mixiユーザー(id:809109)

2007年05月27日16:31

725 view

「ラガー」 と 「ノルマ」 と 「収容所」。

  ▲1938年ころ。白海運河ラーゲリ。



〓そろっそろ、ビールの CM が盛んにあおってくる時期になりました。コトバの語源を知っていると、他の人には見えない 「コトバのつながり」 が見えて、人と違うことを “一瞬、思い浮かべる” ことが、よくあります。自分だけに見えている白昼夢みたいなものです……



  【 「エール」 と 「ラガー」 】

〓ビールの醸造法には、大きくわけて2通りがあります。

 ──────────

【 エール 】 ale ── 英語。原義は 「ビール」。ゲルマン語起源
19世紀以前に主流であった、比較的カンタンな醸造法。
Saccharomyces cerevisiae 「サッカロミュケース・ケルウィーシアイ」
 (出芽酵母) という酵母を使う。
比較的短い期間 (1〜3週間) と常温 (18〜25℃) で醱酵させる。
酵母が浮かんで上面に層をつくるので 「上面醱酵」 と呼ぶ。
現在では、イギリスに多く残る。

 ──────────

【 ラガー 】 Lager ── ドイツ語。「貯蔵庫」 の意。ゲルマン語起源
ドイツ、バイエルン地方で生まれ、19世紀以降に主流となった醸造法。
Saccharomyces pastorianus 「サッカロミュケース・パーストリアーヌス」
 という酵母を使う。
比較的長い期間 (1ヶ月〜1ヶ月半)と低温 (6〜15℃)で醱酵させる。
酵母が沈んで下面に層をつくるので 「下面醱酵」 と呼ぶ。
現在、世界で主流のビール。

 ──────────

〓ビールの醸造に使われる 「酵母」 は、菌類ですので学名があります。「エール」 に使われる 「出芽酵母」 Saccharomyces cerevisiae [ サッか ' ロミュケース ケル ' ウィースィアイ ] は、「ビール(のため)の “砂糖のキノコ”」 という意味です。
〓ローマ時代にも、ビールは知られていて、cervisia [ ケル ' ウィスィア ]、cerevisia [ ケレ ' ウィースィア ] と呼ばれていました。現代でも、イベリア半島のロマンス語に、

   cerveza [ せル ' ベーさ ] ビール。スペイン語
   cerveja [ セル ' ヴェージャ ] ビール。ポルトガル語
   cervesa [ セル ' ヴェーサ ] ビール。カタルーニャ語

というぐあいに残ります。
〓古期英語では、ale 「エール」 (古形 alu [ ' アるゥ ]) と beer 「ビール」 (古形 bēor [ ' ベーオル ]) は同義でした。前者がゲルマン語起源、後者がラテン語起源です。
〓ゲルマン語圏で、ale と beer の両語彙を残すのは、「英語、フェロー語、アイスランド語」 のみです。その他のゲルマン語圏では、

   ドイツ語圏 ── beer 系のみが残る
     Bier [ ' ビーァ ] ドイツ語
     bier オランダ語、フリジア語
      ただし、
     bjór フェロー語、アイスランド語

   ノルド語圏(北欧) ── ale 系のみが残る
     öl スウェーデン語
     øl ノルウェー語、デンマーク語
      ただし、
     øl フェロー語
     öl アイスランド語

という構成にミゴトに分かれました。

〓ところで、Saccharomyces 「サッカロミュケース」 という属の名前ですが、「砂糖のキノコ」 というカワイらしい名前は、「糖を分解する菌」 を目に見えるものに譬えて言ったものです。ドイツの生理学者で、ペプシンの発見者である、テーオドール・シュヴァン Theodor Schwann が、1837年、酵母を発見し、ドイツ語で “Zuckerpilz” [ ' ツッカァピるツ ] 「砂糖キノコ」 と呼び、のちに、ラテン語で Saccharomyces という学名をあたえました。
〓ただし、造語要素である

   σάκχαρον sakkharon [ ' サッかロン ] 「砂糖」
   μύκης mykēs [ ' ミュケース ] 「キノコ」

はギリシャ語です。

〓ラガービールの醸造に使う Saccharomyces pastorianus [ サッか ' ロミュケース パーストリ ' アーヌス ] は、「パスツールの “砂糖のマッシュルーム”」 という意味です。パスツールはフランス語で Pasteur [ パス ' トゥール ] ですが、この姓を語源に従ってラテン語化した 「パスツール」 のラテン語名が Pastor [ ' パーストル ] 「牧者、羊飼い」、「牧師」 でした。それに、形容詞をつくる語尾 -iānus [ - イ ' アーヌス ] をつけて 「パスツールの」 という形容詞をつくり、添えたものです。
〓 Saccharomyces pastorianus のシノニム──つまり、同じ種に付けられた別の学名で、現在は、無効になっている名前──Saccharomyces carlsbergensis [ サッか ' ロミュケース カルるスベル ' ゲーンスィス ] があります。これは、デンマークのビール醸造会社 Carlsberg [ ' カーるスベァ ] 「カールスバーグ」 で酵母の研究をしていたエミル・クリスティアン・ハンセン Emil Christian Hansen が命名したものです。社名に、ラテン語の -ēnsis [ - ' エーンスィス ] 「〜の土地に棲む、〜産の」 を付けて 「種小名」 にしました。学名に社名が入っている珍しい例です



  【 ラガービール 】

〓ええ、また、ハナシが大回りですね。
〓バイエルンでは、低温でも醱酵が可能な Saccharomyces pastorianus 「サッカロミュケース・パーストリアーヌス」 という酵母を使い、秋に仕込んだビールを氷とともに洞窟へ貯蔵し、翌年の春まで置いて熟成させる、という方法でビールをつくっていました。
〓ドイツ語で、Lager [ ' らーガァ] というのは、次のような意味です。

  【 Lager 】
    (1) 寝床、ねぐら。
    (2) (一時的な) 宿営地、野営地、キャンプ場。
    (3) (政治的、思想的) 陣営。
    (4) 倉庫、貯蔵庫。

〓 lager という単語は、英語でも [ ' l α : g r ] [ ' らーガァ ] と発音され、「ラガービール」 を指しますが、これはドイツ語からの借用語です。ドイツ語の Lager に相当する英単語は lair [ ' l e r ] [ ' れア ] といい、「巣、隠れ家」 の意味です。あまり、お目にかからない単語ですね。
〓ドイツ語では、「貯蔵しておくビール」 なので、これを、

   Lagerbier [ ' らーガァビーァ ] ラガービール

と呼びました。日本語でいえば、「貯蔵ビール」 にすぎないんですね。

〓ところがですね、Lager の語義の (2) に 「宿営地、野営地、キャンプ場」 という意味がありますね。この単語は、ここから転じて、

   「矯正労働キャンプ」 すなわち、
   「強制収容所」

の意味になったんです。
〓この語義は、ドイツ語の Lager を借用したロシア語で、むしろ有名になりました。ロシア語では、

   лагерь lagjer' [ ' らーギェリ ] 強制収容所、ラーゲリ

となります。



  【 「ラーゲリ」 誕生 】

〓ロシアで、「大量の収容者を、厳重な監視下に置き、実質的な奴隷として働かせる “ラーゲリ”」 という組織が誕生したのは、ソ連邦時代になってからです。1930年 (昭和5年) に組織され、正式名称は、ГУЛАГ GULAG [ グ ' らーク ] 「グラーク」 と言いました。すべて大文字で書かれることから分かるように、これは略語です。フルネームは、ソ連邦の組織によくあるように、不気味なまでに長い名称です。

  Главное управление
    исправительно-трудовых
      лагерей ОГПУ

   [ グ ' ラーヴナヤ ウプラヴ ' りぇーニエ イスプラ ' ヴィーチェりナ
    トルゥダヴイふ らギェ ' リェーイ オゲペ ' ウー ]
   統合国家政治局 (OGPU) 付き矯正労働キャンプ総管理局

〓「グラーク」 が廃止されたのは 1960年のことです。

〓ソルジェニーツィンの著書に 『収容所群島』 がありますが、原題は、

   «Архипелаг ГУЛАГ»
   Arkhipjelag GULAG
   [ アルヒピェ ' らーク グゥ ' ラーク ]

です。“グラーク列島”、“グラーク群島” という意味で、シベリアに散在するラーゲリを島に見立てたものでしょう。
〓第二次大戦でソ連邦に抑留された日本兵が収容されたのも、このラーゲリであり、「ラーゲリ」 での生活がどのようなものかは、話に聞いたことがあると思います。特に、極寒の冬季は、飢えと寒さで亡くなる人が多かったのは、政治犯のラーゲリも、外国兵のラーゲリでも同じことです。
〓ラーゲリでの暮らしの過酷さを知りたければ、たとえば、ソルジェニーツィンの、比較的短い小説である 『イワン・デニーソヴィチの一日』 が教えてくれるでしょう。

〓ラーゲリに収容された、犯罪者、政治犯、外国兵、あるいは、何の罪もない無辜の市民 (むしろ、この人数のほうが多かった) は、土木工事、鉄道工事、鉱山の採掘などの重労働に従事させられました。
〓何人かで班を組まされ、その班に対して、その日のうちに完了すべき 「労働の基準量」 が申し渡されます。たとえば、こんなぐあいです。

 川底から1日に3立方メートルの
 土砂を岸の上まで30メートル運搬せよ


〓この 「労働の基準量」 をロシア語で、

   нормальное количество
   normal'noje kolichestvo
   [ ノル ' マーりナヤ カ ' りーちぇストヴァ ]
   「基準の量」

と言います。この 「ノルマーリナヤ・カリーチェストヴァ」 を略して、

   норма norma [ ' ノルマ ] 基準量

と言うのです。
〓日本語の 「ノルマ」 は、シベリア抑留兵が持ち帰ったコトバと言われています。「ノルマ」 というのは、誕生したときは、もっと過酷なコトバだったのでした。

〓この 「ノルマ」 を達成した班には、食糧が余分に与えられ、達成できなかった班は食糧を減らされます。強制収容所で24年を送ったという、フランス人のジャック・ロッシ Jacques Rossi によると、スターリン時代の一日分の食糧の配給量は、

   パン450g、砂糖7g、かゆ80g、魚132g、
   肉21g、野菜500g、植物油9g、穀粉6g


と決められていたそうです。もちろん、ラーゲリ生活を送った人々は、そんなもの見たことない、と言うでしょう。ソ連邦という国は、物資が現場まで運ばれるあいだに、どんどん消えてゆくような国でした。



  【 なぜ、語末に ь が付くのか? 】

〓ところで、ドイツ語の Lager が、ロシア語になると、なぜ、Лагерь 「ラーゲリ」 になるのか、フシギに思う人もいるでしょう。ロシア語を多少勉強したヒトなら、余計に、そう感じると思います。Лагер Lagjer 「ラーゲル」 でいいんじゃないかと。
〓ロシア語のネイティブは、子音の 「硬軟」 に非常に敏感です。これは、日本人にはむずかしいハナシではありません。「拗音か、そうでないか」 ということと同じです。日本人の場合でいうと、英語の cat の c が拗音になっているということを、すぐに聞き分けることができます。だから、「カット」 ではなく、「キャット」 と写すのです。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=280704109&owner_id=809109 (カツ丼とネコ丼)

〓ロシア人も同じような耳を持っていますが、日本人にはあまりナジミのない L と R についても、非常に敏感に 「硬軟」 を聞き分けます。
〓欧州の言語では、L に clear L [ l ]dark L [ ł ] がある、ということを以前、何度か書いています。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=58758895&owner_id=809109 (ソラリスが、なぜ、ソリャリスになるのか?)

〓ドイツ語、フランス語、スペイン語、イタリア語などには、clear L という明るいL しか存在しません。いっぽう、英語、ポルトガル語には、clear Ldark L が存在します。英語で言うと、次のように位置によって現れる L の性質が異なります。

  【 clear L の例 】 母音の前に現れる
   love, flat

  【 dark L の例 】 語末、子音の前に現れる
   field, feel
     ※母音の [ u ] に近い音で、下がスプーンのようにくぼむ

〓ロシア語には、軟音の Ldark L が存在します。中間の clear L がありません。舌の高さによる L の分類をすると、次のようになります。

   軟音の L [ lj ] ── 【 舌の位置が高い 】
     ロシア語 любовь ljubov' [ りゅ ' ボーフィ ] 「愛」

   clear L [ l ] ── 【 舌の位置は中くらい 】
     フランス語 ville [ ' ヴィる ] 「町」
     ドイツ語 lang [ ' らング ] 「長い」
     英語 land [ ' らンド ] 「土地」

   dark L [ ł ] ── 【 舌の位置は低く、真ん中がくぼむ 】
     ロシア語 лампа lampa [ ' らーンパ ] 「ランプ」
     英語 wall [ ' ウォーる ] 「壁」

〓つまり、フランス語、ドイツ語などの話者にとっては、clear L /darl L の区別は存在しません。しかし、ロシア語の話者にとっては、両者は違う音です。日本人が、「カット」 と 「キャット」 をいっしょにできないのと同じです。
〓そこで、英語の dark L は、ロシア語の л で受けるけれども、英語の clear L および、フランス語、ドイツ語などの L は、ロシア語の軟音の ль で受けることになります。

   лярд ljard [ ' りゃルト ] ラード
   сляб sljab [ ス ' りゃープ ] スラブ (鋼片)
   Финляндия Finljandija
       [ フィン ' りゃンヂヤ ] フィンランド
   Диснейленд Disnejljend
       [ ' ヂスネイ ' りぇント ] ディズニーランド
     ※ land [ l æ n d ] → льэнд →ленд

〓これらのロシア語の単語が、いっけんヘンテコに見えるのは、そうしたワケがあるからです。英語のネイティブからしたら、日本語の 「キャット」 kyatto もきっとヘンテコなハズです。

〓 R についても、同じようなことが言えます。ロシア人が、初めて、西欧の諸言語に接したとき、これらの言語の R は、ロシア人にとっては、硬音の R (舌の位置が低い) というより、むしろ、軟音の R (舌の位置が高い──日本語の巻き舌の 「リャリュリョ」 の子音) に近く聞こえました。
〓たとえば、ラテン語の Caesar 「カエサル」 をゴート語を経由して採り入れた単語が、今日のロシア語の царь tsar' [ ' ツァーリ ] であることなどが、好例と言えます。

〓そうしたデンで、ドイツ語の Lager は、語末の -r が軟音に近いと受け取られて、

   лагерь Lagjer' [ ' らーギェリ ]

となったのです。この単語は、18世紀初頭からロシア語に現れ、初期には、「軍の宿営地」 のたぐいの意味に使われていました。

л/ль の写し分けは、現代ロシア語では、主に、語末だけに限るようになり、р/рь は写し分けを行わなくなりました。つまり、-рь を含む外来語は、かなり古い時期に借用した単語だということです。

〓ロシア語において лагерь 「ラーゲリ」 というのは、外国人が思うような 「陰惨なイメージ」 をともなう語ではなく、むしろ、英語の camp と同じように一般的な単語です。レジャーとしての 「キャンプ」 の意味でも使います。


〓そんなふうに、歴史の波の中で揉まれた単語が、日本語でデッ食わすと、

   「ラガービール」 と 「ラーゲリ」

という、全然、関係ないものになるわけです。まったくねえ。
0 12

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2007年05月>
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031