昨日は二子shu-3と、近所のプールに行きました。
夏休みですね。
ラッシュガードを忘れてしまい、けっこう日焼けしたのは大失敗。
今、特に上半身がひりひりしてTシャツすら、こすれて痛いです。
今の時期、屋外プールでは上半身を出しているお父さんたちも多かったのに、みなさん今、同じ苦痛を味わっているんでしょうか。
まぁ私の場合、子どもの頃から「あんた、海行ったことないでしょ」と言われたくらいで、日焼けには弱いんですけどね。
帰り際、
「あの〜」
と声をかけられ、みたら仕事関係のオキャクサンたち2家庭。
「あ、これはどうも」
プールでは眼鏡をかけていないので、意識してみないと人の顔なんてわからないものです。
かなりびっくり。
そういうこともあるんですね。
午後は昼食を食べたあと、ちょっとぐったりして、あとはひたすら読書。
この夏休みは、意識して本を読むようにしている・・・わけでもないんですが、子どもと遊びに行く時間、模型の時間、読書の時間でそれぞれけっこうくっきり分離できているような気はします。
Xとか、ネットの情報をつらつら眺めていると、あっという間に時間が過ぎてしまうので、意識してパソコン以外、模型や本に焦点をあてるようにはしています。
数年前に途中で投げていた、フランクルの『夜と霧』を読み終えました。
池田香代子訳の新版です。
最近時々見る内田樹の談論風発というyoutubeの動画で、内田樹の相手をしているのが池田香代子氏ですね。
気づいたときは、ちょっとびっくりしました。
さてこの本、前述の通り読みかけてしばらく放置していました。
決してつまらないと思ったわけではないのですが、一時、落ち着いて本に向かえない時期があったもので。
本を開いても、10分と読んでいられない。集中力が落ちていたんですね。
ジョギング中に読み上げで読書するようになってから、まとまった文字が読めるようになったということでしょうか。紙の本でも、まとまった時間読めるようになりました。
この『夜と霧』は、紙の本で所蔵しているものです。
最初から読み直そうとも思いましたが、そうするとまた途中で投げそうだと思い返し、しおりひもが挟まっていたところから読み始めました。
収容所での生活。
医師として、同じく収容されている人々もみるフランクルの姿。
禍福はめまぐるしくやってくる、とフランクルは書きます。
「夜になって、親衛隊がトラックで乗りつけ、収容所をただちに撤退せよとの命令を伝えたのだ。最後まで残っていた被収容者は中央収容所に移されて、そこから四十八時間以内にスイスに送られ、戦争捕虜と交換されるという。」
「最後のトラックに乗る十三名の確認が始まったとき、仲間とわたしは、もうこうなったらおおっぴらにリュックをもって、いつでも乗れるようにしていた。医長が十三名としたのだが、わたしたちは十五名隊。医長はわたしたちを員数に入れていなかったのだ。十三人がトラックに乗せられ、あとに残されたわたしたちふたりは驚くやら、失望するやら、憤慨するやらで、この最後の車が発車するとき、医長に抗議した。医長は、あまりに疲れていてついうっかりした、と謝った。」
「わたしたち、この収容所に最後まで残ったほんのひと握りのものったちが、あの最後の数時間、「運命」がまたしてもわたしたちを弄んだことを知ったのは、人間が下す決定など、とりわけ生死にかかわる決定など、どんなに信頼のおけないものかを知ったのは、それから数週間もたってからだった。」
「あの夜、トラックの荷台で自由への道をひた走っていると錯覚した仲間たちのことを思うと、またしてもテヘランの死神の昔話を思い出す。と言うのは、数週間後、わたちたちは数枚の写真を見せられたのだが、それはわたしたちがいた収容所からそう遠くない、わたしの患者たちが移送されていたた小規模収容所で撮られたものだった。患者たちはそこで棟に閉じこめられ、火を放たれたのだ。写真は半ば炭化した死体の山を示していた。」
書き写していて、なんとも重い気分になります。
「被収容者の心にもっとも重くのしかかっていたのは、どれほど長く強制収容所に入っていなければならないのかまるでわからないことだった。」
それでも、希望が描かれてないわけではありません。
「経験からすると、収容所生活そのものが、人間には「ほかのありようがあった」ことを示している。」
「感情の消滅を克服し、あるいは感情の暴走を抑えていた人や、最後に残された精神の自由、つまり周囲はどうあれ「わたし」を見失わなかった英雄的な人の例はぽつぽつと見受けられた。一見どうにもならない極限状態でも、やはりそういうことはあったのだ。」
こういう経験が、フランクルを戦後、生還したあとで実存主義心理学の創出に向けたのでしょう。
つれづれなるままに、日常の雑記から本について書き始めたら、ずいぶん長くなってしまいました。
ブクログにレビューを書くときは、ここから身辺雑記をのぞいてまとめていきたいところ。
数年前に読んだところで記憶に残っているのは、収容所でつらい生活をしているある夜、ごく身近にありありと妻を感じたという場面です。
つらい収容所での日常の中、妻の存在感に力をもらったというような話で、同時期にフランクルの妻も同じように感じているのではないかと読みながら思った記憶があります。
ただ、その後、読み進めたところでは、フランクルの家族は全員収容所で亡くなっていたということでした。
前半をぱらりらとめくって、フランクルが妻を感じた場面を探しましたが、さらっとみた感じでは見つけられませんでした。
私の記憶ちがいかもしれません。
ぱらりらとめくるに、あれこれいろいろな場面があり、その場その場に引き込まれます。
この本は、こういうことを言っている、なんて一口にまとめることはできません。
折に触れて、読み返したい、読み返すべき本なのだろうと思いました。
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