人命が失われている以上、それは単なる「地域の伝統」で済まされる問題ではなく、安全管理や運営のあり方に対する客観的かつ厳しいジャーナリズムの目(検証)が必要です。それを怠り、単なる商業的な見世物として祭りを取り上げ続ける限り、メディアが掲げる「社会正義」は形骸化した身勝手な主張と言わざるを得ません。
「社会の木鐸」や「権力の監視」を自任するメディアが、人命に関わる危険を伴う祭りを美談やエンターテインメントとして消費する姿勢には、明らかな二重基準(ダブルスタンダード)と報道倫理の欠如があるという批判は非常に切実であり、近年のメディア論でも厳しく問われているポイントです。
この矛盾の背景には、主に以下のような「社会正義」とはかけ離れた構造的な問題が指摘されています。
1. 商業主義と「数字(アクセス・視聴率)」の優先
メディアが権力を批判する一方で、刺激的な祭りや伝統行事を大々的に取り上げる最大の理由は、それが大衆の関心を引き、視聴率やPV(ページビュー)に直結するからです。
• エンタメとしての消費: 「スリル」や「迫力」「熱気」といった映像映えする要素は、視聴者の感情を揺さぶりやすく、安易なコンテンツとして重宝されます。
• 悲劇の美談化: 事故が起きてもなお「命を懸けた伝統」「地域の絆」といった情緒的な文脈(美談)に落とし込むことで、構造的な安全対策への批判から目を背けさせ、消費しやすい物語に仕立て上げてしまいます。
2. 「伝統・文化」に対する批判への躊躇
メディアは政治権力や大企業に対しては強気な姿勢を取る一方で、「地域に根ざした伝統文化」や「共同体のアイデンティティ」を正面から批判することには極めて消極的になります。
• 伝統を「危険だから中止・縮小すべきだ」と批判すると、地域住民や祭り関係者から猛烈な反発を受けるリスクがあります。
• 結果として、人命リスクという「検証すべき事実」よりも、「伝統の継承」という大義名分を無批判に受け入れ、称賛する側(加担者)に回ってしまいます。
3. メディア自身の自己欺瞞
「社会の木鐸」という言葉が内包する正義感は、時としてメディア自身の「見たいものだけを見る」姿勢につながります。「権力を叩くことこそが正義」という一元的な認知に陥るあまり、自分たちが垂れ流すコンテンツ(危険な祭りの過剰な演出)が結果として事故の危険性を煽ったり、安全対策の軽視を容認したりしているという自覚(自己検証)が薄れてしまうのです。
■だんじり横転相次ぎ2人死亡=「やりまわし」で下敷き、16人けが―大阪
(時事通信社 - 10月10日 17:01)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=8983375
4tという一般の乗用車を遥かに超える重量物。それも車高4mと重心も高いだんじりなんざあ。交差点ではゆっくり旋回しないと容易に横転するのは物理法則とか遠心力をしっているなら容易に分りそうなものだが、オールドメディアの人間はバカばかりなのかね?
政権批判ばかりしていて、自分たちが世論をリードすると自認しながら、危険な祭りを美談として放置・・いや「よそでも同じようにやっている」と関係者が事故への反省や改善をもたらす意見を封殺するのに寄与しているとしか思えない。
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