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2026年08月05日14:11

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Facebookから転載

人情交差点

母が退院してから、毎週火曜日の午後三時に、家の前のバス停へ行くようになりました。
バスは一日に六本しか来ません。
母が乗るのは、その中でも一番遅い十五時十二分発の便です。
私は最初、通院のための習慣だと思っていました。
「そんなに早く行かなくても間に合うよ」
電話でそう言うと、母はいつも、「道が混んだら困るから」と答えました。

母は八十一歳です。
父が亡くなってから十年、山間部の小さな町で一人暮らしを続けていました。
以前は車を運転していました。
買い物も病院も、自分の予定で自由に動けていました。
けれど、昨年の冬、雪の日に自宅近くの坂で転び、車を縁石にぶつけました。
幸い大きな事故にはなりませんでしたが、その後の家族会議で免許を返納することになりました。

私は東京で働いています。
弟は隣の市に住んでいますが、工場勤務で平日は朝から夕方まで家を離れています。
免許を返した時、私たちは母に言いました。
「これからは私たちが交代で行くから」
母も、「迷惑はかけないようにする」と言いました。
最初の数か月は問題ありませんでした。
私が月に二回帰省し、弟が休みの日に買い物へ連れて行きました。
病院の予約日も調整できていました。

しかし、母が股関節の手術を受けたことで状況が変わりました。
手術後、三週間ほど入院し、その後は自宅でリハビリになりました。
医師からは、無理をせず歩行訓練を続けるよう説明されました。
介護保険の申請をして、要支援二の認定を受けました。
訪問リハビリも始まりました。
制度上は、必要な支援につながりました。
問題は、それ以外の時間でした。

母の家から一番近いスーパーまでは徒歩で四十分。
坂道が多く、重い荷物を持って帰るのは難しくなりました。
町営バスはあります。
ただ、朝の便を逃すと次は昼過ぎです。
帰りの便は夕方前に終わります。
通院の日は、診察が長引くと帰りのバスに間に合いません。
そのたびに、誰かが車を出していました。

最初に穴を埋めたのは弟でした。
仕事が終わってから母の家へ寄り、薬を確認し、足りない食材を買って帰りました。
翌朝早い日でも、夜八時を過ぎてから車を走らせていました。
私は電話で、「無理しすぎないで」と言いました。
弟は、「近いから大丈夫」と答えました。
けれど、弟の車の走行距離が毎月増えていることを、私は後から知りました。

次に穴を埋めたのは、近所の田中さんでした。
母と昔から付き合いのある女性で、週に一度、買い物へ乗せて行ってくれていました。
母はそのことを何度も申し訳なさそうに話しました。
「いつまでも頼れないからね」
そう言いながら、田中さんが来る日は朝から玄関を掃除していました。
私は母が遠慮していることも分かっていました。
でも、他に方法がありませんでした。
今回だけ何とか回ったのは、偶然が重なっていたからです。
弟は会社の繁忙期ではありませんでした。
田中さんも膝の調子が良い時期でした。
私は有給休暇を残していました。

三人とも、少しずつ無理をしていたのです。
そのことに気づいたのは、母の通院の日でした。
その日は朝から雨でした。
私は東京から向かう予定でしたが、新幹線が遅れ、到着が昼過ぎになる連絡が入りました。
弟は工場の棚卸しの日で休めませんでした。
田中さんは前日に、「ごめんね。今日は病院へ行けそうにないの」と連絡をくれていました。
母の予約時間は午後二時でした。
私は何度も電話しました。
母は出ませんでした。
三十分後、ようやく折り返しがありました。
「今、バス停」
「一人で行ったの?」
「大丈夫よ」母はそう言いました。
けれど、声の後ろから雨音が聞こえていました。

私は駅からタクシーに乗り、そのまま病院へ向かいました。
母は受付前の椅子に座っていました。
濡れた傘を足元に置き、診察券を両手で握っていました。
「どうして連絡しなかったの」
私が聞くと、母は少し困った顔をしました。
「みんな仕事があるでしょう」
「でも病院の日は言ってくれたら」
「言ったら、誰かが休むことになるから」
その言葉を聞いた時、私は母が我慢していたものが、体の痛みだけではないことに気づきました。
母は一人で暮らしたいのではなく、誰かの予定を変える存在になりたくなかったのだと思います。

帰り道、私は母にサービス付き高齢者向け住宅の話をしました。
近くの町に、通院付き添いや食事の支援がある場所がありました。
母はすぐには答えませんでした。
「家を離れるのは寂しい」と言いました。
それは当然でした。
父と暮らした家で、四十年以上生活してきたからです。
弟も最初は反対しました。
「まだ家で暮らせるだろ」
弟はそう言いました。
その気持ちも分かりました。
母が自分の家で過ごせる時間を、私たちが勝手に終わらせるような気がしたからです。
けれど弟は続けました。
「でも、俺が毎回迎えに行ける保証もない」
それが初めて聞いた弟の本音でした。

私たちは、すぐに引っ越しを決めませんでした。
ケアマネジャーと相談し、まずは通院支援と買い物支援を増やしました。
町の移動支援サービスにも登録しました。
予約制の車で、決まった曜日なら病院やスーパーまで送迎してもらえます。
ただし、利用できる時間は限られています。
急な予定変更には対応できません。
訪問介護も週に一度増やしました。
それでも、母が安心して一人で暮らせる状態になったわけではありません。

雪の日は今でも心配です。
夜に電話が来ると、私は画面を見る前に少し緊張します。
弟も、仕事帰りに母の家の前を通ることがあります。
以前のように毎日確認することはなくなりました。
その代わり、連絡方法を決めました。
母が困った時は、まず私へ電話する。
出ない場合は弟へ。
バスに乗る日は、前日の夜に予定を送る。
小さな決まりをいくつも作りました。

母は今も、自宅で暮らしています。
玄関には、以前使っていた車の鍵が入った小さな箱があります。
もう車には乗りません。
でも、母は捨てませんでした。
「昔の癖で、置いてあるだけ」
そう言っています。
毎週火曜日の午後三時になると、母は家を出ます。
以前は病院へ行くためでした。
今は移動支援の車を待つためです。

私は毎週月曜日の夜、母へメッセージを送ります。
「明日の迎えは十五時十二分」
母はしばらくして、
「分かった」と返信します。
火曜日の午後三時、母は傘を持って家の前のバス停へ向かいます。
屋根の下には、小さなベンチがあります。
雨の日も、雪の日も、そこだけは空いています。
次の車が来るまでの二十分間、母はいつも同じ場所に座っています。
ベンチの横には、まだ誰も使っていない折りたたみ椅子が一脚置かれたままです。
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