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2008年01月23日13:41

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再び心理学話

またもや骨王さんから認識の甘さをしかられるかもしれないが、学問の上流ではなく、我々一般人にフィードバックされた下流の話。


ビジネス界でよく使われる心理学用語として、「マズローの欲求5段階」というのがある。yahooでこの言葉を検索すると、ほとんどビジネス関係のサイトだ。
http://search.yahoo.co.jp/search?fr=slv1-jwd&p=%a5%de%a5%ba%a5%ed%a1%bc%a4%ce%cd%df%b5%e1%a3%b5%c3%ca%b3%ac

人間の欲求は5段階の階層をなしており、低次元の欲求が満たされると次の次元の欲求段階に進むとされる説。その5段階は以下。

1.生理的欲求:動物的生存の保障に対する欲求
2.安全の欲求:危険や脅威から保護されたいとする欲求
3.社会的欲求:集団や家族への帰属を求める欲求
4.自我の欲求:他者から尊敬や賞賛をされたいとする欲求
5.自己実現の欲求:自己の潜在能力や創造性の発揮に対する欲求

一見すると至極当然。
人間の欲求の原理と言えそうで、それを援用して人事管理や労働の動機付け、あるいはマーケティングの基本法則として語られることが多い。


しかし、現実には人の欲求は状況によって複雑に絡み合い、こんなきれいな階層を築いてはいない。

例えば「食べる」という基本的な欲求も、必ずしも1の欲求だけを満たすものではない。
パンじゃなくコメが食いたいというのであれば3が絡んでくるだろうし、三ツ星レストランで食べたいというのは4の欲求でもあるだろう。
芸術家になりたいと願って、家族も持たず極貧の生活に甘んじるのは、4や5のために1や3の欲求をあえて無視していると言える。
自爆テロをしかけるモスリムの欲求は、3や4のために1や2を無視し、5を軽蔑するものかもしれない。

そんなことから、下位の欲求が満たされて上位に進むというマズロ−の言い分は、相当おめでたい考えといえるだろう。
人は何も持たない所から、順繰りに欲求を満たしていくものではない。

欲求に対する価値観は人それぞれなので、この法則を鵜呑みにして会社運営などされると、社員はひどく迷惑なことになったりする。
マーケティングで言えば、バイクのように一人しか乗れない危険で世間からも芳しく思われていない乗り物は、全ての欲求を満たしたごく一部の人間にしか売れる理由がないということになる。現実はそんなこともないだろう。
いや、むしろ、そうしたありきたりの欲求に対するアンチテーゼとして、バイクは求められたりするのではないだろうか。


せいぜい指針くらいにとどめておいてもらえればいいのだが、得てしてこういう学問から実践を語ろうとする者は、それを盲信し原理化してしまいがちだ。
というか、経験の蓄積なしに一足飛びの解答を求める者が、こうした学問の言葉を必要とするのだろう。


その例としてもう一つ、「メラビアンの法則」という心理学用語がある。

話者が聴衆に与えるインパクトには3つの要素があり、視覚情報:見た目・表情・しぐさ・視線が55%、聴覚情報:声の質・速さ・大きさ・口調が38%、言語情報:言葉そのものの意味が7%だとする法則。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87

ウィキペディアにもあるように、内容を誤解されて一般に流布されている言葉で、ビジネスでも営業マンの上司などが、したリ顔で「だから、客に訴えかける時は仕草や表情、図式化した説明が大切なんだ」と部下に説教したりする時に使われる。

こういう風に具体的な数値が示されると、科学的な根拠のように見えるので、ハッタリに使うのに好都合なのだろう。

学者でもない癖に専門的な心理学用語を使うのは、ほぼ間違いなく相手を言い包めようとして煙幕を張っているとみていいのではないだろうか。


http://www2u.biglobe.ne.jp/~hiraki/d74.htm

上記のサイトにメラビアンの行なった実験方法が載っているが、それからわかるように、「メラビアンの法則」とは、単純な感情表現が矛盾した形で伝達された時、どの表現を優先するかという程度のものでしかない。
数値はたまたまその実験で表れただけのもので、被験者の社会的共通性、検証する言葉の複雑さや認知度によって、いくらでも変わってくるだろう。

こんな限定的な実験結果が、いったい何の役に立つのか。

だいたい、そのようなことは、あえて言われなくても誰でも知っていることだ。
デートの最中、仏頂面でケータイばかりやっている女の子が、男に「楽しい?」と聞かれて「うん、楽しい」とこたえたからといって、それを信じるバカな男はいないだろう。


この実験は、何のために、どう使われようとしてなされたものなのか。
少なくとも、こんな限定的な実験結果が「法則」などと呼ばれることを望んでいたわけではあるまい。


では、心理学とは何のための学問なのかということになってくる。
いや、それは学問全体に投げかけられる問いであると言えるのだが、心理学ほど学究と現実が乖離している学問も珍しい。(我々下流から見ればの話だが)
それはほとんど自然科学のそれではなく、文芸・芸術のそれに近い。

なのに文芸・芸術と違う普遍性を扱う科学のような「見かけ」を装うものだから、一般人は誤解をしたり悪用したりしてしまうのだろう。



根拠のない例証によって、あたかも事実であるかのように信じ込ませる同じような例は、擬似科学問題にも心霊カウンセリング問題にもある。
昨日の日記でとりあげたカフェイン云々の話も、同じ話と言えるのではないだろうか。

心理学はそれらと違う確固たる学問だと主張しても、それを受け取る下流の一般人にしてみれば、利用する段階ではあまりに限定的すぎるため、それら胡散臭いものと同様にならざるを得ないのだ。

「マズロー」にせよ「メラビアン」にせよ、柔軟に利用して、自分の生活に都合のいい所だけ、上手く取り入れていけばいいと言えるが、それって占いに対するのとまったく同じ言い分である。


心理学は、生活になどまだまだフィードバック出来ない、限定的な専門的学問なのだから、放っておいてくれと言うかもしれないが、そうしたら誰もが興味を失い、学問自体が停滞していくのは明らかだろう。

異常心理学などは、危機管理上で役に立てようとしているが(刑法39条の運用面などでも)、それにしてもあまりに曖昧で実証性に乏しい。
近頃の頻発する精神疾患に関わる犯罪を見るにつけ、心理学の徒手空拳ぶりが歯がゆくもある。


いっそのこと、文芸・芸術と同レベルで捉えられるようになった方がいいのではないかと思えてくるのだが、そんなこと言ったら、また骨王さんに怒られてしまうのだろうな。
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