mixiユーザー(id:809122)

2008年01月17日14:23

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美術においてアナリ−ゼは必要か。あるいは可能か。

承前
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美大には音大にあるようなアナリーゼに類した学科はない。
ゼミで担当教授によっては、そうしたことをやる所もあるだろうが、基本的にそれは鑑賞のためであって制作のためではない。
音楽のように演奏のため、つまり表現行為のためにそれが必要であるという考えはない。

前日記では、音楽の演奏はリプレゼンテーションであるので、作品研究が必須になるというようなことを書いたが、美術の場合その「リ」という「再現性」が取り払われたものが「ルプレザンタシオン(リプレゼンテーション)」であると捉えられている傾向がある。
変な話ではあるが。

「芸術は自然の模倣である」と言ったのはアリストテレスだったか、とにかくその言葉はヴォルテールを代表とする啓蒙思想の時代は再三とりあげられ、芸術のスローガンのようになった。
そのため、博物学的な自然観察が美術家には求められたりもしたが、それにしたって再現されるべきものは作品の主題となる「自然」であって芸術の「手法」ではない。だから過去の作品の研究がそれほど重視されることはなかった。

その極端な表れとしてラファエル前派などは、自然主義のラスキンの教えに従い、徹底した写実で自然の再現を目指したが、伝統的絵画テーマや技法には反撥を示し、研究分析するどころか先達をこき下ろしたりしていた。(そのせいで彼らの作品は、とても緻密ではあるが、あまり上手くはない)

オリジナリティや作家性が偏重されるようになった現代においては、主題すらも再現でなく、即自的に立ち現われてくるものであるべきだと思われるようになったといえるだろう。そこで再現(ルプレザンタシオン)されるべきものは未形成な初原的何かなのだ。

そして、むしろ同じにならないためにこそ、先人は学ばれたりする。(特に近々の作家は)


無論、基本的な表現技術としては先人の手法に学ぶことはあるが、それは決して彼らの到達した業(わざ)を再現するためではなく、基礎技術の習得のためであり、主眼となるのはその後の作家独自の方法論・技術論となる。

そして、そうしたものの確立がアルチザン(職人)とア−ティスト(芸術家)の違いとされたのだ。
その認識は現在も変わることはない。


そうはいっても、美術業界においてアナリ−ゼが重視されている分野もある。

それは修復と贋作においてである。
彼らは音楽家のそれに勝るとも劣らぬ研究分析を行なう。

演奏家はアーティストと呼ばれるが、修復家や贋作者はアルチザンに属されるだろう。
そしてそこにはヒエラルキーが存在する。
オリジナルのア−ティストがいるからこそ、彼らは存在価値がある。彼らはアートの従属物でしかないという上下関係だ。

だから美大では、あえてそれら下層の人たちのためのカリキュラムを組もうとはしない。
修復科の課程は大学院以降の特別課程だし、贋作のためのような反社会的な講座はあるわけもない。

つまり、美術においては、音楽の演奏家におけるようなアナリーゼを行なうということは、自らを職人に貶める行為に他ならないのだ。

なんとも自意識過剰でいやらしい話ではある。


かつて、アートという概念が確立する以前までは、あるいは曖昧なうちは、そのような上下関係も意識されることなくアナリ−ゼは行なわれてきた。

徒弟制度の上でその分析の対象はたいてい親方であったが、例えば狩野派において過去の作品の粉本は重要で、それは単に描き写すのみでなく、その時代を知りその心意気にまで到達することが求められた。
それはアナリーゼの手法であったことだろう。

書道における臨書も、まさしくそうしたものであり、いにしえの書家と一心になる境地をめざす。
イコン作家もまた同じといえるかもしれない。



これまでの芸術の定義は、今、質的変化をしようとしている。
美術におけるオリジナリティの強迫観念が払拭された後には、美大においてもアナリ−ゼは市民権を回復するのではないだろうか。
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