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2026年08月30日08:39

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松原照子の「世見」(転載)

本日の世見  2026年8月30日(日曜日)

『赤穂事件』

「忠義心」 今の日本人には、この意味すら知らずにいる人が増えた気がします。
元禄14年(1701)3月14日に幕が開いたのが「赤穂事件」。
今ならニュースで話題になっても、数か月もすれば世の中から忘れ去られるような“殺人未遂事件”です。

当時の将軍は徳川綱吉。
綱吉が江戸城において天皇の勅使と対面する儀式がスタートする、正にその時でした。
江戸城の本丸御殿「松之大廊下」にて、浅野内匠頭が高家筆頭の吉良上野介に対して刃傷に及んだのです。
この事件の顛末は、後に「赤穂浪士の仇討ち」として、歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』をはじめとする物語ができました。

松の廊下での刀傷事件に激怒したのが綱吉。
綱吉は、内匠頭の即日切腹、赤穂藩の取り潰しを言い渡しました。
内匠頭が34歳、赤穂の国家老・大石内蔵助が42歳の時の出来事でした。
赤穂藩が断絶すると、藩士約300人が路頭に迷います。
内匠頭は、側室も迎えず、質素を旨とした生活をし、かなり潔癖症だったようです。

当時のご定法は、遺恨があっての行いは“喧嘩”とみなされ、当事者両方を処分する喧嘩両成敗でした。
ですから、綱吉の裁定を正しいと思う人はいなかったようです。
武士の面子(めんつ)とは‥‥
現代人にはわかりにくいかもしれませんが、「切腹=死」をもって、武士としての誇りである忠義の証とするのが武士でした。

お家再興が完全に閉ざされた赤穂藩(浅野家中)。
300人の藩士のうち、当初は150人が討ち入り賛同者でしたが、100人以上が脱落しました。
浪士たちの手紙が残されていて、家族・親族を心配する思いには涙がこぼれるとか。
『忠臣蔵』の名場面といえば、物置に隠れていた上野介が自害をためらうあのシーンは、後年の脚色です。
間十次郎が、物置の暗闇に槍を突き刺した時点で、上野介は絶命していました。
討ち入りが行われた上野介の上屋敷の一角は、現在も、東京都墨田区の本所松坂町公園(吉良邸跡)として保存されています。
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