mixiユーザー(id:809122)

2008年01月16日12:25

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アナリーゼ=楽曲分析

『のだめカンタービレ』でアナリ−ゼという言葉を知った。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BC

ウィキペディアを見る限りでは、かなり衒学的な印象だ。
ネットを調べると音大の科目として普通にあるもののようだ。


実際どの程度までつっこんだ分析をするのかは知らないが、単なる鑑賞や作品背景の研究より、一層曲の成立構造や作者の内面に入り込んだものなのだろう。

音楽は演奏家によって再演されてはじめて感得される芸術だから、直截感得できる美術や文学のように鑑賞のために分析が必要になるのではなく、作品の成立前提条件として、その時代時代の演奏家が作者にある意味憑依するため分析が必要になる。
だから文学や美術鑑賞などより、そうした分析に当事者的な切実さがあるだろう。

その意味では、音楽は常に未完のままモラトリアムにある不完全な芸術と言えるのかもしれない。


逆説的な言い方だが、より厳密にアナリ−ゼがなされる楽曲は、むしろ演奏者ごとに多様なバリエーションが可能になるだろう。
そこにはあらかじめ与えられている解答がないからだ。
いや、解答がないからこそ分析が必要になるのだろう。この「分析」は「解釈」と置き換えることができる。

クラシックを聴いていると、同じベートーベンでも指揮者によってまったく印象の違う演奏に出くわすことがある。これはどちらかのアナリ−ゼが不徹底だからなのだろうか。ベートーベンはどちらかを良しとするのだろうか。
いや、おそらくそうはしないだろう。

そうした分析・解釈の巾は、かつての曲は折り込み済みだっただろうからだ。作者は演奏の理想像を持っていたかもしれないが、それを楽譜化できるものではないし、きっとそれはある程度演奏者に委ねられていたのではないだろうか。

演奏者によって完成される架空の到達点こそが、作者の持っていた理想像だったのだろう。そこには当然「ゆらぎ」が内包される。

厳密なアナリ−ゼという手法を支えているのは、実はこの不確定性なのだろう。



しかしそれも、録音技術の発明によって様変わりしているとも言える。

ジャズのインプロビゼーションの名盤などは、再演を超えた一回性の芸術として価値を持つ。例え同じ演奏者だとしても、同じ音を作ることは出来ないだろう僥倖が作品化されているから、唯一無二のものとしてアナリーゼの余地もないものと言えるだろう。

音楽がモラトリアムを失ってしまったのだ。


ゆらぎのない確定された解答が与えられてしまう現代の音楽において、アナリ−ゼはどうあるべきなのだろう。あるいは再演者を必要とする音楽は、時代遅れの方法なのだろうか。
全てをデジタルにプログラムし、それを機械的にに再奏し続けることが音楽に求められるようになるのだろうか。

そうなればアナリーゼは、文学や美術のように鑑賞のための補助物となりそうだ。
音楽はシンプルになるだろうが、その分豊かさを失うことだろう。
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