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2026年10月31日12:49

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歴史研究部 伊勢ツーリング後の考察 

神武東征で、大阪入りを果たし、
生駒越えをしようとしたときに、
地元勢力の攻撃を食らい、兄を失う。
「我々は日の神の御子だから、
日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。
廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言った。
それなら地形から、下の地図のように
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右から攻めるのが、正攻法なのでは?
では、伊勢(三重県)の重要性として、
当時何があった?

『古事記』にはなんと、
伊勢神宮の鎮座伝承が書かれておらず、
伊勢神宮を作った理由が不明です。
どうやら、後付けされた感じがします。

当時、内宮のある五十鈴川上流を仕切っていたのは、
猿田彦の宮司家である宇治土公氏だった。
弥生人風ではない。
ひょっとすると、大陸を超えてやってきた
遥か遠くからの渡来人だったのかもしれない。

*内宮に興玉神が祀られている。社はない。
伝えによると、ここに祀られているのではなく、
興玉神の遥拝場所であったという。
地主神として、今も祭祀の時は、最初に参られるという。
「興玉森(おきたまのもり)」といわれ、
宇治土公氏の祖先神である太田命が居住していたとの説が伝わっています。
猿田彦大神を祖神とする宇治土公家が
長年この興玉森にて神籬を祀っていたそうな。

さらに、猿田彦=興玉 といわれ、
有名な夫婦岩の沖に興玉の磐座があり、
今も、二見興玉神社がある。
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猿田彦神社と直線でつなぐ事も出来、
下社・上社の関係?

伊勢の内宮を参るまえに、
もともとの伊勢の神を祀る度会氏の外宮を参る。
また猿田彦の二見興玉神社を参る。 
このようなことを発案したのは、誰か? 
地元神を祀っていた地元の人たちではなかったのか?

地理的に見てみると、
日本最大の断層「中央構造線」の上に位置する伊勢神宮
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加えると、鹿島神宮や諏訪大社も存在し、
さらなる謎が浮かび上がってくる。
<続編に続く>

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