追悼第39代米国ジミー・カーター大統領3部作後編{パナマ運河返還25周年(後編)}
必 10章続編から最終14章
1903年に、時の米国セオドア・ルーズベルト大統領が、当時大コロンビアからの独立の支援を見返りに、パナマ運河の通航権獲得を取り付けた。軍事施設としても使用でき、中米の反米勢力へと睨みを利かした。1939年に第二次世界大戦が勃発すると、次第にパナマの間でも運河の返還を求める声が強くなった。返還に関わったカーター大統領の歩みとその道筋について紐解く。
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��中編
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その他 カーター氏と広島の甲奴町との交流 2024年11月6日付
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第10章 「パナマ共和国とアメリカ合衆国の歩み」の続き。
1939年に、ソ連とナチス・ドイツのポーランド侵攻により、第二次世界戦が始まった。パナマは国会を通して、戦火拡大に備え、中立を確認した。
パナマに軍事的影響を及ぼすアメリカも参戦に踏み切った。1941年12月7日、日本軍のハワイにある真珠湾攻撃により、両国の間で戦端が開いた。大西洋と太平洋の航路となるパナマ運河は、軍事拠点として鍵を握る。米国は、敵対する日本の通行を拒否した。パナマ議会も、米国の意向に沿い、日本に宣戦布告した。同国に在住する日本人238名の身柄が拘束されたのである。
パナマは、フランクリン・ルーズヴェルトの計らいにより、軍事同盟を盛り込んだ1926年の条約はすでに破棄され、中立的立場を貫いた。パナマのアリアス大統領は、1941年に民族主義的な憲法を制定し、社会福祉制 度の導入や農村開発銀行の創設を行った。米国の基地のための用地の供与要請に対して 2500万ドルの支援を求めた。パナマ人の権益を優先する民族主義色 の強い排外思想を抱いていた。他国と歩み寄れず、孤立を深めた。1941年10月に、クーデターによって法務 大臣のグアルディアが大統領となった。グアルディアは米国の力を借りての経済発展を目指した。134カ所の基地供与のほ とんどを、戦争継続中と戦争終結の講和条約後1年という期限をつけた上で認めた。進んで連合国側に立って第2次大戦に加わった。運河を戦略 上の要衝とする米国の防衛計画を推進した。米国による経 済投資とインフラの整備はパナマにとって運河建設期以来の経済的繁栄をもたらし、ゆくゆくは保護国から脱却を目指す意図があった。その布石として、1943年に労働組合のひとつである西インド連合の指導者は、運河地帯を訪問中の副大統領ヘン リ・ワレスに労働条件の改善を要求した。労働者の地位を向上させ、教育の機会を施すことにより、アメリカの保護下から逃れられる。自立を図る動きが澎湃として起こった。同1943年、パナマ商工連合が結成された。翌1944 年にはアフリカ系とアジア系移民を制限し、外務大臣による民間航空会社の経営を行う。段階的に米国の経済圏から脱却を図り、政府主導の下での経営を図る。1945年8月15日に日本軍の降伏により、二次大戦は終了した。
第11章 冷戦期のパナマ運河、利権を握る米国と、動乱のパナマ政治
1946年には、戦勝国の米国とソ連との間で不和が生じ、冷戦機へと突入する。パナマ運河は、「ラテン・アメリカ」における米軍の地域拠点との位置づけなる。反米闘争の結果、運河を残して、米軍基地は撤去された。1951年、米国は運河への投資額を激減させ、管理監督権についてパナマへ及ぶ方向へと変わった。1952年にパナマの大統領に就任したホセ・アントニオ・レモンは、国民へ歩み寄ることにより、支持を獲得した。米国との交渉の末、1955年1月に新条約を締結した。パナマ政府によるパナマ人運河労働者への課税権の確保、密輸の取り締まりを強化した。米国による パナマへの年料の43万ドルから193万ドルへの増額、パナマシティ・コロン両市における鉄道の所有 権の返還、運河を横断する橋の建設、運河地帯以外の米軍の基地使用に対する賃貸借契約、国 籍による賃金差別の解消を定めたものであった。
写真=パナマ地峡鉄道の簡易地図 rakuten Blog 2023年4月24日付
https://plaza.rakuten.co.jp/laurier/diary/202304240000/
パナマへの自主性を認める内容に改定された。大戦が終っても、戦略的に米軍は手放せず、親ソ政権の取り締まりる拠点には使えた。パナマ共和国自身にも睨みを利かすことにより、共産主義勢力を排除した。
世界は再び緊張状態に陥った。大西洋を挟んでアフリカ大陸では、1956年にエジプトではナセル大統領によるスエズ運河の国有化宣言を行う。イギリスの影響力を排除し、通航権を獲得したのである。スエズ闘争の影響が、パナマに及ぶことをアメリカは恐れた。俄然警戒態勢を敷く。1959年には、キューバで親米のバティスタ政権が倒れ、親ソのフィデル・カストロが権力を握った。当時の米国アイゼンハワー大統領は宥和政策をとり、経済援助を拡大すると発表した。続く1960年、ジョン・F・ケネディは、平和維持部隊をパナマに派遣し、同国の保険制度を整備し、学校建設を支援した。ジョン・F・ケネディの人柄を信頼して、翌1961年にパナマのチアリ大統領は、管理運営権の再考を求めた。ケネディ大統領は、条約の見直しには否定的だった。パナマの要求を呑むと、ゆくゆくは返還に応じざるを得なくなる。1960年にソ連との間の核戦争が懸念されたキューバ危機を脱したとはいえ、防衛面から重要性が増していたのである。他国との協調路線を歩むジョン・F・ケネディは、1963年11月22日に、テキサス州ダラスでのパレード中に狙撃され、46歳の若さで帰らぬ人となった。
写真=ジョン・F・ケネディ大統領 掲載元JlJl.com
東京五輪が行われた1964年のことだった。パナマの国旗を掲げた一人の学生が、運河地帯に踏み込み、自国の領土だとアピールしたのである。現地に在住するアメリカ人の反感をかい、侵入した一人のパナマ人学生に対して、嫌がらせを行う。事態が明るみに出ると、兼ねてから募らせていた反米感情に火がついた。パナマ人が暴徒化し、銃を持ったアメリカ人と衝突したのである。20人の尊い命が奪われ、負傷者500人を数えた。犠牲者や負傷者は、アメリカ軍の銃撃に巻き込まれたことが原因である。事件があった1月9日、殉教者の日に指定された。事件の翌日となる1964年1月10日、パナマ政府は、事件の収拾がつくまで、アメリカとの外交関係を再開しない、と断言した。
19日にはパナマのロベルト・フランシスコ・チアリ・レモン大統領が「アメリカが新条約の交渉開始に賛成するまで、外交関係を再構築するつもりはない」と正式にアメリカ本国の政府に通達した。当時の米民主党のリンドン・ジョンソン大統領は、紛争を未然に防止することを誓い、パナマ政府と交渉した。1964年4月3日、両国は外交関係の即時回復に同意したのである。数週間後に、リンドン・ジョンソン大統領の特別代表ロバート・バーナード・アンダーソンは、将来の会談の下準備のためにパナマに向かった。数年間定期的に行った交渉により、1967年に条約は締結された。国民の願いは、パナマ運河の通航権獲得だった。米国と簡単に和解する政府に、不満を募らせ、ついに国民は行動に打って出る。
1968年、世論を味方につけて、軍事クーデターを決行した。新政府はトリホスの下で団結し、1967年の条約の見直しを迫った。当のアメリカ側は、1969年民主党のジョンソンから共和党のニクソン政権へと移行する。ベトナム戦争による戦費が嵩むことによるインフレが重なり、パナマ運河の通航権維持に努めた。ただし、アメリカの国際的影響力は避けられなかった。現に1971年8月15日には、米ドルを機軸とした固定相場制が終了している。1973年の石油危機に端を発する物価高により、物流網の維持が優先課題となる。パナマ運河の通航権を巡り、米国とパナマ政府の間で駆け引きが展開された。
第12章 返還への道筋
73年1月には国連事務総長に対して同年3月にパナマで安全保障会議を開催することを申し入 れた。パナマ政府は、安全保障会議に先駆け、一つの論文「ラテン・アメリカにおける植民地主義と平和の危機に関する諸問題」を作成した。会議では、論文の内容に則り、ラテン・アメリカの独立性について討議した。最大の焦点は、パナマ運河の通航権だった。米国は、あくまでもパナマとの2国間の問題を主張し、他国の関与を認めなかった。対して、トリホス大統領は、ホスト国の代表として、パナマ運河の通航権獲得により、周辺諸国の利益にも繋がると訴えた。よりラテン・アメリカを超えて、世界へアピールするべく、歴史から掘り起こした。反植民地主義と自決権の尊重を唱い、新運河条約に向けたパナマの姿勢を打ち出したのである。ベトナム戦争から部隊を引き上げたアメリカは、影響力を行使できず、パナマの主張を受け入れた。翌1974年2月、パナマのタック外相とキッシンジャー米国務長官は、新条約の直接の骨子をまとめた。
写真=キッシンジャー国務長官(着席左側)とパナマのタック外相(着席右側)
掲載元 CHAPMAN UNIVERCITY
https://digitalcommons.chapman.edu/upi_kissinger/32/
初めに、新条約の根拠は1964年の4月3日の「共同宣言」であることを確認する。次に1903年条約及びその後締結 された修正条約を廃棄した。三番目には、相互尊重に基づく両国間の現代的な関係のために必要な条件 を確立する。最後の4番目に、両国間に存在する紛争原因を除去する正当かつ平等な条約を締結した。新条約締結に向けて8項目の合意事項を尊重すると宣言した。パナマは、アメリカとの合意事項に効力を持たせるべく、周辺諸国と協調路線を歩む。翌1975年3月にパナマ・コンタドーラ島にコロンビア、ベネズエラ、コスタリカ3 国の首脳を招いた。運河の通航権を取り決めた「パナマ宣言」を採択し、同年8月ペルーの首都リマでの非同 盟諸国会議にタック外相を派遣した。中米から南米へと連帯の輪が広がった。次の1976年に、新たに選任された民主党の米カーター大統領は、ラテン・アメリカの独立性を尊重した。パナマ宣言の推進を後押しする。1977年9月7日にワシントンの米州機構本部において、ラテ ンアメリカ各国首脳の前で、カーターとトリホスの間で署名がなされ、両国で批准された。
写真=1977年9月7日に、新パナマ運河条約調印式にて。左側カーター大統領 右側トリホス大統領 出展:シャッターストック 掲載元 VIETNAM.VN 2024年12月24日付
https://www.vietnam.vn/ja/kenh-dao-panama-chung-nhan-lich-su-ba-chim-bay-noi-trong-the-su-xoay-van/
1977年運河条約の性質
「パナマ運河条約」(以下、運河条約とする)「パナマ運河の永久中立と運用に 関する条約」(以下、中立条約とする)およびその付属議定書から成り立っている。その基本的 な性格は、1974年のパナマのタック外相と米キッシンジャー国務長官との共同宣言同様である。 米国は、パナマ運河を介して、周辺諸国ににらみを利かしていた。パナマへ変換に当たって、米艦隊の航行に関する保障を要求していた。
タック外相も、返還交渉を進めるにあたって、米の要求を受け入れた。運河条約第IV条第1項 には、運河の防衛は米パの共同責任であると規定する。同条第2項には、より米国への配慮から、(返還期日の)1999年12月31 日までは米国に第一義的な責務があると示している。
返還以降について運河条約には、 第W条第1項に「本条約の失効と同時に、パナマは運河の管理・運営および維持の責任 を負う」として決められている。つまり、防衛については触れていないのである。ただし、冷戦期の当時、敵対するソ連を意識して、他国が関与を否定していた。
中立条約第V条において、「運河条約失効 後はパナマのみが運河を運営し、その領土内の軍事力、防衛基地および軍事施設を維持するも のとする」
運河地帯はパナマの主権が尊重された。米国にも一部配慮していると見られる文言が残る。中立条約第VI条に米国とパナマの「軍艦、補助艦は、…いかんにかかわらず、運河を 航行する権利を有する。上記の軍艦、補助艦は迅速に運河を航行する権利を有する」
中立条約第IV条では追認された。「パナマおよび米国は、本条約で規定された中立制度を維持 することに同意する」
西暦2000年以降も米軍が、優先的に運河を航行できる内容にまとまっている。パナマも米国を説得させるには、軍艦を置くことを認めざるを得なかった。 米軍が通行権を得ている状態において、ソ連の影響力は排除される。キッシンジャー国務長官は、国内の返還反対派と賛成派の間に立ち、上手くバランスのとれた内容をとりまとめ、パナマのタック外相に要求した。交渉にあたったタック外相は、米軍艦の通航権に関しては、将来に禍根を残す状況から認めがたかった。パナマでは1977年10月23日に国民投票によって条約が承認された。米国の方では1978年3月になってようやく上院本会議での採択が予定された。批准に必要な3分の2の賛成を得られなかった。より反対派を納得させるため、反米勢力にパナマ運河を封鎖された事態に備え、中立条約をパナマ側に提案したのである。紆余曲折の末、同1978年3月16日に条約は批准された。米国内でもパナマ運河返還に反対意見は根強かった。敵対するソ連も、新条約の内容から、米軍艦の通航権が優先される文言を否定していた。国外与論も意識しつつ「運河条約に対する留保」として、パナマへの干渉を認めない旨を 定めた文言を加えて、批判をかわした。パナマ側も要求を呑んだ。米国上院において4月18日に承認され、 1979年10月1日に発効した。
新たに締結した新パナマ運河条約を基に、米国政府は、パナマ政府へと管理権を移管する。返還までの21年間に当たっては、パナマ運河委員会は、米軍の指示を受ける形を保たれた。西暦2000年1月1日以降は、政府の独立機関であるパナマ運河公社に完全に移管される。返還までの20年間、パナマと米国の間で大きく揺れ動いた。
第13章 パナマ運河その後
確かにアメリカの上院議会でもパナマ運河の返還は採択された。一方で保守派の議員から、未だに条約締結に納得できず、撤回を求める声が相次いだ。次の共和党レーガン政権で副大統領を8年勤めたブッシュ父が、1989年に大統領に就任すると、同問題に着手した。パナマの政治にも大きな転機にさらされていた。1981年に返還にこぎつけたトリホス大統領が、飛行機事故で命を落としたのである。一説によると、当時のレーガン政権と結びつくCIAが、反トリホス派のノリエガ将軍と結託して、事故に見せかけて暗殺したとささやかれている。
写真=ノリエガ将軍 1988年5月パナマ・シティより 掲載元 HUFFPOST 2017年5月30日付
ノリエガは、代わりに大統領へ上り詰め、親ソ政権のニカラグアの内戦に介入するアメリカに基地を提供した。アメリカに協力する姿勢を見せながら、パナマ運河の条約見直しは固持する。キューバのフィデル・カストロとも軍事的協力関係を築き、次第に反米へと傾きつつあった。民衆を抑圧し、麻薬密売の嫌疑をかけて、1989年に副大統領から昇格した父親ブッシュ氏が軍事介入する。12月20日、パナマに駐屯していた1万3000の部隊に助け舟を出すように米本国から9500人が加わった。相対するパナマ軍は1万5000。兵員の数よりも装備も大きく劣っていた。勝ち目がないと判断したノリエガは、行方をくらます。一時国内のバチカン大使館に身を寄せていたものの、米軍に首都を制圧され、引渡し圧力が強かった。亡命先の手配が難航する影響で、自発的に米軍に投降した。アメリカへと連行され、麻薬取引の罪状で、禁固40年の判決を受ける。釈放されたのは18年後の2007年だった。一端自由の身になっても、無罪放免とはいかなかった。フランスの裁判所から余罪を追及された。麻薬資金の資金洗浄を行った罪状で再び逮捕・投獄された。2011年にパナマに身柄を引き渡され、2017年3月、病死した。
パナマを制圧した米軍は、ノリエガ将軍からの解放者として振舞った。市民が、米国旗を振って、迎え入れる映像が、流布された。ネットが発達していなかった時代、テレビを通したプロバガンダが大きな効力を持った。当時朝日新聞特派員としてパナマに在住していた伊藤千尋さんは、2007年に出版した自著「反米大陸」:集英社新書 P.160にて、「作られた映像だ」との見方を書き記した。
パナマはアメリカ軍の圧力の下で、武装解除を明記した新憲法を採択した。公約どおり1994年にパナマ軍は解体している。国際世論を気にして、1977年に締結した新パナマ運河条約はそのまま維持した。1999年12月31日で持ってして、運河の中立化を確認して、米軍は去っていった。当時返還式典に、ジミー・カーター氏は参加している。
パナマ運河は、通航権を担ったパナマ共和国政府の下で、時代に合わせて、拡張工事を行う。父の意思を告いで、2004年9月1日から2009年7月1日まで大統領職を務めた息子マルティン・トリホス氏は、2006年4月27日に、拡張計画を発表した。
写真=マルティン・トリホス大統領 掲載元 ウィキペディア
憲法に基づき同年10月22日の国民投票で、信任を得ると、早速着手した。総事業費52億5千万ドルをつぎ込み、2007年9月3日に着工開始し、2014年の竣工を予定していた。
新たに第3レーンを設け、現在の2倍の約6億トン(船舶トン数換算)の航行量を見込んだ。労働者が、よりよい待遇を求め、ストライキを決行するなど、大幅に遅れた。政府も、労働者に歩み寄り、待遇改善に努めた。2016年5月31日に竣工し、同年6月26日に完成式典を行い、運用を開始した。
2023年度はエルニーニョ現象が原因とみられる雨不足で渇水化により、通行に影響が出る。パナマ運河は2024年10月30日、同運河の2024年度財務結果を発表した。総収益は7634億5738万円で2023年度より27億5408万円増加した。
大西洋と太平洋を結ぶ水路は、船舶の安全な航行のためには、パナマが治安維持にも努める。アメリカに頼らず、自主的な運営により、2023年に渇水に悩まされながら、安定的な収入を得た。返還から25年を迎える中、アメリカの保守主義者から未だに「新パナマ運河条約」の破棄を求める声が出ている。その代表格は、ドナルド・トランプ大統領だった。2024年12月22日に自身の支持者が集るイベントで、パナマ運河の通航権が高すぎると不満を口にした。かつてアメリカが果たした役割から、「管理権の返還を要求する」と述べた。トランプ氏の発言に、パナマのムリーノ大統領が噛み付いた。自身のSNSで、トランプ氏を反論する内容の動画を投稿する。「パナマ運河と周辺の土地は、自国のものである」と正当性を訴えた。
詳細 パナマ運河について テレ朝ニュース!2024年12月23日付
https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000393433.html
二次大戦後の冷戦の時代が終わり、ラテン・アメリカの国々の主権を尊重すれば、パナマ運河の通航権をアメリカが管理する理由はないはずである。パナマ侵攻を命じたブッシュ父大統領、返還を要求したトランプ大統領も、自国の利益を優先的に考える保守主義者である。確かに中国やロシアも、中南米の国々と貿易を結ぶ。アメリカ軍がパナマへ侵攻すれば、中ロとの軋轢が深まる。1977年に締結された「新パナマ条約」は、将来に戦争の火種になる事態を避けて中立化を盛り込んだのである。カーター氏の人権外交は、他国と協調し、平和な社会を目指すことにあった。
冷戦期ソ連との間では、1979年に戦略兵器制限条約を取り付け、核戦争の危機を回避した。領土問題を抱えていたエジプトとイスラエルの間に入り、平和条約の締結にこぎつける。世界では、異なる考えを持つ人々同士が利権を巡って争い、時に戦争が起こる。カーター氏は、大統領退任後も、人権擁護のために、国家間では、大使の役割を果たした。1994年6月に、北朝鮮に渡り、金日成総書記と会談にとりつける。当時非公式で行われていた国連の北朝鮮制裁決議に抗議するため、IAEAから脱退を表明していた。カーター氏は、上から目線ではなく、金日成総書記と対等に話し合った。核爆弾の原料となるプルトニウムの抽出が容易な黒鉛減速炉の建設・運転を凍結する見返りに、軽水炉(LWR)建設を支援すると表明した。完成まで代替エネルギーとして年間50万トンの重油を供給すると約束した。1994年10月21日に、カーター氏の説得により、スイスのジュネーブにて、両国の代表団が新たに設けられた「米朝枠組み合意」に調印する。
個人としては、アフリカの貧困地域へとぶ。1983年から2005年まで続いたスーダン内戦の最中、2002年に自ら戦闘地域に足を向けた。北のイスラム主義勢力と南部の反政府勢力の間に入り、和平への機運を高め、停戦にこぎつけた。国際紛争を解決した功績から、同2002年にノーベル平和賞を受賞する。2005年には、正式に停戦合意により、戦闘は終結した。2007年のこと、1994年にノーベル平和賞を受賞した南アメリカのマンデラ大統領の89歳の誕生日会にも参加した。2007年にマンデラ氏と共に、政策提言集団「ザ・エルダーズ(長老たち)」を結成し、紛争地や貧困地域で積極的な活動を続けた。2011年には、スーダンの南部のキリスト教勢力の分離運動が起こり、1月に実施された独立の是非を門う住民投票の監視に当たった。有効票の98%の賛成により、南スーダンは2011年7月9日に独立宣言した。
写真=2011年1月9日 スーダンを訪れたカーター大統領 出展:カーター・センターより
https://www.cartercenter.org/news/photos/president-jimmy-carter-Juba-voters.html
最終第14章 まとめ 人権外交の成果 日本でもカーター氏の意思が告がれる
カーター氏の対話重視の姿勢は、緊張を孕む世界情勢において、安定化に繋がる。アメリカでは、現在ドナルド・トランプ氏がその役割を担う。世界共通の利益を追求したカーター氏に反して、トランプ氏はアメリカファーストを掲げる。パナマ運河の利権を取り戻すと、誓った。もう一つ国際的にデンマーク領と認定されているグリーランドを購入しようとしている。アメリカの意向に反する国に、高い関税をかけ、保護貿易主義に走った。地球温暖化抑止を誓った2015年のパリ協定を離脱し、WHOからも脱退の意向を示している。世界のリーダー的存在のアメリカが、閉鎖的な国になろうとしている。
日本では、カーター氏の功績を伝える活動が行われている。1990年と1994年、2度に渡るカーター氏の訪問がきっかけとなり、現広島県三次市甲奴町は、国際交流を重視した。カーター氏が出身の小さな町プレーンズ市と共にジョージア州に属するアメリカス市と友好都市契約を結んだ。1994年以降2024年まで、双方延べ1000人の中学生が、互いの友好都市へとわたった。2001年にピーナツ農家出身のカーター氏の生い立ちを踏まえて、アマリカス市から種が持ち込まれた。カーター氏が経営する農場で育ったピーナッツは、小粒で甘みが強いという。「カーターピーナッツ」としてブランド化にも成功した。2024年現在10戸の農家が栽培に取り組んでいる。2024年11月17日(日)には、収穫祭に出展した。町は後継者育成に取り組み、ブランド維持に努める。
写真=カーターピーナッツ 掲載元 三次市ホームページより
https://www.city.miyoshi.hiroshima.jp/site/miyoshi-brand/1768.html
1982年に立ち上がったNGOカーター・センターは、引き続き、同氏の意思をついで、活動をしていく。ロシア軍によるウクライナ侵攻、ガザ紛争、南スーダンでの内戦を含め、世界各地で紛争が起こる中、カーター氏の業績は再び脚光を浴びている。人権尊重と民主主義の普及に努めた彼の偉業は、着実に次の世代へと受け継がれていく。
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