今回は2024年12月29日に100歳で亡くなった第39代ジミー・カーター米大統領の追悼特集 中篇。在任中から退任後まで続いた人権擁護活動と共に、彼が在任中返還へのプロセスを踏んだパナマ運河の歩みと当時の米政権に焦点を当てる。
前編
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1989192604&owner_id=32437106
関連日記 ニカラグア革命 2024年4月9日付
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1987348036&owner_id=32437106
第7章 退任後キューバへの対応 在任中イランやアフガニスタンへの対応への苦慮
ジミー・カーター氏の評価は、43年以上に渡った大統領退任後の人権擁護活動にあった。大統領経験者としての知名度や人脈を生かして、時の政府から大使の役割を担った。その一つが、先述したボスニア紛争の調停だったのである。2002年5月には、キューバへ飛び、1959年に社会主義革命を起こしたフィデル・カストロとの会談をとりつけた。
写真=ジミー・カーターとフィデル・カストロ 出展:AP=共同 掲載元 SHIKOKU NEWS 2002年5月13日午前1時11分付け
http://www.shikoku-np.co.jp/national/international/20020513000034
首都ハバナにあるハバナ大学にて、スペイン語で「両国の間で変革させるときがきている」と和解する意思を示した。最大限にキューバを擁護し、「人権など基本的な権利は本来、キューバの憲法が認めている」と語った。当時、前年となる2001年に就任し、テロとの戦いを掲げるブッシュ子政権を念頭に置き、「米国人の渡航制限を解除し、禁輸措置を撤廃することを望む」と訴えた。ブッシュ子政権は、2001年の9月11日に起こった同時多発テロを経験して、首謀者アルカイーダの最高指導者オサマ・ビン・ラディンを匿っているとみられるアフガニスタンのタリバーン政権打倒を掲げ、軍事介入した。10月7日にイギリスにも協力を呼びかけ、アフガニスタンへ攻め入った。96年にタリバーンが政権掌握後、反対組織として活動していた北部同盟を支援した。圧倒的な軍事力を誇る米英有志連合が、2001年内には首都カブールからタリバーンを駆逐し、解放者として振舞ったのである。2002年以降、米英有志連合が駐留し、辺境の地に追いやられたタリバーンに睨みを利かたうえで、国づくりを進めた。大統領在任中にもアフガニスタン問題に向き合った。在任中アフガニスタンは、アミン軍事独裁政権が、共産主義者を弾圧した。当時ソ連の書記局長ブレジネフは、共産主義勢力を助けるべく、1979年12月に軍事介入したのである。宗教を認めない共産主義勢力が、国を乗っ取れば、イスラム教徒は排除される。ソ連に対抗したのは、イスラム教徒の有志ムジャヒディーンだった。米同時多発テロの首謀者とされる若きオサマ・ビン・ラディンも加わっていた。カーター政権は、強権的なソ連を非難し、西側の民主主義国家を中心に、1980年の夏季モスクワオリンピックの参加をボイコットするように呼びかけた。経済制裁も発動する。また1979年6月18日オーストリアの首都ウィーンにてカーター大統領とブレジネフ書記局長との間でまとまった「戦略兵器制限交渉(第2次)/ SALT・�供廚砲弔い董▲▲瓮螢�議会は批准を見送った。結果的に条約はソ連が解体する1991年に調印された。
写真=1979年6月18日 カーター(左側)とブレジネフ(右側)調印式典より
出展:AP/アフロより
掲載元 JB press 2022年3月8日付け
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/69167
モスクワオリンピックのボイコットには、アメリカと軍事同盟を結ぶ日本も応じている。皮肉にも、同時多発テロの首謀者オサマ・ビン・ラディンが加わるムジャヒディーンに武器を供与したのはアメリカ軍だった。本来アメリカのような西欧国家を、イスラム原理主義者は敵対する。当時は冷戦期、最大限に警戒すべきあいてはソ連だった。敵の敵は味方の言葉通り、ムジャヒディーンを支援した。結果的に、アメリカが送った武器をイスラム教勢力は溜め込んでいた。反米勢力へと成り代わり、テロを起こすまでにいたった。1979年末から1980年にかけて、直接介入を避けたカーター大統領に、国内から批判の声が高まっていたのである。不幸にも1979年には、イラン・イスラーム革命が起こっていた。一転してイランは反米になり、同1979年11月4日に同国のアメリカ大使館で人質事件が発生した。カーター政権は、当時武装勢力を説得し、平和裏に解決する狙いがあった。奇しくも長期に渡って人質が拘束されている最中、再選を狙った大統領選挙戦が行われていた。一向に進まない救出作戦に、アメリカ国民からも政権に対して批判の矛先が向けられたのである。幸いにも、大使館を包囲したイスラム革命勢力は、立てこもりを続ける中でも、アメリカ人の人質の健康状態には配慮していた。もちろん当初は、人質を手荒く扱い、殴打していたと、帰還した人質は証言している。1980年の夏ごろには、アメリカ政府の呼びかけにより、配給にはしっかり応じたという。同年11月に行われた選挙戦にて、1年に及んでも解決しない人質救出への対応の審判が下る。結果は共和党のレーガンの大勝、ジミー・カーターは再選を逃した。不思議にも、レーガン大統領の就任に合わせるかのように、1981年1月20日に、人質が444日ぶりに解放された。当初人質の数は52名、犠牲者を出さず、無事にアメリカ本国へと戻ったのである。後に共和党から大統領選挙戦に出馬したレーガン政権と、イラン政府の陰謀論説が取りざたされた。1984年の大統領選挙戦にて、民主党から出馬した前副大統領のモンデール氏に大勝し、再選を果たした後に明るみに出たのである。2期目の最中の1986年にのことだった。レーガン陣営が、1980年の選挙戦に勝利することを見越して、イラン政府に密かに人質解放に応じないように働きかけていたのである。1981年の大統領就任後は、前年から勃発したイラン・イラク戦争にて、イラク側へ大量の武器を供与していた。戦争の方は膠着状態に陥り、イラン・イスラーム革命の波及を抑えるアメリカの目的は成功する。一方アラブの名手の座を狙うサッダーム・フセインの影響力拡大は避けたかった。もう一つアメリカは中米で一つの問題を抱えていた。1979年にニカラグアの新米ソモサ政権が倒れ、社会主義者のオルテガを含め、反米政権が立ち上がったのである。オルテガは次第に独裁色を強め、1985年1月10日に大統領に就任した。CIAは、レーガン政権に協力を呼びかけ、ニカラグアの反政府組織を応援した。その資金として、1986年頃からひそかにイランへ武器売却することにより充てていた。利益分を、オルテガ政権に対抗するコントラへ送りつけていたのである。イラン・コントラ事件として知られている。
詳細 イラン・コントラ事件 憲法で読むアメリカ現代史 第11回 レーガン政権の残したもの:大統領と憲法
https://www.nttpub.co.jp/webnttpub/contents/america/011.html
秘密裏に裏工作していたレーガン政権に対して、カーター政権はよりクリーンなイメージが漂う。国民も再選を逃したカーターを、次第に見直すようになった。キューバに歩み寄った2002年には、内戦が続くスーダンで紛争の調停役を務めた。同年に、紛争の解決に取り組み、貧困撲滅活動が評価され、ノーベル平和賞を受賞した。
写真=2002年にノルウェーの首都オスロにて平和賞の受賞式典の様子 出展:ロイター
掲載元 REUTERS 2024年12月31日午前1時付け
https://jp.reuters.com/world/us/MMU327YJKNJ33DVZQ4MH6ZS53Y-2024-12-30/
次にカーター大統領の功績の一つ「パナマ運河」の返還過程までを、時の大統領の功績を振り返りながら、検証していく。
第8章 大統領時代 返還するパナマ運河の歴史 19世紀のラテン・アメリカの独立運動
以下 アメリカ外交政策とパナマ運河返還の意義 ―米・パ関係の歴史的考察を中心に 若松孝司・高橋啓介 file:///C:/Users/satoshi/Downloads/0001039200006041059.pdf
カーター大統領は、アメリカファースト主義から一転して、より広い視野で、世界情勢の安定化に努めた。就任1年目となる1977年、初めに取り組んだのは、パナマ運河の返還である。1914年に太平洋と大西洋を結ぶ要衝として開通したパナマ運河は、アメリカが通航権を握っていたのである。その経緯は複雑だった。パナマは、1501年にスペイン人の探検家によって、西欧人の目にとまった。当時未開の大陸だったパナマへ、スペインのフェルディナンド王が、探検隊を出動させ、内情を探った。1513年に探検家バルボアが、パナマへ到達し、反対側の太平洋を発見した。当時「南の海」と呼んだ。彼には現在運河のあるパナマ地峡を確認できず、現地総督との不和により、国家反逆の罪で、処刑されている。新たにスペインは、新大陸開拓のため、1519年にはパナマ・シティを建設し、植民地政策を進めた。ポルトガル人が入植したブラジルをのぞき、ラテン・アメリカを支配する。現地人は、搾取され、古来の文明は破壊された。スペインへ反旗を翻したのは、シモン=ボリーバルだった。1783年に現在のベネズエラの首都カラカスで産声を上げた。現地生まれのスペイン人を指すクリオーリョの一族だったものの、ラテン・アメリカ各国の独立を尊重した。1810年に故郷のカラカスで独立運動が起こった際、スペインの植民地獲得競争のライバルだったイギリスへ渡り、支援を要請する。あくまでも自国の経済圏に組み込む狙いがあるイギリスは、独立運動に加担しなかった。大きな後ろ盾を得られなかったものの、1811年7月にカラカスに戻り、独立宣言をする。翌1812年に不幸が襲った。3月26日にカラカスでの大地震により、2万人の尊い命が失われた。災いに乗じてスペイン軍が都市を制圧すると、ボリーバルは逃亡の身となり、最終的にジャマイカで落ち着く。1816年に再起を喫して立ち上がった。1819年にボコダ付近の戦いで勝利し、シモン=ボリーバルは、晴れて大コロンビア共和国として独立宣言した。スペインに従属するペルー副王軍との戦いにも勝利し、1822年には自らエクアドルに赴き、首都キトを開放した。
シモン=ボリーバルと同じく、独立運動の英雄は他にもいた。南米大陸北部の国々を束ねたシモン=ボリーバルに習い、南部からはチリ出身のサン=マルティンが、民族解放運動を起こした。両者は、一時共闘を模索した。サン=マルティンは、アルゼンチンのラプラタ生まれのスペイン人だった。1816年にアルゼンチンの独立を宣言すると、スペインをバックにつく、ペルー副王軍との戦いで圧迫される。
心強い味方が必要だった。時を同じくして大陸北部の民族解放運動を行うシモン=ボリーバルは、共和制を掲げていた。サン=マルティンは、君主制を目指していた。1821年には、スペインをバックにするペルー副王軍との戦いで、シモン・ボリーバルに共闘を呼びかけたものの、路線の違いから拒否された。1817年にサン・マルティンは、チリのサンティアゴに入り、ペルー副王軍を破った。1820年7月、イギリス海軍の協力により海上を北上して、ペルーに上陸し、スペイン軍を破りリマに迫った。リマのペルー副王はクスコに脱出し、スペインの影響力は排除された。1821年7月、サン=マルティンは市民の歓呼の声に迎えられ、リマに入城し、ペルーの独立を宣言した。自身は護国卿として全権を握った。
国家像は違えど、シモン・ボリーバルとサン=マルティンによって、南米の国々の民族意識は高揚した。スペインの影響力は、ペルー副王領となる現在のボリビアに残っていた。
シモン・ボリーバルは、1824年にアヤクチョの戦いでペルー副王軍を破り、現在のペルーの独立を晴れて勝ち取る。残るアルト=ペルー地方には、部下のスクレ将軍を派遣した。スペイン軍が完全撤退したことにより、制圧した。1825年8月にボリーバルの名にちなんだ国名のボリビアとして独立を宣言した。
写真=ラテン・アメリカの独立の年を現した地図 掲載元 世界の歴史まっぷより
https://sekainorekisi.com/world_history/%E3%83%A9%E3%83%86%E3%83%B3%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E7%8B%AC%E7%AB%8B/#google_vignette
1826年6月22日から7月にかけて、シモン=ボリーバルの呼びかけにより、ラテン・アメリカの独立を再確認する「パナマ会議」が開催された。集団防衛を定めた軍事同盟締結には失敗したものの、1世紀後のパン=アメリカ会議として受け継がれる。互いの地域性から、まとまりには欠く。1830年には大コロンビアを形成したベネズエラ、コロンビア、エクアドルが、それぞれ3つに分解する。パナマは、コロンビア領として残る。南米大陸を一つに統合する野望を抱いていたシモン・ボリーバルは、失意の内に亡くなった。
第9章 セオドア・ルーズヴェルトによる「パナマ運河条約」の締結 日露戦争の終結に伴う「ポーツマス条約」について
時は20世紀。1903年に、当時のセオドア・ルーズヴェルト大統領の棍棒政策により、パナマの運命は大きく変わる。彼自身が、大きな棍棒を携えて穏やかに話すとの理想を掲げ、パナマに向き合ってきた。時には威嚇するが、基本他国と協調すると訴えてきたのである。アメリカ帝国主義路線から、カリブ海の国々を手名づける必要があった。パナマに対して、独立運動の支援と見返りに、運河の通行権獲得を取り付けていた。建設の経緯は19世紀末まで遡る。円滑な貿易のため、大西洋と太平洋を繋ぐ海路を必要としていたのである。1869年に航海と地中海を結ぶスエズ運河の開発を担ったフランス人の技師レセップスによって、1879年にパナマ運河事業に着手した。
写真=セオドア・ルーズヴェルト 世界史の窓より
写真=フェルディナン・ド・レセップス ウィキペディアより

パナマ運河の大きさは幅32m、深さ12m、全長80kmに及ぶ。翌1880年に、速くも工事に行き詰まった。難航する理由の一つは、水位の差にある。太平洋側が、大西洋側よりも、水位が24cm高い。標高26メートルに設けられた人造のガトゥン湖まで両サイドからロックでのぼる。2001年にゲイラード水道は幅192メートルに拡張され、対面運行が可能になった。従って運行能力は、20パーセントアップした。
写真=パナマ運河の断面図 掲載元 iCruise
https://www.icruises.jp/area/panamacanal.html
1881年には、黄熱病やマラリア病の蔓延により、工事は中断を余儀なくされた。計画の失敗の最大要因は、1892年のパナマ事件にある。政府による汚職が発覚し、市民を巻き込んで闘争が繰り広げられた。きっかけは、工事の責任者となったレセップスが提案した社債の発行にある。当時のフランス第三共和制府をバックに、買い手を募った。一般市民に社債を購入してもらうことにより、工事資金を得ていた。結果的に、費用対効果に見合わず、社債の発行で得た資金も予想外に少なく、工事の費用を捻出できなかったのである。技師レセップスが率いたパナマ運河会社は、破産をしてしまった。もう一つ明るみに出たのは、汚職疑惑である。運河会社から、国会議員へ多額の賄賂が贈られていたのである。後の首相クレマンソーも、検察から追及を受けた。国民からすっかり信頼を失い、第三共和国は、混乱に陥る。事件に関わったと見られる議員や会社の役員が相次ぐ不審死により、真相は闇に葬られた。当のレセップス親子は、有罪の宣告を受けた。
パナマ事件により、利権を握っていたフランスは、完全に事業から撤退した。代わりに、アメリカのセオドア・ルーズヴェルトが事業を引き継ぐと宣言する。1903年11月18日、パナマ政府との間で、独立運動の協力と見返りに、運河の通航権を獲得する「パナマ運河条約」を締結した。セオドア・ルーズヴェルトの棍棒政策は、争いを起こさずに、同盟国の立場を尊重しながら、自国の政策へと組み込む。パナマ運河を抑えることにより、経済的に有利な立場に立った。彼は、国際紛争の解決も試み、日露戦争の調停役を引き受ける。国境問題により争いが起こったのは、日本とロシア帝国だった。両国の間には、1855年2月7日に伊豆の下田で署名された日露和親条約から未解決問題があったのである。当時江戸幕府を代表して、大目付格「筒井政憲」と勘定奉行「川路聖謨」が席に付いた。一方ロシア側全権は提督エフィム・プチャーチンである。本条約で持って、蝦夷地に国境線が引かれたのである。択捉 (えとろふ) ・得撫 (うるつぷ) 両島間を日露の国境とし,樺太 (からふと) を両国人の雑居地として境界をあいまいにしたのである。新たに1875年5月7日付、樺太千島交換条約により、樺太全島における日本の権利と引き替えに、ウルップ島からシュムシュ島までの諸島をロシアから日本に平和裡に譲与された。1895年6月8日付けの日露通商航海条約の締結時に1855年の下田で結ばれた日露和親条約は効力を失った。代わりに1875年の樺太千島交換条約の効力が確認された。日本の北海道からロシアのカムチャツカ周辺諸島の利権問題は、2度に渡る条約に基づき、解決したはずだった。日本が朝鮮半島へ入植することにより、満州を巡る取り合いになったのである。1902年に日本は、ロシア帝国の極東進出を阻むべく、英国を味方につける。日本の公使・林薫と英国の外相第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスの間で、日英同盟の締結を盛り込んだ文章に署名した。ロシアの方は、1891年に着工したシベリア鉄道の建設系計画により、極東のウラジオストクまで延伸する。実は、シベリア鉄道から分岐した支線の建設計画を、ロシア帝国は当時中国の清王朝との間で進めていた。1903年7月1日に、ロシアのウラジオストクと清の満州とを結ぶ東清鉄道が開業した。
写真=東清鉄道を示した解説図 掲載元 釜山でお昼を 東清鉄道のページより
http://busan.chu.jp/pusan.html
ロシアの軍事輸送網が広がることを、朝鮮半島から満州への利権を握っていた日本は、俄然警戒を強めた。1904年2月10日、日本側が、ロシアの満州基地を叩く目的で、ついに開戦する。当時17億円の軍事費のうち8億円は、ロンドンとニューヨーク・シティにて外債を発行することにより調達した。英国とアメリカは、ロシアの帝国主義路線に歯止めをかけるべく、日本を支えたのである。1905年5月28日、日本海の開戦にて日本は大勝した。2ヶ月前の3月、奉天開戦でも勝利し、軒並み日本が優位に進めていたのである。ロシア帝国は当時皇帝に対する信頼が揺らいでいた。1905年1月には、停戦を願う国民らが、サンクトペテルブルクで抗議した際、軍の発砲により、数多くの犠牲者を出した。いわゆる「血の日曜日事件」である。与論を敵に回しての戦争は、帝政を脅かしかねない。満州での権益拡大を諦め、外交で有利な条件を引き出すべく、停戦を呼びかけた。日本も、若い労働力が兵隊にとられることにより、国は物不足からくるインフレに拍車がかかった。戦いで軒並み有利に進めたことにより、権益拡大できると判断した。日本とロシア帝国の間に入ったのはアメリカのセオドア・ルーズヴェルトだったのである。
ニューハンプシャー州のポーツマスにて、日露戦争の講和会議を主催した。1905年9月4日、日本の代表団小村寿太郎、ロシア全権のセルゲイ・ウィッテの間で和平交渉を行う。
写真 掲載元 past port ポーツマス条約より
http://pastport.jp/user/sheltem2/timeline/%E5%8C%97%E6%96%B9%E9%A0%98%E5%9C%9F%E8%BF%94%E9%82%84%E4%BA%A4%E6%B8%89%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8/event/gbUbwoEf0pK
ロシアは、利権を争っていた満州から撤兵し、樺太南部の割譲には応じた。東清鉄道の南部支線の使用権も手放した。経済的負担から、賠償金の支払いには応じなかった。日本政府を代表した小村寿太郎は、賠償金を請求して、戦争に投じた20億ドルの軍事費に当てる計画だった。日本国民の間にも落胆が大きく、抗議の輪が広がり、日比谷暴動へと発展した。日本とロシア帝国の紛争の調停を果たしたセオドア・ルーズヴェルトは、1906年にノーベル平和賞を受賞した。大西洋と太平洋を結ぶ運河を抱えるパナマ共和国を手名づけ、国際紛争の調停に一役かい、アメリカの国力の高さを示した。すでにエジプトのスエズ運河をイギリスが抑えている以上、アメリカはパナマ運河の権益を獲得することにより、対抗心を燃やしていた。日本ともフィリピン海の権益を巡って、優位に立つ。ポーツマス会議前の1905年7月29日、日本の総理大臣兼外務大臣を務めた桂太郎と当時陸軍大臣のウィリアム・タフト間で、覚書が交わされた。既に日本はアメリカが提示したポーツマス条約を受け入れる構えを示していたのである。アメリカのフィリピン領有、日本の朝鮮半島領有を確認した。安全保障に関しても、日・英・米で合同で行うとの認識を共有する。「桂・タフト協定」と呼ばれる。
写真 掲載元 ガウスの歴史を巡るブログ 2022年7月29日
https://gauss0.livedoor.blog/archives/15777176.html
タフトは、1901年から1903年まで初代フィリピン総督を務めた。1904年に大統領により陸軍司令官に任命され、パナマ運河の管理責任者に任命された。1909年3月4日から1期4年第27代大統領を務めている。第10章以降は、国際影響力を高める中での、パナマ運河の歩みを紹介する。
第10章 パナマ共和国とアメリカ合衆国の歩み
カリブ海の小さなパナマは、独立したとはいえ、アメリカに監視される立場だった。国民の間でも、反米感情を募らせていたのである。1912年にパナマの大統領職に就いたベルサリオ・ポラスは、米国の経済圏に入ることによる恵みを享受する一方、支持層の労働者階級の意向を汲みいれ、1903年のパナマ運河条約の見直しに動く。インフラストラクチャー整備のための改定を、米国に申し入れるのではなく、他国を介して、提案する。米国の意向には逆らえず、失敗に終った。1923年、米国はパナマとの間でタフト協約を廃止し、より軍事的権限を行使した。1925年には、反米勢力が騒擾し、秩序が大きく乱れた。同地に派遣された米軍によって鎮圧されている。当時の大統領は第29代カルビン・クーリッジが務めていた。彼の在任期間、1924年7月1日には、排日移民法が施行された。その目的は、移民の受け入れによる人種の偏りを避けるためである。各国からの移民の年間受け入れ上限数を定めた。1890年の国勢調査時にアメリカに住んでいた各国出身者数を基準に、その2%以下にする。1890年以後に移住してきた東ヨーロッパ出身者・南ヨーロッパ出身者・アジア出身者を厳しく制限した。
1926年に米軍とパナマの間で、軍事協定を盛り込んだ新条約(ケロッグ・アルファロ条約)が締結された。米軍の交戦国に対して、パナマも軍を派遣する義務が生じたのである。パナマに対しても独自の経済的な取引は制限され、アメリカの許可が必要とされた。
当時アメリカは「孤立主義的善隣中立外交政策」から、パナマを経済圏へ組み込み、軍事的結びつきを強めたのである。
米軍のパナマへの抑圧姿勢は、当時発足していた国際連盟からも非難された。1929年に米ウォール街での株価暴落に伴う大恐慌が、世界経済に暗い影を落とした。パナマ人の間でも、通航権による収入獲得により、経済が上向くとの理想を掲げ、独立心を募らせる。大恐慌の最中、1933年に就任したフランクリン・ルーズヴェルトは善隣外交を展開し、1936年にパナマに歩み寄りの姿勢を示す。パナマ側も当時のアリアス大統領が、渡米して、1926年条約の見直しを要請した。フランクリン・ルーズヴェルトは、本来通航権はパナマにあると認め、1926年に結んだ条約を撤回する。新たに1903年のパナマ運河条約の改正に応じる構えを見せた。国防省の意向から、返還には否定的で、引き続きパナマにアメリカの軍事権が及んだ。
後編にて、第10章の続き、第二次大戦後のパナマ運河の営みと返還までの道筋に迫る。
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