尊王思想を育んだ学問の地――竹内式部宅跡をめぐって
京都の町には、幕末へとつながる思想の芽が静かに育まれた場所が点在しています。今回取り上げるのは、垂加流神道の学者・竹内式部ゆかりの地。現在は石標こそ撤去されていますが、かつてこの場所は若き公家たちの意識を大きく変えた学問の拠点でした。
竹内式部(1712〜1767)は越後国の出身で、神道思想の一派である垂加流を学び、その研究と教育に力を注ぎました。京都に居を構えた式部は、この地に家塾を開き、公家や知識人に向けて講義を行います。彼の学問は単なる神道の研究にとどまらず、天皇を中心とした政治のあり方を重んじる「尊王思想」を強く打ち出すものでした。
この思想は、当時の若い公卿たちに大きな影響を与えます。やがて幕末の尊王攘夷運動へとつながる精神的土壌の一端が、ここで育まれていたともいえるでしょう。
しかし、その活動は既存の権威との衝突を招きます。本来、神道の講義は白川家や吉田家といった伝統的な家が担うものでしたが、式部はそれらを介さずに公家へ神書を講じたため、反発を受けました。その結果、宝暦9年(1759)に京都から追放される、いわゆる「宝暦事件」に至ります。
さらに後年、思想家・山県大弐の関与した明和事件に連座したことで流罪となり、八丈島へ送られる途中、三宅島で病没しました。その生涯は、思想の自由を求めたがゆえの波乱に満ちたものでした。
かつてこの地には、竹内式部の宅跡を示す石標が建てられていましたが、現在は撤去されています。しかし、標がなくとも、この場所が果たした歴史的役割が消えることはありません。むしろ、目に見えるものがないからこそ、想像力を働かせて過去に思いを馳せる余地が残されています。
京都を歩くとき、こうした「見えない史跡」にも目を向けてみてください。竹内式部が説いた思想と、その影響が後の時代にどう受け継がれていったのか――静かな町並みの中に、日本の転換期を準備した知の息吹を感じることができるはずです。
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