▲干しイチジク。
〓昨日は、スラヴ語、バルト語の 「イクラ」 (魚卵) は、インド=ヨーロッパ語の 「肝臓」 という単語に由来するんじゃないか、というところまで持っていきました。
jecur [ ' イェクル ] 肝臓。ラテン語
jĭkra [ イィクラ ] 魚卵。スラヴ祖語
〓ムダに、こっちゃに持っていったワケではないので。
〓世界三大珍味と言えば、キャビアに、アレに、アレですよね。アレと肝臓と言えば、わかりますね。
フォアグラ
です。この 「フォアグラ」 という食い物、きのう今日、生まれたシロモノではないのです。
【 「フォアグラ」 のカンタン製造法を
発見したローマのグルメ 】
〓古代エジプトでは、紀元前2500年まえから、ガチョウにエサを過剰摂取させて脂肪肝にさせ、その肝臓を食う、という食習慣があったようです。ヒエログリフによる記録に、奴隷がガチョウの首をやさしくなでながら、ノドの奥へと穀物の粒を落としていってガチョウを太らせた、という記述があるそうです。
〓ガチョウの脂肪肝を食う、という食習慣は、エジプトからギリシャに伝わったようです。ギリシャ語による、もっとも古い 「フォアグラ」 に関する記述は、5世紀に現れます。
〓しかし、ギリシャ人が、盛んにフォアグラを食べたというワケではないようです。
〓「フォアグラ」 というような、ある意味バチ当たりな食べ物が登場した背景には、ローマの安定──パークス・ローマーナ Pax Romana ──がありました。
〓紀元1世紀のローマの博物学者、毎度おなじみの 「大プリーニウス」 Gaius Plinius Secundus の著書 『博物誌』 によると、ガチョウと雌ブタの 「フォアグラ」 の製造法を発見したのは、同時代の悪名高い 「食道楽家」、
Marcus Gavius Apicius
[ ' マールクス ' ガーウィウス ア ' ピーキウス ]
だそうです。
────────────────────
アピーキウスは、ガチョウのみならず、雌ブタについても、その肝臓を人為的に肥大させるための、我々でも実行可能な方法を発見した。それというのは、乾燥させたイチジクをこれでもかというほど食わせ、じゅうぶんに肥えたところで、ハチミツを混ぜたワインをカブ飲みさせ、ただちに屠 (ほふ) るものである。
── 大プリーニウス 『博物誌』 より
────────────────────
〓アピーキウスという食道楽家は、ひたすら食うだけで、著書のタグイは残していません。しかし、エジプトのギリシャ人学者で、アレクサンドリアにおけるユダヤ人の特別待遇に抗議するためにカリグラ Caligula 帝のもとに送られた
Apion [ ' アーピオーン ] アーピオーン
という人物が、『アピーキウスの贅沢について』 という書物を書いています。
〓アーピオーンは、アピーキウスの製造する 「ガチョウの脂肪肝」 を
‘η˜παρ συκωτόν
hēpar sykōton
[ ' ヘーパル スュコー ' トン ]
「イチジクされたる肝臓」
と表現しました。‘η˜παρ hēpar [ ' ヘーパル ] というのが、ギリシャ語の 「肝臓」 です。きのう挙げた、いくつかの単語と同源と思われます。
【 肝臓 】
‘η˜παρ hēpar [ ' ヘーパル ] 古典ギリシャ語
jecur [ ' イェクル ] ラテン語
جگر jegar [ ヂェ ' ガる ] ペルシャ語
јетра, jetra セルビア語、クロアチア語
jétra スロヴェニア語
játra [ ' ヤートラ ] チェコ語
〓真ん中の子音が、
p − ギリシャ語
k, g − ラテン語、ペルシャ語
t − 南スラヴ諸語
と入れ替わっているのが面白いですね。ペルシャ語で -g- として現れることから、印欧祖語では、-k- だったものでしょう。
〓「イチジクされたる」 というのは奇妙な表現ですね。乾燥させたイチジクを食べさせる、という方法が、よほど印象に残ったんでしょう。
〓ギリシャ語では、「イチジク」 を
συ˜κον sykon [ ' スューコン ] イチジク
と言います。おそらく同源と思われる、同義のラテン語彙は ficus [ ' フィークス ] 「イチジク」 です。英語で、イチジクを fig [ ' フィッグ ] と言いますが、これはフランス語を経由してラテン語を借用したものです。
〓古典ギリシャ語辞典をクルと、奇妙なことに、
συκόω sykoō [ スュー ' コオー ]
イチジクを食べさせる
という動詞があります。
〓ギリシャ語は、動詞から、ひじょうに容易につくれる 「動詞的形容詞」 というものがあります。動詞の語幹に
-τός -tos [ - ' トス ] 男性形
-τή -tē [ - テ ' エ ] 女性形
-τόν -ton [ - ' トン ] 中性形
をつくるだけでできます。したがって、
συκωτός sykōtos [ スュコー ' トス ]
<形容詞> イチジクを食わされたる
という形容詞ができます。
〓ギリシャ語の ‘η˜παρ hēpar [ ' ヘーパル ] 「肝臓」 は中性名詞なので、
‘η˜παρ συκωτόν
hēpar sykōton
[ ' ヘーパル シュコー ' トン ]
「イチジクを食わされた肝臓」
となります。
〓アーピオーンの著書は失われてしまいましたが、彼がギリシャ語で書いた 『アピーキウスの贅沢について』 はラテン語に翻訳されたのでしょう。「イチジクを食わされた肝臓」 という言い方がラテン語に定着し、「フォアグラ」 を指すようになったのです。
jecur ficatum [ ' イェクル フィー ' カートゥム ]
〓これは、アーピオーンのギリシャ語を 「なぞった翻訳借用語」 です。jecur は、すでに何度も書いているように、ラテン語で 「肝臓」 を意味します。
〓ラテン語で、「イチジク」 は、
ficus [ ' フィークス ] イチジク。ラテン語
です。これに、-ātus [ - ' アートゥス ] という接尾辞を付けます。-ātus というのは、本来、動詞の 「完了分詞」 (過去分詞) にあらわれる語尾です。動詞の 「現在幹」 (げんざいかん) というものに -tus を付けると、第一変化動詞の 「完了分詞」 ができます。
〓つまり、辞書には載っていないのですが、ficus 「イチジク」 という名詞と ficatum 「フィカートゥム」 という完了分詞のあいだに、“動詞が想定されている” のです。その動詞は、
fīcō [ ' フィーコー ] (わたしは) イチジクを食べさせる
不定詞 fīcāre [ フィー ' カーレ ]
です。その 「完了分詞」 なので、「イチジクを食べさせられた」 という意味になります。
〓ここの説明はむずかしいですが、“世の中のフォアグラの語源を得意気に述べているヒトは、こういう細かいことを無視して、ウンチクを右から左に垂れ流しているだけなので、あえて、詳しく説明してみた” のですね。
〓上に書いたヤヤコシイことは、英語で、
fig <名詞> イチジク
↓
figged <形容詞> イチジクを食べさせられた
というような派生が起こったのと同じだと考えてください。
〓かくして、ラテン語に、
jecur ficatum 「イェクル・フィカートゥム」
「イチジクを食べさせられた肝臓」
→ 「フォアグラ」
というコトバが生まれました。
【 すり替わった 「イチジク」 と 「肝臓」 】
〓ローマ帝国の臣民にもピンからキリまでありました。上は貴族。毎日、ウマイものを食い、なるべくキチンとしたラテン語を話す人種です。しかし、国民のほとんどを占めていた庶民は、毎日、ウマイものを食べてはいなかっただろうし、話すコトバは、
俗ラテン語
という、「崩れたラテン口語」 でした。おそらく、「フォアグラ」 とやらは、庶民のあいだでも有名だったんでしょう。彼らは、jecur ficatum 「イェクル・フィカートゥム」 とは言わず、
ficatum 「フィカートゥム」
(=イチジクを食べさせられたもの)
と呼んでいたようです。俗ラテン語というのは、文法だけが崩れるのではなく、発音も崩れます。
〓5世紀に、西ローマ帝国が滅亡すると、「正しいラテン語を話す階級」 も 「フォアグラを食う階級」 も、いっしょに消滅しました。しかし、ficatum 「フィカートゥム」 (イチジクを食べさせられたもの) という単語は、庶民のあいだに残りました。ケッサクなことに、「肝臓」 という意味になってしまったんですね。もともとあった、jecur 「イェクル」 という単語を死語に追いやってです。
〓西ローマ帝国じゅうで、このような事態が起こっているので、「フォアグラ」 というのは、よほど有名だったんでしょう。「肝臓」 という単語が、もとの西ローマ帝国圏でどうなっているか、概観してみてください。──理由は不明ですが、俗ラテン語では、アクセントが語頭の音節に移動しています。
【 肝臓 】
jecur [ ' イェクル ] 古典ラテン語
cf. ficatum [ フィ ' カートゥム ]
イチジクを食べさせられたもの
*fecatum [ ' フェカトゥ(ム) ] 俗ラテン語
foie [ フォ ' ワ ] フランス語
fegato [ ' フェーガト ] イタリア語
hígado [ ' イーガド ] スペイン語
fígado [ ' フィーガド ] ポルトガル語、ガリシア語
ficat [ ' フィカット ] ルーマニア語
fetge カタルーニャ語
fécato [ ' フェーカト ] ナポリ語
figutu シチリア語
συκώτι sikoti [ スィ ' コーティ ] 現代ギリシャ語
〓ついでに、ギリシャ語まで 「イチジクを食べさせられたもの」 になっています。不思議なシンドロームですね。
〓フランス語は、例によって、ものすごく擦り切れた語形です。これにもチャンと段階があります。
fecatum [ ' フェカトゥ ] 俗ラテン語
↓ ※母音間の閉鎖子音 [ k ], [ t ] は有声化する
figido [ ' フィーギド ] 古期フランス語のごく初期
↓
firie [ ' フィーリウ ] 古期フランス語。1080年
↓
fedie [ ' フェーディウ ] 古期フランス語。12世紀
feie [ ' フェイウ ] 古期フランス語。12世紀
↓
foie [ ' フォイウ ] 古期フランス語。13世紀
↓
foie [ ' f w a ] [ フォ ' ワ ] 現代フランス語
〓あいだの語形に整合性がありませんが、放送も新聞も全国共通の教科書もない時代には、地域や個人により、綴り・発音が異なるのは当たり前のことで、資料として見つかる語形が、キレイにグラデーションを描くというわけではありません。
〓フランス語の一般的な傾向としては、
(1) 母音に挟まれた語中の閉鎖子音 [ k ], [ t ], [ p ] は
有声化して [ g ], [ d ], [ b ] になる。
(2) 有声化した語中の [ g ], [ d ], [ b ] は、摩擦音になった
のちに消滅する。
※ firie 「フィーリウ」 という語形は、語中に r が
出てきますが、これは摩擦音化した g 、すなわち、
摩擦音の [ γ ] が、フランス語では r の発音と
そっくりだからです。
(3) アクセントのある母音は、二重母音になりやすい。
〓語頭の音節だけに注目すると、
[ f i ] → [ f e : ] → [ f e i ] → [ f o i ] → [ f w a ]
と変化しているのがわかります。これは、ラテン語で高低アクセントだったものが、俗ラテン語で、強弱アクセントに変わり、そのため、アクセントのある音節が、異常なほど強く発音されて、発音が伸びたり、ゆがんだりしたために起こったものです。
〓つまり、現代フランス語の foie というのは、
foi- = ficatum の語頭の fi- が変化したもの
-e = 語末の -um の発音が弱まったもの
すなわち、そのあいだの -cat- は消えてなくなった
ということです。
〓フランスでは、ルネッサンス期に 「フォアグラ」 が復活します。しかし、すでに 「イチジクを食べさせられた」 という形容詞は、「肝臓」 という名詞になって消えてしまっているので、あらたに、
foie gras [ フォワグ ' ラ ] フォアグラ
というぐあいに、別の形容詞 gras [ g r α ] [ グ ' ラ ] 「脂肪質の」、「太った」、「油じみた」 を添えたものです。つまり、
「フォアグラ」
= 「太った (脂肪質の) 肝臓」
ということです。この gras というのは、ラテン語の
crassus [ ク ' ラッスス ] 厚い、太い、肥えた、粗野な
の語頭の c- が、有声化したものです。同じくラテン語の grossus [ グ ' ロッスス ] 「厚い」 が影響したとも言われます。
〓ローマの 「リキニウス」 Licinius という氏族には、「クラッスス」 Crassus という家名があります。「肥田さん」 ですか。
〓ポンペイウス、カエサルとともに三頭政治を行った、
Marcus Licinius Crassus
[ ' マールクス り ' キニウス ク ' ラッスス ]
マルクス・リキニウス・クラッスス
※個人名 − 氏族名 − 家族名の順
が有名ですね。
〓アメリカのニューオリンズに
Mardi Gras [ , マァディ グ ' ラー ] マルディ・グラ
という有名なカーニバルがありますが、ニューオリンズですから、これは当然、フランス移民が持ち込んだもので、mardi [ マル ' ディ ] はフランス語で 「火曜日」、つまり、「マルディ・グラ」 というのは、「太った火曜日」 という意味ですね。
〓これについて書き始めますと、お長くなりますので、またということで……
〓最後に、「フォアグラ」 の “文字通りの解釈” を繰り返しておきますと、
太った “イチジクを
食べさせられたもの”
という意味です。
ログインしてコメントを確認・投稿する