める。


グルの恩寵

 グルは船長。
 彼は慈悲深く、
 求道者の腕をつかみ、
 彼を導き、救済し、
 彼を祝福し、
 彼の疑念を晴らし、
 すべての落とし穴と罠を取り除き、
 彼を生と死の束縛から解放し、
 彼の心を至福で満たす。
 グルに栄光あれ。
 ジャヤ・グル。

グルの恩寵

 グルの恩寵は無限
 彼は私の腕をつかみ、私を救ってくださった。
 グルは私を祝福し、
 私のハートを至福で満たし、
 私に道を示し、
 数多くの落とし穴と罠を取り除き、
 私を引き上げて、鼓舞し、
 生死の輪の束縛から私を解放してくださった。

蛙と信仰心のない弟子

 蛙は蓮華の近くに住まうが、
 蓮華の蜜を飲みはしない。

 蜂は遠いところからやってきて、
 パドマ(蓮華)の蜜を飲む。

 グルの近くに住むある求道者たちは、
 グルの叡智を吸収しない。
 彼らは師に過失を見出し、
 蛙のように彼の近くに住まう。

 遠くに暮らしていても、グルに強烈な信があり、
 教えに完全に従う人々は、
 グルの恩寵を得、
 速やかに人生のゴールに達する。


グル

 学問を学ぶためには、教師が必要。
 科学を学ぶには、教授が必要。
 芸術を学ぶには、師匠が必要。
 ならば真我の明智を学ぶには、グルが必要ではないのか?
  
 グルはまさに、真理の茨の道において、
 あなたが輪廻の大洪水を渡るための、
 唯一の帰依処。
 あなたを導くのは、グル以外存在しない。

 グルの恩寵には、驚くべき効果がある。
 光と歓喜を求めて、彼を仰いでごらん。
 あなたの日々の奮闘努力において、
 彼はあなたを導き、守ってくださる。

 グルは叡智をもたらす御方。
 グル、イーシュワラ、ブラフマンは一つ。
 まず最初にハリに礼拝する前に、グルに礼拝しなさい。
 あなたをハリのもとへと連れて行ってくれるのは、グルなのだから。

 グルからマントラを授かりなさい。
 彼はあらゆる段階で、あなたを鼓舞してくださるだろう。
 彼はあなたのためにサーダナーをやってはくれない。
 あなたは自分でそれを行わなければならない。

 グルはあなたに正しい道を示してくださる。
 彼はあなたに正しいヨーガを選んでくださる。
 彼は疑念と障害を取り除いてくださる。
 彼は落とし穴や罠からあなたを引き上げてくださる。

 彼に、あなたの心と魂を捧げなさい。
 あなたの身体と命そのものを投げ出しなさい。
 彼はあなたの魂のことを引き受けてくださる。
 あなたはマーヤーを超えて、平穏に安らぐのだ。

 あなたをサマーディに入れるという奇跡を
 グルに期待してはいけない。
 厳しくサーダナーに励みなさい。
 空腹の男は、自分で何かを食べるだろう。

 もしサットグルを得られなければ、
 尊敬すべき先達のところへ行けばよい。
 彼をグルとして見なせばよい。
 彼もあなたを導いてくださるだろう。

 辛抱強く、グルを選びなさい。
 あなたはグルと離れることはできないのだ。
 グルとチェラ(召使い)の関係は、
 神聖であり、生涯にわたるものである。

 真我の完全なる叡智を得た者
 聖典の完全なる叡智を得た者
 気高き徳を授かった者
 彼がサットグルである。 
 
 グルを試すことは難しい。
 イエスだけが、イエスを知っている。
 シェークスピアだけが、シェークスピアを知っている。
 病人がどうやって医者を試すことができようか?
 門外漢がどうやって科学者を試すことができようか?
 グルの欠点を探してはいけない。
 彼を神聖視し、彼を神として見なしなさい。
 彼を崇拝しなさい、彼を礼拝しなさい。
 主の性質を彼に重ね合わせなさい。
 そうしてのみ、あなたは恩恵を受けるだろう。

 あなたが彼の面前で高められるならば、
 彼の言葉に鼓舞されるならば、
 彼があなたの疑念を晴らしてくださるならば、
 彼が貪り、怒り、愛欲から解放されているならば、
 彼が私心なく、愛にあふれ、無私であるならば、
 あなたは彼をグルとして見なしてもよい。

 グルに近づくためには、
 あなたはアディカリ(適任者)にならなければならない。
 あなたはヴァイラーギャ(放棄)、
 平静さ、自制、ヤマ(禁戒)を持つべきである。

 あなたが「良いグルはいない」と言うならば、
 グルもまた「良い弟子はいない」と言う。
 他者をとがめてはならない。
 まずは自分をとがめなさい。

 グルはあなたの身請け人。
 しかしグルの座は呪い。
 グルはあなたの救世主。
 しかしグルの座は癌腫病。

 もしグルが、
 「15日の内に、お前にクリシュナを見せてあげよう」
 と言ったら、
 彼は偽のグルだ。
 彼を信じてはいけない。
 偽のグルに気を付けなさい。

「グル・バクティについての省察」



 グルの無限の意識は、真理と純潔の力によってそれに耐えることができ、心からラジャスとタマスが一掃されることによってそれを受け入れることができる弟子の一角へと入り込む。
 グルは、実在者そのものと同一である。ゆえに、彼からもたらされる救済は、思考能力で推測することなど不可能なのだ。

 グルは霊性の進化に絶対不可欠であるということは、正しいと認められた決定的な結論である。
 自然科学、芸術、そしてあらゆる世俗的な事業でさえ、教師の助けが必要なのである。
 ゆえに、霊性の道における導きの必要においてはなおさらである。
 真理の探究者は、欠点を取り除き、功徳を培い、神に達することができるよう、サットグルとの交際によって祝福されるべきなのだ。
 
 偉大なる人との交際は、得るのが非常に稀である。
 サットグルの獲得は、神の完全な恩寵の賜物である。
 真の霊性のグルは、神そのものなのだ。

 弟子は、グルの意に反した行動をしてはならない。グルに不愉快な言葉を語ってはならない。そして、すべてはグルであるというバーヴァでこの世のすべてを見るべきである。
 これは、グル・バクティの最高点である。
 
 グルへの信仰のない弟子は、香りのない花、水のない井戸、ミルクのでない牛、命のない肉体のようなものである。

 あなたが真の弟子になりたいと思うならば、まさに実質を伴ったかたちで、グルの指示に従うべきである。
 グルと約束をしたならば、あなたはたとえ人生を棒に振ろうとも、それを果たすべきである。

 グル・バクティという宝物は、一日にして成らず。
 弟子は徐々に、苦心しながらそれを培わなければならない。一日一日それを増大させなければならないのだ。
 それは、あなたの心の秘密の部屋での熱心で絶えない祈りを通じて開発される。
 グルをただの人間であると見る側面を完全になくさなければならない。
 そうすれば、あなたは真のグル・バクティを開発できるだろう。
 
 グルを神であると見ることは、彼の恩寵を得るための神秘的で強力なメソッドである。
 彼を神と見れば、あなたは彼の中に完全性の宝庫のみを見出すだろう。
 たとえあなたが彼の行為を理解できなかったとしても、それらを誤解してはならない。
 謙虚であれ、寡黙であれ。辛抱強く待て。
 そうすれば将来、あなたに光がもたらされるだろう。
 
 グル・バクティとは輪廻の大海を渡るために弟子の手に握られた魔法の杖である。
 グル・バクティによって、あらゆる不可能なものが可能となる。
 達成不可能なものが、グル・バクティによって達成可能となるのだ。

 真の弟子は、グルの神聖なる性質にのみ関心がある。
 グルの人間としての行為は、その弟子の関心事ではない。
 たとえグルが型破りなやり方で行動したとしても、彼にとって、グルはグルである。
 聖者の性質は計り知れないのだと、常に覚えておきなさい。
 彼をジャッジしてはならない。
 自分の無智なる不十分な尺度で、彼の神聖なる性質を測ってはならないのだ。
「バガヴァッド・ギーターにおけるグル・バクティ」



オーム・ナモー・バガヴァテー・ヴァースデーヴァーヤ


 われわれは、主クリシュナが、完全に至高なる神の意識であるにもかかわらず、いかにしてグルに仕え、グルの下で学んだか、ということを知っている。
 彼が仰ったことを、彼は実行された。――彼が実行したことというのは、彼が仰ったことの解説なのだ。
 ゆえに、彼が霊性の師に対しての態度について仰ったことを理解するために、シュリー・クリシュナの不滅の言葉――バガヴァッド・ギーターを見てみよう。

 主クリシュナはこう仰っている。

「ナ ヒ ジュニャーネーナ サッドリシャム パヴィトラミハ ヴィディヤテー“Na hi jnaanena sadrisham pavitramiha vidyate,”」――叡智ほど広大で、気高く、純粋なものは存在しない。われわれはその叡智にいかにして到達することができるのだろうか?


 この素晴らしい問い掛けに答える二つの言葉がある。

「シュラッダーヴァーン ラバテー ジュニャーナム“Shraddhaavaan labhate jnaanam”」――シュラッダー(信)を持つ者はジュニャーナ(叡智)を得る。

 このシュラッダーという言葉は、定義するのが非常に難しい。――それは愛、信、献身、完全な無私、そして絶対的な明け渡しの完全な融合である。

 もう一つの言葉は、

「タドヴィッディ プラニパーテーナ パリ・プラスネーナ セーヴァヤー; ウパデークシャンティ テー ジュニャーナム ジュニャーニナハ タットヴァダルシナハ“Tadviddhi pranipaatena pari-prasnena sevayaa; Upadekshyanti te jnaanam jnaaninah tattvadarsinah”」――「真我を直接知覚した偉大なる者に自らを投げ出して、質問し、奉仕することで、彼らはあなたにその叡智を授けるだろう、ということを知りなさい。」

 この叡智を自力の努力によって得ることは不可能である。

 この真理は、ヴィシュヴァルーパ・ダルシャナ・ヨーガ(「バガヴァッド・ギーター 第11章」)の中ではっきりと浮き彫りにされている。
 アルジュナに自らの本性を明かし、そして再び愛らしい人間としのクリシュナの御姿をとった後、主はこう宣言された。

「今しがた君が見た私の姿は、めったに見られるものではない。
 神々ですら、この姿を何とか見たいものだと、常々願ってはいるのだが。 」
 主はすでにこう仰っていた。

「神々(デーヴァ)や大聖仙(マハーリシ)も私を知らない。
 なぜなら、私は彼らの源だからだ。
 しかし、アナンヤ・バクティ(唯一なる主だけに献身するバクティ)によって、私を知ることができるのだ。」

 アナンヤ・バクティ(唯一なる主だけに献身するバクティ)を得ると、主は信者に自らをお明かしになる。ちょうど、彼がアルジュナに自らをお明かしになったように。
 これは心に留めておくべき点である。――そのときでさえ、自らを明かすのは「彼」だと言うことを。
 主がアルジュナにヴィディヤー・チャクシュ(明智の眼)を授けて初めて、アルジュナは「彼」を見ることができた。
 同様に、「ダダーミ ブッディ・ヨーガム タム イェーナ マームパヤーンティテー“Dadaami buddhi-yogam tam yena maamupayaantite”」――つまり、求道者が智慧を得るための機が熟すと、「私は彼にブッディヨーガを与え、彼はそれによって私に到達する」と。

 まさにギーターの最後を飾る宣言の中で、主はそれを極めて明快にしてくださった;「サルヴァダルマーン パリティヤジャ マーメーカム シャラナム ヴラジャ“Sarvadharmaan parityajya maamekam sharanam vraja”」「アハム トヴァー サルヴァ パーペーブフヨー モークシャイシャーミ マー シュチャハ“Aham tvaa sarva paapebhyo mokshayishyaami maa shuchah.”」――「心の底から、無条件に、完全に自己を私に明け渡しなさい。それが君ができるすべてのことである。そうすれば、私は君を罪から解放するだろう。君は自分自身ではそれをすることができないが、私には可能なのだ。さあ、恐れるな。」

「君はシュラッダーを育てさえすればよいのだ。私が君にジュニャーナを授けるだろう。
 君は自己を明け渡しさえすればよいのだ。私が君に解脱を与えるだろう。」

 これが主の最期の宣言である。

 美しき真理が、ギーターの中のこれらの詩句から現れたのだ。

 ある場所で、主はこう仰っている。  

「私は求道者にブッディヨーガを与え、彼はそれを通じて私のもとへとやって来る。」

 また別の場所では、こう仰っている。

「偉大なる者たち(霊性の師)のもとへ行きなさい。彼らを礼拝しなさい。彼らに奉仕しなさい。そして彼らに尋ねなさい。彼らは君に叡智を授けるだろう。」

 この二つを合わせて読むと、われわれは、グルは地上における神の化身であるという偉大なる真理を垣間見ることができる。
 この真理を理解することができれば、あなたは主の超越的無形の様相、あるいはあなたが唱えることができる御名を持ち、あなたが瞑想することができる形を持ち、あなたが見、触り、聞くことができる知覚可能な個性を持ち、そしてあなたを指導し、鼓舞し、不滅の真我の悟りに導いてくださるグルのような主の内在的様相において、主に対してアナンヤ・バクティ(唯一なる主だけに献身するバクティ)を培うことによって、悟りを得ることができるのだ。

 このように、主は霊性の師(グル)と完全に一体化している。
 そして、求道者は彼の無形の相、あるいは地上における内在的様相、すなわちグルに、シュラッダーとバクティを向けなければならない。
 グルは間違いなく、大半の求道者にとって、前者よりもより実際的であるのだ。

 グル・バクティとグル・セーヴァは、悟りに至った時に終わる。(そもそもそれが終わりといえればの話だが)
 あなたは、グルに仕え続けなければなならないだろう。
 グルは、あなたの自己の明け渡しが完全になり、時が熟したときに、あなたに真理を明かしてくださる。
 しかし、それはあなたの関心事ではない。
 アルジュナがヴィシュヴァルーパ・ダルシャナ(至高者の宇宙的様相の見神)をお与えくださるように祈り、主によってヴィディヤー・チャクシュ(明智の眼)を授けられるのを待っていたように、あなたは仕え、仕え、仕え続けなければならないだろう。そうすれば、グルはその機が熟したときに、あなたに叡智を授けるだろう。

 ある迷妄な求道者は、数年間グルに仕え、愚かにも自分がチッタ・シュッディ(心の純粋性)に達したと勘違いして、グルへの奉仕を放棄する。
 彼らは至高なる叡智を得ていないし、ゴールにも達していないというのに。
 彼らは間違いなくいくらかのメリット(徳)は得ただろうが、悟りには達していない。これはまさしく、大いなる損失、重大なるミスである。

 グル・バクティとグルセーヴァは、あなたに輪廻の激流の流れを渡らせてくれるサーダナーという船の二本のオールの如くである。
 あなたは、彼岸に達さない限り、不死、永遠なる至福に至らない限り、ジーヴァーンムクタ(生前解脱者)にならない限り、それらなしではやっていけない。
 そしてグル・バクティはそれそのものが、あなたの中に悟りとして顕現する。そしてグルセーヴァは、ローカサングラハ(世界を引き上げること)となり、あなたはそれに自動的に従事することとなる。
 
 そのようなグル・バクティを持つ者、自己を完全にグルに明け渡した者、心の底からグルにお仕えする者は、悲しみ、苦悩、恐れ、痛み、苦しみ、迷妄を知らない。そして彼は一瞬にして神の悟りを得る。――なぜならば、グルと神は一つだからだ。
 彼は瞬間的に、叡智と自性光明に達するのだ。
 ゆえに、ウパニシャッドにはこう宣言されている。

「ヤシャ デーヴァ パラ バクティリャター デーヴァ タター グラウ;タシャイテー カティターヒャルターハ プラカーシャンテー マハートマナハ“Yasya deve para bhaktiryathaa deve tathaa gurau; Tasyaite kathitaahyarthaah prakaashante mahaatmanah.”」――「神に対して最高の信仰を持ち、そしてグルとマハートマにも神に対するのと同等の信仰を持つ者には、ウパニシャッドの真理が水晶のように明らかになるだろう。」

 あなたたち皆が、グル・バクティの権化として輝きますように!
 あなたたち皆がまさに今生で、ジーヴァーンムクタ(生前解脱者)として自由に歩き回れますように!
 神が、健康、長寿、平和的な繁栄、カイヴァリヤ・モークシャ(真我独存解脱)で、あなたたちを祝福してくださいますように!


「グル・タットヴァ」


 父や祖父に対する奉仕が、その息子や孫を喜ばせるように、グルに対する奉仕はマントラを喜ばせる。
 グル、マントラ、神の間に区別を設けてはならない。
 グルをただの人間と見なしてならない。
 グルが住まわれる場所は、カイラスである。
 グルが住まわれる家は、カーシー(ヴァーラーナシー)である。
 グルの御足を洗った水は、ガンガーそのものである。
 グルの美しき御口から発されたマントラは、救世主ブラフマンそのものである。

 グルの御姿はディヤーナの根であり、グルの蓮華の御足はプージャの根であり、グルの言葉は救済の根である。

 グルは巡礼地である。
 グルは火である。
 グルは太陽である。
 グルは全世界である。
 全宇宙にあるすべての巡礼地は、グルの蓮華の御足の裏に宿る。
 ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ、パールヴァティ、インドラなどのすべての神々、すべての聖河は、グルの身体の中に永遠に座している。
 シヴァだけがグルである。

 グルとイシュタ・デーヴァター(理想神)の間に違いはない。
 サーダナーやヨーガのさまざまなフォームを教えてくださるのが、シクシャー・グルである。
 それらの二者のうち、イシュタ・デーヴァターの偉大なるマントラを授け、学ばせてくださるのは、至高なるグルである。彼によってのみ、シッディは得られる。

 グルが喜ばれれば、主ご自身が喜ばれる。――グルが不愉快になれば、神は不愉快になる。
 グルは、イシュタ・デーヴァターにとっての祖父である。

 身口意において純粋であり、感覚を調御しており、聖典の知識があり、誠実で穏やかであり、神の悟りを得ている者が、グルである。

 悪い性格の者はグルであることはできない。
 有能な弟子は、グルに有能さを欲することは決してない。
 弟子は、グルへの信に比例して成果を得る。

 大学の学位を持っていても、グルを審査する資格はない。

 世俗的な知識という虚栄心に盲目となり、グルの霊性の叡智を試すということは、見当違い、失礼、愚かさの極みである。



「人間の四つのクラス」


 普通の世俗的な人間は、ミルクのようである。
 邪悪な人々と接触すると、彼は取り返しのつかないほど道に迷う。
 このミルクの中に、少しバターミルクを混ぜる。そうすると、それはカード(ヨーグルト)になる。
 世俗の人間は、グルによってイニシエートされる。
 グルは、そのカードの如くである。――すでに独り変換されている。
 バターミルクを加えた後、ミルクはしばらくの間、しまっておかれる。
 そのように、そのイニシエートを受けた者も、隔離され、イニシエーションと同化しなくてはならない。
 そうすると、ミルクはカードに変わる――つまり弟子は賢者へと変革するのだ。

 そして、カードはすぐに水と混ぜてはいけない。
 水がカードの中に注がれると、カードは下に沈むだろう。
 同様に、賢者は、悪しき交わりの中に足を踏み入れても、邪悪な人々と容易には混ざり合うことはない。――しかしその影響が非常に深いならば、彼もまた道を見失ってしまうだろう。
 そして、もしブラフマムフールタ(日の出前)に、このカードが十分に撹拌されているならば、あなたはそれからバターを得られる。
 同様に、賢者がブラフマムフールタの間に神を深く瞑想するならば、彼は真我の叡智というバターを得る。――彼は真我を悟った聖者というバターとなるのだ。
 
 このバターは、水に投げ入れても何の問題もない。
 それは水と混ざり合うことはない。しかもそれは浮く。
 真我を悟った聖者が世俗的な人々と接触しても、彼は道を失うことはない。――それどころか、彼は世俗に汚染されることなく、喜々としてそこに浮くのだ。
 このバターが溶けてギーになり、それが水の中に入れられれば、水全体がギーの風味になる。――同様に、この聖者が宇宙的愛の炎によって溶けると、彼は、接触するだけですべての者を純粋化し、接触したすべての者を引き上げ、接触したすべての者に智慧、誇り、神性を注ぎ込む神聖なる存在というギーとなるのだ。



「グル・クリパー(グルの恩寵)を得る方法」


1952年9月2日 スワーミー・チダ―ナンダジのスピーチより


崇拝されし不滅なる自己たち


 今日は、グルとしての神聖なる現れに対して最も吉兆な日であるから、私はあなたたちの前に、特別にいくつかの祈りの言葉を提示しよう。
 よって私は、グルとグル・クリパー(グルの恩寵)について話す。
 このアシュラムで、われわれはグルとグル・クリパー(と自分たちとの関係)を、逆さまに見ている。グルが弟子に仕え、弟子がグルに指示を与えて、グルはそれに従わざるを得なくなっている。
 これが事実ならば、われわれは今一度これと逆の態度を正しく取るようにしなければならないと、私は思うのだ。

 グル・クリパーは素晴らしく、神秘的な要素であり、それによって求道者は人生の至善、真我の悟り、神のダルシャナ(見神)、モークシャ(解脱)、つまりすべてのものを得ることができると、われわれは聖典から教わった。――弟子がサーダナーを行おうが行うまいが、資格があろうがあるまいが、グル・クリパーは霊的な自己に働く通常の法をすべて無視して、人を超越的な至福へと連れていく。
 もし聖典を信じるならば、われわれは、グル・クリパー以外に、生きているうちに完成を得るために必要なものは何もない、と言わなければならない。

 また、グルは無限の慈悲の大海であり、彼の恩寵は、それに相応しかろうと相応しくなかろうと、資格があろうとなかろうと、常にすべての求道者の上に注がれている、ということが本当だとしたら、われわれはもうすでに、至福に満たされているはずである。
 しかし、実際はそうであろうか?
 いや、われわれは捕らわれているということに――無智があり、迷妄があり、自らの低次の自然によって、至る所で欺かれているということに実に苛立っているということに気づく。

 どこに問題があるのか?
 どれが非真実なのだろうか?
 上記の意見は両方とも真実であるが、弟子はそれでも実に現世に染まっている。他の何かが、どこかで間違っているはずなのである。
 一体、その何かとは何か?
 われわれは厚かましくも、聖典が間違っているとは言わない。
 それに加えて、グルは慈悲深くなく、われわれに恩寵を降り注いでいない、とも主張しない。

 これを熟考すると、真剣に考慮すべきいくつかの要因がわれわれの前に持ちあがってくる。
 グル・クリパーは紛れもなく、意識ある存在は言うまでもなく、石さえも無限のサチダーナンダ(絶対の実在、智慧、歓喜)に変えることのできる神の力である。
 グルが常に慈悲深いという意見、要素には、間違いなくほんの少しも誇張表現はない。
 しかしそれでもグル・クリパーは、授けられも与えられもしない。――しかしそれはまた、受けねばならないものである。
 それを受けて、われわれは不死になり、神となるのだ。


 寛大な心を持つ布施者は、困窮している人々を訪問し、無条件の施しをなすだろう。
 しかし、その困窮者がその素晴らしい機会を利用して、実際にその富を受け取ることがないならば、彼にとってその富や布施は何の役にも立たないだろう。
 それゆえに、偉大なる主キリストはこう仰ったのだ。

「求めよ、さらば与えられん。叩けよ、さらば開かれん。尋ねよ、さらば見出さん。」

 これは、神の寛大さ、神の恩寵、グル・クリパーが不足しているというのではない。
 不足しているのは光だ――しかしそこにはわれわれが乞い、求め、叩かねばならない「法」があり、それを為した後に、われわれをそれを受け取る準備が整うはずである。
 これがあれば、グル・クリパーはすべての奇跡となる。――それはわれわれの中に流れ込み、われわれを不死、永遠の光、無限の至福の最高の世界へと引き上げるのだ。
 

 しかし、それはどうやったら受け取ることができるのか?
 われわれがこの恩寵を受け取る準備をするには、どのように行動すべきなのか?
 それは、弟子になることである。
 
 私がグル・クリパーと言う時、それは特別なものであり、神秘的なものであり、この地上の誰にでも与えられるものではないが、人生をそのために捧げた者にはその最高のものが与えられる。

 (普通の)バクタは、聖者の祝福、聖者の恩寵を与えられるだろう。彼も同様に祝福されている。彼もまた、聖者の慈悲の御力を受ける。
 しかしグル・クリパーの恩寵を得るためには、われわれはまず「弟子」にならなければならない。
 そうしてのみ、われわれはそれに相応しい受取人になる資格を得るための第一のステップを踏んだことになるのだ。
 
 それでは、弟子になるとはどういうことか?
 弟子を受け入れるのはグルではない。――弟子のほうがまず最初にグルを受け入れなければならない。
 まず第一に自分が弟子になるならば、グルが「お前は私の弟子だ」と言おうが言うまいが、それは関係のないことなのだ――彼はグル・クリパーを受けるに値する者、その権利者となる。

 われわれは、弟子というものはどのような神聖なる性質を備えているのかを理解しなければならない。
 グル・クリパーはわれわれを最高の境地へと連れて行ってくれるのであるから、弟子は、その最高の境地、あるいはサチダーナンダとしてわれわれが悟るものを受け取るのに相応しい器になるのである。
 ゆえにまず第一に、われわれは、自分の今の状態は真の本質のものでなく、望ましくないものであり、取り除かなければならないものであるということを感じなければならない。そうしてのみ、われわれは平安、幸福を得るであろう。
 
この感覚を
どれほどの人が持っているか、熟考し、分析してみよう。
 われわれの現在の状態とは、ジーヴァ、肉と骨の苦しみの籠に捕らえられている魂のことを言う。
 どれほどの人が、自分は息苦しい籠の中にいて、自由に息もできず、心からその籠から脱走したいと思っているのだろうか?
 これを感じたら、われわれは弟子になろうとするだろう。
 そうして、われわれは自由なる者に近づくことができる。――なぜならば、グルは自由なる御方であり、同様にわれわれを解放してくださる御方であるからである。
 ジーヴァートマのこの苦しみ、この苦痛を感じたら、われわれはこの自由なる者のもとへと行き、こう祈る。

「おお、われわれをこの肉体から解放してください。」

 この祈りは、口には出されないかもしれないが、人生の瞬間瞬間に心の奥の底から唱えられなければならない。
 そうしてのみ、われわれはグル・クリパーを求めることができるのだ。

 しかし、そのようなものは暗黒のマーヤーの壁で覆われていて、われわれは完全に自分の境遇に満足してしまっているのだ!
 ムクティ、自由、高度な神的人生の神聖なる意識の必要性を感じ、われわれはサットサンガ、聖典学習を行い、われわれの心の眼の前に、この地上における人間の人生の悲惨さをありありと思い描くべきである。
 それらがムムクシュトヴァ(解脱への熱望)を生じさせる。
 グル・クリパーのことを考えるならば、ムムクシュトヴァ(解脱への熱望)はその第一のステップである。

 まず第一に、このムムクシュトヴァを獲得しなさい。
 それからわれわれは、グルにお仕えしなくてはならない。
 奉仕は、われわれとグル・クリパーの感化力の間に立ちはだかる障害を引き倒す神秘的なものである。
 われわれが恩寵を受け取るに相応しい者にならなければならないならば、この恩寵を受け取るバーヴァに対する障害を取り除くものが奉仕なのである。
 エゴは、最も大いなる障害である。
 われわれの虚栄心、先入観という従来の傾向――これらの姿は、また別の第二の障害である。
 この奉仕というものは、すべての障害を効果的に破壊する。

 グルへの奉仕とは何か?
 グルへの奉仕とは、彼のウパデーシャ(教え)の実行にできる限りの最善を尽くすことである。
 グルの教えを実行しなさい。
 彼の崇高な教えの上に、われわれは人生を形作らなければならない。
 そして同様に、自分自身をその鋳型に流し込んで、自分自身をその目に見える理想にしなければならないのだ。
 われわれが尽くす取るに足らない最善に対するグルの指示、それを実行することの秘密とは何か――それは魂からの意欲的な服従である。
 それは最も重要なことだ。
 喜んで完全に地面にひれ伏す覚悟。
 彼を導き手として受け入れ、彼に従うこと。
 この服従は、ひたすらに培わなければならないものである。――われわれの忌々しい性質、低次の自然、インドリヤ(感官)、アンタフカラナ(内的心理器官)のあらゆる側面は、われわれがこの服従の態度へと向かうたびに、それとは逆の方向に行こうとする衝動がわれわれの先入観から生じる習慣的性向から起こるゆえに、われわれはこの服従の精神を開発することができないのだと考えようとする。
 この習慣的衝動は、克服し、破壊されなければならない。
 グルへの服従には喜びがなくてはならず、「私は従うべきだ」という精神には真の熱望がなくてはならない。
 弟子になるには、あなたは夢の中でさえもグルに服従しなければならない。――グルのウパデーシャ(教え)の精神に反することを行うという発想は、絶対に意識の中に生じさせてはならない。
 われわれのサーダナーは、昼夜この態度を完璧に至るまで磨くことであるべきである。
 これがなされれば、われわれはしっかりとグル・クリパーを受ける資格を得る方向へと向かっていく。
 これは、サーダナーの外面的な要素である。


 内面的には、われわれは、われわれに何とかして忍び込んでくる、グル、グルの恩寵、そしてその作用――グル・クリパーとは何か、そしてその作用とは何か、ということに関しての狡猾な考えを破壊しなくてはならない。
 それは大変な作業である。
 しかし、この作業は為されなくてはならない。
 なぜならば、グルとは人間ではないからである。
 われわれは、グルを人間であると見ることは1パーセントもあってはならず、彼が神であるということだけを意識しなければならないのだ。
 そうしてのみ、われわれは、われわれを低次の人間から超越的な神へと変革するそのクリパー(恩寵)を受けることができるだろう。
 われわれとグルとの関係は、混じりけなく神聖であり、完全に霊的である。――われわれがグルとの「人間的な」関係を、微塵も残すことなく完全に抹消しない限り、われわれはグルとの神聖なる関係に入ることはできないのだ。

 われわれはグルに対して、彼はわれわれを小さなトラブル、肉体の病気、金銭面の困難、家庭内の問題、この人生における小さな取るに足らない問題から救ってくださると期待する。
 もしそのようにグルに祈れば、すべてを得られるだろう。しかし、あなたが得るものはそれだけである。――それ以上のものは何もないのだ! いや、それどころか、そのグル・クリパーと呼ばれる神秘的で高遠なもの――それは、われわれの中に流れ込むことはない。
 ゆえに、まず第一にわれわれは、グルとの人間的な関係すべてを消し去るよう努力すべきである。
 そのためには、主観的にはわれわれは、内なる変革を遂げなくてはならない。――それが為されない限り、彼の神なる本性が、われわれに完全に明かされることはない。
 われわれが自分自身を、世俗的な欲望に満ち、完全に限定され、弱さを持った世俗の人間だと思っている限り、われわれはグルの絶対性、神聖なる本質における意識の中に完全に入ることは不可能である。
 ゆえに、われわれはサーダナーによって神意識を生じさせ、まず最初に人間的な意識を捨て去らなければならない。
 もしわれわれがここに、神的使命と共に神聖なる存在として生き始めるならば、グル・クリパーとグルの神的様相は徐々に顕現し始め、われわれはグル・クリパーを受け始めるであろう。

 われわれはその第一歩を踏み始めなければならない。
 ここにおいてさえ、グルへの祈りは、われわれの務めを容易くする。
 最初から最高点に至るまで、すべては神の源から得られる。
 われわれが自分自身を、人間ではなく、グル・クリパーを受けてあと少しの変革が必要な束縛された魂、という神聖なる意識に合わせ、その意識を生じさせるまでは、われわれは、神としてのグルを完全に活用することはできないであろう。

 この要点を例を上げて説明すると――地位を失った王子が、自分が王子であることを忘れ、放浪しているうちに、自らの父の前に偶然現れて、乞食の意識で怖気づいて立っている。
 彼が尋ねた精一杯のことは――「夜に雨風をしのげる小屋をお与えください。昼には食べ物をお与えください」というものだった。
 そして彼はそれを得た。
 もしこの王子が「自分は王国の相続者である」と気づいていたら――彼は王国すべてを要求しただろう。
 そんな食べ物や小屋などは要求しなかったであろう。
 彼は王のところまで行き、こう言ったであろう――「おお、父上! 私を王にしてください。私に相続財産を与えたまえ。」

 同様に、われわれはまず第一に、自分は不死なる存在である。自分はサチダーナンダの中にあるという意識を、自分の中に開発しなくてはならない。
 そうして、われわれはグルにサチダーナンダ意識を求め、グルはそれを与えることができるのだ。


 最後に、われわれはさらにもう一つの要因を考慮に入れなくてはならない。
 誰かがその王子に、彼は王子であるということを教えていたら、彼は父の所へ行ってその地位を要求し、おそらく彼が未成年であったら、王はこう言っただろう――『わかった、お前に宮殿をやろう。成人したら、お前はこの地位と王国を得る資格を得るだろう』と。
 そうだとしても、そこには神の恩寵を十分に、効果的に受けるために必要な、ある内なる資格がある――それを得られるまで、弟子は待たなければならない。
 ゆえに、理想的な弟子の資格をすべて得たように見えても、われわれは謙虚に忍耐強く待たなければならないのだ。
 われわれは、神の光の洞察によるヴィジョンでのみ見ることができる完成の境地を、不当に自分のものとすることはできない。
 霊性の領域における忍耐と謙虚さは、何十年という期間にわたって持たねばならないものである。
 われわれは必要であれば、グルの家の前で、一生、犬のように待たなければならない。
 そこには何の損失もない。
 なぜならば、そのゴールは不死の命であり、自由であるからだ。
 

 われわれが、意欲に満ちたしもべ、熱心で従順な弟子になったならば、グル・クリパーは、請われずともわれわれに流れ込む。これは自然の摂理である。

 しかしわれわれは、グルにグル・クリパーを注いでくれるように指図するという過ちを犯さないようにしなくてはならない。
 なぜならば、われわれは内に、欲望、従来の性質や野心、良し悪し、喜び苦しみ、好き嫌いの観念を持っているからである。――われわれは自分の必要、気まぐれに応じて、都合よくグル・クリパーを適応させようとする。

 グル・クリパーは、不快な形でやってくるかもしれない。
 一連の失望の形でやってくるかもしれない。
 われわれはそれを見て、グルはわれわれにグル・クリパーを授けてくださらない、と思ってしまうだろう――しかし、その失望そのものが彼の恩寵なのだ!
 多くの物事は、外見的には良く、楽しく見えるかもしれない――しかしわれわれ自身の魂によっては苦痛の場合がある。グルだけが、それを理解し、ジャッジしてくださる。
 優しく注意深い母のように、彼はわれわれに見せかけだけの残酷な失望を経験させることで、われわれの煩悩を断じさせる。
 それはグル・クリパーの最高の現れであり、われわれの道におけるすべての障害と危険を取り除き、われわれをサチダーナンダの意識へとさらに近づけてくれる。
 われわれには、自分がグル・クリパーを受ける準備ができているか否か、それがどのようなフォームを取るのかをジャッジする資格はないのだ。


 最高のことは、謙虚になってグルにすべてをおまかせすることである。

「私は、自分が弟子であるかどうかさえ知りません。ゆえに、ああ、慈愛と慈悲の大海よ、どうか、私を本物の弟子にしてください。私の中に、私を弟子にし、私に力強い服従の精神を与えてくれるムムクシュトヴァを生じさせてください。私があなたのご指示に従うことができるよう、お助けください。あなたによって定められた鋳型によって私が自分自身を形作れるよう、お力添えをください。」

――これを常なる祈りとしなければならない。

 これによってのみ、われわれはグルの恩寵をいただき、この人生を実りあるものとすることができるのだ。
 そして、祈りの完璧な道は、本物の弟子になれるように最善を尽くすことである。

「グルについての用語」



1.グル――導師。真我の秘儀を伝授する御方

2.パラマグル――導師の導師、偉大なる導師

3.パラトパラグル――偉大なる偉大なる偉大なる師(絶対の真理と同一であると見なされる師)

4.パラメーシュティグル――偉大なる偉大なる偉大なる師

5.クラグル――家系の師

6.ヴィディヤーグル――聖典を教える師

7.ジュニャーナグル――完全なる叡智を伝授する師

8.シクシャーグル――弟子の性質を鍛え、形作る師

9.ディークシャグル――聖職(ブラフマーチャーリヤ、サンニャーサなど)へとイニシエートする師

10.アーディグル――原初の師

11.ジャガドグル――宇宙の師(その教えであまねくすべての者を従わせる師)

12.サットグル――真の(偽りでない)師、あるいは真理を知る師

13.マハーグル――偉大なる師

14.アドヴァイタグル――非二元の教義を伝播する師

15.アナンタ・グル――無限なる師(あらゆる制限を超越し、まさにブラフマンの権化である師)

16.グルデーヴァ――神なる師、超人的師

17.グル・マハーラージ――最高位の師

18.グルバイ――兄弟弟子

19.グル・パトニー――師の配偶者

20.グル・プトラ――教師の息子

21.グル・マータ――師の母(または師の妻)

22.グルセーヴァ――師への奉仕

23.グルススルシャ――師への奉仕

24.グル・バクティ――師への信愛

25.グルマントラ――師に関する秘密の賛歌、詠唱

26.グルクリパー――師の恩寵

27.グルヴァラ――最高の師、ずば抜けて優秀な師

28.ウパグル――補助的な、二次的な師

29.グル・プラルタナ――師への祈り

30.グルマントラ・ジャパ――師に関する、あるいは師から与えられた秘密の詞章の復唱

31.グルパダ――師の御足

32.グルプラサーダ――それを通じてグルの恩寵が弟子に送られるところの有形のもの(お菓子など)

33.グルチンタナ――グルについての思索、グルの瞑想

34.グルバジャン――師の栄光を歌うこと

35.グル・ジャンモーツァヴァ――師の聖誕祭(文語的には祝祭)

36.グル・アラダナ――師の礼拝

37.グル・プージャ――師の礼拝

38.グルセーヴァ・ドゥランダラ――師への奉仕に献身し、それに歓喜する者

39.グル・クリパーパトラ――師の恩寵を受けるに値する者

40.グル・シッシャ・サマダナ――師と弟子の神聖なる関係

41.グル・チャラナ・カマラ――師の蓮華の御足

42.グルセーヴァサクタ――師への奉仕を望むこと

43.グルパダプージャ――師の御足に為される礼拝

44.グル・ウッチシュタ――師の残り物(それを食べた者の心を純粋化すると信じられている)

45.グル・パドゥカ――師のサンダル

46.グル・シュトゥティ――師の讃嘆を通しての自分の信仰心の表現

47.グル・ストートラ――師を称える詩、または詩集

48.グルバクティ・プラバーヴァ――師への心からの信仰心の影響力を確保すること

49.グルマヒマ――師の神秘力

50.グル・チャリトラム――師の生涯と人格に関する話

51.グル・リーラー――師の計り知れない御業

52.グルカタ――師についての伝記

53.グル・マハーラージ・キー・ジェイ――師に栄光あれ

54.グルジ――尊師

55.グル・ギーター――師の性質や御業を描いた歌

56.グル・ドワーラ――シーク教徒の寺院(文語的には師または真実に通ずる門)

57.グルムキ・サーダナー――師の導きの下で行われる霊性の修行

58.グル・プールニマ――すべての師への礼拝に捧げられる神聖なる満月の日

59.グル・シャラナン・ママ――師に帰依すること

60.グル・グラント――師の教えをまとめた本

61.グルチャラナームリタ――師の御足を洗った水(それは不死[アムリタットヴァム]を授けるから、神聖な不老不死の薬として考えられている)

62.グル・ムールティ――師の肉体の姿

63.グル・ディヤーナ――グルの瞑想

64.グル・アージュニャー――師の命令

65.グルパダ・ドゥーリ――師の御足の聖なる塵

66.グルパダレーヌ――師の御足についている砂粒

67.グルチャラナダーサ――師の御足のしもべ(素晴らしく献身的な者)

68.グルパダセーヴァカ――師の御足の奉仕者(素晴らしく献身的な者)

69.グルプレーミ――師に愛される者、師を愛する者

70.グルチャラナラージャ――師の御足の塵、または微粒子

71.チドグル――叡智または意識の権化である師

72.チドガナグル――叡智または純粋意識の権化、いわば叡智の塊である師

73.チンマヤグル――至高なる意識と同一である師

74.モウナグル――無言の師(穏やかで、落ち着いている師)

75.ジャヤ・グル――師の栄光

76.グル・グナ・グナ――師の多くの気高き性質

77.グル・パランパラ――グル方の無限の継承

78.グローラングリ――師の御足

79.グル・アシュトッタラ・サタ・ナマヴァリー――師の108の異名の目録

80.グル・アシュトッタラ・サハスラー・ナマヴァリー――師の1008の異名の目録

81.グルラージャ――師の中の王(非常に能力のある師)

82.グル・プラダクシナ――師の周りを回ること

83.グル・バクティヨーガ――師への信愛によって得られる無限の魂と無限なる神との合一

84.グルセーヴァヨーガ――師への奉仕によって得られる無限の魂と無限なる神との合一

85.グル・ニヴェーダナ――師への自己の明け渡し

86.グルナータ――救世主なるグル(従者を支える師、従者にとっての主である師)

87.グル・ダクシナ――感謝と愛の印としてのグルへの捧げもの

88.グル・ウパーサナ――師の瞑想、師の礼拝

89.グル・ウパーサカ――師を瞑想する者、師を礼拝する者

90.ブラフマニシュタグル――すべてに遍在する真実の意識に確立された師


91.グル・ウパデーシャ――師の指示

92.グルセーヴァ・タットパラ――師の御足の奉仕に献身すること

93.グル・ピータム――グルが座られる高座

94.グル・バクティ・プラバーヴァ――師への信愛の結果として(弟子の中に)顕現する強大な力

95.グルパダンブジャ――師の蓮華の御足

96.グルセーヴァ・マグナ――師への奉仕に没頭すること

97.グルセーヴァ・クシャラ――効率良く師にお仕えすること

98.グルセーヴァ・ヴラタ・ダリ――師への奉仕を誓った者

99.グル・バクティ・ラトナ――師へ献身する者たちの中の宝石(最高者)

100.グルデーヴァター・アルチャナ――神なる師の礼拝

101.グル・セーシャ・ヴァストラ――師の古着

102.グル・ヴァンダナ――師の前で自己を投げ出し、礼拝すること

103.グルセーヴァ・アグラ・ガーニャ――師の従者の中の最高者

104.グル・アージュニャーヌカリ――師の瞑想を遂行する者

107.デーヴァグル――神々の師(ブリハスパティ)

108.アスラグル――アスラまたはラークシャサたちの師(シュクラーチャリヤ)

109.ブラフマヴィディヤーグル――最高の真理の明智をお授けくださる師

110.ブラフマスロートリヤグル――真理の論理的な智慧に精通している師

111.グル・サラナガティ――師の保護の下に帰依すること

112.グルヴァカーラ・ヴリッティ――師のフォームに従うことによる心の修正

113.グルパダ・ムドラー――師の足跡

114.グルナマヴァリー――師の異名の目録

115.グル・カタクシャ――師の流し目(慈悲深い一瞥)

116.グルヴァヌグラハ――師の祝福

117.グルヴァシルヴァダ――師の恩寵

118.グル・タットヴァ――師の特有の性質、あるいは師の中にある実在、根本的本質

119.グルチャラナラヴィンダ――師の蓮華の御足

120.グルパダラヴィンダ――師の蓮華の御足

121.グル・マハーットヴァ――師の強大な力、影響力

122.グルセーヴァ・ドゥランダラ――師への奉仕の負担に耐えることに熟練した者

123.グル・シッシャ・サンヴァダ――師と弟子の問答

124.ローカプラシッダ・グル――世界に知れ渡った師

125.ジャガドプラシッダ・グル――宇宙に知れ渡った師

126.グル・ドローハ――師への不誠、師を欺くこと

127.グル・ドローヒ――師に対して不忠実な者、自分の師を騙す者

128.グル・ニンダ――自分の師の批判、悪口

129.グル・サンニーダナ――師の御傍

130.グルクラム――師の住居

131.グルヴァーキャム――師の言葉、命令

132.グル・ニヴァサ――グルの住居


◎ジャパや瞑想のためのグルマントラ



オーム シュリー グルビョー ナマハ
オーム シュリー サットグル パラマートマネー ナマハ
オーム シュリー グラヴェー ナマハ
オーム シュリー サチダーナンダ グラヴェー ナマハ
オーム シュリー グルシャラナン ママ

OM Sri (Gum) Gurubhyo Namah.
OM Sri Satguru Paramatmane Namah.
OM Sri Gurave Namah.
OM Sri Satchidananda Gurave Namah.
OM Sri Gurusharanam Mama.


オーム サハナーヴァヴァトゥ
サハ ナウ ブナクトゥ
サハ ヴィーリヤム カラヴァーヴァハイ
テージャスヴィナーヴァディータマストゥ
マー ヴィドゥヴィシャーヴァハイ
オーム シャーンティ シャーンティ シャーンティヒ!


OM Sahanaavavatu
Saha nau bhunaktu
Saha veeryam karavaavahai
Tejasvinaavadheetamastu
Maa vidvishaavahai
OM Shantih Shantih Shantih!



オーム グル ブラフマー グル ヴィシュヌ
グル デーヴォー マヘーシュワラ
グルッサークサット パラム ブラフマー
タスマイ シュリーグラヴェー ナマハ

OM Gurur Brahmaa Gurur Vishnuh
Gurur Devo Maheshvarah
Guruh Saskshaat Param Brahma
Tasmai Sreegurave Namah



カールパニャドーショーパハタスワバーヴァハ
プリッチャーミ ツワーム ダルマサンムダチェーターハ
ヤッチュレーヤハ シャーンニスチタム ブルーヒ タンメー
シッシャステー ハム サーディ マーム ツワーム プラパンナム

Kaarpanyadoshopahatasvabhaavah
Pricchaami tvaam dharmasammudhachetaah;
Yacchreyah syaannischitam broohi tanme
Sishyaste’ham saadhi maam tvaam prapannam.

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