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2007年10月19日13:51

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素直で良いんじゃない?

まっこと、世の中には色々な価値観の方が居るものです。

同じものに取り組んでいても、求めるものやアプローチが違います。
同じものを目にしても、その受け取り方も様々であります。

今日はまとまりなく、限りなく独り言に語りますけれども…日記って本来そういうもんじゃないかと思う今日この頃であります。

気が付くと23年という時間を生きてきたらしい自分でありますが、人生に置いて思う事があるのです。

ズバリ、飢えてなんぼだ、と。

以前にも、自分を追い詰めるのが好き、とか書いたことがあると思います。
そういう友人も、自分の周りには多いです。

それって結局は、「ハングリーでいたい」って事じゃないだろうかと思ったのです。

例えば、体を鍛える。
すると、あちこちが痛いし疲労感を感じます。
でも何だか、その感じが心地よい。
今、生きているという単純な実感だとか。
この体が、今より少し強い体になるんだという実感。行く先は知らないけれど、前進している感覚。

腹が減って、神経がシャープになる反面で底を尽きかけている気力を実感。
限られた体力でその場をやり過ごしながら、食事が必要だと猛烈に感じる。そう、必要とする。
それを口に含んだ瞬間、体に染み渡るエネルギー、熱を感じる。
視界が、少し明るさを増す。
ささくれ立つ程の神経が納まってゆき、余裕が生まれた事を感じる。

生きているということは、常に消耗して、何かが欠けたりして、何かを必要とする。

そして何かを持ってきて、維持ないし向上して時を重ねる。
消耗し、欠けていくものと、手にするものの形が同じとは限らない。
間に合わせのモノや新しい発見、取捨選択した結果として変化していく自分で変化していく今を生きる。

それが眩しくもあり、煩わしくもあり、その両方が自分。

緑と水と光が溢れた場所で、ゆっくり寝たり、ギターを奏でたり、読書したりしたい。
上手く言えないけど、満たされる。
欠けるものが少ないし、だから必要とするものも少ない。
それこそ、「何のために生きているの?」と問われれば…その平穏こそが目的であり既にゴールである。
その瞬間そのもののため、という意味では凄く刹那的であり…動物的かもしれない。

だがやはり、そのままでは居られない。
小さな箱庭を愛しつつも、その狭さに鬱屈する。
飢えていれば、満たされる感覚があるが、満たされた後は変化がない。
満たされ続けながら、それだけでは絶対に満たされない部分の欠落だけが日増しに大きくなるだけだ。

話が逸れるが、きっと、引き篭もるのも似てる。
今はゲームやら本やら映像やら…自分だけの世界で楽しめる娯楽がかなり進化している。
資金とそれができる環境があれば、今までは飢えさえ感じたことのないような部分まで色々なものが供給されているのではないだろうか。
それらに埋もれてしまえば、飽きるまでにはかなり時間が掛かるだろう。
そうしたら…それでも埋める事のできない欠落の深さはどれ程のものになっているのだろうか。

とは言え、やっぱ人間を舐めちゃいけねえぜってのが俺の持論でもあるわけで…良くも悪くも、様々な環境に人間は適応し、各自のスタイルでもって今日も生きている。

その場でなんとか生きるだけのライフサイクルを築く前に、逃げ場があるのも問題かもしれない。適応できねば朽ちるのみ、という背水の陣で生命は今日の強さを得たからだ。
とはいえ、選択肢がある中で己の意思と実力で歩むのもまた別格に強い。
適当に流されながらも、その場その場でなんとかしちゃうのも強い。


もの凄く話が逸れましたが、そうやってリラクゼーションや娯楽に埋もれて満たされるのは、僕は嫌いじゃありません。割と好きです。
しかし、そこには無い何かが自分の中から砂時計の砂みたいにスルスルと欠けていき、自分が軽くなっていってしまうのは嫌いです。
好きで浸かっていた世界に、いつの間にか依存してしまい動けなくなるような。
なんにせよハマリ易い自分。危ない危ない。


かと言って、単に激しく生きるというのも考え物だと思うのも最近の自分。
命を削って何かをする…そんな言葉があります。
若い自分はそういうものに憧れを抱いていましたし、そうする事が自分の命に価値を見出す術だと思っていました。
…命を削って成したものには、それなりの価値がある。自分にそれができるならば、なんて素晴らしいのか…なんて。
振り返ると、命の安売りに近いものがあったと思います。
(大げさですけど 苦笑 くたばるまで何かし続けたくてがむしゃらだっただけです

とにかく空っぽになるまで注ぎ込む事に意義がある…それが自分のベスト…ベストを尽くすのが自分の生きる意味…誰にも邪魔されたくない、俺の命は俺が好きに使う、みたいな。
青いです(苦笑)
そして甘い。甘ったれている。
自分で自立して生きることもできない自分が、
自分の命の重さに大して関心のなかった自分が、
何を偉そうに1人前の口を利くのかと。


命を賭けても良いと言う。
でもそれは、いつ死んでもいいような投げやりなスタイルにはなってないか??
その中身はなんだ?大事なもんなのか?気力と体力と時間は誰もが多かれ少なかれ持っている。
半人前の甘えた理想と、現状への愚痴と、義務として課せられるモノを放棄して余った体力と気力と時間を塗り固めた…自己満足の排泄物になっていやしないか??
そんなものも、あっても良いかもしれないけれど…それが自分の全てであるのはまずい。
半人前の理想だって、そんなトコにあるわけじゃない。

生きる事、歩み続けることを熱望してこその命。
学業や仕事。ルール。
課せられるものは、生きることを考えるだに、軽視できない意味がある。
自分が生きるフィールドを築くなり適応するなりし、その上で何かしたいというのならすればいい。

そんな事を考えると、地道に必要なことをコツコツやるって事が本当に凄く大事だと思うようになります。
「やんなきゃいけないから」
「やりたいから」
どっちも僕には必要です。

やんなきゃいけないこと。
やりたいこと。
それぞれ凄く大事だから、それぞれちゃんとできるように選んでやるようになりました。まだまだこれからです。

明後日は試験。研究も忙しくなってきたし、上手く生活サイクルを回していかないと!
…コツコツいきますか。
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