『篤姫』が次の日曜日にもう6回目ですか。けっこう進んでますね。
このドラマのことを考えていたら、むしろ、自分はなぜ時代劇を見ているのだろうとか、そういうことが気になってきました。
極言すれば、時代劇で描かれるような社会がかつて日本に存在したことはありません。
あそこで描かれているのは、かつての日本をベースにしてはいますが、あくまで架空の社会です。想像の産物であるという点では、『指輪物語』の中つ国と同じ存在です。
よくいわれる例を挙げれば、既婚女性が眉を落としてお歯黒をつけていないと江戸期の風俗の描写として正しくありません。しかし、実際にはそのような映像化がなされた場合、違和感が大きくなりすぎて一般には受け入れられないでしょう。
ならば、時代劇の社会を構成している要素はなんでしょうか。
私が思うに、それはお話をおもしろく語るための無数のノウハウの集積です。
世界があって、そこから物語が紡がれるのではありません。お話のために世界があって、その世界はお話をおもしろくするための設定で埋め尽くされているのです。
これは時代劇が歌舞伎から受け継いだ最も重要な部分だと思います。
具体的には、殺陣、勧善懲悪、男女の駈け引き、家族の情愛、義理と人情の板ばさみ、見得や名乗りなどの誇張された表現、などなどです。
いずれも江戸期の日本に起源をおいていますが、当時これらが一般的でありふれた事象だったかといえばそんなことはなく、むしろ、稀なことであったがゆえに持てはやされたのではないでしょうか。
さらにいま一つ、現在の問題を現在の社会を舞台に論じると、ノイズが多すぎるために主題の輪郭がぼやける場合があります。読者が周囲の状況についての情報を持っているため、かえってイメージが拡散するわけです。その場合、あえて異なる社会の出来事として扱うことにより、より主題が明確になります。
森鴎外が乃木希典の殉死に際して『興津弥五右衛門の遺書』を書いたのは有名です。
『忠臣蔵』は同時代の武家社会を扱うことが禁じられていたため舞台を室町時代に置き換えていると言われますが、そういう制約がなかったとしても主題を鮮明にするため時代設定を別にすることは大いにありえたと思います。
これもまた、いわゆるコスチューム・プレイの大きなアドバンテージといえるでしょう。
それやこれやで『篤姫』を見ています。
お話は圧倒的に現代のホームドラマのメンタリティで語られていきます。
それは事前に予想がついていたことでして、そういうものだろうなと思うだけです。
登場人物たちのやりとりは、近世日本を舞台にして海外で製作されたドラマだと思えば、納得できる感じです。
前述の通り、そもそも架空の世界観におけるお話ですから、考証とかは最初から論じません。ただ、この世界でドラマがなにを語ろうとしているのかが、私にはよくわかりません。
そういえば、主人公が武家の立場について諭されるシーンが2つほどあります。ふつうに考えれば、このドラマの主人公が当時の支配階層に属する人間であることを確認する場面なのですが、いずれもぴんときませんでした。
原作者の宮尾登美子は朝日新聞の日曜版に『クレオパトラ』を連載していましたが、あまりのわけのわからなさに自分が日本語を読めなくなったのかと不安になったことを思い出します。
なんだかけなしているみたいですが、読書の意義の一つがセンス・オブ・ワンダーに触れることであるなら、その目的は十分に達しているわけでして、あれはあれで貴重な体験をさせてもらったと思います。
同じ日本人が書いたものを読んでさっぱりわからないのですから、それは世界から争いがなくならないわけだと深甚な教訓を得た機会でもありました。
とりあえず、今後は一つ一つのシーンを個別に見て、前後のつながりは気にしないようにしていくつもりです。
そして、見て愚痴を言うぐらいなら、視聴を中止する勇気を忘れないでいたいと思います。
そういえば、島津斉彬役の高橋英樹は『翔ぶが如く』で島津久光を演じていましたら、幕末島津兄弟を制覇していますね。だからどうってわけでもないですが。
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