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2007年05月28日19:10

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「無宿人狩り」、「佐渡金山」 と長谷川平蔵のつくった 「人足寄場」。

  ▲「人足寄場」 跡の現在の姿。▲松平定信。



〓昨日、ラーゲリの定義を、

   大量の収容者を、厳重な監視下に置き、
   実質的な奴隷として働かせる


と書いたあとで、これが、日本の江戸時代の無宿人狩り (むしくにんがり) とまったく同じ性質のものであることに気がつきました。

〓江戸時代には、戸籍というものはありませんでしたが、その代わりに、

   人別帳 (にんべつちょう)

というものがありました。これは、江戸の町奉行支配下の地域の 「町人」 (武家、公家は対象外) についての 「身元調査書」 のようなものであり、逆に言えば、町人にとっては、「身元の保証」 のようなものでした。
〓江戸で 「人別帳」 の作成が開始されたのは、1721年 (享保6年)、八代将軍 徳川吉宗 (よしむね) の治世でした。
〓このような人口調査を開始したのは、出稼ぎなどで江戸に出て来て、定住してしまう地方出身の農民の実態を把握しようとしたからです。
〓東北地方の農民などは、冬の農閑期に江戸に出て来て、出稼ぎ商売をする者が多くありました。そのうちに、江戸に定住して、年季奉公についたり、職人に弟子入りしたり、武家の使用人に就職する者が増えてきました。
〓これは、幕府としては由々しき問題でした。

   農村の人口が減る

というのは、今も昔も同じで、為政者にとっては看過できない問題です。

〓それと、江戸に定住してしまう者は、親類でもなんでもないのに、口入れ屋 (職業斡旋所) に身許を引き受けてもらったり、あるいは、知り合いの長屋に転がり込んだりしていたので、実質的に、

   江戸に身許のはっきりしない者が増えていた

のです。農村の人口流出と、江戸の治安悪化。なんだか、現代社会の構造とたいして変わらなかったんですね。

〓享保に始まった 「人別帳」 の制度では、町役人 (ちょうやくにん) によって、人口の把握が行われました。町役人というのは、役人ではなく 「治安に携わる町人」 のことです。町奉行の下に、「町年寄」 (まちどしより) → 「町名主」 (まちなぬし) がいて、さらに、その下に、実際に長屋で住人の管理にたずさわる 「大家」 (おおや) がいました。
〓これは、例の落語に出てくる 「大家」 のことで、「家守」 (やもり)、「家主」 (いえぬし)、「差配」 (さはい) などとも言いました。いずれの呼び方も落語に出てきますね。

〓「大家」 は、自分の管理する長屋の住人の身許調査人であるとともに、身許引受人でもありました。自分の長屋から “縄付き” でも出ようものなら、みずからの責任になるので、誰を住まわせて、誰を長屋から追い出すか、は、「大家」 の “胸先三寸” (むなさきさんずん) で決まりました。

   「大家と言えば、親も同然、
    店子 (たなこ) と言えば、子も同様」


というのは、単なる比喩ではなく、実際にその通りであったわけです。どんなガサツな唐変木でも、大家さんにきつく叱られると、それなりにシュンとするのは、

   長屋を追い出されたら、オオゴトだから

でした。「ヨソの長屋を追い出されたような、問題のある店子を置いてくれる大家」 なんてのは、そうそういません。長屋に入居するには 「店請証文」 (たなうけじょうもん) というものを一札 (いっさつ) 入れなくてはなりません。

   いつ、なんどきたりと、御入り用の節は、
   ただちに、店 (たな=部屋) をお空け渡しするもの也


という誓約書が大家に渡っているんです。

『髪結新三』 (かみい しんざ) というのは、歌舞伎の 『梅雨小袖昔八丈』 (つゆこそで むかしはちじょう) にも翻案された有名な人情噺 (落語) です。主人公は、新三という、表看板は髪結といえど、ウラではロクでもないことばかりしている前科者のゴロツキです。
〓こいつが白子屋 (しらこや) という大店 (おおだな=大商店) の娘をかどわかすんですね。どんな強そうなヤツが来たって屁でもない。そんな娘なんか、いないと突っぱねる。娘の救出は成らないか、と思われたところに、この長屋の大家が出てくるんです。稀代のゴロツキ新三が、この大家の前では、グウの音もでない。
〓そりゃそうなんですよ。入墨のはいった前科者を置いてくれるキトクな大家なんてのは、ちょっとやそっとじゃ見つからない。この長屋を追い出されたら、

   無宿者 (むしくもの)

になっちまうんです。

〓関八州 (かんはっしゅう)──江戸時代でいう 「関東」 のこと。上野国、下野国、常陸国、安房国、上総国、下総国、相模国、武蔵国の八ヶ国──で、無宿人狩りを行い、これを土佐に送ることが通達されたのが、1778年 (安永7年) のことです。江戸で人別帳の作成が始まってから、57年後のことです。
〓幕府はあいかわらず、江戸に流入する農民に手を焼いていました。無宿人狩りで、「人別帳」 に載っていない、身許引受人のないニンゲンをとらえて、過酷な佐渡金山での労働力に使おうという発想でした。ソ連邦のラーゲリと同じですね。
〓佐渡の金山は、過酷な労働条件や、事故などにより、労働者の平均寿命はきわめて短いものでした。

〓歌舞伎 『與話情浮名横櫛』 (よはなさけ うきなのよこぐし)──すなわち、「お富与三郎」 (おとみ よさぶろう)──では、凶状持ちの与三郎が土蔵破りで “お縄” になり、土佐に送られます。このままでは、命が数年ともたないことを知っていた与三郎は、お富に会いたいあまり、「島抜け」 に挑みます。映画 『パピヨン』 か、というような、壮絶な脱走譚ですよ。

〓1787年 (天明7年)、天明の大飢饉に、白河でひとりの餓死者も出さなかったと伝えられる “名君” 松平定信 (まつだいら さだのぶ) は、田沼意次 (おきつぐ) の腐敗した政治を一掃すべく、十一代将軍 徳川家斉 (いえなり) のもとで老中に就任し、寛政の改革に着手しました。
〓博奕を禁止し、無宿人狩りを行い、身許引受人のいない大量の無宿人を、佐渡、あるいは、石川島の 「寄場」 (よせば) に送りました。
〓「寄場」 というのは、「人足寄場」 (にんそくよせば) の略で、1789年 (寛政元年)、定信が、火付盗賊改役 (ひつけとうぞくあらためやく) の長谷川平蔵 (へいぞう) に命じ、石川島と佃島のあいだにあった葦の茂った湿地を埋め立ててつくった人工島の上の 「無宿人の収容施設」 です。
〓もとの佃島 (つくだじま) は、現在の “佃1丁目” にあたり、石川島と人足寄場のあった場所は、“佃2丁目” になっています。のちの1853年 (嘉永6年) には、石川島に “石川島造船所” がつくられ、現在の 「石川島播磨重工業」 の前身になっていますね。

〓この 「人足寄場」 には、無宿人狩りでつかまった 「無宿者」 あるいは 「引き取り手のない刑余者」 (刑期を終えた前科者) が収容されました。これは、「矯正労働キャンプ」 というようなものではなく、「再教育キャンプ」 として発足したものです。今ではわかりにくいコトバになってしまいましたが、「授産所」 すなわち 「職業訓練所」 でした。
〓生活指導や職業訓練を行う施設と言えば、聞こえはいいですが、その環境は劣悪で、ハヤリ病で多くの収容者がなくなることもありました。また、のちには初期の理念が忘れ去られ、ラーゲリ同様、単なる重労働を課する 「矯正労働キャンプ」 になりました。

『芝浜』 は、暮れの大ネタの落語として有名ですが、最後の大団円、魚屋の勝五郎 (かつごろう) が女房のウソを知ったあとで、感謝して言うセリフの中に、こんなのがあります。三代目三木助師でイッテみましょう。

   「このことが、おか……オカミに知られたシ (日) にゃァ、
   俺の首ァ満足じゃァいねえかも知れねえや。悪くすりゃァ
   打ち首だ。軽くいっても遠島 (えんとう)、
   ゴォクお情けをいただいても、佃の寄場 (よせば)
   送りがセイゼイだ。いまごろァ、コモをかぶって
   ヒトの軒 (のき) で、ガタガタ震えてなきゃァならねえ、
   え? 乞食同様だ」


〓魚屋の勝五郎は、拾った42両 (しじゅうにりょう=現在の315万〜420万円) を、すんでのところで使ってしまうところでした。江戸時代は、十両 (75〜100万円) 盗むと 「打ち首」 と言われていました。

   俺の首は満足じゃいない

というのは、盗んだものではないにせよ、ヒトサマの42両というカネを使ってしまった以上、「打ち首」 の沙汰がくだる可能性はじゅうぶんある、ということを言っているんですね。

   ごく、お情けをいただいても、佃の寄場送りがセイゼイだ。

〓最大の情状酌量でも、「佃の寄場」、すなわち 「人足寄場」 に収容されて、流行り病で死ぬか、重労働で苦労するか、という運命が待っている、ということを言っています。そして、たとえ、人足寄場から釈放されても、前科者を置いてくれる長屋など、そうそうないので、住む家を借りることもできず、

   乞食同然に、夜は、コモ (むしろ) をかぶって寒さをしのぎ、
   雨が降ったら、ヒトサマの家の軒で雨宿りをしなければならない


ということを言っています。
〓江戸の町人は、一度、道を踏み外したら、二度とはマットウに生きることができない、ということをよく知っていたし、また、社会がそういうシステムになっていたんですね。
〓世界一の江戸の治安は、こうして守られていたわけです。
〓隅田川の河口にあった 「人足寄場」 は、明治に入るまで存在しました。


〓江戸時代というのは、いち早く、江戸に定住し、生業をもって地道に暮らしていた人にとっては、輝かしい文化の花開いた時代でありますが、“既得権益” を手に入れ損ねた人たちにとっては、ソ連邦並みに過酷な運命の待っていた時代なのでもありました。
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